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第2部
35.
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応接間を通り、玄関通路を抜けると、すぐ目前にブランドンがいた。馬から見知らぬ女性を下ろそうとしているところで、その影から、心の底から待ち望んでいた2人の姿が現れた。
シノアと目が合った。互いに表情を固めたのが分かる。
考えるよりも先に足が動き出した。前へ前へ進もうとする気持ちに付いて来れなくなった杖を途中で手放し、左脚を引きずりながら、ほとんど片足跳びの形ですぐ側まで駆けつけて、碧い目を大きく見開いたシノアを強く胸に抱きしめた。
バランスを崩しそうになったのを、シノアが踏ん張ってくれた。それでも固く閉ざした腕は解かなかった。
周囲の目も反応も気にならない。シノアが生きていてくれた、その喜びだけが胸中に溢れる。
シノアの右手が私の背に回り、遠慮がちに布を掴んだ。そんな些細なことが、堪らなく嬉しかった。
「すいません、トレシュ様。私は港町に向かおうとしたんですけど、ウェシターニアを拾ったらバデュバールまで送って欲しいと言われて…、セスが女子供の頼みを断れない奴で…。」
「それじゃあ俺が軟弱男みてぇじゃねぇか。」
経緯などもはやどうでもいい。私の元へ戻って来てくれた。手が届く場所に。
「私と帝都へ行こう。」
腕の力を緩めることなく、シノアの耳元で囁いた。
「…え?」
シノアが困惑の声を漏らすと、力づくでシノアの体を引き剥がされた。無論、セスによって。
私の肩を押さえるセスは、鋭い眼光を私に向ける。
「勝手なこと言ってんじゃねぇ。」
勝手なことを言っている自覚はあるが、わたしももう譲れない。引き下がる選択肢は無い。
「…え、だめ?」
「だめだろ!何言ってんだあんた!」
おどけてみせるとすぐに語調を強くするセスは、非常に扱いやすい。
その調子でいくらでも文句をつけてくると良い。全て言いくるめてやる。
そう思った矢先、「トレシュ様。」と口を挟んで来たのはブランドンだった。
振り向くと、女性の背と膝裏を抱えて困った顔をしている。
「その2人よりも、こちらの方のご報告をさせてください。」
微かに幼さを残すその女性は、汚れた髪を手櫛で整え、頬をほのかに紅潮させて小さく会釈をした。
「君は?」
「足を怪我している為、このような格好での御挨拶になりますが、お許しください。」
凛とした声で、礼節のある態度。
「カサム州長官でバデュバール城城主テンティウスの娘、ウェシターニアと申します。お目に掛かれて光栄です。」
「君が…!」
「父と懇意にして頂いているようで、トレシュ様の私兵というブランドン卿のご厚意に甘えてご一緒させて頂きました。」
「テンティウス殿にはとても良くしてもらっています。御令嬢のことを大変心配なさっていました。すぐに知らせを呼びましょう。」
そう言って、杖を拾ってくれた兵から杖を受け取り、城へ早馬を出すように申し付けた。
「怪我というのは?」
ウェシターニアの頭の先から順に目線を移し、添え木をされた右足で目を止めた。
この問いにはブランドンが答えた。
「右の下腿部を骨折しています。その他は打ち身や擦り切り傷の軽傷です。命に別状はないと思われます。」
胸を撫で下ろし、「良かった。」と頷いてウェシターニア嬢へ向き直る。ぼろぼろの衣服に、汚れた身体のあちこちには包帯が巻かれていた。
シノアを見ると、彼女の方がもっと酷い。セスもシノアも自身の服を裂いてウェシターニア嬢の包帯代わりにしたらしい。
「入浴の準備をさせますので、その間に医者の診察を受けてください。」
「痛み入ります。」
その間にシノアに帝都行きを説得しよう。と思ったが、それも早々に打ち砕かれた。
「あ、入浴ですが、シノアと一緒に頂いてもよろしいでしょうか?」
「え、なんで私が。」
「いいじゃない。聞きたいこともあるし。」
ウェシターニア嬢の愉快そうな表情から察するに、十中八九、私のことだろう。目の前で思い切り抱擁してしまったし、若い女の子にはお洒落と同等の関心事だろうから。
嫌悪するどころか、茶化したそうにしている為、邪魔するつもりでないのなら私としてはどちらでも良かったが、シノアはどうだろうか。
ちらりとシノアの様子を窺うと、碧い瞳と視線が絡まった。が、気まずそうにすぐに俯く。
「…トレシュ様のご迷惑でなければ。」
「迷惑なわけないだろう。どちらにせよ入浴はしてもらうつもりだったんだ。セスにもね。」
「俺は別に…。」
「…入りなよ。小汚いよ?」
そして泊まっていってくれないと困る。
「仕方ねえだろ?!河からお嬢様助けて、何日もそのお嬢様背負って山ん中歩いてきたんだよ!」
目を吊り上げるセスに、「しょ…しょうがないじゃない!」とウェシターニア嬢が顔を赤らめる。
なるほど。セスもなかなか隅に置けない。
ブランドンにウェシターニア嬢を適当な部屋へ運ぶよう言い付け、シノアもそれについて行く中、続こうとするセスを引き留めた。
相も変わらず不愉快そうな視線を向けられたが、私は丁重に頭を下げた。
「ウェシターニア嬢を助けてくれてありがとう。誰もが諦めかけていたところだったんだよ。」
セスの碧い目を真っ直ぐと見て、「助かった。」と言うと、彼は眉を一層潜めた。
「あんたに礼を言われる謂れはねぇよ。」
「いや、テンティウス殿のあのやつれ具合を見てると心が痛くてね。安々と希望のあることを言うわけにはいかないし、カサム州がこんな状態で、私は急いで帝都に戻らなければならないし。色々と心残りになるところだった。」
「そういうことなら、謝礼を出してくれ。早々に馬が逃げやがって、一文無しなんだ。」
「それは安心して。馬は邸に帰って来たよ。荷物も全部揃ったままね。」
「本当か?」
ようやくセスの表情が和らいだ。が、すぐに歪むだろう。
「でも、悪いけどもう馬は貸せない。」
「…は?」
「シノアを帝都に連れて行きたいんだ。」
セスに胸ぐらを掴まれ、私の方が上背がある為、意図せず見下ろす形になった。
睨み付けてくる視線は槍のように鋭いが、それをのらりくらりと躱す術は身に付けている。
「シノアに変な色目を使うな。」
「無理な相談だね。全力で口説くよ。」
「あいつがあんたを選ぶはず無い。それとも権力者らしく脅してみるか?」
「シノアが決めることだよ。」
仮に私がしてしまった仕打ちを許して貰えなくても、連れていく口実はいくらでも作れる。最悪、権力を振りかざしてでも。
セスは嘲るように鼻で笑って、手を離した。
「シノアは渡さない。あんたにだけは。絶対に。」
そう吐き捨て、彼は使用人棟へと向かった。恐らくそちらの浴室を使うのだろう。
セスが次々投げてきた言葉が、重く腹の底に沈む。
それでも覚悟を決めたのだ。
拒絶される恐怖はまだあるが、永遠に失うよりはずっとましだ。
それに、シノアが私に向けるあの視線は憎悪ばかりではない。私の思い違いでなければだが。
そうでなければ見送ったあの日、礼など言われなかっただろう。抱きしめた時に、私の背に腕を回すこともしなかったはずだ。
大きな期待をしているわけではない。ただ、彼女を守る権利が欲しい。私に大切にさせて欲しい。私の側で。他の誰かではなく、他の何処かではなく。
テンティウス殿の到着を、玄関に1番近い応接間で待った。
ウェシターニア嬢の怪我は的確な応急処置が施されていたようで、しばらくは安静にする必要があるものの、障害が残ったりするような大事はないだろうとのことだった。
ウェシターニア嬢とシノアの入浴には手伝いを付けて、そうしている間にテンティウス殿も到着した。
綺麗な衣服に着替えたウェシターニア嬢を見るなり、テンティウス殿は泣き崩れてしまった。ウェシターニア嬢もまた、父君との再会を喜んだ。そして、失った人を想って抱き合って泣いていた。
別れ際、テンティウス殿と今までで最も固い握手を交わした。
たくさん礼を言われたが、こちらこそ感謝してもしきれない。ウェシターニア嬢のお陰でシノアが戻ってきたのだから。
シノアとセスには、居住棟の空き部屋を用意した。
テンティウス殿とウェシターニア嬢を見送ってから2人を夕食に誘おうとすると、警戒モードのセスに阻まれ、ブランドンを入れた4人で囲もうと、少しばかり豪華にしてもらった食事は、私はブランドンと、彼らの分は彼らの部屋に、という形になってしまった。
