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01 「はせを」と「なな」
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天和二年(一六八三年)十二月二十八日。
江戸。
この殷賑を極める町が、炎に包まれた。
後に天和の大火とよばれるそれは、駒込の大円寺から火が出て、翌朝の五時まで燃えつづけた。
死者数、およそ三千五百人。
江戸に住む多くの人々が焼け出され、たとえば松尾芭蕉などは芭蕉庵を焼失してしまい、また、多くの人々は、檀家である檀那寺に避難することになったという。
そして数か月。
江戸市中も復興が進み、人影がまばらに見え出した頃。
江戸、深川。
ひとりの少女が小脇に青物の笊を抱えながら、小走りに走っていた。
「いないかなぁ、はせをの小父さん」
少女が深川の町を駆けて行くと、庭に琉球の樹木を植えた家の前に出た。
「はせをの小父さん」
少女が大きな声で呼び出すと、「はい」という返事が響き、戸が開いた。
「ああ、はせをの小父さん」
「どうしたい、ななさん」
開いた戸から出た男は――五分刈りの中年だ。
その中年――はせをは片手を袂に入れながら、もう一方の手で戸を押さえ、ななに聞いた。
「何だってんだい、ななさん、そんな息せき切って」
「これが落ち着いてられるかい、はせをの小父さん」
ななは抱えていた笊をどさりと置くと、腰に手を当てて、憤った。
「何だってんだい、あの吉祥寺の学寮って奴ぁ? 何だって妾が人に会いに来たってのを拒むんだい?」
ななの言う吉祥寺とは、今日の吉祥寺駅周辺のことを言っているわけではなく、駒込にある寺院のことである。
ななは、先の天和の大火の際、正仙院という寺に避難した。その正仙院に、他の寺院から避難民を世話する手伝いが派遣されてきて、その手伝いの中に、吉祥寺の学寮で学んでいる者も混じっていた。
その者――山田庄之介は、吉祥寺の学寮でただ学んでいるだけではない。下級の武士に生まれた彼は、学によって身を立てようと考えている。
そのため、庄之介はその学寮――栴檀林から出ることはないであろう。正仙院に手伝いに来たのも、火災という非常時のため、栴檀林を管理する吉祥寺からそう言われたからである。むろん、庄之介自身の慈善の意志によるものではあるが。
「でも、だからって、こっちがあの時はお世話になりましたっていう、お礼を言うのまで拒む。お寺に入るのまで断る。こいつぁどういう料簡なんでい、はせをの小父さん」
「それ、私に言う? 私は関係ないでしょ?」
はせをは、ななの一家が正仙院に避難する際に、その家財道具を運ぶのを手伝った。
はせをはこの歳になっても独り身で、例の天和の大火で、身一つで火から逃げていたところを、大八車に四苦八苦しているななの父親を見かけ、一緒に押してあげて以来の付き合いである。
はせをは不思議な男で、何で生計を立てていたか今一つ判然としないが、また江戸の町に戻った時に、なながお礼として持っていった青物の料理の手際から、包丁人ではないかと思われている。
「まあとりあえず、その青物、頂戴よ。ささっと料理するから、それ食べて考えよう」
はせをはそう言って、「ほれほれ」とななの手から青物を――菜を受け取り、竈に火をつけて湯を沸かし、その中に放り込む。
ぐつぐつと菜を煮る間に、ななは語り出す。
別に惚れているわけではないが、庄之介のきびきびとした態度、瑞々しさに感銘を受けたこと。
避難生活に忙しく、「ああ」とか「うう」しか言えず、まともな会話をしないまま、今に至ったこと。
そういえば礼を言ってないなと気づき、今、青物を抱えて栴檀林へ行ってみたこと。
「……何だい、ななさん。それじゃこの菜っ葉は、件の庄之介さんへの贈り物だったのかい?」
「…………」
別に返事を期待していないはせをは、煮えた菜を菜箸で取り出して、まな板の上に置く。
とんとんとんと包丁で、叩くように切っていく。
