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01 風と
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……風が吹いてきていた。
北からの風が。
朔風が。
天慶三年二月十四日、未申の刻(午後三時)。
下総、北山。
「新皇」平将門率いる軍と、平貞盛率いる官軍が対峙していた。
将門は北に、貞盛は南に。
その陣する位置により、風向きは将門に有利といえた。
「……矢戦の用意」
将門が号令を下すと、将兵らは一斉に矢を構えた。
「……来るぞ」
官軍の副将、藤原秀郷は甥の貞盛に注意を促した。
貞盛は軽くうなずき、迫り来る矢への備えを命じた。
「良いか。必ず時は来る。備えるのだ」
とはいうものの、天性の用兵巧者の将門の前には、一度は撃破されるだろうと貞盛は独り言ちた。
「だが」
貞盛はふと、昔を思い出していた。
「……だが、風は変わる。いずれ変わる。われら武士が下に置かれるこの世も、変わる」
*
数年前。
京。
平貞盛は、京へ上るとすぐ、年上の従兄弟の平将門を訪ねて行った。
当時の将門は、左大臣・藤原忠平の推挙で滝口武者(御所の衛士)を務めていた。
「貞盛、久しいのう」
「将門兄」
屈託のない将門の顔を見て、貞盛は故郷の坂東のことを思い出した。
将門は、坂東の大きな空と広い大地を――そのにおいを感じさせる男だった。
だが首を振ってそれに嵌まらないようにする。
貞盛は、官人としての出世を望んでおり、努めて坂東のことは考えないようにしていた。
「滝口など、暇なことよ」
将門としては、検非違使となって、京の軍事・警察を担う働きがしたかった。
その点、貞盛は馬寮(朝廷の馬の管理をする官庁)の左馬允に任ぜられることになっており、馬寮は検非違使を補佐して働くことがあったため、将門としては垂涎の対象である。
「でも、いいのさ」
将門は京を案内すると言って貞盛を誘い、気づいたら夜中、酒を飲みながら都大路を蹣跚と歩いていた。
貞盛が「京の酒にしてはきつすぎる」と顔を顰めていると、将門が言った。
「おれは、坂東に帰る」
「将門兄、それはまことか」
「まことだ」
将門は、京の外れから敢えて取り寄せた濁酒をあおりながら、答えた。
「京で……検非違使の仕事をして、学びたかったが、もういい。もうこれ以上いても、検非違使にはなれそうにないし、もういい」
貞盛がその濁酒の入った瓶子を見て、もしや密造かと思っていると、「やめろ」と将門は笑った。
「検非違使を目指していたくせに……と思っただろう? だがおれがなりたいのは検非違使というか、けんかをやめさせる男になりたかったんだ」
「なにゆえ」
「坂東を見てみろ、法なんぞ無いところだぞ、あれは。だからおれは、こうして京で学んで、ちゃんとけんかをやめさせる男になりたかった……強いからといって、言うことを聞かせる、坂東の例のあのやり方ではなく」
当時の坂東は無法地帯とも言えて、たとえば、ほかならぬ将門の父が亡くなった時に、おじの平国香(貞盛の父)、平良兼に所領を奪われている。
「それも、京から遠いせいだ」
将門はそう結論づけた。
せめて鎮守府や大宰府のような、「国の中の国」みたいな組織が坂東にあれば、もう少し坂東は治まっていたのやもしれない。
「そのための検非違使だったんだが……けんかをやめさせるのが、治の最たるものではないか」
だがそれももう終わりだと将門は零した。
「このまま京で鳴かず飛ばずでいるよりは、坂東に帰る。帰って、己の力で何とかするさ」
将門には、夢があった。
この時代、未開の地・坂東に、一大楽土を築き上げるという夢を。
それは――のちに「武士」と呼ばれる身分、あるいは勢力の者たちにとって、より良い世の中をつくりたいという、将門の切なる願いであった。
「将門兄……しかし」
貞盛もまたそういう想いを抱いていた。
地方において、開発に、兵事に、治安に携わる「武士」たちの世の中、それはきっと来る。
そのためには、まずは朝廷において官人として立身し、それに備えるべきである。
だからこそ、貞盛は敢えて故郷の坂東のことを頭から捨て去り、京において生きる覚悟をしてきたのだ。
将門は「わかっているさ」と貞盛の肩をたたいた。
「京にいた方が、いいにはいい……けど、親父がもう帰ってこいってさ」
将門の父・良将は鎮守府将軍を務めた稀代の名将である。兄である国香や良兼ではなく弟の良将が鎮守府将軍に任じられていることから、それが分かる。
そして、そういうやっかみが原因か、良将は、国香と良兼と仲が悪く、揉めていた。
だから息子に――武勇の誉れ高き将門に、帰れと言ってきているのか。
「――申し訳ありません」
「何、貞盛……おぬしのせいではないさ。親同士、兄弟同士で勝手にけんかしているだけさ」