どうしてもシノアと話しておきたかった私は、すっかり日が沈み、ブランドンも退勤した後、人知れず部屋を訪ねることにした。
シノアと目が合った。互いに表情を固めたのが分かる。
考えるよりも先に足が動き出した。前へ前へ進もうとする気持ちに付いて来れなくなった杖を途中で手放し、左脚を引きずりながら、ほとんど片足跳びの形ですぐ側まで駆けつけて、碧い目を大きく見開いたシノアを強く胸に抱きしめた。
バランスを崩しそうになったのを、シノアが踏ん張ってくれた。それでも固く閉ざした腕は解かなかった。
周囲の目も反応も気にならない。シノアが生きていてくれた、その喜びだけが胸中に溢れる。
シノアの右手が私の背に回り、遠慮がちに布を掴んだ。そんな些細なことが、堪らなく嬉しかった。
「すいません、トレシュ様。私は港町に向かおうとしたんですけど、ウェシターニアを拾ったらバデュバールまで送って欲しいと言われて…、セスが女子供の頼みを断れない奴で…。」
「それじゃあ俺が軟弱男みてぇじゃねぇか。」
経緯などもはやどうでもいい。私の元へ戻って来てくれた。手が届く場所に。
「私と帝都へ行こう。」
腕の力を緩めることなく、シノアの耳元で囁いた。
「…え?」
シノアが困惑の声を漏らすと、力づくでシノアの体を引き剥がされた。無論、セスによって。
私の肩を押さえるセスは、鋭い眼光を私に向ける。
「勝手なこと言ってんじゃねぇ。」
勝手なことを言っている自覚はあるが、わたしももう譲れない。引き下がる選択肢は無い。
「…え、だめ?」
「だめだろ!何言ってんだあんた!」
おどけてみせるとすぐに語調を強くするセスは、非常に扱いやすい。
その調子でいくらでも文句をつけてくると良い。全て言いくるめてやる。
そう思った矢先、「トレシュ様。」と口を挟んで来たのはブランドンだった。
振り向くと、女性の背と膝裏を抱えて困った顔をしている。
「その2人よりも、こちらの方のご報告をさせてください。」
微かに幼さを残すその女性は、汚れた髪を手櫛で整え、頬をほのかに紅潮させて小さく会釈をした。
「君は?」
「足を怪我している為、このような格好での御挨拶になりますが、お許しください。」
凛とした声で、礼節のある態度。
「カサム州長官でバデュバール城城主テンティウスの娘、ウェシターニアと申します。お目に掛かれて光栄です。」
「君が…!」
「父と懇意にして頂いているようで、トレシュ様の私兵というブランドン卿のご厚意に甘えてご一緒させて頂きました。」
「テンティウス殿にはとても良くしてもらっています。御令嬢のことを大変心配なさっていました。すぐに知らせを呼びましょう。」
そう言って、杖を拾ってくれた兵から杖を受け取り、城へ早馬を出すように申し付けた。
「怪我というのは?」
ウェシターニアの頭の先から順に目線を移し、添え木をされた右足で目を止めた。
この問いにはブランドンが答えた。
「右の下腿部を骨折しています。その他は打ち身や擦り切り傷の軽傷です。命に別状はないと思われます。」
胸を撫で下ろし、「良かった。」と頷いてウェシターニア嬢へ向き直る。ぼろぼろの衣服に、汚れた身体のあちこちには包帯が巻かれていた。
シノアを見ると、彼女の方がもっと酷い。セスもシノアも自身の服を裂いてウェシターニア嬢の包帯代わりにしたらしい。
「入浴の準備をさせますので、その間に医者の診察を受けてください。」
「痛み入ります。」
その間にシノアに帝都行きを説得しよう。と思ったが、それも早々に打ち砕かれた。
「あ、入浴ですが、シノアと一緒に頂いてもよろしいでしょうか?」
「え、なんで私が。」
「いいじゃない。聞きたいこともあるし。」
ウェシターニア嬢の愉快そうな表情から察するに、十中八九、私のことだろう。目の前で思い切り抱擁してしまったし、若い女の子にはお洒落と同等の関心事だろうから。
嫌悪するどころか、茶化したそうにしている為、邪魔するつもりでないのなら私としてはどちらでも良かったが、シノアはどうだろうか。
ちらりとシノアの様子を窺うと、碧い瞳と視線が絡まった。が、気まずそうにすぐに俯く。
「…トレシュ様のご迷惑でなければ。」
