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第一話 田舎の鉄筋三階建て
①
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「やっと着いた……」
長年住み慣れた市街地を遠く離れて、電車に揺られること終点まで約三時間。
まだ真っ昼間だというのに人っ子一人いない広い遺志留駅のホームに降り立った僕は、急に肌寒さを感じて背広の前を閉めた。
愛想の悪い駅員さんに切符を渡し、そこから一時間に一本しかないバスに乗ってさらに四十五分。
広大な田圃と大きな河川。高い空にポツポツ点在する電信柱。どこからか聞こえる野生動物の声。
頼りにしていたスマホの地図アプリも、なんとも電波が不安定でほぼ役に立たない。諦めて、渡された地図を何度も回転させながら歩いていたらようやく目印を見つけた。
【不動産!
売るのも買うのも借りるのも!
グッドな売買グッドバイへ!】
穏和な田舎道に唐突に現れた立て看板に記されていたのは、嫌になるほど毎日目にしているちょっとダサい我が社のキャッチフレーズ。
無駄に広い駐車スペースの奥にある建物とスマホを見比べると、目的地であることを示すピンが刺さっていた。今更動き出しても遅い、ってのに。
パッと外観を見た感じでは、不動産会社だとは分からない。物件情報の広告が窓ガラスにベタベタと貼り付けられた事務所然とした佇まいではなく、まるで普通の一軒家なのだ。
ただ、田舎には似つかわしくないほど真新しい。
瓦屋根でもなければ平屋でも木造建築でもなくて、鉄筋三階立ての立派な新築物件。よく見ると屋根にはソーラーパネルがついている。
これ、三世代同居向けの建物じゃないかな? なんでこんなところに。
玄関先に達筆な筆で書かれた
【グッドバイ(遺志留支店)】
と、いう文字がなければ僕はおそらくまだ彷徨っていたと思う。
住居兼事務所なのだろうか。
そんな話は社長から聞かなかったけれど……。
「……よし」
詳しいことは、とりあえずここの所長に挨拶してからにしよう。
なんといっても、ここが今日から僕の職場なのだから。
昨日まで勤めていた都会の支店の喧噪が懐かしい。
……かといって、戻りたいとは思わないけどね。
ここからは心機一転だ。
「今度こそは、頑張らないとな……」
季節は十月。
こんな半端な時期に異動なんてほとんどあり得ない。
あるとすれば、特別な事情がある人間のみ。
たとえば、僕みたいに営業成績不振で地方支店に飛ばされた場合……とかね。
春に不動産会社に就職してからというもの、僕は他人に迷惑しかかけていない。
接客すれば必ずお客さんを怒らせるような失言をしてしまうし、データは紛失するし、物件案内に行けば道に迷ってロクに目的地まで送り届けられないし、お金なんて触った日にはかなりの確率で違算を出してしまう。合わない数字と格闘しながら、終電まで一人で何度電卓を叩いたか分からない。
最初は新人だから……と多めに見てくれていたみんなも、成長しない僕に対して次第に冷たくなっていった。
そりゃ、そうだよね。
僕も、同感だ。
頑張ろうと何度も奮起したけれど、段々ろくに眠れなくなって食事も喉を通らなくなった。それでも半年頑張って、体重が減りすぎて常に目眩を感じるようになったところで社長から呼び出しを受けた時には完璧にクビ宣告だと思ったのに、ふくよかなお腹が特徴的な社長から提案されたのは遺志留支店への異動だった。
ホームページの中にはそんな名前の支店はなかったけれど、「少々特殊な支店だからね、うん。キミみたいな社員にはね、うん。向いていると思うよ、うん」と社長に言われてしまっては従うほかなかった。
やたらと自己完結的なしゃべり方をする社長だけれど、無慈悲にクビを宣告するのではなく僕みたいな役立たずにも再びチャンスを与えてくれるならば、ありがたい。
異動が決まったと職場に伝えた時、やっと厄介者がいなくなる……とでも言いたげに皆が一様にホッとした顔をしていたのは、当分忘れられそうにないけど。
「ダメだ、ダメだ……」
ちょっと気を抜くと、すぐに嫌な考えに支配されそうになる。
僕は自分自身に発破をかけるように両手で頬を叩いて新しい職場に向き合った。
見た目は本当にただの住居だ。
普通、事務所の場合は扉をガラス張りにして店内を見せることでお客さんの警戒心を和らげようとするものなんだけど……。まぁ、ここでは違うのかも知れない。
郷に入りては郷に従え、だ。
まずはインターホンを押してみる。
「すいませーん。あの、本日より配属されます朝前と申しますが……」
返事はない。
でも、繋がっている証の機械音は聞こえているから、おそらく室内には届いているのだろう。
「お忙しいところ申し訳ありません。お時間少々よろしいでしょうか……」
「………」
「あのぅ……」
ここまで無言だと不安になってくる。
もしかして、ここでは僕の知らない挨拶についてのローカルルールでもあるのだろうか。
あるのかもしれない。いや、ありそうだ……。
どうしよう、僕はまた再スタート早々に間違いを犯してしまったのか?
