2 / 8
第一章 芭蕉 ~旅の始まり~
02 或る少女のこと
しおりを挟む
蝉の鳴き声の鳴り響く中、芭蕉は江戸へ向けて旅立った。
天和三年の夏、江戸は暑く、江戸もまた、蝉の声に包まれていた。
「こう五月蠅くっちゃ、いけねえ」
杉風は、おっと蠅でなく蝉かとおどけた。
杉風は持ち前の魚屋らしいちゃきちゃきとした態度で芭蕉を出迎え、引っ越し祝いと称して、青魚を二三尾供した。
「……それで先生、向後は江戸表に尻を落ち着けられるので?」
「……そうだねぇ」
あの天和の大火で焼け出して以来の江戸だ。
少なくとも、暫くはいるつもりだ。
だが、そこから先は、分からない。
自分でも。
一体、どうするつもりなのか、自分は。
「夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり、か……」
李白の「春夜宴桃李園序」の文言である。
その意味は、天地は万物の旅宿であり、光陰、つまり「時」は百代もの旅をしてきた旅人なのだ、という意味である。
元々芭蕉は李白に私淑しており、李白を意識して桃青という号を名乗っていたくらいだ。
すなわち、李に桃、白に青、というかたちである。
「されども『時』ならぬ人は、百代の客にはなれませんなぁ」
これは杉風の言葉である。
なればこそ、今の食事を楽しみましょうと魚の膳を出してきた。
そう言われては芭蕉も箸を持たざるを得ない。
何にせよ、俳諧を読むことぐらいしか取り柄のない芭蕉だ。こうして助けてもらっていることには、感謝しかないし、江戸にいてくれと言われれば、それはそうですと言わざるを得ない。
「…………」
「どうかしましたか」
杉風もまた、繁文のように、特に無理強いをしてきたわけではない……江戸に絶対にいて下さい、というような。
けれどもそう言われているような気分になる。
人の親切というものは妙なもので、このような気遣いをされると、却ってこのような、一定方向への圧を感じる。
「そういえば」
杉風はお銚子とお猪口を出しながら、ふと思い出したとばかりにそれを言う。
「惣五郎さんという人が先生に俳諧を習いたいって言って来ているんですが」
「惣五郎さんねぇ……」
杉風は芭蕉のパトロン的なポジションなので、こういった弟子入りの口利きをしている。
芭蕉の意向をわきまえたそのやり方は信頼が置けるが、今はなるべく人に会いたくない。
ましてや、初見の人には。
「悪いけど、今は遠慮しておくと伝えといてくれないか、杉風さん」
「然様ですか」
お金を出してもらっている以上、完全に拒否はできない。
だから「今は」と言った。
杉風もそこを感じ取り、黙って引き下がった。
おそらく、その惣五郎とやらに、後でまた来なさいと答えるつもりなのだろう。
*
ところが。
惣五郎は芭蕉への弟子入りを諦めていなかった。
ただ奥床しいことに杉風へ手紙を託しては、どうか会って欲しい、弟子にして欲しいと訴えるにとどめ、それ以上することは無かった。
その日も、芭蕉が、自宅の裏庭の古池を何とはなしに眺めせしまに杉風がやって来た。
杉風のどたどたとした跫に池の端の蛙が飛んだ。
「どうしたんだい、杉風さん」
「先生、例の惣五郎さんですが、彼は西国の出身で」
上方では今、井原西鶴という男が、今度「好色五人女」なる浮世草子を書くという。
惣五郎は偶さかに上方に出る用事があった。
そこで。
「八百屋お七の話が、件の浮世草子に載るそうでサ」
「お七?」
*
芭蕉の脳裏に浮かぶ、天和の大火。
その大火事にて、八百屋の娘、お七はある美丈夫に会った。
その出会いは大火という奇禍によりできた出会い。
偶然とも知れぬその出会いを――も一度と。
も一度、その美丈夫に会いたいと――お七は火を付けた。
