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03 救いの手
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「何や」
ふと悪い予感がして、岩倉具視は、謡曲を止めた。
そう言えば家族のみんなが、気を遣ってくれたのか、もう誰もいない。
妻は分かる。きっと買い物だ。
子どもたちは?
川遊びでもしているのだろうか。
「釣り竿が無い。釣りぃしとんのか?」
洛中のせせこましい暮らしに嫌気が差していたのは知っている。
だからせめて、岩倉村では思い切り遊ばせてやろうと大目に見て来た。
「しゃあけど、ちと遅いんやないか」
もし、洛中の高瀬川のつもりでやっているんなら、注意が必要か。
「浅い高瀬川とは訳がちがうんやで。よっしゃ、待っとき」
これが杞憂なら、一緒に釣りに興じれば済むこと。
岩倉はひとつ伸びをすると、駆け始めた。
*
「兄ちゃん、兄ちゃん!」
「八千麿! 川の流れに逆らうな! 暴れるともっとアカンでぇ!」
川に流される八千麿を追い、具定は釣り竿を放り出して川原を走った。
しかし、今は農家も一服時か、人影がまるで見えない。
助けを求めるにも求めようがない。
「諦めるな! 八千麿! 絶対助けるからなぁ!」
とは言うものの、八千麿は恐怖で硬直しているように見える。
こうなれば。
具定は服を脱いで、褌一丁になった。
「絶対、助けたるからなぁ!」
その時だった。
具定の後ろから、自分を追い抜いていく父親の背中を見た。
「吾子を救えずして国を救えず!」
「お父さま!」
岩倉は着の身着のままで、そのまま川へ飛び込む体勢である。
具定は、それでは危ない、服が重くなって溺れる、と言おうとした。
その時。
「ほたえなッ」
具定は父親の横から文字通り疾走してきた侍が、あろうことかその父親の顔面に蹴りを呉れて、つき転ばせる光景を見た。
ちなみに「ほたえな」は「騒ぐな」という土佐弁だと、発言した当人から、後で具定は聞いた。
しかし今、そんなことより何が何だか分からないという表情をしていた具定の目の前で、侍はおもむろに腰の刀を外し、服を脱ぎ始めた。
うう、という声を洩らして鼻血を出している岩倉に、「すまぬ」と詫びてから、侍は言った。
「僕が行ってくるきに、刀と服を頼む!」
均整の取れた筋肉質の体を躍動させ、侍は川へざんぶと飛び込んだ。
そして侍は、見事な抜き手であっという間に八千磨が流されたところまで泳ぎ着き、八千磨に手を差し出した。
「慌てんとき。僕の手ぇに捉まって。そしたらそのまま僕の体に抱きついて。大丈夫、僕は沈まん。溺れん」
どちらかというと炯々とした眼光を具えた侍だったが、語り口は柔和で、優しかった。
八千磨は素直に言われたとおりに侍の手をつかみ、手繰り寄せ、そしてそのまま侍に抱きついた。
「安心せえ、僕はもっときつい奈半利の川で、毎日泳いどったんじゃ」
すいすいと、侍は八千磨を抱えたまま、岸にたどり着いた。
「八千磨!」
「八千磨!」
岩倉と具定が、侍に抱えられた八千磨に、飛びつくように近づいてきた。
「大丈夫じゃ」
侍はからからと笑った。
「そこの坊主の言うとおり、流れに逆らわず、変に力を使わなかったのが良かった。気ぃも確りしとるし。息も大丈夫……どうした?」
八千磨は何やらむず痒いような顔をすると、わっと叫んで、着物の中に手を入れた。
「何、これ、兄ちゃん? へ、蛇が着物の中に……」
「蛇?」
「お、そいつはもしや……」
すると侍は八千磨を下ろし、その着物の中に手を突っ込んだ。
侍が「ふん!」と言って、手を硬直させ、そしてそのまま手を着物の中から出した。
「鰻じゃ。こりゃ、儲けもんじゃのう、坊主」
ふと悪い予感がして、岩倉具視は、謡曲を止めた。
そう言えば家族のみんなが、気を遣ってくれたのか、もう誰もいない。
妻は分かる。きっと買い物だ。
子どもたちは?
川遊びでもしているのだろうか。
「釣り竿が無い。釣りぃしとんのか?」
洛中のせせこましい暮らしに嫌気が差していたのは知っている。
だからせめて、岩倉村では思い切り遊ばせてやろうと大目に見て来た。
「しゃあけど、ちと遅いんやないか」
もし、洛中の高瀬川のつもりでやっているんなら、注意が必要か。
「浅い高瀬川とは訳がちがうんやで。よっしゃ、待っとき」
これが杞憂なら、一緒に釣りに興じれば済むこと。
岩倉はひとつ伸びをすると、駆け始めた。
*
「兄ちゃん、兄ちゃん!」
「八千麿! 川の流れに逆らうな! 暴れるともっとアカンでぇ!」
川に流される八千麿を追い、具定は釣り竿を放り出して川原を走った。
しかし、今は農家も一服時か、人影がまるで見えない。
助けを求めるにも求めようがない。
「諦めるな! 八千麿! 絶対助けるからなぁ!」
とは言うものの、八千麿は恐怖で硬直しているように見える。
こうなれば。
具定は服を脱いで、褌一丁になった。
「絶対、助けたるからなぁ!」
その時だった。
具定の後ろから、自分を追い抜いていく父親の背中を見た。
「吾子を救えずして国を救えず!」
「お父さま!」
岩倉は着の身着のままで、そのまま川へ飛び込む体勢である。
具定は、それでは危ない、服が重くなって溺れる、と言おうとした。
その時。
「ほたえなッ」
具定は父親の横から文字通り疾走してきた侍が、あろうことかその父親の顔面に蹴りを呉れて、つき転ばせる光景を見た。
ちなみに「ほたえな」は「騒ぐな」という土佐弁だと、発言した当人から、後で具定は聞いた。
しかし今、そんなことより何が何だか分からないという表情をしていた具定の目の前で、侍はおもむろに腰の刀を外し、服を脱ぎ始めた。
うう、という声を洩らして鼻血を出している岩倉に、「すまぬ」と詫びてから、侍は言った。
「僕が行ってくるきに、刀と服を頼む!」
均整の取れた筋肉質の体を躍動させ、侍は川へざんぶと飛び込んだ。
そして侍は、見事な抜き手であっという間に八千磨が流されたところまで泳ぎ着き、八千磨に手を差し出した。
「慌てんとき。僕の手ぇに捉まって。そしたらそのまま僕の体に抱きついて。大丈夫、僕は沈まん。溺れん」
どちらかというと炯々とした眼光を具えた侍だったが、語り口は柔和で、優しかった。
八千磨は素直に言われたとおりに侍の手をつかみ、手繰り寄せ、そしてそのまま侍に抱きついた。
「安心せえ、僕はもっときつい奈半利の川で、毎日泳いどったんじゃ」
すいすいと、侍は八千磨を抱えたまま、岸にたどり着いた。
「八千磨!」
「八千磨!」
岩倉と具定が、侍に抱えられた八千磨に、飛びつくように近づいてきた。
「大丈夫じゃ」
侍はからからと笑った。
「そこの坊主の言うとおり、流れに逆らわず、変に力を使わなかったのが良かった。気ぃも確りしとるし。息も大丈夫……どうした?」
八千磨は何やらむず痒いような顔をすると、わっと叫んで、着物の中に手を入れた。
「何、これ、兄ちゃん? へ、蛇が着物の中に……」
「蛇?」
「お、そいつはもしや……」
すると侍は八千磨を下ろし、その着物の中に手を突っ込んだ。
侍が「ふん!」と言って、手を硬直させ、そしてそのまま手を着物の中から出した。
「鰻じゃ。こりゃ、儲けもんじゃのう、坊主」
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