「あははっ」
「えっ?」
ネガティブな考えで額を濡らしていたら、まるで場違いな明るい笑い声が聞こえた。
それは天真爛漫で、幼い女の子の声そのものだった。
どういうことだろうか。
もしかして、事務員さんのお子さんを職場で預かっているとか?
杓子定規だった都会の支社と違って、こういうところではそんな融通は利きそうだけれど……。
予想外の出来事に面食らっていると、まだ繋がりっぱなしだったらしいインターホンから再び先ほどの声がした。
「あははっ、あははっ」
声はすれども姿は見えず。
室内から誰かが出てくる気配はない。
ええと……きっと全員接客中で、誰も手が離せないんだろう。うん、そうだそうだ。
僕はひとつ、深い深呼吸をしてからドアノブに手をかけた。
「失礼します……」
扉を開けると、その先には整った内装が広がっていた。外は曇りなのに、光の取り方が上手いのか室内は明るく見える。掃き掃除の行き届いた玄関にはぴかぴかに磨かれた革靴と、やけに古びたピンクのサンダルがひとつ。誰も出迎えてくれる様子がないので、サンダルの隣にそっと自分の靴を並べて上がり込んだ。
並べてみると、自分の靴がいかに汚れていたのかがわかる。帰ったら、磨かないとな……と思いながらおそるおそる歩みを進める。
玄関の飾り棚には、上品な色合いの白い皿の上に小石がいくつか置いてあった。
芳香剤かな?
右に曲がると二階へと続く階段があり、何故か階段の一番下の段に小さな花瓶に活けられた竜胆の花が一輪。
なんでこんなところに?
どうして、床に直置き?
そんな疑問を胸に抱きつつ、うっかり本物の一般家庭に迷い込んでしまったのではないかという疑念が未だに拭い切れない。
だって、あまりにも普通の家過ぎるのだ。事務所だとは思えない。どこを見渡しても塵ひとつ落ちていないし、家よりもモデルルームというべきか。
「もし、家を間違えてたら言い訳つかないな……」
そんな独り言が思わず口から零れてしまう。
ひとまず階段は通り過ぎて、開けっ放しになっていた扉の先をそっとのぞき込んだ。
洋室らしいその部屋は大体八畳くらいで、シングル用のベッドと折りたたみの脚の短い机、それに壁一面に広がる本棚があるだけ。折りたたみ机の上には、伏せられた写真立てが置いてある。本の量が異常に多い事を除けば、いかにも単身者のシングルルームといった様子だ。
一階が居住スペースで、二階が事務所なのだろうか? おかしなつくりだと思う。
大量の本棚も異様な雰囲気を醸し出しているけれど、意味ありげに伏せられた写真立てに興味を惹かれて、手を伸ばそうとしたところで何かの呻き声が聞こえた。
「……ぅ、う、ううっ、うっ、うっ……」
空耳じゃない。
確かな質量と感情をもった、人間の声だ。慌てて伸ばしていた手を引っ込めた。
一瞬にして背中に冷や汗が滲む。
反射的に背後を振り返るけれど、そこには誰もいない。
「な、なんだ……?」
得体の知れない恐怖が全身を駆けめぐる。
幽霊やお化けなんて見たこともないけれど、信じていないわけではない。できるだけ、考えないようにして今日まで生きてきた。
動かないでさえいれば、今以上に状況が悪化することはないと言わんばかりに硬直していた身体をなんとか動かして、声の出所を辿ろうと耳を澄ます。
「だ、大体こういうのは、猫の鳴き声だって……」
勘違いにしたかったのに、僕の気持ちをあざ笑うかのように声は段々ハッキリと大きくなっていき、一定のリズムを刻みだした。
「あ、っああ、あ……、あっ、あっ、あっ、あっ」
「ヒイッ!?」
でも、インターホン越しに聞こえてきた幼い声とは似ても似つかない。
声の主は大人……たぶん女性で、さっき通り過ぎた階段の向こうから聞こえてくる。
気にかかるのはインターホンの女の子だ。
もしも事件なら、あの子が危ない目にあっている可能性が高い。そうでなくても、ここが事務所ならば誰か職員が危険な状態なのかもしれない。
「よ、よし……」
ええい、ここまで来たら自棄だ。
どうせ今以上に、失うものなんてないわけだし。
