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第二部 関東争乱

27 運命 下

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 北条と扇谷おうぎがやつ上杉の混戦のさ中、黒備え・多目元忠は徐々に、しかし確実に仲間を逃がしつつあった。黒備えが宵闇にまぎれて、兵を導き、敵軍を退け、ようやく気がついた二曲輪ふたくるわ猪助を馬に乗せた。
「元忠さま……」
「猪助、今は逃ぐるのだ。さ、行け」
「実は、左馬助さまのすけさまは……」
「え? あ、また敵襲ぞ。行け!」
「あ……」
 元忠は、猪助の乗った馬の尻を叩き、馬を走らせた。
 猪助の馬が、無事、府中の方向へ向かったことを確認した元忠に、黒備えの兵から報告が入った。
「何? 綱高が、扇谷上杉の馬廻り・曽我神四郎と?」

 何を考えている、綱高。
 今は生きて逃げることが先決だ。
 敵将とやり合ってる暇は無いのだ。

 元忠は、ひとつため息をつくと、兵に案内を求めた。
 本気になった綱高を止められるのは、今この場には自分しかいないからである。



 怒れる猛禽のごとく、赤い甲冑を振るわせて、綱高が吶喊とっかんする。
 対する神四郎もまた、刃を輝かせて、突きを繰り出す。
 綱高と神四郎の刀が激突し、鈍い音を響かせた。
「ぐっ……」
「く……」
 つばり合いの中。
 綱高の背後から元忠が現れ、手にした槍の柄を突き出した。
「がっ」
 神四郎はまたしても顔面に衝撃を受け、たまらず、たたらを踏んで、うしろへ下がった。
 唖然とする綱高を、元忠が張り倒す。
「馬鹿者! 逃げよという殿の命を忘れたか!」
「うっ……すまぬ」
 綱高は片手で顔をさすりながら立ち上がった。その顔はもう、いつもの綱高に戻っていた。
「正気に戻ったようだな、さ、逃ぐるぞ」
「応」
「逃がすか、馬鹿め」
 神四郎は今度こそ手下に命じて、綱高と元忠を囲もうとした。
「者ども、囲……めべっ」
 綱高が立ち上がる時につかんだ土が、神四郎の口中に飛び込んできた。
「よっしゃ、行くぞ元忠」
「心得た」
 神四郎が土を吐くのをしり目に、二人は回れ右をして駆け出した。周りの扇谷上杉兵は呆然として手を出せずにいる隙に、二人はあっという間に北条軍の最後尾に追いついた。
「……ぺっ、ぺっ、何をしている! 追え、追え!」
 神四郎の怒号と共に、扇谷上杉軍は、追撃戦を開始した。

 一方の扇谷上杉朝定は、北条軍を散々に追いやり、途中、曽我神四郎の乱闘を聞いて引き返したものの、そのころには神四郎は勢いを取り戻していたため、合流し、さらなる攻撃を北条軍に加えた。
「ふん、どこまでも逃げていきよるわ、鼠賊ども!」
 朝定は得意の絶頂だった。
 古河公方・足利晴氏に、この北条本陣の探索と襲撃を提案し、頼りにしていると言われたこと。
 うまく北条本陣を見つけ、襲撃、しかも夜襲によって、これまでの恥をそそげたこと。
 そして、南下して逃げていく北条軍を追う、つまり、扇谷上杉が南武蔵を取り戻していると関東諸侯、特に山内上杉に知らしめることができること。
 そして何より、この河越包囲から始まる一連の戦において、一番の大手柄は、この北条軍夜襲の立役者、扇谷上杉朝定であるということ。
「扇谷上杉の再興、もはや成ったわ。のう、神四郎」
「何の、これからこれから、まだ伊勢の鼠賊の首魁の首を取っておりませんぞ」
「おうおう、そうじゃった、そうじゃった」
 綱高や元忠を逃したものの、北条軍の潰走は止まらない。
 このままどこまでも南下し、相模まで至るかと思われた。



