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依頼1ー熱気と闇を孕む商業国ナナガ
千鶴の災難
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赤黒い妖気を纏ったハルは、筋肉のバネを使って弾丸のように飛び出した。上下左右からくる糸、正面に張られた糸すら構わずに突っ込む。
額に、胸に、四肢に、食い込む可視と不可視の糸もろとも無視して進む。肉が断たれても構わない。込めた妖気と突進の力で糸を引き千切る。
チェルシーの顔色が変わった。犬の妖魔は全身を血に染めながらも牙を剥いて迫ってくる。数本の糸では止められないと、何百という糸を束ねて壁を作った。
しかし、糸の壁は間髪いれずに燃え上がる。赤毛の妖魔の仕業だろう。構わない。犬の妖魔の視界が、闇夜を白く染める焔で塞がっているうちにちょっと場所を移動すればいい。
糸の足場を伝って横へ駆け、糸であの犬をがんじがらめにしてやろうと、量を重視した糸を出した。が、焔の壁が消えた後に犬の姿がない。
「あれ? どこへ行ったの?」
虚を突かれて、動きと思考が止まった。元々チェルシーは戦いなんて初めてだ。いつも『ご飯』は無抵抗で一方的なものでしかなかった。
その少しの空白が、ハルにとっては十分すぎた。ハルの左手へ回り込んだチェルシーの反対、右手へ飛んだハルは背後をとった形で追い縋る。
チェルシーは空中にいる為、残念ながら喉元までは届かない。地面を大きく蹴り、届いたのは足だった。
「きゃあああっ」
顎に伝わる確かな肉の感触に、ハルは喜悦を覚えつつ首を振った。犬は小動物ならば噛み付いて振り回し、首の骨を折り止めを刺す。今回は足の肉を小削げとったのみ。さらにもう一噛みやっておきたいが、重力に従って地面へ戻る。
がくんと、チェルシーが糸から足を踏み外してなんとか地面へ降りた。その瞬間頭上の糸が燃え落ちる。
「またあ! またあ!」
地団駄を踏んで千鶴が泣きながら、煤で真っ黒になった天井を見上げた。慌てて補強しておいたお陰で燃やされるのは免れたが、そうでなければ天井に大穴を開けられそうな勢いだった。明らかに威力が強くなっている。
嫌な予感がして千鶴は忙しく頭を巡らせた。コハクの目が届かないのは、ちょっと不味いんじゃなかろうか。只でさえやりたい放題のホムラなのに、更に遠慮がなくなってないだろうか。
流石に辺り一面焼いて終わりとかやらないよね、いや流石にそれをやると後でコハクに凄く怒られるだろう。だからきっとやらない、やらないと思う。やらなかったらいいなー、と思う。
暫く千鶴はあわあわ、おろおろとリルとアルフレッドの周りを歩き回った。こうなればホムラに焼かれる前に、ハルに頑張って貰うしかない。よし! それがいい! と千鶴はハルの応援をするために鼻息荒く拳を固めた。
そこではたと気付く。ハルの目が白く濁っている。あの目は真名を解放した時と同じ、すなわちハルの本性だ。あの目をしているということは、ハルも相当頭にきている。ああなると理性が隅っこに追いやられてしまう。
ハルは地面に降りた宿主の少女の二の腕の肉を噛み千切り、勢いのまますれ違ってから床へ爪を立て急停止した。ガリガリと嫌な音を立てて、床の紙に大きな爪痕が刻まれる。
「ちょっと、破れる! 破れる!」
今度はハルの爪に破られる心配が出てきた。やっぱり訂正、ハルも頑張らなくていい。千鶴は半泣きで妖気を巡らせ、結界を補強した。
チェルシーは恐怖していた。今まで狩る側で狩られる側など経験したことがない。犬は糸でどんなに体が切れようと、突如上がる焔に焼かれようとも動きを止めない。
体中を血に染め、ブスブスと肉の焦げる嫌な臭いを撒き散らし、衰えることのない殺意を向けてくる。
じくじくと痛みを訴える足は治りつつあるが、新たに二の腕が痛みと熱を生んでいた。
このまま食べられてしまうのだろうか。弱肉強食、弱ければ強いものに食べられる。嫌だ。食べる側でありたい。狩る側でありたい。
「私は、食べられるなんて嫌! 食べるほうなんだから!」
チェルシーは叫んで糸を練り上げた。