誰かが病気なら救急車を呼べばいいし、強盗なら襲われてやるし、幽霊なら逃げるだけ。
紫に色づく竜胆の花を横目に、階段を一段ずつ上る。
足を次の段にかけるごとに、呻き声はどんどん大きくなってきた。
「ねぇ」
耳元で、幼い声がした。
よかった、女の子は無事なのか、と思って振り返る。
けれど……僕の背後には、誰も、いない。
階下に置いてきた竜胆の花だけが、そっと佇むのみ。
「あなた、だれ?」
「……っ、……!!!」
あの世からの声が鮮明に耳へ響いて、僕は完全にビビって震え上がった。
階段を降りて外に出ればいいのに、声の聞こえてきた方向に突っ込むことが怖すぎてそのまま駆け上がる。
二階は階段を上がって左手にお手洗いや洗面所などの水回り、右手にリビングダイニング。
トイレの扉は半開きだけど、リビングへと続く扉は堅く閉ざされている。
【グッドバイ:事務所】と表札と同じく達筆な筆で書かれているから、二階が事務所スペースで間違いないようだ。扉の向こうからは、生々しい女性の呻き声が聞こえてくる。そして、人間の気配も。
ええい、この際人間なら誰でもいい!
「だ、だれかっ……!!」
なだれ込むように扉を開けて、中に飛び込んだ。
「お?」
今度こそ、想像しているような不動産事務所が目の前に広がっているのかと思いきや、そこはごくごく一般的な(どちらかというと中流以上の水準の)リビングルームだった。キッチン側には四人掛けのダイニングテーブル。反対側に置かれた薄型テレビを囲むようにソファという配置。
モデルルーム並みに手入れの行き届いた清潔なリビングで、ソファに寝ころんで大音量でアダルトビデオを見ていた男性こそ……僕が探し求めていた人物、グッドバイ・遺志留支店の里見大数所長だった。
長年住み慣れた市街地を遠く離れて、電車に揺られること終点まで約三時間。
まだ真っ昼間だというのに人っ子一人いない広い遺志留駅のホームに降り立った僕は、急に肌寒さを感じて背広の前を閉めた。
愛想の悪い駅員さんに切符を渡し、そこから一時間に一本しかないバスに乗ってさらに四十五分。
広大な田圃と大きな河川。高い空にポツポツ点在する電信柱。どこからか聞こえる野生動物の声。
頼りにしていたスマホの地図アプリも、なんとも電波が不安定でほぼ役に立たない。諦めて、渡された地図を何度も回転させながら歩いていたらようやく目印を見つけた。
【不動産!
売るのも買うのも借りるのも!
グッドな売買グッドバイへ!】
穏和な田舎道に唐突に現れた立て看板に記されていたのは、嫌になるほど毎日目にしているちょっとダサい我が社のキャッチフレーズ。
無駄に広い駐車スペースの奥にある建物とスマホを見比べると、目的地であることを示すピンが刺さっていた。今更動き出しても遅い、ってのに。
パッと外観を見た感じでは、不動産会社だとは分からない。物件情報の広告が窓ガラスにベタベタと貼り付けられた事務所然とした佇まいではなく、まるで普通の一軒家なのだ。
ただ、田舎には似つかわしくないほど真新しい。
瓦屋根でもなければ平屋でも木造建築でもなくて、鉄筋三階立ての立派な新築物件。よく見ると屋根にはソーラーパネルがついている。
これ、三世代同居向けの建物じゃないかな? なんでこんなところに。
玄関先に達筆な筆で書かれた
【グッドバイ(遺志留支店)】
と、いう文字がなければ僕はおそらくまだ彷徨っていたと思う。
住居兼事務所なのだろうか。
そんな話は社長から聞かなかったけれど……。
「……よし」
詳しいことは、とりあえずここの所長に挨拶してからにしよう。
なんといっても、ここが今日から僕の職場なのだから。
昨日まで勤めていた都会の支店の喧噪が懐かしい。
……かといって、戻りたいとは思わないけどね。
ここからは心機一転だ。
「今度こそは、頑張らないとな……」
季節は十月。
こんな半端な時期に異動なんてほとんどあり得ない。
あるとすれば、特別な事情がある人間のみ。
たとえば、僕みたいに営業成績不振で地方支店に飛ばされた場合……とかね。
春に不動産会社に就職してからというもの、僕は他人に迷惑しかかけていない。