そしてどこからか手に入れたのか、土佐節(鰹節のこと)をぱらぱらぱらとかけて、これもまたどこから手に入れたのか、醤油をちょいと垂らす。
「はい」
「……ありがと」
ななが箸を取って食べると、醤油のしょっぱさと鰹節のしょっぱさが相まって、そしてそれが濃厚な青菜の上に乗っかって、得も言われぬ味を醸し出す。
「……おいしい」
「そりゃ良かった」
はせをもまた箸を取って、お浸しを食べ、うんうんとうなずいてから、ななに言った。
「私も詳しくは知らないが、栴檀林ってとこは、唐土から来た陳道栄って偉い人が、その学びの奥深さに感動して、その名――栴檀林ってつけた学寮じゃないか」
いわゆるカレッジという立ち位置の栴檀林は、昌平黌とならぶ、江戸の学問の中心地である。
徳川幕府が始まり、天下泰平の世となって以来、武士の立身出世は学問にあるとされ、そこに庄之介は目を付けたのであろう。
「……だから寒門、いわゆる下の方の武士には、敷居が高い学寮で、察するに庄之介さんは、誰かお金持ちか、あるいは権門の家の方に援助を受けて、栴檀林に居るんじゃあないか」
ゆえに、庄之介は、一寸たりとも時間を無駄にできない。援助を受けた以上、邁進するのが理である、と。
それを察した栴檀林――吉祥寺も門扉を閉ざし、滅多に庄之介への来客を受け付けないようにしているでは。
「ふうん」
ななは人差し指をあごにあてて言った。
「じゃあ、やっぱり、庄之介さんって、真面目なんだぁ……」
あ、これはいかん。
はせをはそう思った。
はせをも中年の男である。それなりに色恋沙汰は経験している。
だから、今さら誰ぞを女房にと思う年頃でもないが、そんなはせをにも、ななが今、どんなことを考えているのか――それはわかる。
「だからななさん、庄之介さんに会いたいって気持ちはわかる。よくわかる。けれど栴檀林に入ってるんじゃあ、駄目だ。栴檀林は江戸、否、この国最高の学寮。いきなり町娘が学び舎の中の人に会わせろなんて、それは筋が通さないって言われちまうよ」
「筋が通らないって、いくらはせをの小父さんでも、言い過ぎ」
「言い過ぎじゃない。庄之介さんの家族でもない、縁もゆかりもない女の人が栴檀林に、しかも寺に来てみろ。どう考えてもお帰り下さいと言われるのは、それが筋じゃあないか」
寺というのは女人禁制。
それはななにもよくわかっている。
よくわかっているが、会いたいものはしょうがない。
そう、たとえばこの気持ち――きみと息をしたくなる――なんてのは気取っているだろうか。
「いっそのこと、もっぺん火事起こってくんないかな。そしたら、も一度」
「滅多なことをいうもんじゃないよ、ななさん」
剣呑剣呑とつぶやきながら、はせをは何か手立てがないものかと思案する。
こういった場合、まずは会う、あるいは会うのに準ずる手段を採るのが常道だ。
準ずる手段、それは。
「文でも書いてみたらどうだい、ななさん」
「文」
文かあ、というななのため息。
ななはあまり手習いが好きじゃない。
それよりかは街頭で青物を売って、その銭の勘定をする方が性に合っている。
両親も数える方が商いにはいいと、ななが手習いをあまりしなくても文句を言わなかった。
でも、今思えば、こんなことになるのなら、もっと手習いに打ち込んでいれば良かった。
けれど。
「うーん……でも、こういう場合の文って、何か恋の歌とかを交わすアレでしょ? 妾にはちょっと……」
「そうかまえないかまえない」
はせをは俳諧って知ってるかいとななに言う。
「五・七・五の文字があればいい。むろん、五・七・五でなくとも、同じくらいの数の文字があればいい」
「そんな短い言葉で、妾の気持ちが乗せられるのかなぁ……」
「まアとにかく考えてみなよ。俳諧で無くっても、何かお礼の言葉とかそういうのあるでしょ? それ書いてみて」
それができたら、はせをは栴檀林に届けに行ってあげると受け合った。
「ホント?」
「ああ本当だとも。いつも青物貰ってるお礼さ。私なら男だし、これでも出家しているから、お寺さんをお参りしたいっていったら、帰れとか言えないだろう?」
