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序章 安芸の三ツ星
00 プロローグ 安芸の宮島
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※作者より
拙作において、こじきという言葉が出てきます。もし、ご不快に思われたら、お詫びいたします。
そして思い切って西のそらのあの美しいオリオンの星の方に、まっすぐに飛びながら叫びました。
「お星さん。西の青じろいお星さん。どうか私をあなたのところへ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。」
宮沢賢治「よだかの星」
永正十四年(一五一七年)。
安芸国(広島県)
十月二十二日。
夏には旺盛な緑が勢力を振るっていたが、今となっては、枯れ草色の野が広がっており、その中を、川が横切っている。
又打川と呼ばれるその川を前に、毛利家の多治比元就の軍勢と、吉川家の宮庄経友の軍勢が、敵方――安芸武田家・武田元繁の襲撃を、今か今かと待ち受けていた。
「――多治比どの」
「――何か、宮庄どの」
「本当に……武田は此処に来るのか」
「来る」
というか、来ないともう、打つ手がない。
そこまで元就は言うつもりはなかった。なかったが、かなりの公算で、武田元繁はここに来ると踏んでいた。
安芸武田家の当主・元繁。
安芸の守護代の家柄であり、かつ、武田元繁は勇将である。
このあたりの地方が「中国」ということもあり、なぞらえて――「項羽」と呼ばれる。
その武田元繁が、国人の元就や経友の抵抗を知り、鎧袖一触、ひと息に蹴散らしてくれようと息巻いた。
武田元繁は、元就と経友の控えるこの又打川の向こう、有田城の攻囲の陣の内から主力を率い、土煙を上げて猛進していた。
「……兄上」
経友の隣、可憐な顔立ちをした姫武者――というか少女の武者が、遠目にて、その土煙を確認したことを告げた。
「忌々しいことですが、元就どのの予見どおりかと思われます」
「雪がそう申すのなら、おれもまた、多治比どのの予見を、そしてこれからの策を、この身で体現してやろうではないか」
雪と呼ばれた少女武者は、元就の方をちらと見た。
感謝しろ、と言いたげな視線に、元就は少し落ち着かぬ様子で目線を返した。
――臆病者。
雪の声にならぬ声と、舌打ちが聞こえた気がした。
元就としては、最善を尽くして、今この決戦に臨んでいるつもりなのだが、少女の視点からすると、それはまた自分から逃げている――そう思えてならない。
雪は振り返る。
この、有田中井手の戦い、あるいは有田合戦と、のちに称せられるこの戦いが、どのようにして始まったのかを――。
*
えーんえん。
えーんえん。
数年前。
早春。
神なる島――厳島にて。
その少女は泣いていた。
じじ様とはぐれた、と泣いていた。
砂浜をあてどなく歩く。
寄せては引いていく浪の音を聞き、そして、天を見ると、すでに日は没しつつあった。
暗くなると、なおさら、じじ様が見つけられなくなると、少女は焦る。
「じじ様、じじ様!」
他の参詣客たちは、面倒ごとに関わりたくないのか、少女に近寄ろうともしない。
もう足が動かない。
少女が、半ばあきらめの心地で、砂浜にへたり込む。
すでに空は夜空となり、三ツ星の輝きが見えた。
「……どうかしたのか?」
背後から声をかけられる。
その声を、少女はつい、じじ様のものかと聞き違えて、振り返る。
「酷い! じじ様、どこへ行ってたの!?」
「い、いや……私は、そなたのじじ様ではない」
おっかなびっくり、と言った感じで、後ろの声の主はこたえた。
声の主は、少女よりひとつかふたつ上で、侍の格好をした少年だった。
ふと――その紋所を見る。
「三ツ星の紋……」
「おや、知っているか」
一文字三星紋、というその紋所を、少女は知っていた。毛利という、安芸の国人のいわば盟主といえる存在の家の紋所だ。
「貴方は毛利の御方?」
「……まあ、そうだ」
元就、と名乗った少年は、少女に名を聞いた。
「名は、雪」
「空から降る雪の雪、かい?」
「そう」
それを聞いた元就は、雪の手を引いて、「こちらの雪どのをお探しの方はいませんか」と大声を上げて歩き出した。