接客すれば必ずお客さんを怒らせるような失言をしてしまうし、データは紛失するし、物件案内に行けば道に迷ってロクに目的地まで送り届けられないし、お金なんて触った日にはかなりの確率で違算を出してしまう。合わない数字と格闘しながら、終電まで一人で何度電卓を叩いたか分からない。
最初は新人だから……と多めに見てくれていたみんなも、成長しない僕に対して次第に冷たくなっていった。
そりゃ、そうだよね。
僕も、同感だ。
頑張ろうと何度も奮起したけれど、段々ろくに眠れなくなって食事も喉を通らなくなった。それでも半年頑張って、体重が減りすぎて常に目眩を感じるようになったところで社長から呼び出しを受けた時には完璧にクビ宣告だと思ったのに、ふくよかなお腹が特徴的な社長から提案されたのは遺志留支店への異動だった。
ホームページの中にはそんな名前の支店はなかったけれど、「少々特殊な支店だからね、うん。キミみたいな社員にはね、うん。向いていると思うよ、うん」と社長に言われてしまっては従うほかなかった。
やたらと自己完結的なしゃべり方をする社長だけれど、無慈悲にクビを宣告するのではなく僕みたいな役立たずにも再びチャンスを与えてくれるならば、ありがたい。
異動が決まったと職場に伝えた時、やっと厄介者がいなくなる……とでも言いたげに皆が一様にホッとした顔をしていたのは、当分忘れられそうにないけど。
「ダメだ、ダメだ……」
ちょっと気を抜くと、すぐに嫌な考えに支配されそうになる。
僕は自分自身に発破をかけるように両手で頬を叩いて新しい職場に向き合った。
見た目は本当にただの住居だ。
普通、事務所の場合は扉をガラス張りにして店内を見せることでお客さんの警戒心を和らげようとするものなんだけど……。まぁ、ここでは違うのかも知れない。
郷に入りては郷に従え、だ。
まずはインターホンを押してみる。
「すいませーん。あの、本日より配属されます朝前と申しますが……」
返事はない。
でも、繋がっている証の機械音は聞こえているから、おそらく室内には届いているのだろう。
「お忙しいところ申し訳ありません。お時間少々よろしいでしょうか……」
「………」
「あのぅ……」
ここまで無言だと不安になってくる。
もしかして、ここでは僕の知らない挨拶についてのローカルルールでもあるのだろうか。
あるのかもしれない。いや、ありそうだ……。
どうしよう、僕はまた再スタート早々に間違いを犯してしまったのか?
「あははっ」
「えっ?」
ネガティブな考えで額を濡らしていたら、まるで場違いな明るい笑い声が聞こえた。
それは天真爛漫で、幼い女の子の声そのものだった。
どういうことだろうか。
もしかして、事務員さんのお子さんを職場で預かっているとか?
杓子定規だった都会の支社と違って、こういうところではそんな融通は利きそうだけれど……。
予想外の出来事に面食らっていると、まだ繋がりっぱなしだったらしいインターホンから再び先ほどの声がした。
「あははっ、あははっ」
声はすれども姿は見えず。
室内から誰かが出てくる気配はない。
ええと……きっと全員接客中で、誰も手が離せないんだろう。うん、そうだそうだ。
僕はひとつ、深い深呼吸をしてからドアノブに手をかけた。
「失礼します……」
扉を開けると、その先には整った内装が広がっていた。外は曇りなのに、光の取り方が上手いのか室内は明るく見える。掃き掃除の行き届いた玄関にはぴかぴかに磨かれた革靴と、やけに古びたピンクのサンダルがひとつ。誰も出迎えてくれる様子がないので、サンダルの隣にそっと自分の靴を並べて上がり込んだ。
並べてみると、自分の靴がいかに汚れていたのかがわかる。帰ったら、磨かないとな……と思いながらおそるおそる歩みを進める。
玄関の飾り棚には、上品な色合いの白い皿の上に小石がいくつか置いてあった。
芳香剤かな?
右に曲がると二階へと続く階段があり、何故か階段の一番下の段に小さな花瓶に活けられた竜胆の花が一輪。
なんでこんなところに?
どうして、床に直置き?