小躍りしたななは、あとで持って来ると、駆け出して行った。
「やれやれ……」
はせをはひとつ伸びをして、まな板や包丁を洗いに行くことにした。
江戸。
この殷賑を極める町が、炎に包まれた。
後に天和の大火とよばれるそれは、駒込の大円寺から火が出て、翌朝の五時まで燃えつづけた。
死者数、およそ三千五百人。
江戸に住む多くの人々が焼け出され、たとえば松尾芭蕉などは芭蕉庵を焼失してしまい、また、多くの人々は、檀家である檀那寺に避難することになったという。
そして数か月。
江戸市中も復興が進み、人影がまばらに見え出した頃。
江戸、深川。
ひとりの少女が小脇に青物の笊を抱えながら、小走りに走っていた。
「いないかなぁ、はせをの小父さん」
少女が深川の町を駆けて行くと、庭に琉球の樹木を植えた家の前に出た。
「はせをの小父さん」
少女が大きな声で呼び出すと、「はい」という返事が響き、戸が開いた。
「ああ、はせをの小父さん」
「どうしたい、ななさん」
開いた戸から出た男は――五分刈りの中年だ。
その中年――はせをは片手を袂に入れながら、もう一方の手で戸を押さえ、ななに聞いた。
「何だってんだい、ななさん、そんな息せき切って」
「これが落ち着いてられるかい、はせをの小父さん」
ななは抱えていた笊をどさりと置くと、腰に手を当てて、憤った。
「何だってんだい、あの吉祥寺の学寮って奴ぁ? 何だって妾が人に会いに来たってのを拒むんだい?」
ななの言う吉祥寺とは、今日の吉祥寺駅周辺のことを言っているわけではなく、駒込にある寺院のことである。
ななは、先の天和の大火の際、正仙院という寺に避難した。その正仙院に、他の寺院から避難民を世話する手伝いが派遣されてきて、その手伝いの中に、吉祥寺の学寮で学んでいる者も混じっていた。
その者――山田庄之介は、吉祥寺の学寮でただ学んでいるだけではない。下級の武士に生まれた彼は、学によって身を立てようと考えている。
そのため、庄之介はその学寮――栴檀林から出ることはないであろう。正仙院に手伝いに来たのも、火災という非常時のため、栴檀林を管理する吉祥寺からそう言われたからである。むろん、庄之介自身の慈善の意志によるものではあるが。
「でも、だからって、こっちがあの時はお世話になりましたっていう、お礼を言うのまで拒む。お寺に入るのまで断る。こいつぁどういう料簡なんでい、はせをの小父さん」
「それ、私に言う? 私は関係ないでしょ?」
はせをは、ななの一家が正仙院に避難する際に、その家財道具を運ぶのを手伝った。
はせをはこの歳になっても独り身で、例の天和の大火で、身一つで火から逃げていたところを、大八車に四苦八苦しているななの父親を見かけ、一緒に押してあげて以来の付き合いである。
はせをは不思議な男で、何で生計を立てていたか今一つ判然としないが、また江戸の町に戻った時に、なながお礼として持っていった青物の料理の手際から、包丁人ではないかと思われている。
「まあとりあえず、その青物、頂戴よ。ささっと料理するから、それ食べて考えよう」
はせをはそう言って、「ほれほれ」とななの手から青物を――菜を受け取り、竈に火をつけて湯を沸かし、その中に放り込む。
ぐつぐつと菜を煮る間に、ななは語り出す。
別に惚れているわけではないが、庄之介のきびきびとした態度、瑞々しさに感銘を受けたこと。
避難生活に忙しく、「ああ」とか「うう」しか言えず、まともな会話をしないまま、今に至ったこと。
そういえば礼を言ってないなと気づき、今、青物を抱えて栴檀林へ行ってみたこと。
「……何だい、ななさん。それじゃこの菜っ葉は、件の庄之介さんへの贈り物だったのかい?」
「…………」
別に返事を期待していないはせをは、煮えた菜を菜箸で取り出して、まな板の上に置く。
とんとんとんと包丁で、叩くように切っていく。
そしてどこからか手に入れたのか、土佐節(鰹節のこと)をぱらぱらぱらとかけて、これもまたどこから手に入れたのか、醤油をちょいと垂らす。
「はい」