あまりにも自然な動作だったので、雪は最初気づかなかったが、そういえば手をつないでいる、と、自覚した途端、赤面した。したが、親切でやってくれていることなので、指摘はしなかった。それに……毛利家にゆかりのある者であれば、家族……たとえば兄も納得しよう。
……浜を歩き回っても、誰も声掛けにこたえる者もおらず、途方に暮れた頃。
雪が元就の手を握る力をつい、強めた頃。
はるか前の方から、重々しく。
「……ここに、おったかや?」
よく見ると、浜の向こうに、長身魁偉たる体躯を持つ男――老人が、しずしずと歩いてくる。
老人の直垂が黒ということもあり、夜空に溶け込むような、そんな闇の眷属が歩いてくるようにも見えた。元就の目には。
「――じじ様!」
雪はそっと元就から手を離し、黒の老人のもとへと走る。
暗黒の空気をまとっていた老人ではあるが、雪がその胸に飛び込むと、にいと笑った。
「おお、おお、雪……すまなんだ。神主さまと、ちと話があってのう」
「ばか、ばか、じじ様のばか」
ぽかぽかと胸をたたいてくる夕に、老人はさらに相好を崩す。
……そしてこの時にはもう、元就は雪と老人の前まで歩み寄っていた。
「雪がご面倒をおかけ申した」
「いえ……」
そこでふと、元就は老人の直垂の紋を見た。平四ツ目結の紋を。
その瞬間、元就は後退り、距離を取った。
「尼子経久、どの……」
出雲の守護代の家・尼子家を、一挙に十一ヶ国を支配する戦国大名に成長させた、梟雄である。そして虎視眈々と、出雲にほど近い安芸へも、その手を伸ばしているという噂だ。
安芸の国人である毛利の、いち分家である多治比の元就としては、警戒せざるを得ない。
「……どうして離れるの?」
「…………」
頑是ない雪の問いかけに、元就は無言でこたえた。
経久は、からからと笑った。
「……若いの。わしが神主と会ったことは、別に話してもええ。この雪を助けてくれた礼じゃ、大内どのでも、お兄上にでも、誰にでも話すがええ」
「……それはどうも」
元就は一礼し、場を去ろうとした。
「……待って!」
その元就を、雪は呼び止める。
「どうして、そんなあっさりと行っちゃうの? せっかくだから、夕餉でも……」
「雪、やめよ」
経久は雪をおさえた。
「あちらの方はな、元服を神前に申すために来たのじゃ。夕餉はもう、母御前が用意しておろう、無粋じゃ」
そんなことまで良く知っている……さすがは、恐るべき雲州の狼。
元就は足早に、その場を去ろうとする。
「……待って!」
「……何か?」
それでも雪は、ひとこと、元就に聞きたいことがあった。
「あなたは、わたくしを助けて、後悔している?」
じじ様が他者から恐れられる存在であることは知っている。みんな、じじ様のことを知ると、避けるというか、隔意を抱いて、距離を置いた。
この、多治比元就もそうなのか。
そう思うと、雪はたまらなかった。
「――いや、特段には」
「ほんとう?」
「私はな、先刻の貴女のようにただひとり、そう、継母以外には誰にも相手にされず、歩き回る日々を過ごしていた。そういう人を見捨てるのは忍びなかった……では、御免」
元就は雪に一礼し、今度こそ駆けて行った。
安芸・毛利家の元就が、出雲・尼子家の当主と厳島で出会う――知る者が知ったら、毛利家が危うい。
そういう状況から、元就は離れたかった。
けして、少女のことを忌避しているわけではない。
元就は、少女からの問いかけにこたえる形ではあったが、それを告げることができて良かったと、胸をなでおろしながら、継母・杉大方の待つ、宿へと戻った。
……すでに夜空は、星々に飾られ、神の島・厳島は、昼とはまたちがった、神秘的な雰囲気を帯びていた。
あとに残された雪――安芸国人・吉川国経の娘は、じじ様、正確には父・国経の姉の夫――義理の伯父である尼子経久に聞いた。
「あの人は、そんな、誰にも相手にされなかったの?」
「そうだ」
「……どうして?」
「城をな、乗っ取られたのじゃ」
「え! でも……」
「そう……乗っ取った相手が死んだ。だから、だ……」
それまでは、こじき若殿と呼ばれていたのだ、と経久はつけ加えた。
「どうして、そんな……」
「それが乱世じゃ、わしもな、雪……だからわしは国盗りを……いや、そんなことはいいか」
行こう雪、と経久は雪の手を取った。
雪はその手を、なぜか元就と同じくらいの温かさだ、と感じた。
「……また、あの人に、会える?」
「会えるとも」
権謀術数に長けた男といわれる経久だったが、この時ばかりは、心の底から、この義理の姪の気持ちを後押ししたくなった。
