1 / 8
第一章 芭蕉 ~旅の始まり~
01 甲斐、谷村(やむら)の芭蕉
しおりを挟む
――蝉の鳴き声が聞こえる。
天和三年。
夏。
甲斐、谷村。
松尾芭蕉は、蝉の声に耳を傾けていた。
昨年末、江戸に住んでいた芭蕉は、いわゆる天和の大火という大火事により、深川の芭蕉庵を失ってしまい、弟子の谷村藩家老、高山繁文(俳号・麋塒)を頼って、ここ谷村にいる。
天和二年末のあの大火からすでに半年、この谷村で夏を迎えるとは思っていなかった。
それが、蝉の声を聞いた時の芭蕉の感想である。
「まさかなあ……」
最初は、冬を越えるまでという話だった。
何せ、家が無いのでは、ここ甲斐でなく、江戸でも寒い。
再建のめどが立つまではと、繁文の厚意に甘えた。
繁文はできた人物で、のちに、主君である秋元喬知が川越に転封された時、甲斐から職工を連れて行って、川越の養蚕や絹織物を殖産し、藩の財政を安定化に貢献している。
「先生、良ければずっと居て下され」
繁文には何ら意を含むところはない。満腔の善意でそう言われている。
あるとすれば、自身の俳諧のことぐらいで、それについても芭蕉に遠慮は無用といい、事実、彼の句はあまり後世に伝わっていない。
そういうわけで、芭蕉としてはついつい繁文の厚意に甘えている、という次第である。
冬を越して、夏に至る今まで。
「……しかし、この甲斐谷村はいい。江戸の喧騒を離れ、いかにもという感じが、いい」
国破れて山河在り。
そういう漢詩がある。
詩聖・杜甫のものだ。
当時、どちらかというと滑稽さが重視され、面白みがある方が受ける俳諧の世界において、芭蕉はそういう――切れ味のある俳諧を模索していた。
「だが、こういう山河の中に身を置くというだけでは駄目だ。というか、足りない。今少し……」
「今少し……何でござりましょうや」
芭蕉は自らの独語に答えた人物に振り返る。
見ると、そこには繁文が立っていた。
繁文は家老という大身にもかかわらず、中折れ烏帽子に腰蓑といった、野良姿だった。
「これは麋塒さん」
繁文はあくまでも芭蕉の弟子という立場を崩さず、よほどのことでない限り、俳号「糜塒」で呼ばれることを望んだ。
「今少し……とは、江戸表に帰られることですかな」
「いやいや」
芭蕉としては、繁文を頼って谷村に来ている。繁文はその芭蕉に対する饗応に不満があるのか、と聞きたいらしい。
芭蕉は改めて手ぶりでそれを否定し、むしろ己の俳諧の在り方についてだと述べた。
今の滑稽さを面白がる風潮、それでいいのかと。
そうではない俳諧を考えあぐねているが、今少しつかめない、とも。
「然様ですか」
繁文は、芭蕉と連れ立って田んぼに行く道すがら、そう呟いた。
繁文は田んぼや用水に魚を飼うことにより、谷村の物産を殖やそうと考えていた。
そのため、このような野良姿で、その魚の様子を見に行こうという腹づもりである。
芭蕉はかつて料理人だったことから、そういう面から、何がしかの助言ができるかと繁文に同行している。
そうでなくとも、単純に魚を取ったり、雑草を毟ったりと……繁文の世話に報いる分は働いてきている……つもりだ。
「……ではやはり、先生は江戸表に戻られたがよろしい」
繁文は釣り糸を垂れながら言った。
芭蕉も隣で釣り糸を垂らしている。
今は用水に放った鯉や鮒がどうなったかを調べる、という仕事の最中である。
二人の太公望は、最初こそ俳諧について語らっていたものの、やはり俳諧となると、先ほどの芭蕉の独言に話が行き着く、といった次第である。
「……何ゆえ、糜塒さんはそう思われるのか」
「……そりゃあ、田舎暮らしも悪くないけど、それで駄目とおっしゃるのなら」
もう一度、あの殷賑を極めた大都会に戻って考えてみてはと言うのである。
発想は悪くない。
だが芭蕉庵は燃えてしまっている。
着の身着のまま、焼け出された芭蕉には、一文もない。
糜塒すなわち高山繁文宅に寄寓しているからこそ、生きていられるのだ。
「戻られるのなら、何とかしましょう」
それこそ今度は自分が邪魔だと言われているようだと芭蕉は思った。
思ったが、流寓の身に、抗弁は無意味。
それに、繁文も何か考えがあって、それを勧めているのだろう。
「……先生は今、やむを得ない事情で谷村にいる。だから、一度、江戸に戻ってみては」
まずは江戸に戻ってみて、考えてみてはという。
江戸に戻って、何処に住むかも考えがあるらしい。
「先生のお弟子さんたちに、声かけしましょう」
繁文は吝嗇ではないが、だからといって、そうほいほいと金銭を出せるわけではない。
第一、芭蕉としてもそこまで世話になるわけにはいかない。
「杉風さんが良い土地を見つけられたとのこと」
杉山杉風は魚屋を営む男で、芭蕉に俳諧を学んでいる。その財から芭蕉のパトロンとして、朝な夕なと食べ物を届けてくれたこともある。
その杉風が、芭蕉のためにと借地を見つけて来たらしい。
「ありがたいことです」
「……拙者ばかり、先生を独り占めするな、と杉風に言われましてな」
繁文は韜晦したが、繁文からも働きかけたらしいことは、芭蕉にも分かる。
だから芭蕉は、より一層深く、頭を下げるのだった。
天和三年。