「……ありがと」
ななが箸を取って食べると、醤油のしょっぱさと鰹節のしょっぱさが相まって、そしてそれが濃厚な青菜の上に乗っかって、得も言われぬ味を醸し出す。
「……おいしい」
「そりゃ良かった」
はせをもまた箸を取って、お浸しを食べ、うんうんとうなずいてから、ななに言った。
「私も詳しくは知らないが、栴檀林ってとこは、唐土から来た陳道栄って偉い人が、その学びの奥深さに感動して、その名――栴檀林ってつけた学寮じゃないか」
いわゆるカレッジという立ち位置の栴檀林は、昌平黌とならぶ、江戸の学問の中心地である。
徳川幕府が始まり、天下泰平の世となって以来、武士の立身出世は学問にあるとされ、そこに庄之介は目を付けたのであろう。
「……だから寒門、いわゆる下の方の武士には、敷居が高い学寮で、察するに庄之介さんは、誰かお金持ちか、あるいは権門の家の方に援助を受けて、栴檀林に居るんじゃあないか」
ゆえに、庄之介は、一寸たりとも時間を無駄にできない。援助を受けた以上、邁進するのが理である、と。
それを察した栴檀林――吉祥寺も門扉を閉ざし、滅多に庄之介への来客を受け付けないようにしているでは。
「ふうん」
ななは人差し指をあごにあてて言った。
「じゃあ、やっぱり、庄之介さんって、真面目なんだぁ……」
あ、これはいかん。
はせをはそう思った。
はせをも中年の男である。それなりに色恋沙汰は経験している。
だから、今さら誰ぞを女房にと思う年頃でもないが、そんなはせをにも、ななが今、どんなことを考えているのか――それはわかる。
「だからななさん、庄之介さんに会いたいって気持ちはわかる。よくわかる。けれど栴檀林に入ってるんじゃあ、駄目だ。栴檀林は江戸、否、この国最高の学寮。いきなり町娘が学び舎の中の人に会わせろなんて、それは筋が通さないって言われちまうよ」
「筋が通らないって、いくらはせをの小父さんでも、言い過ぎ」
「言い過ぎじゃない。庄之介さんの家族でもない、縁もゆかりもない女の人が栴檀林に、しかも寺に来てみろ。どう考えてもお帰り下さいと言われるのは、それが筋じゃあないか」
寺というのは女人禁制。
それはななにもよくわかっている。
よくわかっているが、会いたいものはしょうがない。
そう、たとえばこの気持ち――きみと息をしたくなる――なんてのは気取っているだろうか。
「いっそのこと、もっぺん火事起こってくんないかな。そしたら、も一度」
「滅多なことをいうもんじゃないよ、ななさん」
剣呑剣呑とつぶやきながら、はせをは何か手立てがないものかと思案する。
こういった場合、まずは会う、あるいは会うのに準ずる手段を採るのが常道だ。
準ずる手段、それは。
「文でも書いてみたらどうだい、ななさん」
「文」
文かあ、というななのため息。
ななはあまり手習いが好きじゃない。
それよりかは街頭で青物を売って、その銭の勘定をする方が性に合っている。
両親も数える方が商いにはいいと、ななが手習いをあまりしなくても文句を言わなかった。
でも、今思えば、こんなことになるのなら、もっと手習いに打ち込んでいれば良かった。
けれど。
「うーん……でも、こういう場合の文って、何か恋の歌とかを交わすアレでしょ? 妾にはちょっと……」
「そうかまえないかまえない」
はせをは俳諧って知ってるかいとななに言う。
「五・七・五の文字があればいい。むろん、五・七・五でなくとも、同じくらいの数の文字があればいい」
「そんな短い言葉で、妾の気持ちが乗せられるのかなぁ……」
「まアとにかく考えてみなよ。俳諧で無くっても、何かお礼の言葉とかそういうのあるでしょ? それ書いてみて」
それができたら、はせをは栴檀林に届けに行ってあげると受け合った。
「ホント?」
「ああ本当だとも。いつも青物貰ってるお礼さ。私なら男だし、これでも出家しているから、お寺さんをお参りしたいっていったら、帰れとか言えないだろう?」
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