そんな疑問を胸に抱きつつ、うっかり本物の一般家庭に迷い込んでしまったのではないかという疑念が未だに拭い切れない。
だって、あまりにも普通の家過ぎるのだ。事務所だとは思えない。どこを見渡しても塵ひとつ落ちていないし、家よりもモデルルームというべきか。
「もし、家を間違えてたら言い訳つかないな……」
そんな独り言が思わず口から零れてしまう。
ひとまず階段は通り過ぎて、開けっ放しになっていた扉の先をそっとのぞき込んだ。
洋室らしいその部屋は大体八畳くらいで、シングル用のベッドと折りたたみの脚の短い机、それに壁一面に広がる本棚があるだけ。折りたたみ机の上には、伏せられた写真立てが置いてある。本の量が異常に多い事を除けば、いかにも単身者のシングルルームといった様子だ。
一階が居住スペースで、二階が事務所なのだろうか? おかしなつくりだと思う。
大量の本棚も異様な雰囲気を醸し出しているけれど、意味ありげに伏せられた写真立てに興味を惹かれて、手を伸ばそうとしたところで何かの呻き声が聞こえた。
「……ぅ、う、ううっ、うっ、うっ……」
空耳じゃない。
確かな質量と感情をもった、人間の声だ。慌てて伸ばしていた手を引っ込めた。
一瞬にして背中に冷や汗が滲む。
反射的に背後を振り返るけれど、そこには誰もいない。
「な、なんだ……?」
得体の知れない恐怖が全身を駆けめぐる。
幽霊やお化けなんて見たこともないけれど、信じていないわけではない。できるだけ、考えないようにして今日まで生きてきた。
動かないでさえいれば、今以上に状況が悪化することはないと言わんばかりに硬直していた身体をなんとか動かして、声の出所を辿ろうと耳を澄ます。
「だ、大体こういうのは、猫の鳴き声だって……」
勘違いにしたかったのに、僕の気持ちをあざ笑うかのように声は段々ハッキリと大きくなっていき、一定のリズムを刻みだした。
「あ、っああ、あ……、あっ、あっ、あっ、あっ」
「ヒイッ!?」
でも、インターホン越しに聞こえてきた幼い声とは似ても似つかない。
声の主は大人……たぶん女性で、さっき通り過ぎた階段の向こうから聞こえてくる。
気にかかるのはインターホンの女の子だ。
もしも事件なら、あの子が危ない目にあっている可能性が高い。そうでなくても、ここが事務所ならば誰か職員が危険な状態なのかもしれない。
「よ、よし……」
ええい、ここまで来たら自棄だ。
どうせ今以上に、失うものなんてないわけだし。
誰かが病気なら救急車を呼べばいいし、強盗なら襲われてやるし、幽霊なら逃げるだけ。
紫に色づく竜胆の花を横目に、階段を一段ずつ上る。
足を次の段にかけるごとに、呻き声はどんどん大きくなってきた。
「ねぇ」
耳元で、幼い声がした。
よかった、女の子は無事なのか、と思って振り返る。
けれど……僕の背後には、誰も、いない。
階下に置いてきた竜胆の花だけが、そっと佇むのみ。
「あなた、だれ?」
「……っ、……!!!」
あの世からの声が鮮明に耳へ響いて、僕は完全にビビって震え上がった。
階段を降りて外に出ればいいのに、声の聞こえてきた方向に突っ込むことが怖すぎてそのまま駆け上がる。
二階は階段を上がって左手にお手洗いや洗面所などの水回り、右手にリビングダイニング。
トイレの扉は半開きだけど、リビングへと続く扉は堅く閉ざされている。
【グッドバイ:事務所】と表札と同じく達筆な筆で書かれているから、二階が事務所スペースで間違いないようだ。扉の向こうからは、生々しい女性の呻き声が聞こえてくる。そして、人間の気配も。
ええい、この際人間なら誰でもいい!
「だ、だれかっ……!!」
なだれ込むように扉を開けて、中に飛び込んだ。
「お?」
今度こそ、想像しているような不動産事務所が目の前に広がっているのかと思いきや、そこはごくごく一般的な(どちらかというと中流以上の水準の)リビングルームだった。キッチン側には四人掛けのダイニングテーブル。反対側に置かれた薄型テレビを囲むようにソファという配置。
モデルルーム並みに手入れの行き届いた清潔なリビングで、ソファに寝ころんで大音量でアダルトビデオを見ていた男性こそ……僕が探し求めていた人物、グッドバイ・遺志留支店の里見大数所長だった。
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