旅 ~芭蕉連作集~

四谷軒

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第三章 その言葉に意味を足したい ~蝉吟(せんぎん)~

01 藤堂良忠

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 しずかさや 岩にしみ入る せみの声
 
 松尾芭蕉まつおばしょう「おくのほそ道」より





 ……暑い。
 そう感じると、どっと蝉の声が聞こえて来た。

「先生」

 うしろを行く、曽良《そら》が声をかけて来た。

「少し、休みましょう」

 芭蕉より年下の彼であるが、やはり、この暑さはこたえるらしい。
 無理もない。
 季節は夏。
 場所は、羽州立石寺うしゅうりっしゃくじ
 冷涼で知られた羽州――出羽でわの国であるが、こうして実際に訪れて、立石寺の二つ名である山寺を象徴する、山の山頂にある本堂を目指す参道を登っていくと、その暑さが身にしみてくる。

「休もう」

 やはり、急角度の参道はきつい。
 中年の身である芭蕉と曽良は、ふぅと息をついて、参道の脇の苔むした石に腰かけ、竹筒の水を飲んだ。

「……それにしても、蝉がうるさいですなぁ」

 その曽良の汗を拭きながらの言葉に、芭蕉は何も答えない。
 暑かったからではない。
 忘れられない人のことを、思い出していたからだ。



 芭蕉は伊賀の生まれだ。
 伊賀にいた頃、少年時代の芭蕉は、士分でもなく、生家が貧しかったこともあり、侍に仕えることにした。
 当時――伊賀は藤堂高虎を藩祖とする藤堂藩の領地であり、どういう伝手をたどったのか、芭蕉は藤堂家の連枝である藤堂主計良忠とうどうかずえよしただ扈従こじゅうとなった。
 扈従といえば聞こえはいかにも武士然としているが、実際は厨房で包丁を握っていた。
 ただ、芭蕉は良忠の二歳下であり、同世代ならではの味覚や感性が似通っていることもあり、良忠のお気に入りとなった。

宗房むねふさ、京へ行こう」

 宗房とは、当時の芭蕉の名乗りである。
 良忠のこの誘いに、芭蕉は仰天した。
 良忠は体が弱い。いわゆる、蒲柳ほりゅうたちである。
 芭蕉はそんな良忠のために工夫を凝らして料理をしていたのだが、ある日、そうやって苦労してこしらえた膳を供すると、そんなことを言ってきたのである。

「そんな顔するな」

 良忠はにこやかに笑った。

宗房お前の包丁があれば、京でも体を壊さずに済みそうだ。それだけだ」

 こうなると良忠は止まらない。
 蒲柳の質ではあるが、探求心や冒険心に溢れる男だ。
 かねてから俳諧の達人・北村季吟きたむらきぎんに弟子入りする機会をうかがっていたらしい。

「しかし、お家はどうなさるのです」

 芭蕉――当時は宗房――は、不得要領だ。
 彼としては、生家を支えるための奉公であり、自身としても、士分取り立てを期して仕えているので、あまり良忠に好奇心のままに振る舞って欲しくない。

「家なんぞ、どうにでもなる。それよりも今、おれが何をやるかではないか」

 良忠はからからと、しかし最後にはとしながら、笑った。

「……ふぅ、とにかくだ、宗房。おれは自分の体がどんなのかぐらいはわかる。わかるからこそ、好きに生きたいではないか」

 そんなことを言われると、もう、何も言えなくなる。
 結局――良忠に押し切られる形で、芭蕉は彼と共に上洛した。



 京は花の都だった。
 金閣。
 銀閣。
 東寺。
 名立たる神社仏閣。
 そしてそこに住まう人々の雅なること。

「まあ、楽にしいや」

 早速に訪ねた北村季吟は洒脱な人で、連歌に俳諧に楽しんでいる、という印象だった。
 わりとあっさりと良忠と芭蕉の弟子入りを許してくれた。

「ほしたら、号を名乗り」

 そしてすぐにも俳諧師としてのを名乗るようにと言ってくれた。
 ちなみに、その時の芭蕉の号は宗房そうぼうである。

「名の読みを変えただけではないか」

 そう笑いながら、良忠は芭蕉を誘って、京の町へ出た。
 良忠は――若者にありがちな奔放さで、京を楽しんでいた。
 芭蕉はそれに引きずられるようにして、京の町を行ったり来たり、あくせくしていたが、それでも、俳諧という新たな文芸については、主・良忠と同じくらい、まった。
 後世、旅に生きることになる芭蕉であるが、この時の京における青春は、彼の生涯の何よりの宝物となり、よりどころとなった。

 ……だがそんな日々にもいずれ終わりが訪れる。



国許くにもとに帰れ、だそうだ」

 良忠はひどくつまらなそうな表情をして、その書状をひらひらとさせた。
 体のことを心配するという主旨の文章で、藤堂藩としては他意はないと思える書状である。

「くだらん、実にくだらん。国許に戻って、何とする。おれはようやく地上に出た蝉なのだ。今さら、地中に戻って、延命など、出来るものか」

 良忠は幼い頃、地中から這い出た蝉の幼虫を捕まえたことがある。竹の虫籠の中で羽化したは、七日七晩鳴きつづけ、ついには死んだ。
 手向けと思って埋めたが、それがまた蝉となって出てくることはなかった。

「……結局、地中から這いずり出でた蝉は、もう、鳴くしかないのさ。聞け、あの声を。言葉を。そうさあの声は言葉。蝉の声なんだ、言葉なんだ。それは鳴いたらそれまでのこと……また地中に戻ってやり直すなんざ、あり得ない。地上に出た以上、むことなく、鳴くしかないのさ」

 おれは蝉なんだ、とつづけようとして、良忠は咳き込んだ。
 言わんこっちゃない、と芭蕉は良忠の背をさする。

「よせ」

 良忠は乱暴に芭蕉の手を払いのける。

「国許には、帰らん」

「されど、ここで鳴いたとして、その声は──言葉は、何の意味を持つのでしょうか」

「……意味?」

 芭蕉はその時の良忠の顔が忘れられない。

「……そうだな、何の意味が、あるのだろうな」

 悔恨と諦念と、そして何よりも哀しそうな、その顔を。
 


 結局、良忠は伊賀に帰った。帰らされた、という方が正確かもしれない。

「良忠さま?」

 ある日、人事不省で倒れた良忠を見て、芭蕉が伊賀にそれを伝えたところ、わりとあっさりと藤堂藩の者たちが来た。

「言わないことではない」

 藩士たちは良忠をとがめず、芭蕉を責めず、ただ粛々と、良忠を輿こしに乗せて、連れ帰って行った。
 芭蕉は後始末をしてから伊賀に戻ったが、再会した良忠の、あまりのやつれ様に驚愕した。

「……良忠さま、これは」

「笑えよ。親や主君の言うことを聞かず、勝手に上洛して鳴いた男の……蝉の末路を」

 もはや鳴く気力もないのか、良忠は力なく笑った。
 そこから先は、釣瓶落としだった。
 良忠の体調は悪化の一途を辿り、句作はやめなかったものの、寝ている時間が多くなり、ついには。

「……もう、充分鳴いた」

「良忠さま!」

 みずからたとえに持ち出していた蝉の如く、木から落つる蝉の如く、良忠は、逝った。
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