糸ノ神様

春風駘蕩

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第2章 現世と常世の狭間

八、とおりゃんせ とおりゃんせ

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 自宅兼、母が営む定食屋の周囲には、工場や工房、そしてそこで働く人達の為の店が多く集まっている。
 朝から晩まで職人達が働き、機械音が喧しく響いているが、日がくれて少し経つと途端に静かになる。

 いくつかまだ動いている工房もあるが、最近の風潮によって、夜遅くまで、あるいは一晩中働き続ける会社は昔よりずっと少なくなった。

 その為に、自分の帰り道は異様に静かだ。
 職人や労働者達は自宅に帰り、人気は一気になくなる。明かりのついている場所はそれだけで非常に目立つが、今日はどこにも見当たらない。


「暗……寺島のおじさんのお店、もう閉まってる。前はもうちょっと遅くまで開けてくれてたのに」


 暗い中に見えた雑貨屋の明かりは、夜道の心細さを紛らわせてくれたが、今日に限って閉められている。店主が歳だから仕方がないが、ついつい恨みがましげな目を向けてしまう。

 我慢などしなければよかった、いつもそう思う。

 家から学校まで少し距離があるのだが、手頃な位置にバス停がなく、歩いて行った方が健康にいいし節約になる。そう思って徒歩での登下校を続けている。
 時間はかかるが、普通の速度でも充分明るいうちに家に着ける為、問題はないはずだった。

 こんなにも高校生活で苦労するとわかっていれば、そんな遠慮も我慢もしなければよかった……そう切実に思った。


「……静か、だな。春ってこんなに寂しい季節だったっけ……嫌だな、こういう雰囲気、嫌いなのに」


 辺りはもう真っ暗闇で、街灯に照らされていても遠くを見通せない夜道は不気味だ。
 一人で用を足しにいけない子供じゃあるまいに、物陰から何か出てくるのでは、と情けない事を思ってしまうほどに。

 あんな用事を押し付けられなければもっと早く帰れたのに、本当に運がない。出会いに恵まれない。


「……っ、お母さん、心配してるよね……メール送ったけど見てくれてるかな。この時間混み始めるし……」


 祖父母の代から続く定食屋、それを継いだ母。
 夫、深月の父と離婚してからは、女手一つで娘と店を守り続けてきた女傑。

 ただでさえ自分の為に苦労している母を心配させたくなく、『必要な日用品を買い足しておきたい』と嘘のメールを送っておいたのだが、夕飯時のこの時間は大勢客が来る。
 忙しくて知らせも見れないまま、不安を押し殺して働いているかと思うと、申し訳なさが募る。

 一刻も早く家に、店に帰らねば……手伝わなければ。


「……走ろうかな」


 運動は苦手だ……理由は明白……だが、背に腹は変えられない。身体の一部が揺れて痛むのは我慢して、帰宅を急ぐ事だけを考えよう。
 鞄を抱え、前傾姿勢になった時だ。





《   見 ぃ  つ  け た   》





 びくっ!と目を見開いて息を呑み、硬直する。

 まただ、またあの声だ。
 あの悍ましい、姿の見えない誰かの声が、鼓膜を突き抜け脳に直接突き刺さってくる。

 寒気が背筋を走る。ぞわぞわと鳥肌が立ち、体の芯が冷え切って震えが止まらなくなる。まるで誰かに背中を濡れた手で撫でられ、弄られているような気分だ。

 そう感じた瞬間ーーー深月の体に異変が生じ出す。


「ひっ……う、ぅ、く……!!」


 突然立っていられなくなり、知らない家の塀に凭れかかって、へなへなと座り込む。

 呼吸は荒く、視界も覚束ない。ぐらぐらと頭が揺れて、とても立ち上がれない。
 何十kmも全力疾走した後の疲労が、一気に襲いかかってきたかのようだ。吐き気が凄まじく、手足からも熱が失われていく。

 何だこれは……貧血だろうか。恐怖のあまりこの身体は可笑しくなってしまったのだろうか。

 普通ではなくなってしまった、自らの身体。
 しかし深月は、硬直してしまった四肢を睨みつけ、無理矢理動かそうとする。地面に手をつき、這いながら、身体を引き摺ってその場を離れようとする。離れたくて仕方がなくなっていた。

 理由はまるでわからない……だが何となく、絶対に、ここに居続けてはならない……そう感じていた。


「はっ……は、ぁ、ひ……ふ、ぐぅ……!」


 呻き声をこぼし、立ち上がろうと踏ん張るも、ぼたぼたと脂汗が溢れ出るばかり。
 時ばかりが過ぎ、経てば経つほど焦燥が胸の内で身を焦がす。

 急げ、歩け、動け、逃げろ。
 ぞくぞくと背筋に走る寒気が強まり、心臓がうるさく脈動する。外に聞こえそうなほどに、狂ったように脈を打つ。

 早く、早く、早く。
 そう、まるで自由にならない自分の身体に懇願していると。



 こつ、こつ……と。
 夜の闇の中から近付く、足音が響き渡った。
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