8 / 8
第三章 その言葉に意味を足したい ~蝉吟(せんぎん)~
03 蝉吟(せんぎん)
しおりを挟む
鹿島へ。
伊勢へ。
更科へ。
芭蕉の旅はつづいた。
「思えば、私淑している李白や杜甫も、旅に生き、旅に死んだ。ここにこそ、私の求める俳諧の『行き先』があるのかもしれない」
そう、本邦においても、西行という偉大な先達がいる。
かの西行もまた、旅の中でその和歌の才を磨いたとされる。
「それにしても……」
その西行法師にしてからが、その発する歌が残ったからいいものの、もし、残らなかったとしたら、法師はいったい、どう思うのだろうか。
「…………」
そこから先は、西行を心の中で擬するのではなく、己自身で考え、思うことが肝心だと思えた。
「……ならば、参るか」
みちのくへ。
西行が旅したという、みちのくへ。
元禄二年三月二十七日(一六八九年五月十六日)。
松尾芭蕉、「おくのほそ道」の旅に出る。
その旅の中で、自らの求める俳諧の「行き先」があると信じて。
*
「……思えば遠くへ来たものだ」
「え? 何か言いましたか?」
「いや……」
羽州立石寺。
舞台はふたたび、ここに戻る。
みちのくへの旅を発起した芭蕉は、弟子の曽良をともない、千住を発ち、白河を抜け、仙台に遊び、そして平泉を経て、この山寺(立石寺)までやって来た。
やって来たとたん、この蝉時雨だ。
「うるさいですな」
また、曽良がそう言った。
涼もうとしているところに、この大合唱である。
苦言の一つも呈したくなるというものである。
だが。
「そうでしょうか」
回想を終えた芭蕉にとっては、蝉の声はむしろそこまでうるさくはない。
どちらかというと、蝉の声以外は聞こえず、そこに……。
「静かだ……」
そこで、はっとした。
蛙の飛び込む音。
蝉の鳴く声。
人の残した言葉。
それらは、音があるからこそ、声があるからこそ、響いたからこそ。
否、あったからこそ。
「静かだ、そう、閑なんだ」
森とした、この状況、この感じ。
動と静、その静。
閑。
「閑さや……」
蝉の声。
蝉の声は鳴いて終わる。
鳴いて終わるが、そこから訪れるものがある。
静寂がある。
蝉は何で鳴く?
それは、ここにいるという言葉なのかもしれない。
鳴いて、啼いて。
哭いたあとにこそ。
閑寂が訪れる。
でもそれは、忌避すべきものではない。
かといって、持ち上げるべきものではない。
ただ、あるがままに。
鳴いて、終わって、静かになって。
そんな、瞬間を。
そこからつづく、永遠を。
静寂を。
閑寂を。
その瞬間から永遠へ、あるいはその瞬間の前へと思いをはせる。
そんな。
句を。
「岩に……しみ入る」
良忠さま。
今こそ。
あなたさまの。
号を。
「……蝉の声」
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
古今屈指の名句。
それが吟じられた瞬間である。
*
「蝉吟、というんだ」
「蝉……吟?」
「そうだ」
藤堂良忠は、からからと笑った。そしてそのあと咳き込む。
上洛して首尾よく北村季吟に弟子入りした良忠は、その師の「吟」の一字を賜って、俳諧師としての号を名乗ることになった。
良忠はそこで、一も二もなく「蝉吟」という号を選んだ。
「なにゆえ蝉でございますか?」
芭蕉は――当時は宗房は、名前をそのまま読み換えて「宗房」と名乗った。
俳諧師の号の上とはいえ、主君・良忠と同列の不敬を冒すことを畏れたのである。
「蝉が好きなんだ」
暑い京の夏。
それをさらに暑くする、シャアシャアという蝉の声。
「だってお前」
良忠――蝉吟はつづける。
「おれはここにいる、そう鳴いているように思えるだろう?」
蝉吟はそれ以上何も言わなかったが、あとで思えば、そう鳴いたあとの蝉の運命をも、考えた上での名乗りだったかもしれない。
……そして、そう鳴いたあとの閑寂をも意識していたのかもしれない。
*
今となっては、わからない。
けど。
「蝉の声がたしかに在り……だからこそ閑さがある。また、閑さがあるからこそ、蝉の声が……」
あゝ。
これだ。
これこそが。
こういう境地こそが。
芭蕉の。
蝉吟の。
「行き先」だったのかもしれない。
「良忠さま……いえ、蝉吟どの、宗房あらため芭蕉、今ここに、あなたさまに……一句、吟じましてござりまする」
いつしか着いていた山寺にて。
芭蕉は祈り、吟じ、傍らにいた曽良は必死に書き留めていた。
芭蕉はそれを見て、ふ、と微笑む。
思えば遠くへ来たものだ。
されど、その遠くへ来たからこそ、旅に出たからこそ。
あのような句が。
蝉吟の思いが。
この身にしみ入って来たのかもしれない。
「……行きましょう」
旅はつづく。
俳諧を作る道はつづく。
今、ひとつの境地を迎えたとて、また次の何かがあるかもしれない。
蝉は鳴きつづける。
その命、尽きるまで。
「蝉吟どの……」
曽良が書き物を片づけたのを見て、芭蕉は杖を握った。
立ち上がった曽良は問いかける。
「蝉吟どの、とは」
芭蕉は微笑む。
「道すがら、話しましょう」
……蝉が鳴いていた。
