夕月の欠片

daru

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第2部

37.

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 静けさの中、ランプに蛾がぶつかった。

 その音に顔を上げると、玄関口方面から1人の男が現れた。
 月明かりに照らされた、凛と背筋の伸びたシルエットですぐに気がつく。

「ガザリ!」

 軽く片手を挙げて呼びかけると、シノアも体を離し、そちらを見やった。

 やはり彼だった。
 彼はすぐに私の前まで足を進めたかと思うと、シノアを見て目を大きく見開いた。

「見つかったのですね。」

「うん。なんとテンティウス殿の御令嬢をお助けして、こっちに戻って来ていたんだ。ガザリにも感謝しているよ。夜通し駆けてくれたんだね?」

 そうでなければ、帝都へ出立する間際の到着になっただろう。

「港町には到着していなさそうでしたので、急ぎ戻り、山へ行こうかと思っていました。」

「山へはブランドンが行ってくれたんだ。その道中で。」

 シノアに目を配ると、彼女は小さく頭を下げた。

 ガザリは1度ゆっくりと深呼吸した。

「無事で何よりでした。」

 心の底から安堵してくれたのだと、その表情で分かった。

「ガザリ、明後日にはここを発つ予定だ。1日しか休ませてやれないけれど、長旅の準備をしておいてくれ。一緒に行った部下達にもそのように伝えてくれ。」

 御意のままに。いつもの返事を聞けたかと思うと、ガザリはシノアに視線を向けた。

「彼女もご一緒ですか?」

「うん。ドムスで一緒に暮らそうと思っている。」

「そうですか。良かった。」

 驚くべきことに、ガザリが優しげに目を細め、頬を緩ませた。いつでも涼しい顔をして、その表情の揺るがなさから鉄仮面と呼ばれたこともあるあのガザリが、シノアの同行に微笑みを浮かべている。あのガザリが。

 胸中に嫌な影が蠢く。

「え…どうして?」

 そう訊くと、ガザリの表情はすぐに引き締まった。そしてなんてことないかのように軽く答える。

「彼女がいると、トレシュ様のお顔が穏やかになられるので。」

「…いつも穏やかにしているつもりだけれど。」

「いえ、作られた表情ではなく、幸福感に溢れているという意味で。」

「待てガザリ、やめなさい。それ以上言わなくていい。」

 嫌な影は瞬時に引っ込んだ。
 気恥ずかしい。彼女の前で、私はそんなに分かりやすく表情が崩れているのだろうか。

 ちらりとシノアを見ると、彼女は左手で口元を隠して俯いていた。

「…笑ってる?」

「だって…ふっ、くくっ…。トレシュ様が、焦って…ふふっ。」

 まつ毛はまだ濡れている。しかし彼女は目を細め、口角をいっぱいに上げて白い歯を覗かせた。
 出会った頃はずっと笑っていたから、その印象が強いだけなのかもしれないが、シノアは笑うと子供の頃の面影が見える。
 その笑顔を見ると、恥じらいなどどうでも良くなった。私の頬も、自然と緩んでしまう。

「では私は寝所へ戻ります。」

「あ、ガザリ、今夜はこっちで休んでくれ。」

「…こちらと申しますと?」

「2階の空き部屋を好きに使ってくれていい。ベッドも質が良いし、広い個室でゆっくりと休めるだろう?」

「しかし…。」

「私からの労いと思って、頼むよ。」

 戸惑うガザリをどうにか説き伏せ、「では、ありがたくお言葉に甘えさせて頂きます。」と頭を下げたガザリは、そのまま部屋へと向かった。
 忠義に厚いガザリのことだ。恐らく私の部屋から離れた部屋を選ぶのだろう。実際、2階であればどこを使ってくれても良かった。

「私もそろそろ部屋に戻ります。セスがまたうるさく、ん…!」

 突として、シノアの口を私の唇で塞いだ。

 彼女を部屋に帰すつもりはない。せっかく想いが通じ合ったというのに、セスに余計な横槍を入れられたら敵わない。
 いっその事、結婚の約束でもしてしまおうか。相愛に浸っている今なら、自然且つ円滑に良い返事をもらえるのではないか。

 唇を離すと、彼女を腕の中に閉じ込めた。しおらしく胸に添えられた彼女の左手が、私の欲を煽動する。

「シノア、前に私が、ずっと側にいて欲しいと言ったこと、覚えているかい?」

「…はい。」

 シノアと抱き合った夜。

「あの時は答えを貰えなかった。」

 シノア、と縋るように耳輪を食むと、彼女は私の腕の中で僅かに身を震わせた。

「今度こそ、私が死ぬまででいい、その時までずっと一緒にいてくれるかい?」

 彼女の左手が私の服を強く握った。

「私より先に死なないでください。」

「それは…難しい、かな。」

「自分だけ要望を通すつもりですか?」

 眉を寄せて、上目づかいでじとりと可愛く睨まれたが、理不尽な事この上ない。
 こればかりは申し訳ないが、どうしようも無い事だ。苦笑を浮かべて誤魔化した。

「私は君より28も上なんだよ?」

「知りません。…長生き、してください。約束してくれたら、私もトレシュ様の望みを受け入れます。ずっと、貴方の側にいます。」

 私の胸に顔を埋め、腕は背に回され、片腕で、力の限り抱きしめてくれた。
 彼女への想いが無限に膨らみ続けることに恐怖すら覚える。

「こういう時、腕が1本なのが悔やまれます。」

「2本あっても足りないよ。」

 彼女を抱きしめる腕に力を込めた。

「なるべく長生きする。健康にも気をつけるし、暗殺もされないようにするよ。」

「…怖いこと言わないでください。」

師匠せんせいより長く生きる。」

「師匠はお幾つですか?」

 顔を上げたシノアに、「65。」と答えると、「足りないです。」と言われたので、「じゃあ、70まで生きる。」と言うと、今度は「75まで。」と更に引き上げられた。

「…よぼよぼでみすぼらしくなっても、捨てないでいてくれるなら。」

「トレシュ様の良さは見た目じゃないですよ。」

 くすりと笑い、そう言い切られてしまうと、喜びに不純物が混じる。

「嘘です。トレシュ様はいつも格好いいです。」

 そう言うや否や、唇を奪われた。一瞬だけだったが、彼女の唇が私のそれに触れ、離れて行った。なんとも可愛らしいキス。
 恥じらいながらも微笑む彼女の後頭部を押さえ、弧を描く彼女の唇に、もっと強く吸い付き、少しだけ離す。

「トレシュでいいよ。」

「え?」

「私のことをそう呼んでいただろう?」

「…私が?いつですか?」

「セスと言い合っていた時に。」

「…聞こえて…。」

 恐らく言い訳か、もしくは謝罪を放つであろう口を、もう1度塞いだ。どちらも不要の言葉だったから。
 今欲しいのは、私のプロポーズを受け入れてくれるひと言だけだ。

 シノアが他のことを言わないように、呼吸が乱れるまで舌を絡め、力が抜けてきた所で唇を離した。
 彼女の頭を自分の胸元に抑えこみ、そして耳元で「さっきの話。」とそっと囁く。

「了承、で良い?」

 吐息を漏らし、僅かに肩を上下させる彼女は、やっとのことで「はい。」と小さく返事をくれた。

 辺りが眩しく感じた。月明かりとは違う、もっと明るく暖かい何かで包まれているようだった。
 考え事が全て消し飛び、甘美な幸福感に呑み込まれてしまいそうになる。

 あまりにも離れがたく、彼女を閉じ込めている腕をいつまでも解けずにいた。

「トレシュ様、そろそろ戻りましょう。風邪をひいてしまいます。」

 そう言ったシノアも、私の背に回した腕を解かない。

「トレシュ。」

「…と…トレシュ、戻りましょう。昨夜もろくに休んでないでしょう?」

「どうして?」

「だって、目の下に隈ができてますし、…昼間から…お酒の匂いが…。」

 彼女の肩を押し、身を離した。

「え、本当に?」

 ごめんね、と口に出しながら、慌てて自身の匂いを確認する。

「いえ、今はもうしません。」

 それを聞いて胸を撫で下ろした。心底安堵した。
 酒の匂いを漂わせながらプロポーズなどしていたら、愚行にもほどがある。

「良かった。」

「良くありません。なんだか、山で過ごしていた私たちよりもやつれたように見えます。」

「仕方ないだろう。」

 彼女の存在を確かめるように、彼女の肩に頭を凭れ掛けた。

「君と2度と会えないかと思ったんだ。君を、死なせてしまったかと…。」

「…大丈夫です。私は生きてますよ。」

 彼女の手を取り、その甲に唇を寄せる。

「シノア、戻らないで。私の部屋へおいで。」

 彼女が身を固くしたのが分かった。
 頭を上げて彼女を見ると、熱を帯びた目が潤み、あの日のような恥じらいの表情が見て取れた。

「…でも…疲れてるんじゃ…。」

 一生懸命に言葉を紡ぐシノアに頬が弛み、悪戯心が芽生える。

「何?疲れるようなことをしたいの?」

 覗き込むようにして言うと、彼女はますます瞳を潤わせて俯いてしまった。明るい場所であれば、真っ赤な顔を拝めたことだろう。

「冗談だよ、冗談。」

 半分は。

「今日は休むだけ。ね?」

 できれば。

 笑顔で彼女の手を引き、2人で私の寝室に向かった。
 その後、寝るだけでは済まなかったことは言うまでもない。

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