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依頼2ー無気力の蔓延る科学国家マギリウヌ国

努力の成果

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 何度も何度もノートを確認した。心を落ち着けようと深呼吸もした。きっと今回は大丈夫。あんなに勉強したし、何よりも優秀な先生もいたのだから。

 そう言い聞かせてシリアは目の前の答案に挑んだ。

 結果、点数はほんの少し上がっていた。相変わらずのE判定、掲示板に貼られた順位はやはり最下位ではある。それでもシリアの心は軽かった。軽い心のまま掲示板に沿って視線を上にあげていく。上まで見上げて、シリアは固まった。

 キリング・バンクディの名前が二位になっていた。

「キリング!」
 廊下で見付けた少年の名をシリアは大きな声で呼んだ。学校ではなんとなく気後れして話し掛けたことがなかったので、こうして学校でキリングと話すのは初めてだった。

 振り返ったキリングはいつも通りの仏頂面だったが、こちらを見て僅かに表情が弛んだのは分かった。

「ま、こんなこともあるさ」
 キリングは、声を掛けただけで立ち竦むシリアの頭を軽く叩き、通りすぎる。何も言えずにただ、彼の背中を見送った。

「いい気味だよ。万年首席だからって、いい気になってサボってるからああなる」
「あの子でしょ? 万年ビリの馬鹿女。たいして可愛くもないのに、あんなのがいいわけ?」

 キリングが去ってから、生徒たちの間にくすくす、けたけたと嘲笑が伝染していく。悔しくてぐっと唇を噛みしめ、シリアは周りをぐるりと睨んだ。

 シリアが馬鹿にされるのはいつものことだ。慣れている。けれど、キリングが馬鹿にされるのは我慢出来なかった。

「何も知らない癖に!」

 気が付くと、一番近くにいた女子生徒へ飛びかかっていた。胸ぐらを掴んで髪を引っ張ってやろうとした瞬間、シリアの全身にびりっと電気が走った。

 体を流れた電気に気を削がれ、その場に座り込んで動かなくなったシリアの側から、さあっと生徒たちが去っていく。

 電気を走らせたのは、マギリウヌ国の人間全てに着用を義務付けられた腕輪だった。ミズホ国の『デンキ』という者たちは、発生させた電気をその身と武器に纏わせて妖魔を狩る。つまり、下級や中級妖魔なら電気を流せば殺せるのだ。アウリムはそれを利用して、人の中に妖魔が生まれる兆候を感知すると微弱な電気を流す装置を開発し、腕輪として実用化している。

 残されたシリアは駆け付けた教師に職員室へ連れていかれ、迎えに来た母親に引き取られた。


 ……私のせいで……。

 急に押し寄せてきたねっとりとした空気に、ポルクスは嫌な汗を掻く。今回の対話は先程まで、宿主と向き合っていることを忘れるほど、重圧がなかったのだ。

 ……私のせいでキリングは成績が落ちて二番になったのよ。

 キリングが二位に落ちたことは、シリアにとってもショックだった。このところ、ずっとシリアに勉強を教えてくれていたキリング。シリアに掛かりきりで、自分の勉強が疎かになってしまったのではないか。


「なんてことをしてくれたのっ! この馬鹿娘っ」
 ヒステリックな声と共に頬を叩かれ、シリアはリビングの床を転がった。

 家に帰って玄関の扉を閉めた途端、母親がシリアに浴びせたのは、平手打ちと罵詈雑言の嵐だった。

 キリングとシリアの勉強会は、二人を見かけた生徒によって面白おかしく噂されていたらしい。
 それが今日の出来事によって噂の方向が更にねじ曲がった。それを教師から聞かされた母親は、かんかんに怒っていた。

「よりによってバンクディ家の坊っちゃんをたぶらかすなんて! この恥知らず!」
 今日の事はキリングの両親にも連絡がいった。キリングの両親は、頭の悪いシリアがキリングをたぶらかしたせいで成績が下がったのだ、どうしてくれると、それはそれは立腹していたそうだ。

「たぶらかしてなんてない、信じて」

「うるさい! バンクディ家に睨まれたりしたら、父さんがどうなるか! 全くお前は愚図で勉強が出来ないだけでなく、私たちに迷惑までかけるのっ!? まともに努力も勉強もせずに情けない!」

 信じてくれと訴えても聞く耳を持たない母親に、シリアは懸命に鞄から証拠を出した。

「違う! 勉強してたのよ、見て! ちょっとだけ成績が上がったの! 私たち、お母さんが思うようなことしてない。勉強してただけなの」

 たかが紙切れ、されどここ数日のキリングとシリアの努力が反映された紙切れ。その紙切れに視線を走らせる母親を、シリアは期待を込めて見詰めた。

「上がった点数は少しだけど、きっとこれから上げていける。キリングがやり方を教えてくれたの。ね? 私だって努力してたって分かってくれたでしょう?」

 すがるように笑みを浮かべて、母親へ紙切れを掲げる。今までの空回りの努力とは違う、シリアの確かな頑張りを、褒めてくれるのではないか、認めてくれるのではないか。そういう甘い、期待。

「だから、何?」
 母親から返ってきたのは、低く圧し殺した冷たい声だった。

「え?」
 シリアの貼り付いた笑みが凍る。母親から向けられる憎悪と軽蔑の目によって。

「点数が上がった? そんなの偶然でしょ? 大体またE判定の最下位の癖に、よくもそんなことが言えるわね。この馬鹿娘!」

 ……そっか。
 機関銃の如く、シリアが如何に駄目な奴なのかを並べていく母親を、妙に冷めた目で眺めた。

 努力は認めてくれないんだ。最初から期待なんてされてないんだ。私を見てなんてくれないんだ。見てるのは紙切れに書かれた数字だけ。頑張ったら褒めてくれるなんて幻想だったんだ。

 この女の言う通りだ。どうやらシリアは馬鹿だったらしい。

「ちょっと、聞いてるの? 何なの、反省も欠片もないその態度っ! ちょっと何処へ行くの、まだ話は終わってないでしょう!」

 喚く女の横をすり抜け、台所にある包丁を掴む。振り返ると、追いかけてきた女が信じられないという表情で立っていた。

 なんだ、この女だって自分と同じ、馬鹿みたいな顔をして突っ立っているではないか。シリアはやけに愉快な気持ちで女へ近付く。

 びりっと腕輪からシリアの体に電気が流れるがどうでもいい。軽い痺れと痛みよりも、もっと暗く痺れるような感覚が湧いてくる。

 立ち尽くす女の腹へ包丁を突き立てた。血飛沫と女の悲鳴が上がる。煩い。引き抜いてもう一度突き立てた。

 シリアの中に何かが生まれる。生まれた何かは女を刺す度にシリアの心を喰い潰し、代わりに暗い悦びが心を満たす。もう腕輪から発生する電気など痛くも痒くもなかった。

 ……ああ、もっとはやくこうすれば良かったんだ……。

 刺す度に鉛のように重たい心が死んで、刺す度に羽のように軽い自由が生まれる。可笑しくて、嬉しくて自分が上げている哄笑が心地よかった。
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