「……と、上方ではそう伝わっていて、西鶴て奴ぁ、そう書くつもりだと」
「……そうか」
八百屋お七と芭蕉は、何のかかわりもない他人であるとされている。
少なくとも、今日伝わる芭蕉の文章に、お七の名は登場しない。
だが。
「……あれだけの大事件だ。知られない方がおかしいだろう」
――あの天和の大火において、芭蕉とお七は焼き出されて、同じ寺に避難した。
その寺、吉祥寺にて、お七と美丈夫は出会った。
――お七っつぁん、もうやめときなよ。
――止めねぇでおくんなまし、芭蕉の旦那。
名も知れぬ美丈夫。
も一度会いたい。
も一度会いたい。
会うためには――。
そしてお七は火を付けた。
そうすれば、またあの美丈夫に会えると信じて。
だが現実はそう甘くない。
火は小火で終わり、美丈夫に会えるはずもなく――お七は捕まった。
付け火は死刑。それも火刑だ。
芭蕉はそれを見送った。
見送っただけだ。
それだけだが。
「お七さんはあの時――何が言いたかったんだろうなぁ……」
燃え盛る火。
それも、自らを燃やす火だ。
お七はそれを見ながら、芭蕉に何か、呟いた。
そう、芭蕉はお七からよく野菜を貰っていた。
野菜を食べないと、お腹が悪くなるよと言って。
あの日も――付け火の日も、野菜を持ってきては、芭蕉に言った。
――芭蕉さん、この胸の想いを伝えるには、どうしたらいいんだろうね。
と。
芭蕉はそれこそ俳諧であると言えなかった自分が哀しかった。
当時、俳諧はまだまだ言葉遊びの領域を出ず、この世の哀歓を唄えるとは、到底思えなかった。
少なくとも、その時の芭蕉にとっては。
そして火刑の際の「つぶやき」である。
誰に、何を。
いや誰に向かってもなく、何を言っているわけでもなく、唯々、お七はその思いのたけをぶつけていただけかもしれない。
そしてそれを、ほかならぬ俳諧師の芭蕉に聞いてほしかったのかもしれない。
天和三年の夏、江戸は暑く、江戸もまた、蝉の声に包まれていた。
「こう五月蠅くっちゃ、いけねえ」
杉風は、おっと蠅でなく蝉かとおどけた。
杉風は持ち前の魚屋らしいちゃきちゃきとした態度で芭蕉を出迎え、引っ越し祝いと称して、青魚を二三尾供した。
「……それで先生、向後は江戸表に尻を落ち着けられるので?」
「……そうだねぇ」
あの天和の大火で焼け出して以来の江戸だ。
少なくとも、暫くはいるつもりだ。
だが、そこから先は、分からない。
自分でも。
一体、どうするつもりなのか、自分は。
「夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり、か……」
李白の「春夜宴桃李園序」の文言である。
その意味は、天地は万物の旅宿であり、光陰、つまり「時」は百代もの旅をしてきた旅人なのだ、という意味である。
元々芭蕉は李白に私淑しており、李白を意識して桃青という号を名乗っていたくらいだ。
すなわち、李に桃、白に青、というかたちである。
「されども『時』ならぬ人は、百代の客にはなれませんなぁ」
これは杉風の言葉である。
なればこそ、今の食事を楽しみましょうと魚の膳を出してきた。
そう言われては芭蕉も箸を持たざるを得ない。
何にせよ、俳諧を読むことぐらいしか取り柄のない芭蕉だ。こうして助けてもらっていることには、感謝しかないし、江戸にいてくれと言われれば、それはそうですと言わざるを得ない。
「…………」
「どうかしましたか」
杉風もまた、繁文のように、特に無理強いをしてきたわけではない……江戸に絶対にいて下さい、というような。
けれどもそう言われているような気分になる。
人の親切というものは妙なもので、このような気遣いをされると、却ってこのような、一定方向への圧を感じる。
「そういえば」
