3 / 8
第一章 芭蕉 ~旅の始まり~
03 お七、西鶴、そして芭蕉
しおりを挟む
お七に関する、そういう芭蕉の悔恨を、一番弟子を自認する杉風は知っていた。
知っていたからこそ、お七について何かないかと鼻を利かせていて――
「その――惣五郎さんと知り合ったわけかい」
「へい。とんだ勇み足でさ」
杉風は頭を掻いた。
芭蕉と共に、お七の火刑を見ていた杉風は、芭蕉の懊悩を知っていた。
それならとお七の噂など聞けるものは聞いた。
そこへ、ちょうど西国から来た惣五郎という男が、上方におけるお七の話を知っている――と
「断っておきますが、惣五郎さん自身はすごく真面目な方です。アタシががっついたのがいけないんです」
非常に真面目な方だからこそ、杉風の「何か無いですか」という問いかけに答えたと言えるらしい。
そして杉風が「お礼を」と言ったところ、なら芭蕉に紹介してくれとの話になった。
惣五郎は真面目な人格だが、それと俳諧への執念は別だ。
むしろ、真面目なだけ、それだけしつこいと言える。
「実はアタシも弟子入りの件はどうかと思ったんですがねえ……」
何より、その井原西鶴の浮世草子、お七については男に会いたくて付け火をしたことを、面白く、派手に描いているらしい、というのが判った。
結局のところ、芭蕉や杉風が知っている以上のことを惣五郎は知らず、それどころか西鶴がお七のことを材料に浮世草子を書いているという、あまり知らなくてもいい話を聞いただけに終わった。
「でも、だからといって、惣五郎さんにすげなくするのも……」
「……うん」
このままでは、芭蕉と杉風、そして惣五郎にしこりを残す。
芭蕉は惣五郎に会うことにした。
「しかし、西国か……」
芭蕉自身も伊賀の出身である。
そういえば先年、母が死んだ。
墓参をしていない。
「…………」
そこでふと、芭蕉は思いつくものがあった。
それをすれば、芭蕉の心のうちのもやもやが、腫れるかもしれない。
だが今はとにかく惣五郎に会おう。
そう決めた芭蕉は芭蕉庵を出て、杉風と一緒に杉風亭へ。
会って話す場を敢えて杉風の亭で行ない、酒食を供す。
芭蕉なりの気遣いで、杉風の面目を保つためである。
自分の弟子、しかも一番近しい弟子にすら、こうまで気を遣う。
なかなか――江戸の都会暮らしというのも、煩わしくはある。
微苦笑する芭蕉だったが、むろん、杉風がそれに気づくことは無かった。
*
惣五郎との対面は、実にあっさりとしたものだった。
古式ゆかしく姓名を名乗る惣五郎に、芭蕉も襟を正して松尾忠右衛門宗房でござると名乗り、そこでお互いの緊張した面持ちを見て。
「ぷっ」
と、笑った。
何を緊張しているのだろう――と。
そこで杉風が心得たものでサアサ酒だ肴だと自ら膳を運んで惣五郎と芭蕉に勧めた。
「いや――拙者もこんな話を、失礼、お七どのの噂話を元に、こんな展開になるとは思いませんでした」
惣五郎としては、伊勢長島藩に仕えていたところを、思うところあって俳諧の道を選び、藩を致仕したとのことである。
伊勢を出た惣五郎は、江戸へ――。
京大坂ではなく、江戸へ。
「矢張り俳諧とは新しき文の芸。であれば、新しき都である江戸で学ぶべき、と」
それに大坂では例の井原西鶴がぶいぶい言わせていて、惣五郎には賑やか過ぎて、合わなかったという。
当時、西鶴は俳句の数を何千句も詠むことを身上としており、終には「二万翁」と称するに至る。
「そしてさらに例の浮世草子の話です。そういう話を書くのも有りだとは思いますが」
「……そうですか」
聞くところによると西鶴は「阿蘭陀流」と称しているという。
その独自性を追求している姿勢を表したいらしい。
「……ふむ」
談林派といって、西山宗因を師と仰ぐ、あるいはその流れを汲む者たちを、そう称するのだが、西鶴も芭蕉もその談林派であった。
つまり、同じ俳諧の流派である西鶴のことを、芭蕉はそれなりに知っていた。
だがその程度のことで、大坂と江戸ではだいぶん離れている。
