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第四章 西の桶狭間 ー有田中井手の戦いー
46 乱戦
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「長井どの、香川行景を撤退に追い込んだようです」
「うむ」
多治比元就の采配の実務面を支える志道広良は、長井新九郎の「奇策」の成功を見て、胸をなでおろした。
実はこの奇策、元就自身が多治比軍を率いて敢行しようとして、慌てて止めた広良である。その時、長井新九郎の「任せろ」の一言が無ければ、本当に元就がやりかねない勢いだったので、冷や汗が出た。
「これで第一陣・己斐宗瑞、第二陣・香川行景と退けることができたが……」
広良は元就の横から、己斐軍に引きつづいて香川軍が川を越えて撤退していく光景を見た。
元就が振り返る。
「敵の撤退に合わせ、わが軍に休息を」
「はっ」
これが、長井新九郎が深追いをしなかった理由のもうひとつである。
さすがに有力な味方の国人の部隊が二つも撤退するのなら、安芸武田家としても、攻撃の手を緩めて、そちらにかかりきりになる。そのわずかな隙を、毛利・吉川連合軍は休息と、所定の配置につく時間に充てた。
「……いよいよ、次は第三陣。粟屋繁宗あたりですかな」
「……いや」
元就は兜の眉庇に片手の平を置いて、対岸の安芸武田軍を見た。
「おそらく、次は己斐と香川の両軍の結果を踏まえてくる。その第三陣の粟屋繁宗と、第四陣の山県重秋の軍が、両方動いているのが見える……これは」
広良もまた、対岸に目を向ける。
たしかに、二つの群れが動いている姿が見える。
しかし。
「あの岸は、渡れるのはせいぜい、安芸武田軍でいう、陣ひとつ分のみ。ふたつ動かしたところで……」
「広良!」
元就が鋭く叫ぶと、広良はすぐに察して伝令の兵を呼んだ。
「吉川家、宮庄経友どのの陣、雪どのに伝令。矢戦の用意!」
一方的に射られるだけの突撃はやめて、矢戦にて吉川家三〇〇騎を沈黙させ、その上で渡河をねらう。
それが武田元繁の次なる作戦。
「矢戦と同時に渡河も有り得る。元綱にも伝令! 矢戦をしかけよと!」
前述のとおり、又打川はそんなに川幅のある川ではない。対岸への矢戦は、充分に可能だ。
つまり、安芸武田家の第三陣と第四陣、いずれかが矢戦をしかけ、いずれかが渡河する……それは、充分に可能である。
元就としては、そうなる前に相合元綱に矢戦を命じ、安芸武田家の第三陣と第四陣双方への足止めを画策したのだ。
*
「多治比どのより伝令! 吉川三百騎、これより、敵・第三陣、粟屋繁宗に矢戦をしかける!」
「兄上より命があった! これより、わが毛利勢は、敵・第四陣、山県重秋へ矢衾を食らわせる!」
吉川と毛利が、粟屋と山県の軍へ矢の雨を降らせる。
粟屋軍と山県軍は、退くことは無かったが、それでも渡河へ移ることはしなかった。
粟屋、山県双方からの伝令から戦況を聞き、武田元繁は自軍に帰る伝令にある指令を与えた。
「多治比元就、なるほどこうして我が安芸武田軍の攻めを迎え撃って……何を狙う?」
元繁は近侍に同じ質問を問う。近侍は分からぬと答える。
「分からぬか? ふん、いかにも小策士の考えそうなことよ……だがそのために第四陣は山県重秋とした」
下策には下策で充分、と元繁は鼻で笑った。
「……よし、これより、この元繁の率いる第五陣、出る! そのまま渡河する! 第三陣、第四陣も、つづいて渡河するぞ!」
この時点で後詰の役割でもあった武田元繁自ら率いる第五陣。だが、皮肉なことに、第一陣・己斐宗瑞と第二陣・香川行景が敗退したため、後詰めの役割を第五陣と入れ替えることが可能となった。
「そのうち、有田城の輩を負かした、伴繁清あるいは品川信定が来る。それまで休むがいい!」
元繁は苛烈ではあるが、まったくの無情ではないし、将兵の士気というものを心得ている。己斐宗瑞と香川行景はありがたく後詰めへと下がり、そして武田元繁とその軍が出撃していくのを見送った。
これで、戦が終わる。
……誰もが、そう思った。
*
安芸武田家の第三陣と第四陣の間を、第五陣・武田元繁自身の軍が進んでいく。