夏。
甲斐、谷村。
松尾芭蕉は、蝉の声に耳を傾けていた。
昨年末、江戸に住んでいた芭蕉は、いわゆる天和の大火という大火事により、深川の芭蕉庵を失ってしまい、弟子の谷村藩家老、高山繁文(俳号・麋塒)を頼って、ここ谷村にいる。
天和二年末のあの大火からすでに半年、この谷村で夏を迎えるとは思っていなかった。
それが、蝉の声を聞いた時の芭蕉の感想である。
「まさかなあ……」
最初は、冬を越えるまでという話だった。
何せ、家が無いのでは、ここ甲斐でなく、江戸でも寒い。
再建のめどが立つまではと、繁文の厚意に甘えた。
繁文はできた人物で、のちに、主君である秋元喬知が川越に転封された時、甲斐から職工を連れて行って、川越の養蚕や絹織物を殖産し、藩の財政を安定化に貢献している。
「先生、良ければずっと居て下され」
繁文には何ら意を含むところはない。満腔の善意でそう言われている。
あるとすれば、自身の俳諧のことぐらいで、それについても芭蕉に遠慮は無用といい、事実、彼の句はあまり後世に伝わっていない。
そういうわけで、芭蕉としてはついつい繁文の厚意に甘えている、という次第である。
冬を越して、夏に至る今まで。
「……しかし、この甲斐谷村はいい。江戸の喧騒を離れ、いかにもという感じが、いい」
国破れて山河在り。
そういう漢詩がある。
詩聖・杜甫のものだ。
当時、どちらかというと滑稽さが重視され、面白みがある方が受ける俳諧の世界において、芭蕉はそういう――切れ味のある俳諧を模索していた。
「だが、こういう山河の中に身を置くというだけでは駄目だ。というか、足りない。今少し……」
「今少し……何でござりましょうや」
芭蕉は自らの独語に答えた人物に振り返る。
見ると、そこには繁文が立っていた。
繁文は家老という大身にもかかわらず、中折れ烏帽子に腰蓑といった、野良姿だった。
「これは麋塒さん」
繁文はあくまでも芭蕉の弟子という立場を崩さず、よほどのことでない限り、俳号「糜塒」で呼ばれることを望んだ。
「今少し……とは、江戸表に帰られることですかな」
「いやいや」
芭蕉としては、繁文を頼って谷村に来ている。繁文はその芭蕉に対する饗応に不満があるのか、と聞きたいらしい。
芭蕉は改めて手ぶりでそれを否定し、むしろ己の俳諧の在り方についてだと述べた。
今の滑稽さを面白がる風潮、それでいいのかと。
そうではない俳諧を考えあぐねているが、今少しつかめない、とも。
「然様ですか」
繁文は、芭蕉と連れ立って田んぼに行く道すがら、そう呟いた。
繁文は田んぼや用水に魚を飼うことにより、谷村の物産を殖やそうと考えていた。
そのため、このような野良姿で、その魚の様子を見に行こうという腹づもりである。
芭蕉はかつて料理人だったことから、そういう面から、何がしかの助言ができるかと繁文に同行している。
そうでなくとも、単純に魚を取ったり、雑草を毟ったりと……繁文の世話に報いる分は働いてきている……つもりだ。
「……ではやはり、先生は江戸表に戻られたがよろしい」
繁文は釣り糸を垂れながら言った。
芭蕉も隣で釣り糸を垂らしている。
今は用水に放った鯉や鮒がどうなったかを調べる、という仕事の最中である。
二人の太公望は、最初こそ俳諧について語らっていたものの、やはり俳諧となると、先ほどの芭蕉の独言に話が行き着く、といった次第である。
「……何ゆえ、糜塒さんはそう思われるのか」
「……そりゃあ、田舎暮らしも悪くないけど、それで駄目とおっしゃるのなら」
もう一度、あの殷賑を極めた大都会に戻って考えてみてはと言うのである。
発想は悪くない。
だが芭蕉庵は燃えてしまっている。
着の身着のまま、焼け出された芭蕉には、一文もない。
糜塒すなわち高山繁文宅に寄寓しているからこそ、生きていられるのだ。
「戻られるのなら、何とかしましょう」
それこそ今度は自分が邪魔だと言われているようだと芭蕉は思った。
思ったが、流寓の身に、抗弁は無意味。
それに、繁文も何か考えがあって、それを勧めているのだろう。
「……先生は今、やむを得ない事情で谷村にいる。だから、一度、江戸に戻ってみては」
まずは江戸に戻ってみて、考えてみてはという。
江戸に戻って、何処に住むかも考えがあるらしい。
「先生のお弟子さんたちに、声かけしましょう」
繁文は吝嗇ではないが、だからといって、そうほいほいと金銭を出せるわけではない。
第一、芭蕉としてもそこまで世話になるわけにはいかない。
「杉風さんが良い土地を見つけられたとのこと」
杉山杉風は魚屋を営む男で、芭蕉に俳諧を学んでいる。その財から芭蕉のパトロンとして、朝な夕なと食べ物を届けてくれたこともある。
その杉風が、芭蕉のためにと借地を見つけて来たらしい。
「ありがたいことです」
「……拙者ばかり、先生を独り占めするな、と杉風に言われましてな」
繁文は韜晦したが、繁文からも働きかけたらしいことは、芭蕉にも分かる。
だから芭蕉は、より一層深く、頭を下げるのだった。
0
あなたにおすすめの小説
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる