オールバックを辞めない

lacconicksou77

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憂喜美波 2

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「オールバックを、辞めないいいいいいい!!!!」
「テメエ。待ちなさいよ。コラアアアアアアアア」
 廊下から断末魔のような声が聞こえた。
 教室の窓から覗くと、鬼のような形相をした渡辺と、渡辺から逃げる伊勢谷君の姿があった。二人は物凄い速さで教室の方へ近付いてきたかと思うと、あっという間に通り過ぎていった。
「ちょっと、何あれ。行ってみようよ」
 夏帆が気になる映画でも見つけたかのように言うと、結衣と私の三人は教室を飛び出した。普段の私なら、めんどくさいという感情を隠して、いかにも興味津々といった表情を作ってから二人と行動しているだろうが、今回ばかりは私も乗り気だった。
 二人はドタバタと音を立てながら、廊下を曲がって階段を駆け上がっていた。
 私達は追い掛けた。後ろからあの冴えない三人組もついて来ていた。
 廊下の突き当たりに来ると、右に曲がって階段を登る。二階と三階の踊り場で、下級生と思しき学生とぶつかりそうになる。「ごめんね~」と結衣が言う。下級生達の舌打ちを聞きながら私達は止まらずに走る。
 三階から四階へ上がる踊り場で、屋上に入っていく、二人の姿が見えた。
「屋上へ行ったよ。あの二人、どんだけ早いの」
 夏帆が息を切らしながら声を振り絞っている。「いこう」と私が言って、三人はまた走り出した。
 走ってきた勢いのままに扉を開けて、屋上に出た。
 屋上の隅に追い詰められ、万事休すといった表情の伊勢谷君と、ゴールキーパーのように腕を広げて伊勢谷君を逃さんとする渡辺といった構図だ。攻め手は渡辺のほうだが。
「さあ。もう観念しろ。じっくり話をするだけだ。とって食いやしない」
 ハアハアと息を切らしながら絞り出すように渡辺は言葉を発した。汗をかいた坊頭を雲一つない青空が照らしている。
 渡辺がジリジリと距離を詰めていく。伊勢谷君はとうとう柵の隅にまで追いやられた。逃げ場はない。すると何を思ったのか、伊勢谷君が柵に足をかけた。
「おおおおおい。辞めなさいよ」
 渡辺が慌てて声を出す。結衣と夏帆も「きゃあ」と声を上げた。いつの間にか私達の後ろにいた冴えない三人組も「うおおお」と声を上げる。
 ここは四階建ての校舎の屋上。落ちたらひとたまりもない。
「おい、早まるな伊勢谷。落ち着け。一先ず、足を下ろすんだ」
 渡辺に言われ伊勢谷君は足を下ろした。その場にいた皆が安堵の溜息を吐く。
 渡辺が安堵のあまり、腰を曲げて膝で体を支える姿勢になる。それを見た伊勢谷君は、また柵に足をかける。渡辺が体を起こして「おい」と焦る。伊勢谷君は足を下ろす。渡辺が安堵すると、また足に柵をかける。渡辺が焦る。伊勢谷君の表情は大して変わらないが、渡辺の反応を見て薄く笑っているのが分かる。どうやらおちょくっているようだ。何度かそのやりとりを繰り返して、自分がおちょくられているという事実に渡辺も気が付いたのだろう。「いい加減にしろよ」痺れを切らした渡辺が伊勢谷君に飛びかかった。
 渡辺の渾身のタックルを、伊勢谷君はマントも使わず、闘牛士のようにひらりとかわした。お寺で叩く鐘のような、渡辺の頭と柵のぶつかる音が屋上に響いた。
 チャンスとばかりに伊勢谷君はこちらへ向かって走り出した。私達はさっと体を避ける。伊勢谷君は屋内への出入り口の扉を勢いよく開けて振り返った。
「俺は!オールバックを辞めない」
 バタリ音を立てて扉が閉まると、扉の奥から階段をドタドタと駆け下りる音が聞こえた。

「なんだったんだろうね、あれ」
「なんだか分からないけど、凄かったよな」
 夏帆と結衣と私。それから冴えない三人組はさっき見た、渡辺と伊勢谷君との一騎討ちについて話しながら、教室に戻るため、階段を降りていた。冴えない三人組は私達と話をしていることが余程嬉しいのだろう。終始声がうわっずっている。
 伊勢谷君が屋上を出た後。頭を打って天を仰いでいる渡辺に「大丈夫ですか」と声をかけたが「もうすぐ授業が始まるのに何をしているんだ」と怒られたので手を貸さずに放置してやることにした。

 教室に戻ると、伊勢谷君は自席に座り、何事もなかったかのように小説を読んでいた。


「ごめん。私、財布忘れちゃった。先に行ってて」
「もう何してるのよ美波。分かった。いつもの席とっておくね」
 四限目終了のチャイムがなり、食堂へ向かう途中だった。
 私達、というよりはこの学校の生徒はほとんど、食堂へ行く人は勿論、弁当を持ってきている人達も大半が教室を出て昼食をとる。この学校の学校の暗黙のルールのようなものがあった。
 私が財布を忘れたというのはもちろん、嘘だ。暗黙のルールがあるにも関わらず、伊勢谷君は一人教室で食事をしていることを知っていた私は、話がしたいと思って、教室に戻る口実のために財布を忘れたフリをしたのだ。
 幼ない頃の遠足の前日のようにワクワクしているのを感じた。足早に教室への道のりを戻る。階段を登って廊下を曲がり、教室の前へ辿り着いた時だった。
「俺はオールバックを辞めないい~」
 教室の中から、語尾にビブラートを聞かせた伊勢谷君の決まり文句が聞こえてきた。しかし、声が伊勢谷君のものとは違っていた。
 黒板側の扉からバレないように教室の中を覗き込む。冴えない三人組が、自席で小説を読む伊勢谷君を取り囲んでいた。一人は私の席に座りもう一人は結衣の席に。もう一人は西田の席に座っている。
「ははは。似てるじゃん伊藤」
「そうだろ。モノマネグランプリにでも出ようかな」
 素人のモノマネを見て誰にウケるのか分からないが、西田の席に座る伊藤と呼ばれた冴えない君は、結衣の席に座る冴えない君の言葉に、満足気に笑った。
「てかさ。お前、その髪型がカッコいいと思ってんの?」
 伊藤と呼ばれた冴えない君が、小説を読む伊勢谷君を覗き込むようにして睨み付ける。伊勢谷君は小説の位置をズラして構わず読み続ける。
「おい。聞けよお前。あんまり調子に乗ってると痛い目に合わすぞ」
 その態度に腹を立てたのか、結衣の席に座っていた冴えない君が、立ち上がって凄んだ。私の席に座っている冴えない君が、伊勢谷君の椅子を引っ張る。伊勢谷君は大勢を崩したが、椅子を直して再び小説を読み始める。
「いい加減にしろよ!」
 結衣の席に座る冴えない君が、怒鳴り声を上げて伊勢谷君の読んでいた小説を奪い取って、教室の反対側へ放り投げた。
 流石にやりすぎだと私は止めに入ろうとしたが、伊勢谷君は何食わぬ顔で、机の中に手を入れると別の小説を取り出し、途中からページを開いて読み始めた。あまりに素っ頓狂な行動に思わず私は吹き出しそうになる。だが、冴えない三人組の怒りを更に買うだろう。
「お前。俺たちのこと馬鹿にしてるだろ」
 私の思った通り、結衣の席に座っていた冴えない君は、さらに怒りを露わにして、新しく読み始めた小説も投げ飛ばし、伊勢谷君の髪の毛を鷲掴みにした。
「おい。伊藤。こいつの髪切ってやろうぜ」
 予めこうする算段だったのだろう。伊藤と呼ばれた冴えない君はポケットからハサミを取り出し、伊勢谷君の髪にハサミを入れようとした。
 すると、伊勢谷君は机を力一杯押し、結衣の席に座っていた冴えない君を突き飛ばした。一瞬の出来事だった。ハサミを持った伊藤と呼ばれた冴えない君は足を強打し、突き飛ばされた冴えない君は、ガタンと音を立てて床に尻餅を着いた。
「俺はオールバックを辞めない!!!」
「いてえなあ」
 突き飛ばされた結衣の席に座る冴えない君が伊勢谷君に掴みかかる。伊勢谷君が応戦する。伊藤と呼ばれた冴えない君は打った足を押さえて悶絶している。私の席に座る冴えない君は二人の勢いに圧倒されて、あわあわとしている。
 そろそろ止めに入ろうと決めた私は扉を開けて教室へと入った。
「ちょっと。何してるのあんたたち。先生呼ぶよ!」
 伊勢谷君と取っ組み合いをしていた冴えない君は咄嗟に手を離す。冴えない三人組は悪事がバレた幼児のように急にしおらしくなる。
「い、いや、違うんだ。美波さん。これはこいつが……」
「気安く下の名前で呼ぶな。それと何勝手に私の席に座ってんのよ。汚い。痔が写る」
 私の席に座っていた冴えない君は私の暴言に泣きそうな表情になった。私は自分の席まで移動し、鞄から財布を取り出す仕草をしてから、教室の反対側の扉へと向かった。
「あんたたちさ。西田とか岡本がいない時に限ってそうやって調子乗って弱いもの苛めして。プライドとかないの?ほんっと気持ち悪い」
 そう言って私はわざと大きな音を立てて扉を閉めた。冴えない三人組がビクリと肩を震わせたのを確認した。岡本とは、西田の親友であり、クラスのヒエラルキーのトップに位置する野球部のエースのことだ。
 岡本と西田の名前を出した上に、あれだけ自尊心を傷付けるような辛辣な言葉を吐いたら、あれ以上伊勢谷君に絡むようなことはしないだろう。冴えない三人組のようなヒエラルキーに位置する者達は、上の者に取り入りたいと考えている。自分達の悪事が、上の者に漏れないかと今頃不安で一杯だろう。もちろん私はそんなことをするつもりはないが。

 私は冴えない三人組がずっと嫌いだった。
 三人組がよってたかって、下の者に悪事を働いていた姿を見たのは、これが初めてではなかったのだ。
 大した努力もしようともせず、上のには媚び諂って、自分達の地位を更に落とさないために、下の者には伊勢谷君にしていたように、徒党を組んで嫌がらせや攻撃をする。そんな態度が以前から気に食わなかったのだ。
 いまだに名前を覚えていないのもそのためだ。
 ヒエラルキーのトップに行きたいなら私のように努力をすればいいのだ。それが出来ないなら他の者ように、立場を甘んじて生きていくべきだ。
 せっかくの伊勢谷君と話すチャンスも冴えない三人組のせいで逃してしまった。
 私は腹立たしい感情を必死に押さえて、遅れてしまった理由を考えながら、結衣と夏帆の待つ、食堂へと向かった。
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