杉風はお銚子とお猪口を出しながら、ふと思い出したとばかりにそれを言う。
「惣五郎さんという人が先生に俳諧を習いたいって言って来ているんですが」
「惣五郎さんねぇ……」
杉風は芭蕉のパトロン的なポジションなので、こういった弟子入りの口利きをしている。
芭蕉の意向をわきまえたそのやり方は信頼が置けるが、今はなるべく人に会いたくない。
ましてや、初見の人には。
「悪いけど、今は遠慮しておくと伝えといてくれないか、杉風さん」
「然様ですか」
お金を出してもらっている以上、完全に拒否はできない。
だから「今は」と言った。
杉風もそこを感じ取り、黙って引き下がった。
おそらく、その惣五郎とやらに、後でまた来なさいと答えるつもりなのだろう。
*
ところが。
惣五郎は芭蕉への弟子入りを諦めていなかった。
ただ奥床しいことに杉風へ手紙を託しては、どうか会って欲しい、弟子にして欲しいと訴えるにとどめ、それ以上することは無かった。
その日も、芭蕉が、自宅の裏庭の古池を何とはなしに眺めせしまに杉風がやって来た。
杉風のどたどたとした跫に池の端の蛙が飛んだ。
「どうしたんだい、杉風さん」
「先生、例の惣五郎さんですが、彼は西国の出身で」
上方では今、井原西鶴という男が、今度「好色五人女」なる浮世草子を書くという。
惣五郎は偶さかに上方に出る用事があった。
そこで。
「八百屋お七の話が、件の浮世草子に載るそうでサ」
「お七?」
*
芭蕉の脳裏に浮かぶ、天和の大火。
その大火事にて、八百屋の娘、お七はある美丈夫に会った。
その出会いは大火という奇禍によりできた出会い。
偶然とも知れぬその出会いを――も一度と。
も一度、その美丈夫に会いたいと――お七は火を付けた。
「……と、上方ではそう伝わっていて、西鶴て奴ぁ、そう書くつもりだと」
「……そうか」
八百屋お七と芭蕉は、何のかかわりもない他人であるとされている。
少なくとも、今日伝わる芭蕉の文章に、お七の名は登場しない。
だが。
「……あれだけの大事件だ。知られない方がおかしいだろう」
――あの天和の大火において、芭蕉とお七は焼き出されて、同じ寺に避難した。
その寺、吉祥寺にて、お七と美丈夫は出会った。
――お七っつぁん、もうやめときなよ。
――止めねぇでおくんなまし、芭蕉の旦那。
名も知れぬ美丈夫。
も一度会いたい。
も一度会いたい。
会うためには――。
そしてお七は火を付けた。
そうすれば、またあの美丈夫に会えると信じて。
だが現実はそう甘くない。
火は小火で終わり、美丈夫に会えるはずもなく――お七は捕まった。
付け火は死刑。それも火刑だ。
芭蕉はそれを見送った。
見送っただけだ。
それだけだが。
「お七さんはあの時――何が言いたかったんだろうなぁ……」
燃え盛る火。
それも、自らを燃やす火だ。
お七はそれを見ながら、芭蕉に何か、呟いた。
そう、芭蕉はお七からよく野菜を貰っていた。
野菜を食べないと、お腹が悪くなるよと言って。
あの日も――付け火の日も、野菜を持ってきては、芭蕉に言った。
――芭蕉さん、この胸の想いを伝えるには、どうしたらいいんだろうね。
と。
芭蕉はそれこそ俳諧であると言えなかった自分が哀しかった。
当時、俳諧はまだまだ言葉遊びの領域を出ず、この世の哀歓を唄えるとは、到底思えなかった。
少なくとも、その時の芭蕉にとっては。
そして火刑の際の「つぶやき」である。
誰に、何を。
いや誰に向かってもなく、何を言っているわけでもなく、唯々、お七はその思いのたけをぶつけていただけかもしれない。
そしてそれを、ほかならぬ俳諧師の芭蕉に聞いてほしかったのかもしれない。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる