源三位頼政の憂鬱

四谷軒

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一 以仁王

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 源頼政は憂鬱の中にいた。

 治承四年。
 時は、平清盛が高倉帝を退位させ、安徳帝へ譲位せしめた時。
 高倉上皇の兄・以仁王もちひとおうが密かに頼政を訪ねて来たというのだ。

「通せ」
 以仁王。
 英邁で知られていており、子が無かった頃の高倉帝に、次期天皇にという線もあったが、全ては清盛によってご破算となった。
 清盛は、己がむすめ入内じゅだいさせ、高倉帝との間に子をさしめた。
 安徳帝である。
「急なおとないである。許せ」
 安徳帝即位により、以仁王の帝位への芽は消えた。
 しかも。
「昨年の政変(治承三年の政変)により知行の城興時領を奪われたと聞く。それゆえの、無心か」
 その呟きは、頼政のみの耳に届き、余人の知るところではない。
 治承三年の政変。
 簡単に言うと、後白河法皇の権力強化を恐れた平清盛が、数千騎で以て京を急襲し、制圧したクーデターである。
 この煽りを食って、以仁王も帝位への野望を見透かされたのか、知行を奪われてしまった――。
「と、聞いておるが、はてさて」
 頼政は以仁王が出家することを前提に城興時領を所有していたとも聞いている。
 出家して、帝位への野望もないと示さば。
「出家など、有り得ぬ」
 以仁王は、頼政の心中を知ってか知らずか、そう嘯いた。
 頼政としては、恐れ入ったのていで、頭を下げるしかない。
「……よしないことを口にした。許せ」
 どうやらひとちたつもりだったようだ。
 以仁王は改めて、「近う寄れ」と呟く。
 頼政は気が進まなかったが、老体をのそりのそりと前へと進める。
「他でもない」
 そら、おいでなすったという頼政の胸中を知らず、以仁王は声を潜めて語り出す。
「予は挙兵する。兵を貸せ」
 かしこき身分の出らしい、直截的な物言いである。しかも断られるという遠慮もない。
 頼政は迂闊なことも言えず、ただ、片方の眉を上げた。
 このあたり、老獪な頼政の貫禄の為せる業といえる。
「……このままでは、平家の専横、とどまることを知らず」
 だが以仁王は、よくぞ聞いてくれたとばかりに滔々と。
「予とて出家しても良かったのじゃ。帝位を諦めても良かったのじゃ。が」
 平家の知行国はこの治承三年の政変により、全国の半分に達した。
 平家物語に「日本秋津島は僅かに六十六ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり」と語られる所以ゆえんである。
「……これではやり過ぎじゃ。これではこの国は、平家のものになる。駄目になる」
 それを言うなら摂関家――藤原家とて、今まで同様のことをしていたではないか、と頼政は思った。
 しかも。
「駄目になる、とは……」
 敢えて発言したのは、明晰で知られる以仁王らしからぬ言辞を弄したからだ。
 平清盛は確かに強引で自儘なところがある。だが、頭が悪いとは言えない。こうして政変を起こすだけの勢力と気概と――智慧がある。
 何ぞ、誰ぞに吹き込まれたか。
 頼政としては、その「誰ぞ」が頼政を指名したのか、そこが気になる。
 保元の乱、平治の乱と生き延びて来た。
 今また、鹿ケ谷の陰謀、治承三年の政変という嵐を潜り抜け、三位という栄に浴した。
 そして家督を嫡子の仲綱に譲った頼政には、もう何も失うものはない。
 そう思えた。
「これはしたり」
 以仁王は、敢えて驚いたように、扇で口を隠す。
「他ならぬ摂津源氏の棟梁、いや仲綱のことは措く。許せ。敢えて言うが、摂津源氏の棟梁たる三位さんみ頼政よりまさともあろうものが、何故、予の今の発言を確かめようとするのか」
 これは、己で考えろと言いつつ、この頼政が言い出したことに乗っかるつもりか。
 平家にあらずんば人にあらずと囁かれるこの世の中。
 平家ではない、源家の頼政は、では何なのかという問いを受けたことがある。
 だが周到な清盛は、長年の功に報いるという形で、頼政を従三位にした。
 清和源氏として、初の従三位。
 この上ない栄誉。
 しかし三位となってから、頼政としては空恐ろしい思いがして、高齢であることもあって、隠居することにした。
「……無能非才の身ゆえ、宮さまの言うこと、皆目見当がつきませぬ」
「さようか」
 以仁王は鷹揚に頷く。そして諭すように言った。
渡辺津わたなのべつ
「…………」
 摂津渡辺。
 渡辺津。
 摂津源氏の根拠ともいうべき地、あるいは港の名である。
 瀬戸内の海運と京への水運、つまり瀬戸内海と淀川(旧淀川)の結節点であり、この地を抑えた摂津源氏はその武力を涵養したという。
 ちなみに、この渡辺津を直接的に根城にしているのは、渡辺党という源氏の一門である。古くは、鬼退治の渡辺綱が有名である。
 頼政は、その綱を従えた源頼光の子孫である。
「……同じ摂津の福原に、大輪田泊おおわだのとまりに、清盛入道めが新たな京を造ったこと、知らぬわけではあるまい」
「…………」|
 平清盛は父・忠盛の頃から、日宋貿易に興味を持ち、音戸《おんど》の瀬戸の開削や、大輪田泊に人工島・経が島を造って風除けと為し、以て交易の興隆に寄与している。
 その極致が福原京であり、福原は大輪田泊を臨む山の上に在った。
「このままでは、院も朝廷も何もかも福原へ――清盛入道の腹中に吸い込まれるぞ」
「それと拙者に何のかかわりが」
「甘い」
 まだ分からぬか、と以仁王は激昂した。
「福原に京が――遷都が成されては、渡辺津はどうなる。平安京が京でなくなれば、要らぬぞ、津が」
「…………」
 大輪田泊には平家水軍がおり、宋――南宋から九州、九州から瀬戸内、そして瀬戸内から大輪田泊への海運を担い、あるいは守っている。
 それでも平安京が在るうちは、渡辺津の存在に意味があった。
 旧淀川から川上へは、渡辺党なり摂津源氏の縄張りであり、『みかじめ』が期待できた。
 しかし。
「今まで頼政が生きながらえて来たのも、渡辺津を抑えてきたためだ――と、予は思っている」
 日宋貿易の結果を、日本最大の消費地である京――平安京に持って行くには、どうしても瀬戸内から平安京を繋ぐ、渡辺津が重要になってくる。
「でもそれも終わりだ。予は、父――後白河院から聞いた。弟――高倉院を含め、諸々を福原へとうつすと」
 清盛入道めがだ、と以仁王は毒づいた。
「…………」
 そこまで言われると、頼政としても考えざるを得ない。
 あの三位昇叙は、手切れ金だったのか、と。
 確かに頼政自身、源氏として初の公卿(三位以上が公卿)に列するのを夢見た。
 それを意図して歌も詠んだ。
 ある日、清盛に呼ばれ――
「馬場どの、済まなんだ」
 馬場とは、頼政の号であり、馬場頼政とも呼ばれていた。
 齢七十にも達していたこともあり、他の平家の公達への遠慮もあり、頼政は隠居した。
 ちなみに出家もしており、彼は三位入道とも言われる。