【了】
伊勢へ。
更科へ。
芭蕉の旅はつづいた。
「思えば、私淑している李白や杜甫も、旅に生き、旅に死んだ。ここにこそ、私の求める俳諧の『行き先』があるのかもしれない」
そう、本邦においても、西行という偉大な先達がいる。
かの西行もまた、旅の中でその和歌の才を磨いたとされる。
「それにしても……」
その西行法師にしてからが、その発する歌が残ったからいいものの、もし、残らなかったとしたら、法師はいったい、どう思うのだろうか。
「…………」
そこから先は、西行を心の中で擬するのではなく、己自身で考え、思うことが肝心だと思えた。
「……ならば、参るか」
みちのくへ。
西行が旅したという、みちのくへ。
元禄二年三月二十七日(一六八九年五月十六日)。
松尾芭蕉、「おくのほそ道」の旅に出る。
その旅の中で、自らの求める俳諧の「行き先」があると信じて。
*
「……思えば遠くへ来たものだ」
「え? 何か言いましたか?」
「いや……」
羽州立石寺。
舞台はふたたび、ここに戻る。
みちのくへの旅を発起した芭蕉は、弟子の曽良をともない、千住を発ち、白河を抜け、仙台に遊び、そして平泉を経て、この山寺(立石寺)までやって来た。
やって来たとたん、この蝉時雨だ。
「うるさいですな」
また、曽良がそう言った。
涼もうとしているところに、この大合唱である。
苦言の一つも呈したくなるというものである。
だが。
「そうでしょうか」
回想を終えた芭蕉にとっては、蝉の声はむしろそこまでうるさくはない。
どちらかというと、蝉の声以外は聞こえず、そこに……。
「静かだ……」
そこで、はっとした。
蛙の飛び込む音。
蝉の鳴く声。
人の残した言葉。
それらは、音があるからこそ、声があるからこそ、響いたからこそ。
否、あったからこそ。
「静かだ、そう、閑なんだ」
森とした、この状況、この感じ。
動と静、その静。
閑。
「閑さや……」
蝉の声。
蝉の声は鳴いて終わる。
鳴いて終わるが、そこから訪れるものがある。
静寂がある。
蝉は何で鳴く?
それは、ここにいるという言葉なのかもしれない。
鳴いて、啼いて。
哭いたあとにこそ。
閑寂が訪れる。
でもそれは、忌避すべきものではない。
かといって、持ち上げるべきものではない。
ただ、あるがままに。
鳴いて、終わって、静かになって。
そんな、瞬間を。
そこからつづく、永遠を。
静寂を。
閑寂を。
その瞬間から永遠へ、あるいはその瞬間の前へと思いをはせる。
そんな。
句を。
「岩に……しみ入る」
良忠さま。
今こそ。
あなたさまの。
号を。
「……蝉の声」
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
古今屈指の名句。
それが吟じられた瞬間である。
*
「蝉吟、というんだ」
「蝉……吟?」
「そうだ」
藤堂良忠は、からからと笑った。そしてそのあと咳き込む。
上洛して首尾よく北村季吟に弟子入りした良忠は、その師の「吟」の一字を賜って、俳諧師としての号を名乗ることになった。
良忠はそこで、一も二もなく「蝉吟」という号を選んだ。
「なにゆえ蝉でございますか?」
芭蕉は――当時は宗房は、名前をそのまま読み換えて「宗房」と名乗った。
俳諧師の号の上とはいえ、主君・良忠と同列の不敬を冒すことを畏れたのである。
「蝉が好きなんだ」
暑い京の夏。
それをさらに暑くする、シャアシャアという蝉の声。
「だってお前」
良忠――蝉吟はつづける。
「おれはここにいる、そう鳴いているように思えるだろう?」
蝉吟はそれ以上何も言わなかったが、あとで思えば、そう鳴いたあとの蝉の運命をも、考えた上での名乗りだったかもしれない。
……そして、そう鳴いたあとの閑寂をも意識していたのかもしれない。
*
今となっては、わからない。
けど。
「蝉の声がたしかに在り……だからこそ閑さがある。また、閑さがあるからこそ、蝉の声が……」
あゝ。
これだ。
これこそが。
こういう境地こそが。
芭蕉の。
蝉吟の。
「行き先」だったのかもしれない。
「良忠さま……いえ、蝉吟どの、宗房あらため芭蕉、今ここに、あなたさまに……一句、吟じましてござりまする」
いつしか着いていた山寺にて。
芭蕉は祈り、吟じ、傍らにいた曽良は必死に書き留めていた。
芭蕉はそれを見て、ふ、と微笑む。
思えば遠くへ来たものだ。
されど、その遠くへ来たからこそ、旅に出たからこそ。
あのような句が。
蝉吟の思いが。
この身にしみ入って来たのかもしれない。
「……行きましょう」
旅はつづく。
俳諧を作る道はつづく。
今、ひとつの境地を迎えたとて、また次の何かがあるかもしれない。
蝉は鳴きつづける。
その命、尽きるまで。
「蝉吟どの……」
曽良が書き物を片づけたのを見て、芭蕉は杖を握った。
立ち上がった曽良は問いかける。
「蝉吟どの、とは」
芭蕉は微笑む。
「道すがら、話しましょう」
……蝉が鳴いていた。
【了】
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる