上 下
28 / 46
第二部 関東争乱

25 曲がり角

しおりを挟む





 死者も我々がまったく忘れてしまうまで、本当に死んだのではない。

 ジョージ・エリオット





「……何やら、騒ぎを感じる」
 左馬助が襲撃されていたころ、夜の闇の中、風魔小太郎は、武蔵調つきのみや神社の北の方、玉蔵院という寺の境内にいた。
 風魔小太郎は何人かの手下を連れ、玉蔵院から北へと走った。

 ……何里か走ったあとに、その奇妙な光景が飛び込んできた。
「……妙だぞ。鞍を乗せた馬だけが、あんなところにいるぞ」
 草深い田舎道、その曲がり角で、一頭の馬が、寂しげに藪の中をのぞきこんでいた。
 風魔小太郎が馬に近づくと、馬はなぜか安心したように彼に顔をこすりつけた。
「なぜ、拙者に……この馬……もしや……」
 鞍をよく見ると、見覚えがある。
 自分が見覚えのある鞍、自分に近づいてくる馬。
 小太郎は、はっとして、馬がのぞいていた藪を見た。
「血……」
 草葉に、赤い血がべっとりとついている。
 風魔小太郎は慎重に藪の草草をどかし、その中へと踏み入る。
 そして見た。
 諏訪左馬助さまのすけの、無残な姿を。





 曲がり角





「……小太郎……どの……」
「左馬助さま!」
 風魔小太郎は一流の忍者である。
 だから、早く左馬助に近寄ろうとしたその瞬間も、その耳はしっかりと遠くの音をとらえていた。
 多数の軍勢の、馬蹄の響きを。
「お前たち!」
「はっ、お頭!」
「すぐに隠れろ、馬を早く藪の奥へ、くさむらの奥へ連れてゆけい!」
 風魔衆は即座に行動を開始した。
 馬を連れる者、藪を元通りに戻す者を無言で分担し、軍勢が近づいたころには、曲がり角は何事もなかったように、隠蔽されていた。

 軍勢――扇谷おうぎがやつ上杉朝定ともさだの率いる扇谷上杉軍は、先を急いでいた。気取られぬように、音をたてないようにしていたが、将である朝定は興奮を隠せず、馬廻りの曽我神四郎に「まだか、まだか」と急き立てていた。
「もう少々でござる。この先、玉蔵院という古寺と、その先に調つきのみやという社がござる」
「つきのみや」
 朝定は不思議な呪文を唱えるように、つぶやく。
 神四郎は、太田犬之助という草の者に命じた、とつづける。
「あの伊勢の鼠賊の使いを始末したあと、調べさせたのでござる」
「そうか」
 実はこの話をするのはもう二度目だったが、神四郎は朝定の心中を推し量って、特に指摘はしなかった。
 ようやく北条に一矢報いる時が来たと、はやる心を抑えきれないのも、無理はない。
 そしてそれは、神四郎もまた同じ思いだったため、彼もまた、馬を馳せ、先を急いだ。

「…………」
 扇谷上杉軍を藪の中からじっと見つめていた風魔小太郎は、手下の二曲輪ふたくるわ猪助いすけに目配せした。
 猪助は無言でうなずき、道なき道を駆けて行った。
 猪助は早駆けの名人である。風魔衆の中で、一番速い。
 敵襲を北条新九郎氏康に伝えるため、風魔小太郎は最速の手段を選んだのだ。
「……く……」
 風魔小太郎の腕の中、左馬助がうめいた。
「左馬助さま、いかがなされました?」
「小太郎……どの……早う……新九郎さ…ま…ところ……へ……」
「分かりました。しっかりつかまって……」
「ち……がう……おれは……もう……小太郎、どのが……行って……」
 風魔小太郎は天を仰いだ。左馬助に死相を見たからである。
「左馬助さま、新九郎さまへは猪助が行きました。風魔で一番、足が速い、猪助が」
「……よかっ……」
 がふ、と左馬助は血を吐く。風魔小太郎は血で装束が汚れるのもかまわず、左馬助を抱きしめた。
「左馬助さま! 何か他に、お伝えすることは! この風魔小太郎、必ずお伝えいたす!」
 左馬助は、笑った。

 良かった。
 最後の最後で、風魔小太郎に会えた。
 これは僥倖ぎょうこうだろう。
 そして、自身の死と引き換えとなったとはいえ、もうひとつ、僥倖がある。

 ……諏訪左馬助が最後に思うことは、今の北条家が取るべき道であった。

 和睦は成らなかった。
 扇谷上杉は夜襲を仕掛けてきた。
 この状況、氏康なら、どうするか。
 げる。
 まずそうするだろう。
 利のない戦いは、しないお方だ。
 そして、遁げたあとは……。

「新九郎、さま……」
「…………」
 風魔小太郎は無言で、耳を左馬助の口に近づけ、その最期のか細い声を聴く。
「新九郎、さま……どうか……夢、を……」
「……左馬助さま? 左馬助さま!」
 風魔小太郎はいた。
 またしても、上杉にやられた。
 どうして、やつらはこうも……。
 そのとき、なげく小太郎の背後、道の方から、野卑な声が聞こえてきた。

「だからよお、このへんだっての。あの伊勢の鼠賊の使いがぶっ飛んでたのはよお」
「ほんとかあ? ま、そうだったら、首、いただいて行こうぜ。神四郎さまは討たなかったんだろ?」
「おうよ、早く敵陣を調べて殿に……って必死だったからよ、あのじじい」
 ぎゃはは、という笑い声が響き、何人かの雑兵が、藪の中へ入って来た。
 この雑兵たちは、曽我神四郎の配下ではあるが、いくばくかの銭で雇われた者である。彼らは夜襲に付き合う振りをして、その実、拾い首をして、楽をして恩賞にありつこうという輩だった。
「お」
「何だ? 先客か?」
「どけよお前、その首は、おれらのだぞ?」
「そうだそうだ、おれらの矢でそいつ、ぶっ飛んでったんだからなぁ」
 雑兵たちは、血で汚れた格好の風魔小太郎を、自分たちと同じ考えの奴だと思ってしまった。思ってしまったゆえに、自分たちが左馬助を射たという失言をしてしまった。

「……消せ」
「あ?」
「何言ってんだ、こいつ」
「こやつらを一人残らず、消せ」
 風魔小太郎が静かに命を下すと、周囲の闇から、風魔衆の草の者たちが、ぬるりと姿を現した。
「お頭の命だ、悪く思うな」
「なっ、なっ」
 草の者のひとりが、雑兵のひとりの頭蓋をつかむと、ごきり、という音が鳴って、その雑兵は地に崩れ落ちた。
「え? なんだ……うっ」
「あ? これ……げえっ」
 異常に気づいた他の雑兵たちが、次から次へと倒れていく。
「お頭、終わりました」
「ご苦労」
 風魔小太郎は、何も言わなくなった左馬助をそっと横たえる。
「左馬助さま……お許し下さい、われらこれより、調つきのみやの北条本陣へ参りまする。しかし……必ず、あなたさまを小田原に連れて帰る」
 風魔小太郎は手下のひとりに金子きんすをいくばくか与え、左馬助の亡骸を玉蔵院へ預けるよう言い渡した。
「征くぞ、お前たち。これより本陣へ戻り、殿を守り参らせる」
「応」
 風魔小太郎は、拝借いたすと言って、左馬助の愛馬にひらりとまたがる。
「つづけ!」

 ……諏訪左馬助。
 記録上、河越を包囲する古河公方、関東管領への、北条家の和睦の使者であり、その交渉は不調に終わったとのみ、記されている。
 それ以降、左馬助に関する記録は無い。





曲がり角 了
しおりを挟む

処理中です...