――それだけ元就という男が、気になった。
拙作において、こじきという言葉が出てきます。もし、ご不快に思われたら、お詫びいたします。
そして思い切って西のそらのあの美しいオリオンの星の方に、まっすぐに飛びながら叫びました。
「お星さん。西の青じろいお星さん。どうか私をあなたのところへ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。」
宮沢賢治「よだかの星」
永正十四年(一五一七年)。
安芸国(広島県)
十月二十二日。
夏には旺盛な緑が勢力を振るっていたが、今となっては、枯れ草色の野が広がっており、その中を、川が横切っている。
又打川と呼ばれるその川を前に、毛利家の多治比元就の軍勢と、吉川家の宮庄経友の軍勢が、敵方――安芸武田家・武田元繁の襲撃を、今か今かと待ち受けていた。
「――多治比どの」
「――何か、宮庄どの」
「本当に……武田は此処に来るのか」
「来る」
というか、来ないともう、打つ手がない。
そこまで元就は言うつもりはなかった。なかったが、かなりの公算で、武田元繁はここに来ると踏んでいた。
安芸武田家の当主・元繁。
安芸の守護代の家柄であり、かつ、武田元繁は勇将である。
このあたりの地方が「中国」ということもあり、なぞらえて――「項羽」と呼ばれる。
その武田元繁が、国人の元就や経友の抵抗を知り、鎧袖一触、ひと息に蹴散らしてくれようと息巻いた。
武田元繁は、元就と経友の控えるこの又打川の向こう、有田城の攻囲の陣の内から主力を率い、土煙を上げて猛進していた。
「……兄上」
経友の隣、可憐な顔立ちをした姫武者――というか少女の武者が、遠目にて、その土煙を確認したことを告げた。
「忌々しいことですが、元就どのの予見どおりかと思われます」
「雪がそう申すのなら、おれもまた、多治比どのの予見を、そしてこれからの策を、この身で体現してやろうではないか」
雪と呼ばれた少女武者は、元就の方をちらと見た。
感謝しろ、と言いたげな視線に、元就は少し落ち着かぬ様子で目線を返した。
――臆病者。
雪の声にならぬ声と、舌打ちが聞こえた気がした。
元就としては、最善を尽くして、今この決戦に臨んでいるつもりなのだが、少女の視点からすると、それはまた自分から逃げている――そう思えてならない。
雪は振り返る。
この、有田中井手の戦い、あるいは有田合戦と、のちに称せられるこの戦いが、どのようにして始まったのかを――。
*
えーんえん。
えーんえん。
数年前。
早春。
神なる島――厳島にて。
その少女は泣いていた。
じじ様とはぐれた、と泣いていた。
砂浜をあてどなく歩く。
寄せては引いていく浪の音を聞き、そして、天を見ると、すでに日は没しつつあった。
暗くなると、なおさら、じじ様が見つけられなくなると、少女は焦る。
「じじ様、じじ様!」
他の参詣客たちは、面倒ごとに関わりたくないのか、少女に近寄ろうともしない。
もう足が動かない。
少女が、半ばあきらめの心地で、砂浜にへたり込む。
すでに空は夜空となり、三ツ星の輝きが見えた。
「……どうかしたのか?」
背後から声をかけられる。
その声を、少女はつい、じじ様のものかと聞き違えて、振り返る。
「酷い! じじ様、どこへ行ってたの!?」
「い、いや……私は、そなたのじじ様ではない」
おっかなびっくり、と言った感じで、後ろの声の主はこたえた。
声の主は、少女よりひとつかふたつ上で、侍の格好をした少年だった。
ふと――その紋所を見る。
「三ツ星の紋……」
「おや、知っているか」
一文字三星紋、というその紋所を、少女は知っていた。毛利という、安芸の国人のいわば盟主といえる存在の家の紋所だ。
「貴方は毛利の御方?」
「……まあ、そうだ」
元就、と名乗った少年は、少女に名を聞いた。
「名は、雪」
「空から降る雪の雪、かい?」
「そう」
それを聞いた元就は、雪の手を引いて、「こちらの雪どのをお探しの方はいませんか」と大声を上げて歩き出した。
あまりにも自然な動作だったので、雪は最初気づかなかったが、そういえば手をつないでいる、と、自覚した途端、赤面した。したが、親切でやってくれていることなので、指摘はしなかった。それに……毛利家にゆかりのある者であれば、家族……たとえば兄も納得しよう。