「迷惑なわけないだろう。どちらにせよ入浴はしてもらうつもりだったんだ。セスにもね。」
「俺は別に…。」
「…入りなよ。小汚いよ?」
そして泊まっていってくれないと困る。
「仕方ねえだろ?!河からお嬢様助けて、何日もそのお嬢様背負って山ん中歩いてきたんだよ!」
目を吊り上げるセスに、「しょ…しょうがないじゃない!」とウェシターニア嬢が顔を赤らめる。
なるほど。セスもなかなか隅に置けない。
ブランドンにウェシターニア嬢を適当な部屋へ運ぶよう言い付け、シノアもそれについて行く中、続こうとするセスを引き留めた。
相も変わらず不愉快そうな視線を向けられたが、私は丁重に頭を下げた。
「ウェシターニア嬢を助けてくれてありがとう。誰もが諦めかけていたところだったんだよ。」
セスの碧い目を真っ直ぐと見て、「助かった。」と言うと、彼は眉を一層潜めた。
「あんたに礼を言われる謂れはねぇよ。」
「いや、テンティウス殿のあのやつれ具合を見てると心が痛くてね。安々と希望のあることを言うわけにはいかないし、カサム州がこんな状態で、私は急いで帝都に戻らなければならないし。色々と心残りになるところだった。」
「そういうことなら、謝礼を出してくれ。早々に馬が逃げやがって、一文無しなんだ。」
「それは安心して。馬は邸に帰って来たよ。荷物も全部揃ったままね。」
「本当か?」
ようやくセスの表情が和らいだ。が、すぐに歪むだろう。
「でも、悪いけどもう馬は貸せない。」
「…は?」
「シノアを帝都に連れて行きたいんだ。」
セスに胸ぐらを掴まれ、私の方が上背がある為、意図せず見下ろす形になった。
睨み付けてくる視線は槍のように鋭いが、それをのらりくらりと躱す術は身に付けている。
「シノアに変な色目を使うな。」
「無理な相談だね。全力で口説くよ。」
「あいつがあんたを選ぶはず無い。それとも権力者らしく脅してみるか?」
「シノアが決めることだよ。」
仮に私がしてしまった仕打ちを許して貰えなくても、連れていく口実はいくらでも作れる。最悪、権力を振りかざしてでも。
セスは嘲るように鼻で笑って、手を離した。
「シノアは渡さない。あんたにだけは。絶対に。」
そう吐き捨て、彼は使用人棟へと向かった。恐らくそちらの浴室を使うのだろう。
セスが次々投げてきた言葉が、重く腹の底に沈む。
それでも覚悟を決めたのだ。
拒絶される恐怖はまだあるが、永遠に失うよりはずっとましだ。
それに、シノアが私に向けるあの視線は憎悪ばかりではない。私の思い違いでなければだが。
そうでなければ見送ったあの日、礼など言われなかっただろう。抱きしめた時に、私の背に腕を回すこともしなかったはずだ。
大きな期待をしているわけではない。ただ、彼女を守る権利が欲しい。私に大切にさせて欲しい。私の側で。他の誰かではなく、他の何処かではなく。
テンティウス殿の到着を、玄関に1番近い応接間で待った。
ウェシターニア嬢の怪我は的確な応急処置が施されていたようで、しばらくは安静にする必要があるものの、障害が残ったりするような大事はないだろうとのことだった。
ウェシターニア嬢とシノアの入浴には手伝いを付けて、そうしている間にテンティウス殿も到着した。
綺麗な衣服に着替えたウェシターニア嬢を見るなり、テンティウス殿は泣き崩れてしまった。ウェシターニア嬢もまた、父君との再会を喜んだ。そして、失った人を想って抱き合って泣いていた。
別れ際、テンティウス殿と今までで最も固い握手を交わした。
たくさん礼を言われたが、こちらこそ感謝してもしきれない。ウェシターニア嬢のお陰でシノアが戻ってきたのだから。
シノアとセスには、居住棟の空き部屋を用意した。
テンティウス殿とウェシターニア嬢を見送ってから2人を夕食に誘おうとすると、警戒モードのセスに阻まれ、ブランドンを入れた4人で囲もうと、少しばかり豪華にしてもらった食事は、私はブランドンと、彼らの分は彼らの部屋に、という形になってしまった。
どうしてもシノアと話しておきたかった私は、すっかり日が沈み、ブランドンも退勤した後、人知れず部屋を訪ねることにした。
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