同じ流派を名乗ると言っても、知っているか知っていないか、かなり怪しい部類の「知っている」である。
「阿蘭陀流か……自由でいいな……」
この芭蕉の独白に、惣五郎も杉風も目を剥いた。
彼らは、特に杉風は、芭蕉が独自の、しかも侘び寂びの方向に行くのではないかと見ていた。
それが。
「いやちがう」
芭蕉はじゃあ自分もと阿蘭陀流のような流儀を名乗るのではない、と断った。
「私もまた、阿蘭陀流とまではいかないが、それでも、独自の流れを――風の中を、行きたい」
「風」
それは、俳諧の中心地・江戸から一線を画す芭蕉ならではの表現である。
ひとつところにとどまらない。
それはまるで風のようであり、旅に生き、旅に死んだ唐詩人、李白や杜甫のようではあった。
「惣五郎さん、私は旅に出ようと思うんだ」
「えっ」
これは杉風である。
もしや、井原西鶴に因縁を付けにでも行く気かと気色ばんだ。
「ちがう」
芭蕉は、あの時、お七が何を言いたかったか、解けたと答えた。
そしてその答えは、芭蕉にやりたいことをやれ――という内容だったと思う、と。
「お七さんのやったことは許されることじゃない。それでも」
お七のやったこと――付け火は犯罪だ。小火で済んだが、燃え上がった場合、死人が出ることもある。
だが――。
「やりたいことをやった。その上で死ぬ。その価値を――お七さんは言いたかったんだ」
奇しくも、それは西鶴にも言えることだった。
なるほど確かに奇行だ。
何句も、何千句も、何万句も。
そんなに詠んで、何とする。
「阿蘭陀流」なんぞ名乗って、何とする。
それでも。
「やりたいことをやっている。命懸けなんだろう、おそらく」
ならばこの芭蕉もまた――
「命懸けで――私は私の目指す俳諧を見てみたい。そしてそのためには」
「旅、ですか……」
これは惣五郎である。
彼は出会ってほんの数刻であるが、芭蕉がどういう為人か、理解した。
理解したからこそ、このように「旅に出る」ということを止められないことを悟った。
知っていたからこそ、お七について何かないかと鼻を利かせていて――
「その――惣五郎さんと知り合ったわけかい」
「へい。とんだ勇み足でさ」
杉風は頭を掻いた。
芭蕉と共に、お七の火刑を見ていた杉風は、芭蕉の懊悩を知っていた。
それならとお七の噂など聞けるものは聞いた。
そこへ、ちょうど西国から来た惣五郎という男が、上方におけるお七の話を知っている――と
「断っておきますが、惣五郎さん自身はすごく真面目な方です。アタシががっついたのがいけないんです」
非常に真面目な方だからこそ、杉風の「何か無いですか」という問いかけに答えたと言えるらしい。
そして杉風が「お礼を」と言ったところ、なら芭蕉に紹介してくれとの話になった。
惣五郎は真面目な人格だが、それと俳諧への執念は別だ。
むしろ、真面目なだけ、それだけしつこいと言える。
「実はアタシも弟子入りの件はどうかと思ったんですがねえ……」
何より、その井原西鶴の浮世草子、お七については男に会いたくて付け火をしたことを、面白く、派手に描いているらしい、というのが判った。
結局のところ、芭蕉や杉風が知っている以上のことを惣五郎は知らず、それどころか西鶴がお七のことを材料に浮世草子を書いているという、あまり知らなくてもいい話を聞いただけに終わった。
「でも、だからといって、惣五郎さんにすげなくするのも……」
「……うん」
このままでは、芭蕉と杉風、そして惣五郎にしこりを残す。
芭蕉は惣五郎に会うことにした。
「しかし、西国か……」
芭蕉自身も伊賀の出身である。
そういえば先年、母が死んだ。
墓参をしていない。
「…………」
そこでふと、芭蕉は思いつくものがあった。
それをすれば、芭蕉の心のうちのもやもやが、腫れるかもしれない。
だが今はとにかく惣五郎に会おう。
そう決めた芭蕉は芭蕉庵を出て、杉風と一緒に杉風亭へ。
会って話す場を敢えて杉風の亭で行ない、酒食を供す。
