黒き鏡の玉兎。

四谷軒

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03 黒き鏡の玉兎。

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 九月。
 江戸。
 中村座。
 江戸三座といわれる、幕府から許しを貰った歌舞伎の劇場三つのうちのひとつである。
 その中村座にて。

「サアサア寄ってらっしゃい見てらっしゃい。三代目・坂東三津五郎ばんどうみつごろうの『玉兎たまうさぎ』、見て損はさせません!」

 入っていくと、左から黒、白、柿色の定式幕が引かれ、舞台が見える。

「さて」

 酒井抱一さかいほういつは、招待された席に座った。

「黒き鏡の玉兎。どんなものか、見せてもらおうかね」



 舞台は――すすきのある、秋の武蔵野。
 空には月、舞台には臼。

「……おや、あの月」

 抱一が気づいた瞬間、月が降りて来て、その月が「ひらいた」。
 作り物の月なので、「開いて」当たり前なのだが、その月の中から――兎が、兎に扮した三津五郎が飛び出てくる。
 ふんどし襦袢じゅばん、そして鉢巻はちまきだけという大胆な格好の三津五郎。
 鉢巻はちまきの結び目の方、両端部分をまるで兎のように立てている。

「まずは兎か」

 きねを持った兎――三津五郎が団子をく。

〽つらねし秋の名にしおう三五夜中新月の 中に餅つく玉兎

「なかなか――さまになっている」

 さすがに名優・坂東三津五郎と感心する抱一だが、一方で「これからどうするのか」と固唾かたずを飲んだ。
 これからこの「玉兎」は、兎つながりで「カチカチ山」へと話が移っていく。
 その「兎」の格好のままで、三津五郎はどうするのか。

〽昔むかし やつがれが 手柄を夕べの添乳そえぢにも 婆食た爺やが そのかたき 討つや ぽんぽらぽんと腹鼓

 三津五郎はその格好のまま――兎の格好のまま、老婆ろうばを、そして老爺ろうやを演じ始めた。
 抱一はそれでいいのかと心配になったが、見ていると不思議なことに、兎だったはずの三津五郎がおうなに、おきなに見える。
 それは――褌と襦袢という、ほぼ裸同然の三津五郎が、体の線をそうなるようにして、顔もしかめて歩いたり、あるいは食べたりする真似をすると、三津五郎の姿に老女と老人が浮かんでくるのだ。

「ううむ……これが『黒き鏡』、か……」

〽今度は猪牙船ちょきぶね 合点だ こころえ狸に 土の船

 軽快な歌と共に、三津五郎がまた体をでっぷりとさせて、舟を漕ぐ真似をする。
 手にするは、かいではなく杵だが、もう見ている者には、それが櫂で、そして狸が泥船を漕いでいるようにしか見えない。

「黒き鏡……それは何も映らない。けれど」

 抱一は懐中から扇を取り出して開く。
 それは例の「月夜の武蔵野」で、新月の夜にもそれを開けば、月が見えた。

「人は――見たいものを見るものなのかもしれない。だから、黒き鏡に『何々が映っているよ』と言われれば、それを見るものなのかもしれない」

 新月であっても、月が見たい。
 なら、月があると言えば、人はそれを見る。
 兎の格好をした者であっても、爺や婆だ、狸だと言われれば、人はそれを見る。

「ただし――それ相応の演技が必要だ。見たいなんて思わせるだけの」

 それこそ――この場に無いものを描いて、有ると思わせる絵師のように。

「こいつぁ、一本取られたな」

 抱一は一瞬、悔しそうな顔をしたが、だがそれはやはり一瞬で――すぐに相好を崩した。
 それだけ素晴らしい演技を、三津五郎がしていたからである。



「結局、何だかんだ言って顔見世までっちまいました」

 十一月。
 三代目・坂東三津五郎は頭を掻いた。
 顔見世とは、役者の契約が一年間で切れるので、その役者が変わって新しい顔を見せる興行のことである。

「顔見世じゃなきゃ、春までれたって話じゃないか」

 酒井抱一は、大坂へ発つ三津五郎を見送りに来て、何とはなしに二人でそぞろ歩き、いつしか晩秋の武蔵野の中に歩を進めていた。

「イヤでもご隠居、この辺で結構」

「そうかい」

 では息災で、と抱一は言った。
 三津五郎はひとつ頭を下げ、そして歩き出した。
 暮れなずむ日の光。
 紅々あかあかとした武蔵野を去って行く三津五郎の背を見送り、抱一は――を描きたい、と思った。


【了】



(「ぐったりにゃんこのホームページ」様より)
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