旅 ~芭蕉連作集~

四谷軒

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第一章 芭蕉 ~旅の始まり~

03 お七、西鶴、そして芭蕉

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 お七に関する、そういう芭蕉の悔恨を、一番弟子を自認する杉風さんぷうは知っていた。
 知っていたからこそ、お七について何かないかと鼻を利かせていて――

「その――惣五郎さんと知り合ったわけかい」

「へい。とんだ勇み足でさ」

 杉風は頭を掻いた。
 芭蕉と共に、お七の火刑を見ていた杉風は、芭蕉の懊悩を知っていた。
 それならとお七の噂など聞けるものは聞いた。
 そこへ、ちょうど西国から来た惣五郎という男が、上方におけるお七の話を知っている――と

「断っておきますが、惣五郎さん自身はすごく真面目な方です。アタシがのがいけないんです」

 非常に真面目な方だからこそ、杉風の「何か無いですか」という問いかけに答えたと言えるらしい。
 そして杉風が「お礼を」と言ったところ、なら芭蕉に紹介してくれとの話になった。
 惣五郎は真面目な人格だが、それと俳諧への執念は別だ。
 むしろ、真面目なだけ、それだけしつこいと言える。

「実はアタシも弟子入りの件はどうかと思ったんですがねえ……」

 何より、その井原西鶴の浮世草子、お七については男に会いたくて付け火をしたことを、面白く、派手に描いているらしい、というのが判った。
 結局のところ、芭蕉や杉風が知っている以上のことを惣五郎は知らず、それどころか西鶴がお七のことを材料ネタに浮世草子を書いているという、あまり知らなくてもいい話を聞いただけに終わった。

「でも、だからといって、惣五郎さんにするのも……」

「……うん」

 このままでは、芭蕉と杉風、そして惣五郎にを残す。
 芭蕉は惣五郎に会うことにした。

「しかし、西国か……」

 芭蕉自身も伊賀の出身である。
 そういえば先年、母が死んだ。
 墓参をしていない。

「…………」

 そこでふと、芭蕉は思いつくものがあった。
 それをすれば、芭蕉の心のうちのもやもやが、腫れるかもしれない。
 だが今はとにかく惣五郎に会おう。
 そう決めた芭蕉は芭蕉庵を出て、杉風と一緒に杉風亭へ。
 会って話す場を敢えて杉風の亭で行ない、酒食を供す。
 芭蕉なりの気遣いで、杉風の面目を保つためである。
 自分の弟子、しかも一番近しい弟子にすら、こうまで気を遣う。
 なかなか――江戸の都会暮らしというのも、煩わしくはある。
 微苦笑する芭蕉だったが、むろん、杉風がそれに気づくことは無かった。



 惣五郎との対面は、実にあっさりとしたものだった。
 古式ゆかしく姓名を名乗る惣五郎に、芭蕉も襟を正して松尾忠右衛門宗房でござると名乗り、そこでお互いの緊張した面持ちを見て。

「ぷっ」

 と、笑った。
 何を緊張しているのだろう――と。
 そこで杉風が心得たものでサアサ酒だ肴だと自ら膳を運んで惣五郎と芭蕉に勧めた。

「いや――拙者もこんな話を、失礼、お七どのの噂話を元に、こんな展開になるとは思いませんでした」

 惣五郎としては、伊勢長島藩に仕えていたところを、思うところあって俳諧の道を選び、藩を致仕したとのことである。
 伊勢を出た惣五郎は、江戸へ――。
 京大坂ではなく、江戸へ。

矢張やはり俳諧とは新しき文の芸。であれば、新しき都である江戸で学ぶべき、と」

 それに大坂では例の井原西鶴が言わせていて、惣五郎には賑やか過ぎて、合わなかったという。
 当時、西鶴は俳句の数を何千句も詠むことを身上としており、終には「二万翁」と称するに至る。

「そしてさらに例の浮世草子の話です。そういう話を書くのも有りだとは思いますが」

「……そうですか」

 聞くところによると西鶴は「阿蘭陀流」と称しているという。
 その独自性を追求している姿勢を表したいらしい。

「……ふむ」

 談林派といって、西山宗因を師と仰ぐ、あるいはその流れを汲む者たちを、そう称するのだが、西鶴も芭蕉もその談林派であった。
 つまり、同じ俳諧の流派である西鶴のことを、芭蕉はに知っていた。
 だがその程度のことで、大坂と江戸ではだいぶん離れている。
 同じ流派を名乗ると言っても、知っているか知っていないか、かなり怪しい部類の「知っている」である。

「阿蘭陀流か……自由でいいな……」

 この芭蕉の独白に、惣五郎も杉風も目をいた。
 彼らは、特に杉風は、芭蕉が独自の、しかも侘び寂びの方向に行くのではないかと見ていた。
 それが。

「いやちがう」

 芭蕉はじゃあ自分もと阿蘭陀流のような流儀を名乗るのではない、と断った。

「私もまた、阿蘭陀流とまではいかないが、それでも、独自の流れを――風の中を、行きたい」

「風」

 それは、俳諧の中心地・江戸から一線を画す芭蕉ならではの表現である。
 ひとつところにとどまらない。
 それはまるで風のようであり、旅に生き、旅に死んだ唐詩人、李白や杜甫のようではあった。

「惣五郎さん、私は旅に出ようと思うんだ」

「えっ」

 これは杉風である。
 もしや、井原西鶴に因縁を付けにでも行く気かと気色ばんだ。

「ちがう」

 芭蕉は、あの時、お七が何を言いたかったか、解けたと答えた。
 そしてその答えは、芭蕉にやりたいことをやれ――という内容だったと思う、と。

「お七さんのやったことは許されることじゃない。それでも」

 お七のやったこと――付け火は犯罪だ。小火で済んだが、燃え上がった場合、死人が出ることもある。
 だが――。

「やりたいことをやった。その上で死ぬ。その価値を――お七さんは言いたかったんだ」

 奇しくも、それは西鶴にも言えることだった。
 なるほど確かに奇行だ。
 何句も、何千句も、何万句も。
 そんなに詠んで、何とする。
 「阿蘭陀流」なんぞ名乗って、何とする。
 それでも。

「やりたいことをやっている。命懸けなんだろう、おそらく」

 ならばこの芭蕉もまた――

「命懸けで――私は私の目指す俳諧を見てみたい。そしてそのためには」

「旅、ですか……」

 これは惣五郎である。
 彼は出会ってほんの数刻であるが、芭蕉がどういう為人ひととなりか、理解した。
 理解したからこそ、このように「旅に出る」ということを止められないことを悟った。
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