そんな妹と妖魔の攻防をアルフレッドは茫然と見ていた。長い銀髪に愛くるしい顔、見た目は彼の妹そのもの、口調も同じだ。なのに、言動と考え方が全く知らない誰かのようだった。
一体いつからこうなってしまったのだろうか。
せめて逃げて欲しいと思った。生きていて欲しいと思った。しかし、今のチェルシーを見ているとそれは間違いだと思い知らされる。もしも妹が生き残れば、きっと手当たり次第に人を殺して食べるのだろう。
痺れて感覚の鈍いアルフレッドの右腕に冷たく無機質な塊が当たる。目線を下ろすと鈍い光沢を放つ鉄の武器が転がっていた。ダグスの持っていた対妖魔銃だ。
手を伸ばし掴んだそれは見た目以上に重たかった。
※※※※
意識の底へ潜ったコハクは辺りを見渡した。場所は校門前、時刻は夕刻。
いや、正確には見渡そうとしたが叶わなかった。目線はコハクの思う通りには動かずに、勝手に動いた。
これはコハク以外の誰かの見ているものだ。云わずもがな、チェルシーのものだろう。
キョロキョロと動く視界、やがてリルの姿が見えると固定された。馬鹿みたいに大きく重厚な造りの校門から、取り巻きを引き連れて出てくる。目当ての人物を見付けて沸き上がる喜びと、彼女の周りのものたちへの不快感はチェルシーの感情だ。
笑顔を崩さないまま彼らをあしらったリルは、待たせていた車に乗り込んだ。車のドアを閉めた男がこちらを振り返った。不思議なことに男の顔が分からない。見えていない訳ではないのに、目を凝らしても特徴が掴めない。
顔が認識出来ない男と目が合った途端、意識がぶれるような感覚に襲われた。
リルにつきまとう不快な男たち。あんな奴らなど始末してしまえばいい。
男と目が合ったのは一瞬で、ドアを閉めた男は車を運転して行ってしまった。後に残ったチェルシーの心の中には、男たちへの敵意と優位に立った喜びと、食欲が占めていた。
あの男が記憶を改竄した者。そして入れ知恵もした者だ。「教えてくれたヒトがいる」と言った時の違和感がコハクの中で確信に変わる。リルにつきまとう男たちへ敵意を抱かせ、肉親を喰らうことで罪を深めてより高位の妖魔になるように導いた。
考え込むコハクとは関係なく、チェルシーの意識は起こった出来事と彼女の感情をなぞらえていく。また一人犠牲者が増え、やがて部屋の中でチェルシーとよく似た少女と向き合っていた。
ユズリハの宿主、レイチェルだ。彼女は虚ろな目を姉であるチェルシーへ向けている。レイチェルの精神を喰ったユズリハはリルの中へ入っている。故にレイチェルは空か、穴だらけのスカスカな精神しかないのだろう。
反応のない妹の頬を両手で挟み、チェルシーが泣いている。悲しみ、後悔、世の中への恨み、邪魔者への怒り、兄と妹への愛情、そして空腹、飢餓、激しい食への渇望、食べたい、食べたい、食べたい。
いつの間にか戸口に男が立っていた。にいっと吊り上がる男の口元だけが見える。
「何を躊躇っているのです? この娘はどうせ空っぽだ。空の器を貴女が食べたとて、ただの有効利用というものでしょう」
泣いている。心が悲鳴を上げている。虚ろなヘーゼルの瞳が涙を流す自分を映す。
「食べれば宜しいのですよ。何も悪いことはない。愛する者を食べればより強大な力が手に入る。お兄さんも意にそまぬ仕事をやらなくてもよくなる。飢えることもなくなる。誰にも殴られない。お兄さんも妹さんも、貴女も幸せになれる。何時の世も力を持つ者は何もかも思い通りにしてきた」
汚いと殴られた。みずぼらしいとなじられた。投げつけられた残飯を拾ったこともある。いつも空腹を抱えていた。常に痛む胃、力の入らない体。
何もかもが心配なくなる。解決する。この男のいう通りにすれば。
ぐるぐると思考が固定されていく。男の言うことが何もかも正しく思えてくる。チェルシーの感情に引きずられ、くらくらとしながらコハクは考えた。
これは暗示だ。強力な暗示。第一部隊の対妖魔銃とはまた違うきな臭さにコハクは顔をしかめた。
「なに、人間などに遠慮することなどない。狩られることもない。数の有利に胡座をかいて世界を牛耳っている人間どもよ。我々は人間よりも超越した存在だ。人間はせいぜい怯えて我らを畏れ、罪を知るといい」
男は淀みなく妖魔を賛美し、その思想をチェルシーに植え付けていく。
「さあ、『……』、この娘を食べてより高位の存在になりなさい。そうして高みに到達して、我らと共に行く資格を得るといい。忌々しい妖魔狩りどもを逆に狩ってやろう」
男の言うがままにチェルシーはレイチェルへ細い指を伸ばした。
額に、胸に、四肢に、食い込む可視と不可視の糸もろとも無視して進む。肉が断たれても構わない。込めた妖気と突進の力で糸を引き千切る。
チェルシーの顔色が変わった。犬の妖魔は全身を血に染めながらも牙を剥いて迫ってくる。数本の糸では止められないと、何百という糸を束ねて壁を作った。
しかし、糸の壁は間髪いれずに燃え上がる。赤毛の妖魔の仕業だろう。構わない。犬の妖魔の視界が、闇夜を白く染める焔で塞がっているうちにちょっと場所を移動すればいい。
糸の足場を伝って横へ駆け、糸であの犬をがんじがらめにしてやろうと、量を重視した糸を出した。が、焔の壁が消えた後に犬の姿がない。
「あれ? どこへ行ったの?」
虚を突かれて、動きと思考が止まった。元々チェルシーは戦いなんて初めてだ。いつも『ご飯』は無抵抗で一方的なものでしかなかった。
その少しの空白が、ハルにとっては十分すぎた。ハルの左手へ回り込んだチェルシーの反対、右手へ飛んだハルは背後をとった形で追い縋る。
チェルシーは空中にいる為、残念ながら喉元までは届かない。地面を大きく蹴り、届いたのは足だった。
「きゃあああっ」
顎に伝わる確かな肉の感触に、ハルは喜悦を覚えつつ首を振った。犬は小動物ならば噛み付いて振り回し、首の骨を折り止めを刺す。今回は足の肉を小削げとったのみ。さらにもう一噛みやっておきたいが、重力に従って地面へ戻る。
がくんと、チェルシーが糸から足を踏み外してなんとか地面へ降りた。その瞬間頭上の糸が燃え落ちる。
「またあ! またあ!」
地団駄を踏んで千鶴が泣きながら、煤で真っ黒になった天井を見上げた。慌てて補強しておいたお陰で燃やされるのは免れたが、そうでなければ天井に大穴を開けられそうな勢いだった。明らかに威力が強くなっている。
嫌な予感がして千鶴は忙しく頭を巡らせた。コハクの目が届かないのは、ちょっと不味いんじゃなかろうか。只でさえやりたい放題のホムラなのに、更に遠慮がなくなってないだろうか。
流石に辺り一面焼いて終わりとかやらないよね、いや流石にそれをやると後でコハクに凄く怒られるだろう。だからきっとやらない、やらないと思う。やらなかったらいいなー、と思う。
暫く千鶴はあわあわ、おろおろとリルとアルフレッドの周りを歩き回った。こうなればホムラに焼かれる前に、ハルに頑張って貰うしかない。よし! それがいい! と千鶴はハルの応援をするために鼻息荒く拳を固めた。
そこではたと気付く。ハルの目が白く濁っている。あの目は真名を解放した時と同じ、すなわちハルの本性だ。あの目をしているということは、ハルも相当頭にきている。ああなると理性が隅っこに追いやられてしまう。
ハルは地面に降りた宿主の少女の二の腕の肉を噛み千切り、勢いのまますれ違ってから床へ爪を立て急停止した。ガリガリと嫌な音を立てて、床の紙に大きな爪痕が刻まれる。
「ちょっと、破れる! 破れる!」
今度はハルの爪に破られる心配が出てきた。やっぱり訂正、ハルも頑張らなくていい。千鶴は半泣きで妖気を巡らせ、結界を補強した。
チェルシーは恐怖していた。今まで狩る側で狩られる側など経験したことがない。犬は糸でどんなに体が切れようと、突如上がる焔に焼かれようとも動きを止めない。
体中を血に染め、ブスブスと肉の焦げる嫌な臭いを撒き散らし、衰えることのない殺意を向けてくる。
じくじくと痛みを訴える足は治りつつあるが、新たに二の腕が痛みと熱を生んでいた。
このまま食べられてしまうのだろうか。弱肉強食、弱ければ強いものに食べられる。嫌だ。食べる側でありたい。狩る側でありたい。
「私は、食べられるなんて嫌! 食べるほうなんだから!」
チェルシーは叫んで糸を練り上げた。
そんな妹と妖魔の攻防をアルフレッドは茫然と見ていた。長い銀髪に愛くるしい顔、見た目は彼の妹そのもの、口調も同じだ。なのに、言動と考え方が全く知らない誰かのようだった。
一体いつからこうなってしまったのだろうか。
せめて逃げて欲しいと思った。生きていて欲しいと思った。しかし、今のチェルシーを見ているとそれは間違いだと思い知らされる。もしも妹が生き残れば、きっと手当たり次第に人を殺して食べるのだろう。
痺れて感覚の鈍いアルフレッドの右腕に冷たく無機質な塊が当たる。目線を下ろすと鈍い光沢を放つ鉄の武器が転がっていた。ダグスの持っていた対妖魔銃だ。
手を伸ばし掴んだそれは見た目以上に重たかった。
※※※※
意識の底へ潜ったコハクは辺りを見渡した。場所は校門前、時刻は夕刻。
いや、正確には見渡そうとしたが叶わなかった。目線はコハクの思う通りには動かずに、勝手に動いた。
これはコハク以外の誰かの見ているものだ。云わずもがな、チェルシーのものだろう。
キョロキョロと動く視界、やがてリルの姿が見えると固定された。馬鹿みたいに大きく重厚な造りの校門から、取り巻きを引き連れて出てくる。目当ての人物を見付けて沸き上がる喜びと、彼女の周りのものたちへの不快感はチェルシーの感情だ。
笑顔を崩さないまま彼らをあしらったリルは、待たせていた車に乗り込んだ。車のドアを閉めた男がこちらを振り返った。不思議なことに男の顔が分からない。見えていない訳ではないのに、目を凝らしても特徴が掴めない。
顔が認識出来ない男と目が合った途端、意識がぶれるような感覚に襲われた。
リルにつきまとう不快な男たち。あんな奴らなど始末してしまえばいい。
男と目が合ったのは一瞬で、ドアを閉めた男は車を運転して行ってしまった。後に残ったチェルシーの心の中には、男たちへの敵意と優位に立った喜びと、食欲が占めていた。
あの男が記憶を改竄した者。そして入れ知恵もした者だ。「教えてくれたヒトがいる」と言った時の違和感がコハクの中で確信に変わる。リルにつきまとう男たちへ敵意を抱かせ、肉親を喰らうことで罪を深めてより高位の妖魔になるように導いた。
考え込むコハクとは関係なく、チェルシーの意識は起こった出来事と彼女の感情をなぞらえていく。また一人犠牲者が増え、やがて部屋の中でチェルシーとよく似た少女と向き合っていた。
ユズリハの宿主、レイチェルだ。彼女は虚ろな目を姉であるチェルシーへ向けている。レイチェルの精神を喰ったユズリハはリルの中へ入っている。故にレイチェルは空か、穴だらけのスカスカな精神しかないのだろう。
反応のない妹の頬を両手で挟み、チェルシーが泣いている。悲しみ、後悔、世の中への恨み、邪魔者への怒り、兄と妹への愛情、そして空腹、飢餓、激しい食への渇望、食べたい、食べたい、食べたい。
いつの間にか戸口に男が立っていた。にいっと吊り上がる男の口元だけが見える。
「何を躊躇っているのです? この娘はどうせ空っぽだ。空の器を貴女が食べたとて、ただの有効利用というものでしょう」
泣いている。心が悲鳴を上げている。虚ろなヘーゼルの瞳が涙を流す自分を映す。
「食べれば宜しいのですよ。何も悪いことはない。愛する者を食べればより強大な力が手に入る。お兄さんも意にそまぬ仕事をやらなくてもよくなる。飢えることもなくなる。誰にも殴られない。お兄さんも妹さんも、貴女も幸せになれる。何時の世も力を持つ者は何もかも思い通りにしてきた」
汚いと殴られた。みずぼらしいとなじられた。投げつけられた残飯を拾ったこともある。いつも空腹を抱えていた。常に痛む胃、力の入らない体。
何もかもが心配なくなる。解決する。この男のいう通りにすれば。
ぐるぐると思考が固定されていく。男の言うことが何もかも正しく思えてくる。チェルシーの感情に引きずられ、くらくらとしながらコハクは考えた。
これは暗示だ。強力な暗示。第一部隊の対妖魔銃とはまた違うきな臭さにコハクは顔をしかめた。
「なに、人間などに遠慮することなどない。狩られることもない。数の有利に胡座をかいて世界を牛耳っている人間どもよ。我々は人間よりも超越した存在だ。人間はせいぜい怯えて我らを畏れ、罪を知るといい」
男は淀みなく妖魔を賛美し、その思想をチェルシーに植え付けていく。
「さあ、『……』、この娘を食べてより高位の存在になりなさい。そうして高みに到達して、我らと共に行く資格を得るといい。忌々しい妖魔狩りどもを逆に狩ってやろう」
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