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第三章 その言葉に意味を足したい ~蝉吟(せんぎん)~
01 藤堂良忠
しおりを挟む閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
松尾芭蕉「おくのほそ道」より
……暑い。
そう感じると、どっと蝉の声が聞こえて来た。
「先生」
うしろを行く、曽良《そら》が声をかけて来た。
「少し、休みましょう」
芭蕉より年下の彼であるが、やはり、この暑さは堪えるらしい。
無理もない。
季節は夏。
場所は、羽州立石寺。
冷涼で知られた羽州――出羽の国であるが、こうして実際に訪れて、立石寺の二つ名である山寺を象徴する、山の山頂にある本堂を目指す参道を登っていくと、その暑さが身にしみてくる。
「休もう」
やはり、急角度の参道はきつい。
中年の身である芭蕉と曽良は、ふぅと息をついて、参道の脇の苔むした石に腰かけ、竹筒の水を飲んだ。
「……それにしても、蝉がうるさいですなぁ」
その曽良の汗を拭きながらの言葉に、芭蕉は何も答えない。
暑かったからではない。
忘れられない人のことを、思い出していたからだ。
*
芭蕉は伊賀の生まれだ。
伊賀にいた頃、少年時代の芭蕉は、士分でもなく、生家が貧しかったこともあり、侍に仕えることにした。
当時――伊賀は藤堂高虎を藩祖とする藤堂藩の領地であり、どういう伝手をたどったのか、芭蕉は藤堂家の連枝である藤堂主計良忠の扈従となった。
扈従といえば聞こえはいかにも武士然としているが、実際は厨房で包丁を握っていた。
ただ、芭蕉は良忠の二歳下であり、同世代ならではの味覚や感性が似通っていることもあり、良忠のお気に入りとなった。
「宗房、京へ行こう」
宗房とは、当時の芭蕉の名乗りである。
良忠のこの誘いに、芭蕉は仰天した。
良忠は体が弱い。いわゆる、蒲柳の質である。
芭蕉はそんな良忠のために工夫を凝らして料理をしていたのだが、ある日、そうやって苦労してこしらえた膳を供すると、そんなことを言ってきたのである。
「そんな顔するな」
良忠はにこやかに笑った。
「宗房の包丁があれば、京でも体を壊さずに済みそうだ。それだけだ」
こうなると良忠は止まらない。
蒲柳の質ではあるが、探求心や冒険心に溢れる男だ。
かねてから俳諧の達人・北村季吟に弟子入りする機会をうかがっていたらしい。
「しかし、お家はどうなさるのです」
芭蕉――当時は宗房――は、不得要領だ。
彼としては、生家を支えるための奉公であり、自身としても、士分取り立てを期して仕えているので、あまり良忠に好奇心のままに振る舞って欲しくない。
「家なんぞ、どうにでもなる。それよりも今、おれが何をやるかではないか」
良忠はからからと、しかし最後にはげほげほとしながら、笑った。
「……ふぅ、とにかくだ、宗房。おれは自分の体がどんなのかぐらいはわかる。わかるからこそ、好きに生きたいではないか」
そんなことを言われると、もう、何も言えなくなる。
結局――良忠に押し切られる形で、芭蕉は彼と共に上洛した。
*
京は花の都だった。
金閣。
銀閣。
東寺。
名立たる神社仏閣。
そしてそこに住まう人々の雅なること。
「まあ、楽にしいや」
早速に訪ねた北村季吟は洒脱な人で、連歌に俳諧に楽しんでいる、という印象だった。
わりとあっさりと良忠と芭蕉の弟子入りを許してくれた。
「ほしたら、号を名乗り」
そしてすぐにも俳諧師としての号を名乗るようにと言ってくれた。
ちなみに、その時の芭蕉の号は宗房である。
「名の読みを変えただけではないか」
そう笑いながら、良忠は芭蕉を誘って、京の町へ出た。
良忠は――若者にありがちな奔放さで、京を楽しんでいた。
芭蕉はそれに引きずられるようにして、京の町を行ったり来たり、あくせくしていたが、それでも、俳諧という新たな文芸については、主・良忠と同じくらい、嵌まった。
後世、旅に生きることになる芭蕉であるが、この時の京における青春は、彼の生涯の何よりの宝物となり、よりどころとなった。
……だがそんな日々にもいずれ終わりが訪れる。
*
「国許に帰れ、だそうだ」
良忠は酷くつまらなそうな表情をして、その書状をひらひらとさせた。
体のことを心配するという主旨の文章で、藤堂藩としては他意はないと思える書状である。
「くだらん、実にくだらん。国許に戻って、何とする。おれはようやく地上に出た蝉なのだ。今さら、地中に戻って、延命など、出来るものか」
良忠は幼い頃、地中から這い出た蝉の幼虫を捕まえたことがある。竹の虫籠の中で羽化したそれは、七日七晩鳴きつづけ、終には死んだ。
手向けと思って埋めたが、それがまた蝉となって出てくることはなかった。
「……結局、地中から這いずり出でた蝉は、もう、鳴くしかないのさ。聞け、あの声を。言葉を。そうさあの声は言葉。蝉の声なんだ、言葉なんだ。それは鳴いたらそれまでのこと……また地中に戻ってやり直すなんざ、あり得ない。地上に出た以上、止むことなく、鳴くしかないのさ」
おれは蝉なんだ、とつづけようとして、良忠は咳き込んだ。
言わんこっちゃない、と芭蕉は良忠の背をさする。
「よせ」
良忠は乱暴に芭蕉の手を払いのける。
「国許には、帰らん」
「されど、京で鳴いたとして、その声は──言葉は、何の意味を持つのでしょうか」
「……意味?」
芭蕉はその時の良忠の顔が忘れられない。
「……そうだな、何の意味が、あるのだろうな」
悔恨と諦念と、そして何よりも哀しそうな、その顔を。
*
結局、良忠は伊賀に帰った。帰らされた、という方が正確かもしれない。
「良忠さま?」
ある日、人事不省で倒れた良忠を見て、芭蕉が伊賀にそれを伝えたところ、わりとあっさりと藤堂藩の者たちが来た。
「言わないことではない」
藩士たちは良忠をとがめず、芭蕉を責めず、ただ粛々と、良忠を輿に乗せて、連れ帰って行った。
芭蕉は後始末をしてから伊賀に戻ったが、再会した良忠の、あまりのやつれ様に驚愕した。
「……良忠さま、これは」
「笑えよ。親や主君の言うことを聞かず、勝手に上洛して鳴いた男の……蝉の末路を」
もはや鳴く気力もないのか、良忠は力なく笑った。
そこから先は、釣瓶落としだった。
良忠の体調は悪化の一途を辿り、句作はやめなかったものの、寝ている時間が多くなり、ついには。
「……もう、充分鳴いた」
「良忠さま!」
みずからたとえに持ち出していた蝉の如く、木から落つる蝉の如く、良忠は、逝った。
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