きみと息をしたくなる

四谷軒

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02 山田庄之介の憂鬱

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 山田庄之介は小身の家に生まれた。いわゆる貧乏御家人だ。そのような境遇からのし上がるためにはと、伝手つてをたどって、金銭的な支援を得て、吉祥寺の栴檀林せんだんりんに潜り込むことができた。
 ただし、その条件がふたつ。
 学業に専念すること。
 学業を修めたら、支援者の息女を娶ること。
 である。

「いと易いことだ」

 庄之介は二つ返事で引き受けた。学業に専念すること、これは当たり前だ。
 次いで、支援者の息女を娶ることだが、これは仕方ないと思った。庄之介の学業を支援することは、いわば投資だ。
 投資した以上、そのを回収したいというのが人情だろう。
 結構なたなの娘だということだが、実は会ったことがない。嫁入り前の娘をそうおいそれと見せるわけにもいかないだろう。
 だが、庄之介は意に介さなかった。
 の生活から抜け出せるのだ。文句は言えない。
 だがそんな折。

「娘が訪ねてきた?」

 庄之介は支援者の娘かと思ったが、どうもそうではないらしい。物陰からうかがってみると、かつて、大火事の時に手伝いに行った先で出会った少女だった。

「いずれにせよ、会えない」

 迂闊に会ったら、二重の意味で支援者への裏切りとなりかねない。
 学業への専念と、将来を約束した娘への。
 幸いにも栴檀林の僧侶たちは庄之介に好意的だったので、会いに来たという娘を追っ払ってくれた。

「やれやれ」

 ひと安心した庄之介だが、今度はその娘のふみを持って来たという男が現れて頭を抱えた。
 しかもその男は法体ほったいで、つまり出家もしているので、無下にできない。

「会うか」

 舌打ちしたくなるような状況だが、実際はしない。
 周囲の心象が悪くなることだけは、避けなくては。
 今は同じ学生ではあるが、将来はどう大きく化けるかわからない。
 心象を悪くして、を潰されては、かなわない。
 庄之介はひとつため息をついて、栴檀林の門を開けた。



「…………」

 黙然と庄之介がふみを読むさまを、じっと見ていた。
 文面はそんなに長くない。一行である。
 ただ、

「あなたにあいたい」

 と、のみ記されていた。
 本当はもっと底の底の気持ち――きみと息をしたくなる――とでもも書きたかったろうに、庄之介に渡されるまでに、僧侶の誰かに見られるとか、そういうことを気にした結果である。
 だが、こうして、直接庄之介に会って手渡すことができた。
 次回からは、自分も含めて誰も見ないからと言い含めて、そういうことを書きなさいと言おう。
 そう、が思っていると、

「見た。もうこんなことはやめにしていただこう」

 にべもない返答返しだった。

「ちょ、ちょっとお待ち下さい、お武家様。何もこの娘とどうこうしろってワケじゃない。ただ、会いたいと言っているだけじゃないですか」

 男と女だ。合わないこともあろう。
 だが。

「こうしてこんな中年の野暮ったい私に頼ってまで、貴方に会いたいと言っている娘だ。会って下され。気に入らないのなら、せめて、会ってそう言ってくれれば」

「断る」

 が二の句を継ぐ暇もなく、庄之介はさっさと栴檀林の中に戻って、門扉を閉じた。
 待ってくれとが言う前に、まるでのように声が聞こえた。

「私は学業を修める身。修めたあとは、公儀にお仕えせねば。邁進せねばならん。私はここを出るわけにはいかぬ。たとえ……」

 そこで庄之介は少し考えた。
 もう二度と、このとやらの接触は避けねばならぬ。
 こんな学業三昧の男になど、許嫁がいる男になど、会う方がいけない。
 何か、決定的な言辞をぶつけなければ。
 そうだ。

「……たとえ、この前のような火事になっても、私が栴檀林ここを出ることは無い!」

 門扉の向こうのが何か言いかけているようだが、それを聞こえぬふりをして、庄之介は駆けた。
 振り切るように。



「さて、どうしたものか」

 は栴檀林の門扉の前に立ち尽くしていたが、先ほど、聞こえよがしに走り去るあしおとが聞こえた。
 もうこれ以上、ここにいても無駄であろう。
 となれば問題は、に事の次第をどう伝えるかだ。
 が虚しく振り向くと。
 そこに――が立っていた。

「……は、はは」

 乾いた笑い。
 は思わず駆け寄ろうとする。
 が、は素早くきびすを返して、駆け去って行った。

「……さん」

 後に残されたは、ただ立っていることしかできない。
 かける言葉など、ありやしない。
 否、あったとしても、あの娘にそれが何ほどのことがあるというのか。
 



 何だ。
 何だ、これは。

ひどいじゃないか」

 走りながらも、思わず口に出る、その言葉。
 何も期待していなかったと言えば、嘘になる。
 そりゃあ年頃の娘だ、二枚目の男を見れば、懸想したくなる。
 けれど。

「何が、会わない、だ。気取りやがってよゥ」

 貧乏御家人が。
 粋がるな。
 たかだか、勉学をするぐらいしか能のない奴が。
 こちとら毎日、青物を売り歩いている。汗水たらしている。

「それが、何サ」

 は憤る。
 こっちだって暇じゃないんだ。
 そこを会いに来たってんだ。
 会ってくれたっていいだろう。
 それを。

「よりによって、このめえみてえな火事でも出ねえだと? 上等じゃねえか!」

 もはやしゃべり方が伝法口調になっている。
 の感情が激している証拠である。

「畜生がッ」

 には悪いが、風采の上がらない中年男にまで、恥を忍んでお願いして、想いを文に託した。
 それを。
 それを。

「…………」

 もはや言葉にならない。
 まさに燃え上がるほのおのように、この想いはの心と体を焦がしていく。

「……見てな」

 ひりつく喉からその言葉がこぼれ落ちた。
 舞い散る火の粉のように。
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