川向こうを注視していた志道広良は、ついに、来るべき時が来た、と多治比元就の方を振り返った。
「た、武田元繁、出ます!」
「……見えている」
元就としては、実は望むところであった。
有田城の小田信忠が出撃したのは聞いている。信忠は善戦はしようが、そう長くは保つまい。
結果、有田城に当たっていた伴重清と品川信定の七〇〇騎が、この又打川の川原に増援として駆けつけることになろう。
「できれば、そうなる前に決着をつけたい」
兵力差がそこまで広がると、これから成し得ようとすることに支障が生じる。
「……よし、私も出よう!」
「元就さま……」
「広良は、この場にて全体の采配を頼む……特に、退き際を誤らないように」
武田元繁との乱戦の最中において、その元繁を討ち取る。
それが元就の策である。
だが、当然ながら危険を伴うし、そもそも成功率がそれほど高いわけでもない。そのため、敗色が濃厚となった場合――志道広良は、全軍に対して撤収を命ずることを、あらかじめ託されていた。
「退いたのちは、幸松丸に安芸武田家への降伏を勧めよ。また、吉川は、元経どのが動くだろうが、やはり降伏するように――と」
毛利幸松丸は二歳であるし、この合戦に対して責任を負わない。加えて、吉田郡山城には、外祖父である高橋久光が居座っている。降伏を申し出れば、武田元繁とて、おろそかにはすまい。
吉川家も、元経は少なくとも表面上は動いていないし、政治外交においては長けている男だ。うまく立ち回るであろう。
「長井新九郎どのは美濃へ逃げるようにせよ。そして雪どのは――」
そこで元就は、一瞬ではあるが、吉川家三〇〇騎の方からの、強い視線を感じた。だが、それを振り切るように言う。
「雪どのは、出雲・尼子家へ落ち延びさせよ。このこと、しかと頼んだぞ、広良」
「――ははっ。しかし、元就さまは、いかがなさるおつもりで?」
「……私か?」
元就は少し驚いたような顔をした。だが、さも当然と言うような表情をして答えた。
「私のことは、気遣い無用」
では、と言って、元就は馬を走らせ、多治比軍との合流に向かった。
志道広良は、その元就の背に向かって合掌した。
広良には分かったのだ。
元就は、この戦に負けたら、死ぬつもりなのだ――と。
「うむ」
多治比元就の采配の実務面を支える志道広良は、長井新九郎の「奇策」の成功を見て、胸をなでおろした。
実はこの奇策、元就自身が多治比軍を率いて敢行しようとして、慌てて止めた広良である。その時、長井新九郎の「任せろ」の一言が無ければ、本当に元就がやりかねない勢いだったので、冷や汗が出た。
「これで第一陣・己斐宗瑞、第二陣・香川行景と退けることができたが……」
広良は元就の横から、己斐軍に引きつづいて香川軍が川を越えて撤退していく光景を見た。
元就が振り返る。
「敵の撤退に合わせ、わが軍に休息を」
「はっ」
これが、長井新九郎が深追いをしなかった理由のもうひとつである。
さすがに有力な味方の国人の部隊が二つも撤退するのなら、安芸武田家としても、攻撃の手を緩めて、そちらにかかりきりになる。そのわずかな隙を、毛利・吉川連合軍は休息と、所定の配置につく時間に充てた。
「……いよいよ、次は第三陣。粟屋繁宗あたりですかな」
「……いや」
元就は兜の眉庇に片手の平を置いて、対岸の安芸武田軍を見た。
「おそらく、次は己斐と香川の両軍の結果を踏まえてくる。その第三陣の粟屋繁宗と、第四陣の山県重秋の軍が、両方動いているのが見える……これは」
広良もまた、対岸に目を向ける。
たしかに、二つの群れが動いている姿が見える。
しかし。
「あの岸は、渡れるのはせいぜい、安芸武田軍でいう、陣ひとつ分のみ。ふたつ動かしたところで……」
「広良!」
元就が鋭く叫ぶと、広良はすぐに察して伝令の兵を呼んだ。
「吉川家、宮庄経友どのの陣、雪どのに伝令。矢戦の用意!」
一方的に射られるだけの突撃はやめて、矢戦にて吉川家三〇〇騎を沈黙させ、その上で渡河をねらう。
それが武田元繁の次なる作戦。
「矢戦と同時に渡河も有り得る。元綱にも伝令! 矢戦をしかけよと!」
前述のとおり、又打川はそんなに川幅のある川ではない。対岸への矢戦は、充分に可能だ。
つまり、安芸武田家の第三陣と第四陣、いずれかが矢戦をしかけ、いずれかが渡河する……それは、充分に可能である。
元就としては、そうなる前に相合元綱に矢戦を命じ、安芸武田家の第三陣と第四陣双方への足止めを画策したのだ。
*
「多治比どのより伝令! 吉川三百騎、これより、敵・第三陣、粟屋繁宗に矢戦をしかける!」
「兄上より命があった! これより、わが毛利勢は、敵・第四陣、山県重秋へ矢衾を食らわせる!」
吉川と毛利が、粟屋と山県の軍へ矢の雨を降らせる。
粟屋軍と山県軍は、退くことは無かったが、それでも渡河へ移ることはしなかった。
粟屋、山県双方からの伝令から戦況を聞き、武田元繁は自軍に帰る伝令にある指令を与えた。
「多治比元就、なるほどこうして我が安芸武田軍の攻めを迎え撃って……何を狙う?」
元繁は近侍に同じ質問を問う。近侍は分からぬと答える。
「分からぬか? ふん、いかにも小策士の考えそうなことよ……だがそのために第四陣は山県重秋とした」
下策には下策で充分、と元繁は鼻で笑った。
「……よし、これより、この元繁の率いる第五陣、出る! そのまま渡河する! 第三陣、第四陣も、つづいて渡河するぞ!」
この時点で後詰の役割でもあった武田元繁自ら率いる第五陣。だが、皮肉なことに、第一陣・己斐宗瑞と第二陣・香川行景が敗退したため、後詰めの役割を第五陣と入れ替えることが可能となった。
「そのうち、有田城の輩を負かした、伴繁清あるいは品川信定が来る。それまで休むがいい!」
元繁は苛烈ではあるが、まったくの無情ではないし、将兵の士気というものを心得ている。己斐宗瑞と香川行景はありがたく後詰めへと下がり、そして武田元繁とその軍が出撃していくのを見送った。
これで、戦が終わる。
……誰もが、そう思った。
*
安芸武田家の第三陣と第四陣の間を、第五陣・武田元繁自身の軍が進んでいく。
川向こうを注視していた志道広良は、ついに、来るべき時が来た、と多治比元就の方を振り返った。
「た、武田元繁、出ます!」
「……見えている」
元就としては、実は望むところであった。
有田城の小田信忠が出撃したのは聞いている。信忠は善戦はしようが、そう長くは保つまい。
結果、有田城に当たっていた伴重清と品川信定の七〇〇騎が、この又打川の川原に増援として駆けつけることになろう。
「できれば、そうなる前に決着をつけたい」
兵力差がそこまで広がると、これから成し得ようとすることに支障が生じる。
「……よし、私も出よう!」
「元就さま……」
「広良は、この場にて全体の采配を頼む……特に、退き際を誤らないように」
武田元繁との乱戦の最中において、その元繁を討ち取る。
それが元就の策である。
だが、当然ながら危険を伴うし、そもそも成功率がそれほど高いわけでもない。そのため、敗色が濃厚となった場合――志道広良は、全軍に対して撤収を命ずることを、あらかじめ託されていた。
「退いたのちは、幸松丸に安芸武田家への降伏を勧めよ。また、吉川は、元経どのが動くだろうが、やはり降伏するように――と」
毛利幸松丸は二歳であるし、この合戦に対して責任を負わない。加えて、吉田郡山城には、外祖父である高橋久光が居座っている。降伏を申し出れば、武田元繁とて、おろそかにはすまい。
吉川家も、元経は少なくとも表面上は動いていないし、政治外交においては長けている男だ。うまく立ち回るであろう。
「長井新九郎どのは美濃へ逃げるようにせよ。そして雪どのは――」
そこで元就は、一瞬ではあるが、吉川家三〇〇騎の方からの、強い視線を感じた。だが、それを振り切るように言う。
「雪どのは、出雲・尼子家へ落ち延びさせよ。このこと、しかと頼んだぞ、広良」
「――ははっ。しかし、元就さまは、いかがなさるおつもりで?」
「……私か?」
元就は少し驚いたような顔をした。だが、さも当然と言うような表情をして答えた。
「私のことは、気遣い無用」
では、と言って、元就は馬を走らせ、多治比軍との合流に向かった。
志道広良は、その元就の背に向かって合掌した。
広良には分かったのだ。
元就は、この戦に負けたら、死ぬつもりなのだ――と。
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