芭蕉なりの気遣いで、杉風の面目を保つためである。
自分の弟子、しかも一番近しい弟子にすら、こうまで気を遣う。
なかなか――江戸の都会暮らしというのも、煩わしくはある。
微苦笑する芭蕉だったが、むろん、杉風がそれに気づくことは無かった。
*
惣五郎との対面は、実にあっさりとしたものだった。
古式ゆかしく姓名を名乗る惣五郎に、芭蕉も襟を正して松尾忠右衛門宗房でござると名乗り、そこでお互いの緊張した面持ちを見て。
「ぷっ」
と、笑った。
何を緊張しているのだろう――と。
そこで杉風が心得たものでサアサ酒だ肴だと自ら膳を運んで惣五郎と芭蕉に勧めた。
「いや――拙者もこんな話を、失礼、お七どのの噂話を元に、こんな展開になるとは思いませんでした」
惣五郎としては、伊勢長島藩に仕えていたところを、思うところあって俳諧の道を選び、藩を致仕したとのことである。
伊勢を出た惣五郎は、江戸へ――。
京大坂ではなく、江戸へ。
「矢張り俳諧とは新しき文の芸。であれば、新しき都である江戸で学ぶべき、と」
それに大坂では例の井原西鶴がぶいぶい言わせていて、惣五郎には賑やか過ぎて、合わなかったという。
当時、西鶴は俳句の数を何千句も詠むことを身上としており、終には「二万翁」と称するに至る。
「そしてさらに例の浮世草子の話です。そういう話を書くのも有りだとは思いますが」
「……そうですか」
聞くところによると西鶴は「阿蘭陀流」と称しているという。
その独自性を追求している姿勢を表したいらしい。
「……ふむ」
談林派といって、西山宗因を師と仰ぐ、あるいはその流れを汲む者たちを、そう称するのだが、西鶴も芭蕉もその談林派であった。
つまり、同じ俳諧の流派である西鶴のことを、芭蕉はそれなりに知っていた。
だがその程度のことで、大坂と江戸ではだいぶん離れている。
同じ流派を名乗ると言っても、知っているか知っていないか、かなり怪しい部類の「知っている」である。
「阿蘭陀流か……自由でいいな……」
この芭蕉の独白に、惣五郎も杉風も目を剥いた。
彼らは、特に杉風は、芭蕉が独自の、しかも侘び寂びの方向に行くのではないかと見ていた。
それが。
「いやちがう」
芭蕉はじゃあ自分もと阿蘭陀流のような流儀を名乗るのではない、と断った。
「私もまた、阿蘭陀流とまではいかないが、それでも、独自の流れを――風の中を、行きたい」
「風」
それは、俳諧の中心地・江戸から一線を画す芭蕉ならではの表現である。
ひとつところにとどまらない。
それはまるで風のようであり、旅に生き、旅に死んだ唐詩人、李白や杜甫のようではあった。
「惣五郎さん、私は旅に出ようと思うんだ」
「えっ」
これは杉風である。
もしや、井原西鶴に因縁を付けにでも行く気かと気色ばんだ。
「ちがう」
芭蕉は、あの時、お七が何を言いたかったか、解けたと答えた。
そしてその答えは、芭蕉にやりたいことをやれ――という内容だったと思う、と。
「お七さんのやったことは許されることじゃない。それでも」
お七のやったこと――付け火は犯罪だ。小火で済んだが、燃え上がった場合、死人が出ることもある。
だが――。
「やりたいことをやった。その上で死ぬ。その価値を――お七さんは言いたかったんだ」
奇しくも、それは西鶴にも言えることだった。
なるほど確かに奇行だ。
何句も、何千句も、何万句も。
そんなに詠んで、何とする。
「阿蘭陀流」なんぞ名乗って、何とする。
それでも。
「やりたいことをやっている。命懸けなんだろう、おそらく」
ならばこの芭蕉もまた――
「命懸けで――私は私の目指す俳諧を見てみたい。そしてそのためには」
「旅、ですか……」
これは惣五郎である。
彼は出会ってほんの数刻であるが、芭蕉がどういう為人か、理解した。
理解したからこそ、このように「旅に出る」ということを止められないことを悟った。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる