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第四話 境界標騒動

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 所長が志田さんの思惑通り一人で冷たい寝室に向かうと、首の締め付けは少し楽になった。でもまだ立ち上がれない。断続的に襲ってくる呼吸困難と戦いながらもがいていたら、志田さんが人の良さそうな笑みを浮かべたまま扉を閉めてしまった。


「じゃあ、待っててね」
「あっ……!」

 ダメだ。
 あの人は妹さんの事件の犯人なのに……!
 人を一人殺しておいて、なんとも思っていないヤツなのに……!
 僕がいたところで何ができるとも思えないけど、それでも抑止力ぐらいにはなると思っていた。
 でも、志田さんという存在が異質すぎて先が読めない。
 床を這って移動して、扉に耳をつけた。
 室内の会話が途切れ途切れに伝わる。

「やあ、奥様にお会いするのはお久しぶりですね」
「本当にそう思う?」
「なぜですか? 最後に出会ったのは、もう半年も前になりますよ」
「そうだったっけ? 里見くんのことだから、もうアイリスには会っているのかと思っていたよ」
「どういうことです? まさか、俺と奥様が浮気しているとでも? やめて下さいよ~。志田さんみたいな立派な旦那さんがいるのに、恐れ多くて手ぇなんてだせないですよ」
「だろうね。そもそもキミは、精神的にそういうことができないし」
「ありゃ。俺がインポテンツだってどこで聞いたんです? 知ってて鎌をかけるなんて、人が悪いなぁ、もう」
「鎌かけなんてする必要はないさ。だって、ボクが原因みたいなものだからね」
「………」
「今まで随分、頑張ってきたよね。もっと早くにボロを出すかと思っていたのに」
「ボロ? いったい何の話ですか……?」
「ナユナを留めるために、霊感を使い切ったって話は本当みたいだね。アイリスは死んでから、何度もキミの元へ行っただろうに全く気がつかないんだから」

 布団をめくる布切れの音がする。
 所長の言葉は、小さすぎて聞き取れなくなってきた。
 志田さんだけが元気にしゃべり続ける。

「………」
「アイリスはどうしてボクに殺されたのか、よく分からなかったみたいだね。でも今では十分に理解して、立派な悪霊となってこの家に充満しているよ。……キミが気がつかないわけがないと思ったけど?」
「………」
「アイリスの身体、とっても綺麗だろう? 崩れないように、細心の注意を払っているからね」
「………」
「ナユナの時もそうしたかった。でもボクはまだ未熟だったから、気が急いてしまったんだよ。ああ、食べてしまうなんて本当にもったいない。でも、天使の顔は最高に美味しかったよ」
「………」
「里見くん、キミにはあの天使と同じ血が流れているんだよね。本当に、それだけで羨ましいよ。妬ましいよ。もうもうもう………誠実に完璧に最高に真実に一刻も早く」
「………」
「殺してやりたいぐらいだ」
「………」

 中のやりとりがどんどん不穏な方向へと転がっていく。
 なんとか止めようと頭を巡らすけれど、言うことを聞かない身体のせいでドアノブに手をかけることすらできない。
 それならば、と目を凝らしてみても僕の霊感レーダーには何も映らなかった。
 志田さんの言うことが本当ならば、奥さんの幽霊の一人や二人ぐらい、いても良さそうなものなんだけど……っ!

「……あー、っと」

 ようやく僕に聞こえる音量で所長が喋ってくれた。

「色々言いたいこととか突っ込みどころが満載なんですが……一つだけ良いっすか?」
「なんだい?」
「……俺の妹の名前、軽々しく呼ばないで下さいよ。この、

 今までさんざん押し殺してきたものが、一気に溢れてしまったのだろう。
 表面上の関係を捨てた、地の底に響きわたるような昏い声色で一文字ずつハッキリ『ひとごろし』と所長は告げた。

「ああ! ああ! 良いね! その通りだよおおおおおお!!!」
「……ッ!!?」
「よよよ、ようやくボクにその顔を見せてくれたねぇええええ!!!」
「ぐっ……は、離せっ!」
「ボクの天使はもう空に還ってしまったんだ。だから、せめて天使の血を分けたキミをボクの手で空へ送り出してあげたいんだよぉおおおお」
「……っ! ………」

 室内からめちゃくちゃに揉み合う音がする。
 所長へと執着が向くにつれて、僕の息苦しさも軽くなってきた。
 滑りながらも立ち上がってドアノブに手をかける

「あ、あかない……っ!?」

 ど、どうしよう……。なにか、なにかできることを! と思って背広のポケットをまさぐった。
 ライター? 煙草がないからダメだ!
 保冷剤? ぬるくなってるし投げても届かない!
 鞄の中には塩と水があるけれど、これをぶちまけるか?
 いや、でも志田さんは生身の人間なんだから、ただの塩水にしかならない。
 早くしないと……なにかないか、なにか……!
 志田さんは人間だ。幽霊じゃない。
 それなら、それなら……。

「……あ」

 ポケットの奥深く、いつか番場さんにもらったガチャガチャの景品が指に当たった。確かボタンを押すと笑い声が流れるんだっけ……。
 そうだ。こんな時こそ番場さんに連絡を取ろう! そう思って震える指でスマホをタップする。すでに登録してあった電話番号にかけるけれど……一向に繋がらない。
 見ると、さっきまでアンテナ三本立っていたのになぜか圏外表示になっていた。

「……なんで!?」

 手元に残ったのは安っぽいオモチャだけ。
 こ、こんなもので一体どうすれば……!

