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わたしわすれ 〜指輪〜
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しおりを挟む「……お兄ちゃん、またどっか行ったんだね」
飛び降りた音で目が覚めたのか、ハツカちゃんが黒いパーカー姿で二階に上がってきた。
「おはよう、志穂さん」
「おはようございます。あの、お兄さまはつい先ほど……」
「うん、知ってる。でもいつものことだから。一つのところジッとして居られないの。まだ今回は長く居た方だよ」
ふぁ、と小さくあくびをしてハツカちゃんは眠たそうに目をこする。
「あれ、志穂さん、お兄ちゃんの電話番号もらったんだ」
ベランダの前で。不自然に紙切れを握りしめたまま呆然と立ち尽くしていた私の手の中を開ける。
「ふーん、めずらし。口説きたい女の人以外には連絡先渡さないのに」
「まぁ、緊急連絡用と言いますか……」
「多分そうだね。お兄ちゃん、誰彼かまわず好きになって口説くけど、恋人がいる人だけは絶対に手を出さないもん」
「恋、人……?」
はて、今の私にそう呼べる人はいるだろうか?
「亡くなった旦那さんだよ。まだ好きなんでしょ? いや、ずっと好きだよね」
「………」
無邪気に笑うハツカちゃんに、私は即答できなかった。
一転の迷いもなく「永遠に愛しています」と言うには、私は罪を背負いすぎたらしい。
私は、清廉潔白な未亡人などではないのだ。
純粋に想い続けることなどできない。
私の心には、常に私の落ち度で他界した一志さんとトヨさんがいる。
これを恋と呼ぶのは、愛と呼ぶのは……あまりにも恐れ多い。
だけど、見知らぬ誰かを心の中に入れる気もない。
「そうです、ね……」
なんとか絞り出した肯定の言葉は、あまりにも小さすぎてハツカちゃんの耳には届いていないようだった。
「あーあ、お兄ちゃんのせいで早くに目が覚めちゃった。なんかお腹も減ってきたし……アタシ、先にお店に行くね」
「ちょっと待っててもらえれば、すぐに朝ご飯作りますよ?」
「うん、お願いします。でも、待ってる時間にやりたいことがあるから」
ハツカちゃんは朝に弱い印象だったけれど、お兄さんが帰ってきてから頑張って二度寝をしないようになった。
早起きした日は、先にお店に行って通信制高校の課題をしたり、過去の御忘物やお客様のデータを読み込んでいたりしているようだ。
朝ご飯を作って持っていくことを約束して、私は台所に立つ。
今日の朝ご飯は、昨日の晩ご飯のポテトサラダをサンドイッチに挟もう。
粒マスタードも忘れずに。
ハツカちゃんは私の作るご飯をいつも美味しいと言って食べてくれるから、作りがいがあって良い。一人きりだと、どうしても適当な加工品に頼りがちだから、私自身も助かっている。
お兄さんがいたここ数日、彼にも食事を振る舞う機会があった。
ハツカちゃんと同じように美味しいと言って、同じスプーンの握り方をしていたのが可愛かった。
トオカさんがお店にいた数日の間、特別変わったことはなかった。
でもやっぱり、なにかあった時にすぐ助けてもらえる人がいるのといないのとでは、安心感が違う。
今日からは、私にもお店をちゃんとまわす責任がある、と思う。
もちろんメインはハツカちゃんだけれど、彼女の足を引っ張らないように、彼女が困ったときにちゃんと補佐できるように、気を張る必要がある。
結婚していた時もずっと働いていたものの、フルタイムで働いたことはない。パートタイムが楽な仕事だとは決して思わないけれど、正社員と比べると心労は違うだろう。
お客さんとトラブルがあったときに、社員の方はすぐに飛んできてくれた。私は頭を下げつつも、夕飯の支度の段取りについて考えていたりした。
……一志さんと結婚して、トヨさんと穏やかに過ごす日々はとても幸せで幸福だった。その裏に、自分の責任で仕事をする喜びが隠れていたことなんて考えたこともなかた。
結婚して、幸せな日々だった。
私の人生は、結婚だけが幸福への鍵だと思っていたけれど……、婚姻関係が破綻したいま、別の幸せに心を震わせている自分を、諫める気持ちと困惑する気持ちが交差する。こんな幸せ、とても素直に受け取れない。
「……よし、できた」
だけど、罪を償うには生きていないといけない。
二人の弔いは、義姉さんがしっかりと執り行うだろうけれど、私からも永遠に冥福を祈り続けたい。
今日も明日も明後日も、私は生きて、そして二人のことを想い続ける。
有涯の終わりに御忘物を探しに来るお客様のように、与えられた命の持ち分は、粗末にせず過ごそうと思う。
地元に戻ってきた直後は積極的に自殺する度胸なんてなかったけれど、あのまま放っておいたら消極的な自殺を選んでいたであろうことは想像に難くない。
ハツカちゃんから聞いた話だけれど、途中下車した人……つまり、自死を選んだ場合は市に来る資格を失うらしい。それは困る。
生きて、生きて……そして、死んだ時には市を訪れたい。
私の御忘物は、いったい何だろう?
そんなことをつれづれと考えながら、私は指についたマスタードを舐めとる。
ピリリとした味が、一瞬だけ舌で踊って消える。
昇り始めた太陽を眺めながら、私もおわすれもの市に向けて出発した。
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