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薄幸の少女と森の賢者達

04-3:森の外に向かう

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 さわさわと、心地よい風が樹々の葉を揺らす音が聞こえてくる。
 適度に湿った枯葉の積み重なった地面は、クッションのように踏み下ろした足を迎え、くしゃりと小気味いい音が辺りに響く。彩のおかげで、絨毯のようにも見える。
 木々がほぼ等間隔で並ぶ、比較的見渡しの好いその道を、鞄を背負ったアザミとシオンが手を繋いで歩いていた。

「このへんはね~、森の獣達にとっての公道みたいな場所でね~、肉食の連中も滅多に襲って来ないんだよ。みんなの場所、って暗黙のルールみたいなのがあるんだね~」
「…ここじゃないと、おそってくるの?」
「来るよ~。あいつら自分の縄張りとか領域とか、めっちゃくちゃ気にするからね~…うっかり入ったら最悪袋叩きだよ。気をつけてね?」

 ぶるぶると自分の肩を抱き、妹に語って聞かせる黒髪の少女。
 シェラは感嘆の声を漏らし、アザミの手をしっかり握ったまま、興味深げに辺りの景色を見渡す。詳しく観察する余裕は、父の元から逃げ出したあの雨の日にはなかったために、改めて自分が迷い込んだ森の深さが強く感じられた。

「この辺は……通らなかったのかな? 人の街の方からは見つかりにくい道だからねぇ」
「うん…もっといっぱいおおきな木があった。もっとあるきにくかった」
「そっかそっかぁ……どこぞの主の巣穴に入ってた時は、ほんとに驚いたけどね。使われてない昔の巣穴でほんとによかった」

 きょろきょろと周りの樹々を見渡し、一ヵ月前に通った森の中と比較していたシェラがぼそりとこぼした呟き。
 それにアザミはひくりと頬を引きつらせ、安堵から大きなため息をついていた。

「ぬし?」
「この森で一番強くて賢い奴。食物連鎖の頂点に立つ、森の獣の調整者だよ……他にもいろいろ獣はいるけど、そいつが全部の生物の長みたいな位置にいるんだよ」

 シェラが首を傾げて問いかけると、アザミは心底安堵した様子で見つめてくる。前を見ないまま歩くために、一瞬ひやりとしたものを感じたが、アザミは一切気にせず歩き続ける。

用心棒熊バウンサーベアって言ってね……一定の領域内でだけ活動するから、気をつけてれば遭遇すらしないんだけど、下手に縄張りに侵入したり、同族を脅かしたりしたら最後。地の果てまで追いかけてくるやばい奴なのよ」

 その様を見たのか、あるいはその餌食となった憐れな存在を知っているのか、アザミは微かに血の気を引かせ、遠い目で森の奥を見やる。
 その時、シェラがよそ見を擦るアザミをはらはらとした様子で見上げてくるのに気付くと、怯えているものと思い込み、慌てて表情を取り繕い、やや引き攣った笑みを見せた。

「ま、まぁ昔の巣穴だったし、大丈夫でしょ。子供が大きくなると一定期間で巣穴を変える習性があってね、一つの森の中で行ったり来たりするんだよ。それにね、別に恐いだけの奴じゃないんだ」
「そう、なの?」
「他所から入ってくる、自分の棲む森の生態系を崩しかねない外敵を追い払うっていう役目があってね、その習性から、用心棒の熊って呼ばれてるの」

 語りながら、アザミはある箇所を見やって立ち止まる。
 ごつごつとした大きな岩が積み重なり、谷の様になっているその場所。そこには大量の水が勢いよく流れていて、時に小さな石を転がして音を響かせている。
 アザミは先に岩の上に登ると、躊躇っているシェラの手を引いて、ゆっくりと誘導を行う。

「この森に、人の手が全く入ってないのはそのおかげ……少しでも人間が開拓の意志を見せようものなら、主に発破をかけられた森中の獣が襲い掛かるの。昔に一回あったんだよね、森を焼いて開こうとした一団が、物凄い数の獣に食い殺されところ」

 おっかなびっくりと言った様子で、激流を渡り終えて安堵の息をつくシェラは、耳にした話にぞっと背筋を震わせる。
 そんなにも恐ろしい獣が棲んでいた巣穴にいたと聞かされれば、今更恐怖が蘇ってもおかしくはない。あらためて、アザミに見つけて貰えた事といい、そこに獣がいなかった事といい、運がよかったと言わざるを得ない。
 アザミは青い顔で黙り込む彼女を見下ろし、脅かし過ぎたかと苦笑をこぼした。

「まぁ、あんまり気にしなくてもいいよ。縄張りさえ覚えちゃえば、向こうの機嫌を損ねる事はまずないし、多少恵みを戴いたところで、あたし達二人分くらいなら微々たる量だしね」
「……おししょうは?」
「ん? ああ…お師匠、ご飯食べないから。まぁとにかく、この森は人間よりやばい奴らがわんさかいて、基本的に人が来ない所だから、ここにいれば君の糞親父も来れないと思うよ? だから大丈夫!」

 シェラはまた感嘆の声を上げ、森での暮らしに精通しているアザミに思わず熱い視線を送る。
 アザミは自身を持ち上げる尊敬の眼差しに気を良くしてか、豊かに育った胸を大きく張り、満面の笑みを浮かべて軽い足取りで、森の中の道を進んでいく。

「そして何より、この森に住み慣れたこのあたしがいるからね! 人をぶん殴る事しか能がないクソったれ野郎なんて敵じゃないさ! あっはっはっは―――へぎゃっ!?」
「!?」

 しかし唐突に、シェラと繋がれていた手の感覚が消失し、同時にアザミの姿も消える。
 ギョッと目を見開いたシェラは、わたわたと辺りを見渡して彼女の姿を探し、やがて真下に広がっている大きな窪みに気がついた。
 アザミを見上げるばかりで、アザミは得意気に笑っていて、目前のそれの存在に気付いていなかったのだ。

「だ…だい、じょうぶ?」
「……うん、へーき。だいじょーぶ」

 恐る恐る窪みの中を覗き込み、枯葉の山に尻から突っ込んでいるアザミの安否を問う。
 少女は何処か不貞腐れた様子で返答し、のそのそと窪みの中から這い出そうとする。枯葉が柔らかすぎて、抜け出すのに苦労している彼女は、半目でシェラを見上げ、投げやりな調子で声をかけた。

「覚えておいてね、シェラ。どんなに安全な場所でも、油断してるとこうなるよ」
「……うん」

 哀愁漂う、何とも言えない言葉に、シェラは思わず神妙な表情で頷く。
 先ほどの尊敬の眼差しは、いつの間にか跡形もなく消え去っていた。
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