「………」

 ……ええい、でもないよりマシだろうっ!
 志田さんは幽霊じゃない! ……と、いうことは場違いな笑い声が響いたらちょっとは怖いと思ってくれるはずだ! あの人にそんなマトモな感覚が残ってるとは思えないけど……っ!

「えいっ……!!」

 思い切ってボタンを押す。まぁ、ガチャガチャのオモチャだし……と舐めてかかっていたらとんでもない音量が家中に響いた。

「あははははははははあはははははははっはははあははははははははははっははははははははははははははははあははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははあははははははははははははははははははははははははははあははははははははあはははははははっはははあははははははははははっははははははははははははははははあははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははあはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!!」

 耳の奥がビリビリと痺れる。
 両手で耳を塞いでも、全く意味がない。
 脳内に直接訴えかけるような、渾身の笑い声。
 え? なんで? だってこれ、オモチャだから……パッケージに書いてあるアニメキャラの笑い声が三秒だけ流れるはずじゃ……。

「あははははははははあはははははははっはははあははははははははははっははははははははははははははははあははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははあははははははははははははははははははははははははははあははははははははあはははははははっはははあははははははははははっははははははははははははははははあはははははははははははははははははははははははっはははははははははははははははははははははははははあはははははははははははははははははっはははあはははははははははははははははははははは!!!!!!!」

 狂ったような笑い声は止まらない。
 アニメのことはよく分からないけれど、このキャラクターはこんな笑い方をしていないはずだ。
 第一、男性キャラクターのはずなのにこの笑い声はどう考えても女性の……。

「……あ」

 この声、聞いたことがある。
 一番最初に遺志留支店を訪れた時に聞いた声。
 さっき、写真の中で所長に向けられていた可愛い声。
 そして、最後の断末魔。

「い、妹……さん?」

 呼びかけてみる。
 返事はなく、けたたましい笑い声だけが木霊する。
 でも、もう予想は確信に変わっていた。

「なっ、ナユナちゃんだよねっ!? あの、その……キミの辛さを全部分かってあげることはできないけど……でも、あっ、ぼ、僕にできることならなんでもするから! だから、だからだからっ……!」

 何が言いたいのか自分でもよく分からない。
 頭の中がぐちゃぐちゃで、全然なにも纏まらない。
 でも、言いたいことは一つだけだ。お願いしたいことは一つだけだ。



「所長を、……助けてっ!!」



 狂ったような笑い声は僕の願いを聞き届けてくれたのか、さらに音量を増した。
 もはや、笑い声と言うよりも絶叫だ。
 地面ごとひっくり返すんじゃないかと思うほどの音の波が家を包んで、その後、嘘のように静まりかえってしまった。

「……?」

 おそるおそる、塞いでいた耳を外す。
 所長と志田さんがいるはずの寝室からはピクリとも音がしない。

「……っ」

 とにかく所長を助け出そうと思ってドアを蹴破ろうとしたら、中から開いて冷気と共に所長が出てきた。
 勢い余って後ろに倒れてしまう。

「うわぁっ!?」
「朝くん、なーに転けてんの?」

 スーツはヨレヨレで首もとには締められた痕が残っているけれど、所長はちゃんと2本の足で立っていた。
 怖々と寝室を覗くと、ベッドに志田さんが臥せっている。
 え? まさか所長が?

「そんな顔で俺を見るなよ。アイツはな、二酸化炭素中毒だ」
「二酸化炭素……?」
「あの部屋、スゲー寒かっただろ? 奥さんの遺体を腐らせないために大量のドライアイスが隠してあるんだ。密閉した室内でそんなもんを垂れ流してりゃ、酸欠によるめまい・頭痛、吐き気に苛まれるだろうな。それに、誰かさんから精神的負荷をかけられたら、余計にその確率も上がるさ」

 僕が握りしめていたオモチャに目を向ける所長。

「何をしたんだ? さすがの俺も、なんのことだかサッパリ分からん」
「しょ、所長には聞こえましたか?」
「ああ。アニメのキャラクターの笑い声だろ? 意味不明だったんだが、志田はそれを聞いたら急に苦しみだしてな。あとは中毒起こしてあの状態ってわけさ」

 妹さんの声は、やっぱり所長には聞こえないらしい。

「そうです、か……」

 安心したら腰が抜けてしまった。
 この家ではまともに立ってられないのか、僕は……。

「おいおい、しっかりしろよ」

 腕を取って助けてもらう。
 所長だって辛いはずなのに、どこか晴れ晴れとした顔をしていた。

「あの……良いんですか? 今まで追いつめてたのに、こんな終わり方で……」
「十分だぜ。アイツの言葉はバッチリ録音してるしな。まだ生きてるから、残りの人生は刑務所行きだな」
「録音……?」
「敵地に行くのに、ボイスレコーダーは必須アイテムだぜ」

 スーツの内側にあるポケットから小さなボイスレコーダーを取り出す所長。

「なんだ……ちゃんと準備していたんですね」
「当たり前だろ? でも、朝くんが居てくれて良かった。もしいなかったら、あのまま締められて落ちてただろうな」

 その壮絶さは、所長の首元にクッキリと残った十本の指の痕が物語っている。
 僕は目眩の残る頭を抱えて、遠くから聞こえてくるサイレンの音をボンヤリ聞いていた。



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