「お頭! もはや殿は逃げている最中のようです!」
「扇谷上杉も、殿を追うておる模様!」
「…………」
 風魔小太郎は、左馬助の愛馬を走らせて、ようやく調つきのみや神社にたどりついた。
 風魔小太郎は考える。
 すでに北条軍は逃げている。
 行き先は、打ち合わせのとおり、府中だろう。
 そうすると、今、問題は。
「扇谷上杉が調子に乗って、府中そこまで行かせないことだ」
 風魔小太郎は、風魔衆に命を下した。
「お前たち!」
「はっ!」
「急ぎ、扇谷上杉の兵に混じり、青備えが迫っていると、噂を流せ!」
 流言飛語。
 それは、素波すっぱ乱波らっぱとも呼ばれる草の者、忍びの者の真骨頂。
 今こそ、それによって、扇谷上杉を惑わせてやる。
 そして、それこそが……。
「道灌さまの『風の者』の……」
「お頭?」
「いや、何でもない。おれも行く!」
「はっ!」



 ……北条軍に食らいつくのに、もう何度目か忘れるくらいだった曽我神四郎は、部下からの青備え接近の恐れありとの進言が相次いだため、ついに兵の停止と撤収を朝定に進言した。
「……殿、将兵から、もはや退くべき、と」
「そうか? だが今少し……」
「いえ、たしかに将兵の言うとおり、さすがに江戸の青備えの手が届くところまで来るのはしゅうござる」
「そ、そうか」
 さしもの扇谷上杉朝定も、北条軍最速の青備えのことは知っている。
「夜討ちしたわれらが、夜討ちされたとあっては笑いもの。もうそろそろ……」
 興奮冷めやらぬ朝定であったが、反北条の急先鋒である神四郎にそう言われては、たしかにもう潮時だなと感じた。
「よかろう。では、帰りに、あの神社に寄って、奴らの旗指物でも、手土産に持っていこう。そして……」
「こたびの戦、勲功第一は扇谷上杉にあり、と知らしめるのですな」
「そうよ」
 朝定と神四郎は大笑いして、軍を止めて休憩を命じるのであった。



 白々と、東の空が白々としてきて、ようやく夜が明けたことが知れる。
 西の方、うねうねと波打つ山稜が、その線を濃くして、見る者にその優美な形を教える。
 今日も、武蔵野に朝がやって来たようだ。
 草花は萌え、木々は葉を輝かせ、うららかな春を感じさせる。

 ……何もなければそれは、幸せな武蔵野の春であった。

「……それで、もう、帰ってくる者はおらぬのか」
「もはや……」
 北条新九郎氏康は、一睡もせず、ずっと北の方を眺め、兵の帰還を見守っていた。
 かたわらに控えた、小姓の弁千代は、うなだれたまま、主君の問いに答えた。

 武蔵。
 府中。
 古代より、武蔵国の中心として位置づけられ、国府が置かれたここは、鎌倉街道の上道が通っている。

「そうか……」
 氏康は脱力したように、その場に腰を下ろした。すると、そのときを待ち受けたかのように、北条綱高と多目元忠が氏康のところへやって来た。
「……よう」
 綱高が、無精ひげを撫でながら、氏康の隣に座る。
「失礼つかまつる」
 元忠が、綱高を無礼者め、とにらみながら、氏康の前へ座る。
「大儀。皆は無事か?」
「おおよそは」
「士気は落ちてるけどな」
 元忠は、また綱高を睨んだが、何も言わなかった。事実だったからである。

 北条軍は、二曲輪ふたくるわ猪助の速報、氏康の早い判断、元忠の対応、綱高の奮闘、風魔小太郎の妨害活動により、大規模な被害は免れていた。しかし、「夜襲を受けて逃げた」という思いが、将兵を意気消沈とさせていた。
 ……そして、諏訪左馬助の死がそれをより強くしていた。

「……拙者、一生の不覚でござる」
 いつの間にか場にいた風魔小太郎が平伏していた。
「いや、風魔衆は良くやってくれた」
 氏康は風魔小太郎を慰撫する。そして決然として言った。
「諏訪左馬助については、おれに責がある。おれが殺したようなものだ」
「新九郎さま?」
 弁千代が顔を上げた。
「聞け、弁千代。あのとき、小田原で話しただろう、古河公方と和睦し、その後、扇谷上杉を討ち果たす、と」
「は、はい」
「あれは、古河公方とは和睦したが、扇谷上杉とはしていない、ということにして、騙し討ちにする、という魂胆だった」
「しかし、それは兵法では……」
「いいや、ちがう」
 氏康は首を振って、強く否定する。
「……兵法というなら、このたびの扇谷上杉の夜襲もそうなる。結局は、狐と狸の化かしあいに、おれは負けたのさ。で、その負けた賭け金の支払いとして、左馬助が……」
「おやめ下さい! 左様な言い様では、左馬助が……」
 弁千代がらしくもなく氏康に抗議する。

