旅 ~芭蕉連作集~

四谷軒

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第三章 その言葉に意味を足したい ~蝉吟(せんぎん)~

02 芭蕉

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 芭蕉にとっての、青春が終わった。
 藤堂良忠という人物は、松尾芭蕉という人物の人生において、それだけの重きをなしていた。
 単に、主君というだけではない。士分への道筋のというだけではない。
 何よりも、共に京へ行き、学び、そして遊んだ仲だった。
 主従という枠を超え、俳諧の友であり、好敵手であった。

「……良忠さま」

 藤堂家から致仕ちしの打診を待たず、芭蕉は出家した。士分ではないので、殉死はできない。そういう立場の、芭蕉なりのけじめであった。

「でも、今思えば」

 芭蕉は良忠の遺髪を高野山へ運ぶ一行に加わって歩きながら、思った。

「士分に取り立てなかったのも、私に生きろ、という意味では」

 そうはいっても、今となっては、良忠の意思を確かめようもない。
 今、良忠はその菩提ぼだいとむらわれようとしている。
 物言わぬ身だ、何もこたえようはずがない。

「あたかも……良忠さま自身がたとえた、八日目の蝉のように。もはや、その鳴き声は聞こえない。言葉は発せられない。だとしたら」

 だとしたら、どうすれば良いのだ。
 生者は、死者の鳴き声を、言葉をどう聞けばいい。どう意味を読み取ればいい。
 物言わぬ者の残した、その言葉を。
 それは、こうして今、黙々と高野山を歩む中の、この静かさに飲み込まれ、消えてしまうという運命さだめなのか。

「……あゝ」

 静寂しじまに響く、芭蕉の声。
 これもまた、鳴き声か。
 同行の藤堂家の者は、芭蕉が感極まったとでも思ったのか、特に指摘もせず、それを黙殺した。
 それはまるで。

「良忠さまの……蝉の、吟ずる声のように、言葉のように」

 無意味なのか。
 そうなのか。

「…………」

 その答えが見出せないまま、芭蕉は高野山を歩んだ。



 それから。
 江戸に出た芭蕉は、良忠と共に学んだ俳諧の才を開花させ、まず桃青と号し、ついで芭蕉はせをと号して、当時流行りの滑稽こっけいさから一歩身を引き、独自の俳諧の境地を模索していた。

「だが結局のところ、どのような俳諧を――声を出せば良いのか。鳴けば良いのか」

 判然としない。
 何となく、曖昧模糊とした「行き先」は見えているような気がしたが。

「滑稽な俳諧も良い。だがそれだけでなく……もっとこう……蝉の鳴く賑やかさだけでなく、七日七晩鳴いたあとの、蝉のような……そういう、哀しいというか、何というか、そういうのを……」

 江戸で俳諧師としていくばくかの名声を得た。
 だがそれが、何になろう。
 それこそ、蝉の鳴き声と同じだ。
 多少は耳に残る。
 それだけだ。

「良忠さま……」

 芭蕉は無性に、かつての主君に会いたく思った。
 でもそれは、今となってはかなわない。

「いや」

 一度、伊賀に帰ろう。
 思えば、母の墓参もしていない。
 それに、この殷賑いんしんを極めた江戸にも、飽き飽き、否、辟易へきえきしている。
 また、それだけではなく。

「こういう……旅に出て、旅に行くことこそが、目指す俳諧の『行き先』に近づくことかと思う」

 そうだ、という声が、どこかから聞こえた気がした。



 江戸から伊賀、伊賀から江戸と旅して、芭蕉は何か変わった。
 表面上は何か変わったということはないが、内面で、何かが変わった。
 あるいは、元々持っていたものが、表に出ようとしている……そんな感覚だった。
 伊賀で母の墓参を終え、次いで、旧主・良忠の冥福を祈ったが、特に故人が夢枕に立つということはなく、それよりも、俳諧について考え、悩み、そうしている時に、聞こえるものがあり、そうして何かが変わっていくのだ。

「……それにしても」

 今、江戸の家にいながら、芭蕉は回想する。
 旅はいいものだった。
 徳川家康により天下統一がなされ、七十年あまり。
 家康の江戸幕府のもたらした天下泰平により、この国は旅の行き来がし易くなった。
 野盗、偸盗のたぐいはいるが、それでも、合戦に巻き込まれるということは無い。

「今こそ、この国を旅するべきではないか。この天下泰平の世だからこそ、旅をして、俳諧に何か新しき風を吹き込む時ではないか」

 その時。
 急に、物思いにふける芭蕉の耳に、音が響いた。

 ぽちゃん。

 庭の池に蛙が飛び込んだ音だろうか。
 そうでないかもしれない。
 そして、今となってはしんとして、もうその音は聞こえない。
 庭に出れば、何故そんな音が生じたのか、あるいは池に泳ぐ蛙を見て、ああそういうことかとわかるかもしれない。

「古池や」

 かわず飛ンだる水の音、とつづけるべきか。

「いや」

 何というか、率直に過ぎる。
 もっとこう、音のことを、強調することにより……今のこの、しんとした感じを……。

「そうだ」

 古池や 蛙飛び込む 水の音

 これなら。
 これなら……飛び込むその瞬間を。あるいはその直後を。

「この句を見たものの頭に……」

 そこまで言って、考えた。
 一体、自分はこの句で、何を表現したかったんだろう。
 あの、一瞬で。
 何を。
 それこそが。

「良忠さまの、もしくはこの芭蕉の、『行き先』を指し示すものでは」

 芭蕉はまた、旅に出ることにした。
 今の、境地。
 それを知るためには、旅は必要不可欠。
 そう思ったからである。
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