「ならばそれこそ――将門兄の出番でしょうな」
ぜひそのけんかを収めて下されと貞盛がおどけると、将門は大いに笑った。
北からの風が。
朔風が。
天慶三年二月十四日、未申の刻(午後三時)。
下総、北山。
「新皇」平将門率いる軍と、平貞盛率いる官軍が対峙していた。
将門は北に、貞盛は南に。
その陣する位置により、風向きは将門に有利といえた。
「……矢戦の用意」
将門が号令を下すと、将兵らは一斉に矢を構えた。
「……来るぞ」
官軍の副将、藤原秀郷は甥の貞盛に注意を促した。
貞盛は軽くうなずき、迫り来る矢への備えを命じた。
「良いか。必ず時は来る。備えるのだ」
とはいうものの、天性の用兵巧者の将門の前には、一度は撃破されるだろうと貞盛は独り言ちた。
「だが」
貞盛はふと、昔を思い出していた。
「……だが、風は変わる。いずれ変わる。われら武士が下に置かれるこの世も、変わる」
*
数年前。
京。
平貞盛は、京へ上るとすぐ、年上の従兄弟の平将門を訪ねて行った。
当時の将門は、左大臣・藤原忠平の推挙で滝口武者(御所の衛士)を務めていた。
「貞盛、久しいのう」
「将門兄」
屈託のない将門の顔を見て、貞盛は故郷の坂東のことを思い出した。
将門は、坂東の大きな空と広い大地を――そのにおいを感じさせる男だった。
だが首を振ってそれに嵌まらないようにする。
貞盛は、官人としての出世を望んでおり、努めて坂東のことは考えないようにしていた。
「滝口など、暇なことよ」
将門としては、検非違使となって、京の軍事・警察を担う働きがしたかった。
その点、貞盛は馬寮(朝廷の馬の管理をする官庁)の左馬允に任ぜられることになっており、馬寮は検非違使を補佐して働くことがあったため、将門としては垂涎の対象である。
「でも、いいのさ」
将門は京を案内すると言って貞盛を誘い、気づいたら夜中、酒を飲みながら都大路を蹣跚と歩いていた。
貞盛が「京の酒にしてはきつすぎる」と顔を顰めていると、将門が言った。
「おれは、坂東に帰る」
「将門兄、それはまことか」
「まことだ」
将門は、京の外れから敢えて取り寄せた濁酒をあおりながら、答えた。
「京で……検非違使の仕事をして、学びたかったが、もういい。もうこれ以上いても、検非違使にはなれそうにないし、もういい」
貞盛がその濁酒の入った瓶子を見て、もしや密造かと思っていると、「やめろ」と将門は笑った。
「検非違使を目指していたくせに……と思っただろう? だがおれがなりたいのは検非違使というか、けんかをやめさせる男になりたかったんだ」
「なにゆえ」
「坂東を見てみろ、法なんぞ無いところだぞ、あれは。だからおれは、こうして京で学んで、ちゃんとけんかをやめさせる男になりたかった……強いからといって、言うことを聞かせる、坂東の例のあのやり方ではなく」
当時の坂東は無法地帯とも言えて、たとえば、ほかならぬ将門の父が亡くなった時に、おじの平国香(貞盛の父)、平良兼に所領を奪われている。
「それも、京から遠いせいだ」
将門はそう結論づけた。
せめて鎮守府や大宰府のような、「国の中の国」みたいな組織が坂東にあれば、もう少し坂東は治まっていたのやもしれない。
「そのための検非違使だったんだが……けんかをやめさせるのが、治の最たるものではないか」
だがそれももう終わりだと将門は零した。
「このまま京で鳴かず飛ばずでいるよりは、坂東に帰る。帰って、己の力で何とかするさ」
将門には、夢があった。
この時代、未開の地・坂東に、一大楽土を築き上げるという夢を。
それは――のちに「武士」と呼ばれる身分、あるいは勢力の者たちにとって、より良い世の中をつくりたいという、将門の切なる願いであった。
「将門兄……しかし」
貞盛もまたそういう想いを抱いていた。
地方において、開発に、兵事に、治安に携わる「武士」たちの世の中、それはきっと来る。
そのためには、まずは朝廷において官人として立身し、それに備えるべきである。
だからこそ、貞盛は敢えて故郷の坂東のことを頭から捨て去り、京において生きる覚悟をしてきたのだ。
将門は「わかっているさ」と貞盛の肩をたたいた。
「京にいた方が、いいにはいい……けど、親父がもう帰ってこいってさ」
将門の父・良将は鎮守府将軍を務めた稀代の名将である。兄である国香や良兼ではなく弟の良将が鎮守府将軍に任じられていることから、それが分かる。
そして、そういうやっかみが原因か、良将は、国香と良兼と仲が悪く、揉めていた。
だから息子に――武勇の誉れ高き将門に、帰れと言ってきているのか。
「――申し訳ありません」
「何、貞盛……おぬしのせいではないさ。親同士、兄弟同士で勝手にけんかしているだけさ」
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