「おい新九郎」
 綱高が氏康の肩をつかんだ。
「ふざけるな」
 次の瞬間、綱高の拳が氏康の顔面に飛んだ。
「つ、綱高さま」
「弁千代、黙ってろ。元忠、止めるなよ」
「止めるつもりなら、最初から止めておる」
 元忠は腕を組んで、氏康をじっと見つめている。殴りはしなかったが、綱高と同じ気持ちらしい。
 弁千代は、はらはらしながら氏康と綱高を見ていた。
 風魔小太郎は黙然と平伏したままだ。
 氏康は殴られたまま、沈黙していたが、やがて口を開く。
「……すまない、綱高兄」
「分かればいいんだ。で、どうする?」
「……風魔小太郎、おもてを上げよ」
「は」
 氏康は今一度、左馬助の最期について、風魔小太郎に問いただした。
「つらいだろうが、確かめたい……左馬助は、『夢』を……と言うたのじゃな?」
「……左様にございます」

「夢、か……」
 氏康は知っている。
 この場にいる皆も知っている。
 北条家において、『夢』といえば、唯一つ。
 それは……初代、伊勢宗瑞(北条早雲)が見たという霊夢。
 鼠が、ふたつの巨木――杉をかじり倒し、虎と化すという夢。
 宗瑞が年生まれであることから、宗瑞――北条家が、扇谷上杉と山内上杉の両上『杉』家を、倒すという夢。
「重ねて問う……左馬助は、『夢』を……と言うたのじゃな?」
「は……ははっ」
 風魔小太郎が、彼らしくもなく動揺している。
 ……氏康はひどく、哀しげな顔をしていた。

 弁千代は、氏康が何故そのような顔をしているのか分からず、狼狽うろたえた。
「ど……どうなさいました、新九郎さま? 一体……」
「弁千代」
 その時の氏康の声は冷え冷えとして、場にいる誰もが凍りついた。のちに綱高は、あれは宗瑞じい様にそっくりだったと言われるほど、凄みがあった。
「弁千代、お前……」
「は、はい」
 そこまで言いかかって、氏康は急に我に返ったように、うなだれた。
「い、いや、すまぬ。何でもない、何でもないんだ」
「ちょっと待って下さい、新九郎さま。今、一体何を言いかけたんですか!」
 今度は逆に弁千代の方が凄んで、氏康に迫った。
「すまない、おれは左馬助を失ったばかりだというのに、なんということを……」
「おい待て新九郎、何か思いついたんだな? 言えよ」
 綱高も動揺のためか、口調が子供の頃に帰ったまま、氏康に詰め寄った。
 氏康は救いを求めるように、うなだれたまま元忠や風魔小太郎の方を見たが、両名とも、黙って首を振り、綱高と同じ気持ちであることを示した。

「……分かった」
 氏康は観念したように顔を上げた。
「左馬助の最期の言葉、『夢』は、皆も承知のとおり、じい様、つまり伊勢宗瑞が見たという霊夢だ。ここまではいいな?」
「はい」
 弁千代が一同を代表して返事をする。
 氏康はそれを聞いて、目を閉じてうなずく。
「……よし、それでは、なぜ左馬助がそう言ったのか。それは単なる願いではない。今こそその夢を果たす好機という判断を下し、それを進言しているのだ」
 元忠が質問する。
「……殿。なにゆえ、今こそ夢を――つまり両上杉を倒す好機なのですかな?」
「それは――」
 氏康はそこで薄目を開ける。
「それは、これまで、北条は和睦をと願い出ていた。これは弱腰と見られる。その上で、扇谷上杉はだまし討ちとはいえ、北条を襲撃し、追い払った。これは、北条はもう弱体化したと見られる。つまり、両上杉は、北条は大したことはないと油断する」
「たしかに……河越の包囲陣は勝ちを目前にして、ゆるみ切っていると聞きますが……」
 元忠が風魔小太郎を横目でちらと見る。
 風魔小太郎はかすかにうなずく。
「だから」
 氏康は弁千代を見すえる。
 弁千代は緊張して、氏康の次なる言葉を待った。
「だから、弁千代、死んでくれ」





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