「何を黙しておる?」
 以仁王は容赦ない。というか、彼自身、余裕が無いのだ。出家しないで帝位に色目を使い、平家からの冷然たる対応を受けたがゆえに。
 このまま出家して平家のお情けに縋るか、あるいは貧窮のうちに帝位への野望と心中するか。
 以仁王は切羽詰まっているのだ。
「もっと言おうか」
 この上、まだ何かあるというのか。
 頼政としては、もはや聞かなかったことにしておきたいという想いしかないというのに。
 三位を得た。
 渡辺津は、なるほど衰退しよう。
 それでも、摂津源氏は長らえる。
 河内源氏の、頼朝や義経、あるいは木曽義仲らとはちがって、名実ともに軍事貴族として。
「摂津源氏など、滅ぼされるぞ」
 本当に以仁王は容赦ない。
 いかに清盛が国政を壟断ろうだんしようが、そこまでするか。
「福原に遷都することに奴は拘っている」
 もはや奴よばわりである。
 このことを清盛に知られたら、以仁王は到底助かるまい。
「その拘りのために、渡辺津を潰す、と言ったらどうなる」
 むろん、比喩ではなく、土を埋め立てて潰すという、現実のことを言っている。
「そんな」
「奴は音戸の瀬戸を開削したぞ。経が島を造ったぞ。同じことを、奴がしないと、何故言い切れる?」
 空想の飛躍だ。
 妄想のし過ぎだ。
 頼政が人を呼んで、とにかく以仁王を拘束、否、せめてお帰り願おうとした時。
「待て頼政」
 以仁王は袂から何かを取り出し――その何かを『ちゃりん』と落とした。
「これは……」
「知っておろう。唐土もろこし六朝りくちょうしん王衍おうえん阿堵物あとぶつと呼んだ代物よ」
 阿堵物とは、あんなもの、こんなもの、という意で、王衍が「あるもの」を軽蔑してそう呼んでいたのである。
 頼政は、落ちていた「それ」を拾った。
「銭……」
「そうよ、宋銭よ。これこそが奴の天朝転覆の狙いの証左よ」
 当時、宋銭は日宋貿易の品目で最も重要とされ、それは日本国内に貨幣経済という新たなうねりを起こし、治承三年には「銭の病」なるものが流行ったとされる。
 頼政は宋銭をめつすがめつ眺め、それでも、と言い募る。
「天朝転覆はさすがに言い過ぎでは。経国済民は移ろうもの……」
「頼政。天朝の估価こか、そのもといは何だ」
 估価とは、公定価格の意であり、皇朝十二銭以来貨幣の途絶えたこの国にとっての価格経済の基本、いわば代用貨幣とは何ぞやと以仁王は聞いている。
 随分と話が飛ぶ。頭の良い、位の高い人間の特徴のひとつだ。
 それでも頼政は、うやうやしく奉答した。
「……絹でございます」
「そうだ」
 以仁王は傲然と胸を張る。
「考えてもみろ。絹を基としてきた朝廷が、その絹が宋銭に取って代わられる――は由々しきことぞ」
 代用貨幣を絹とした朝廷、日本経済であるが、代用ではない、正に真の貨幣たる宋銭が出回ることにより、絹の価値は下がった。
 絹よりも、宋銭。
 そして、その宋銭を押さえているのは、平家。
「見よ。予の言うたとおりじゃ。平家はこの国を駄目にする。食い物にする。このままでは……このままでは……」
 そこで以仁王は絶句する。
 感極まったのか、この国の行く末に思いを致したのか。
「――宮さま」
「――すまぬ。だが予の憂国の志、これは分かってもらえたと思う。どうじゃ?」
「それは」
 志については理解できた。
 できたが、それと行動を共にするとは、別の話だ。
 頼政としては、慎ましく頭を下げるしかない。
「……だが、にわかに頼政が従うことをがえんじぬのは承知」
 さしもの以仁王としても、いきなりのおとないで、頼政がすぐに味方するとは思っていなかったらしい。
「頼政、これだけは覚えておいて欲しい。予がこの話をしたのは、頼政が最初。初めてじゃ。それだけ……それだけ、予がおぬしを重く見ている証として、捉えてくれぬか」
 鹿ケ谷で陰謀を見聞きした多田行綱は、こんな気分だったのだろうか。
 頼政は同族の多田源氏の行綱に――俊寛らの陰謀を清盛に密告した男に思いを馳せた。
 そんな心ここにあらずの頼政を前に、以仁王は何気なく口にした一言が。
「鵺退治の勇者のおぬしなら……同調してくれると」
 ぬえ
 鵺鳥、夜泣き鳥とも呼ばれる怪鳥、あるいは妖魔。
 かつて、二条帝という、高倉上皇や以仁王の兄たる帝の宸襟しんきんを騒がせた怪物。
 それが鵺で、頼政は源頼光の子孫として退治に臨み、そして鵺は降参して「木下」という名馬と化したと――巷間ではいわれている。
「……買いかぶりでございます、宮さま。では、お引き取りを」

 ……以仁王もこれ以上の面会をしていると、平家に怪しまれると判じたのか、無言で一礼して、去っていった。
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