……浜を歩き回っても、誰も声掛けにこたえる者もおらず、途方に暮れた頃。
雪が元就の手を握る力をつい、強めた頃。
はるか前の方から、重々しく。
「……ここに、おったかや?」
よく見ると、浜の向こうに、長身魁偉たる体躯を持つ男――老人が、しずしずと歩いてくる。
老人の直垂が黒ということもあり、夜空に溶け込むような、そんな闇の眷属が歩いてくるようにも見えた。元就の目には。
「――じじ様!」
雪はそっと元就から手を離し、黒の老人のもとへと走る。
暗黒の空気をまとっていた老人ではあるが、雪がその胸に飛び込むと、にいと笑った。
「おお、おお、雪……すまなんだ。神主さまと、ちと話があってのう」
「ばか、ばか、じじ様のばか」
ぽかぽかと胸をたたいてくる夕に、老人はさらに相好を崩す。
……そしてこの時にはもう、元就は雪と老人の前まで歩み寄っていた。
「雪がご面倒をおかけ申した」
「いえ……」
そこでふと、元就は老人の直垂の紋を見た。平四ツ目結の紋を。
その瞬間、元就は後退り、距離を取った。
「尼子経久、どの……」
出雲の守護代の家・尼子家を、一挙に十一ヶ国を支配する戦国大名に成長させた、梟雄である。そして虎視眈々と、出雲にほど近い安芸へも、その手を伸ばしているという噂だ。
安芸の国人である毛利の、いち分家である多治比の元就としては、警戒せざるを得ない。
「……どうして離れるの?」
「…………」
頑是ない雪の問いかけに、元就は無言でこたえた。
経久は、からからと笑った。
「……若いの。わしが神主と会ったことは、別に話してもええ。この雪を助けてくれた礼じゃ、大内どのでも、お兄上にでも、誰にでも話すがええ」
「……それはどうも」
元就は一礼し、場を去ろうとした。
「……待って!」
その元就を、雪は呼び止める。
「どうして、そんなあっさりと行っちゃうの? せっかくだから、夕餉でも……」
「雪、やめよ」
経久は雪をおさえた。
「あちらの方はな、元服を神前に申すために来たのじゃ。夕餉はもう、母御前が用意しておろう、無粋じゃ」
そんなことまで良く知っている……さすがは、恐るべき雲州の狼。
元就は足早に、その場を去ろうとする。
「……待って!」
「……何か?」
それでも雪は、ひとこと、元就に聞きたいことがあった。
「あなたは、わたくしを助けて、後悔している?」
じじ様が他者から恐れられる存在であることは知っている。みんな、じじ様のことを知ると、避けるというか、隔意を抱いて、距離を置いた。
この、多治比元就もそうなのか。
そう思うと、雪はたまらなかった。
「――いや、特段には」
「ほんとう?」
「私はな、先刻の貴女のようにただひとり、そう、継母以外には誰にも相手にされず、歩き回る日々を過ごしていた。そういう人を見捨てるのは忍びなかった……では、御免」
元就は雪に一礼し、今度こそ駆けて行った。
安芸・毛利家の元就が、出雲・尼子家の当主と厳島で出会う――知る者が知ったら、毛利家が危うい。
そういう状況から、元就は離れたかった。
けして、少女のことを忌避しているわけではない。
元就は、少女からの問いかけにこたえる形ではあったが、それを告げることができて良かったと、胸をなでおろしながら、継母・杉大方の待つ、宿へと戻った。
……すでに夜空は、星々に飾られ、神の島・厳島は、昼とはまたちがった、神秘的な雰囲気を帯びていた。
あとに残された雪――安芸国人・吉川国経の娘は、じじ様、正確には父・国経の姉の夫――義理の伯父である尼子経久に聞いた。
「あの人は、そんな、誰にも相手にされなかったの?」
「そうだ」
「……どうして?」
「城をな、乗っ取られたのじゃ」
「え! でも……」
「そう……乗っ取った相手が死んだ。だから、だ……」
それまでは、こじき若殿と呼ばれていたのだ、と経久はつけ加えた。
「どうして、そんな……」
「それが乱世じゃ、わしもな、雪……だからわしは国盗りを……いや、そんなことはいいか」
行こう雪、と経久は雪の手を取った。
雪はその手を、なぜか元就と同じくらいの温かさだ、と感じた。
「……また、あの人に、会える?」
「会えるとも」
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――それだけ元就という男が、気になった。
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