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第二章 シグルド~15歳 ケヴィン~21歳 アネット~20歳(?)
二章-3
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多分ケヴィンの中には、女性の部屋はむやみに立ち入っていい場所ではなく、女性の使うベッドに腰掛けるなんてもってのほかという、がっちがちの固定観念が染みついているのだろう。
……予想していたとはいえ、そういう反応はちょっと傷つくなぁ。
焦ってベンチから飛び退いたケヴィンを眺めながら、アネットは肩をすくめた。
──今ここで、君にわたしの相手をするようにと言ったら……?
これは単なる怖がらせ。そのつもりがないことはすぐにわかった。
ケヴィンはこういうことをさせるような人じゃない。そのことは一カ月前からよく知っている。
使用人頭に頼まれて、夜の相手をするためにケヴィンの部屋を訪れた時、ケヴィンはアネットが服を脱ごうとするのを止めて、それどころか酒に酔った上での出来事を償ってくれようとした。
償わなくていいと言ったアネットに、ケヴィンが困惑した理由はわからないでもない。
酔っていたとはいえ、ケヴィンの手はアネットの体をまさぐり、唇に唇を押しつけた。
それが性的な意味合いのある触れ方だったということは、アネットにもわかっている。
でも、それだけのことだ。
最後までされたわけでもないし、ケヴィンはひどく反省していた。
そんな彼が、アネットに夜の相手をさせるわけがない。
それに。
ただ見つめられただけで言われても、怖さに欠けるのよねぇ……。
本当に怖がらせたかったら、押し倒すか、せめて手を伸ばしてくるくらいしないと。
ヘリオットならやりそうだけど、艶事にあまり縁のないらしいケヴィンは、きっとそういうことに考えが及ばなかったのだろう。
ただ、そのようにされたからといって、実際にアネットが怖いと思うかどうかはわからない。
──だったらお相手しますよ?
本気、というか、実際そういうことになっても、別にかまわなかった。
初めての相手がケヴィンだったららっきーだとホントに思うし、ケヴィンが悪い女につかまってしまうくらいなら、いっそアネットを遊び相手にしてくれたらと思う。
ケヴィン様はあたしのことを危なっかしいと思ってるみたいだけど、あたしからすればケヴィン様のほうが危なっかしいんだけどなぁ。
気分はケヴィンの母親か姉のようだ。いや、もしそうだったらケヴィンの相手にはなれないんだけど。
とはいえ。
──では、わたしが今、その気になったと言ったらどうする?
かすれ声でそう言われた時には、さすがにドキッとした。
「すっすまない! しかし、君はこれを本当にベッドに?」
立ち上がったケヴィンは、信じられないような目でベンチを見て、それからアネットのほうを向いた。
「こんな狭いところですし、ベッドの数も限られてますからね。寝る時はそこに畳んであるマットを敷いて寝るんです。寝心地悪くないですよ?」
ベンチの隅に畳んで置かれた寝具を指して、アネットは言う。
ケヴィンはまだ信じられない様子でわずかに目を見開いていたけれど、よろよろと洗濯室に続く扉に近付いていった。
信じられなくても、女性の部屋だと知ったからには早々に退散しようってことね。
ケヴィンが固まってしまいいつまで経っても動かないから、ちょっとショックを与えてみるつもりでここがアネットの部屋だとバラしてしまったけど、これでもうここには来なくなってしまうかもしれない。
うーん、残念なことしちゃったかなぁ。
言ってしまったものは仕方ない。
アネットは丸椅子から立ち上がって、ケヴィンについていく。
扉を開いたところで、ケヴィンは振り返った。
「今まで頼み忘れていたのだが」
「何でしょう?」
「このことは殿下には内緒にしてほしい」
このこと?
いろいろあり過ぎてどれのことかわからない。泥酔して真夜中に帰ってくることなのか、アネットとこうして話していることか、それとも一カ月前のあれをきっかけにアネットと知り合ったことを言っているのか。
わからなかったけれど、どうせ返事は一緒だ。だから聞き返すのはやめた。
「わかってますよ。っていうか、あたしじゃ王子様にお会いすることもできませんって」
ケヴィンは背が高い。アネットとでは、頭一つ分の身長差がある。
何か考えているような、問いたげな視線で見下ろしてくるケヴィンに、アネットは心得てますというようににっこり笑った。
「誰かに話すと王子さまにまで話が伝わっちゃうかもしれませんし、誰にも言いませんよ」
内緒にしておくのは、アネットの保身にもなる。こうしてケヴィンと話していることが知れれば、使用人のみんなに何を言われるかわかったものではないから。
ケヴィンはどう思ったのか。
戸枠に体をもたせかけ、額に手を当てて苦しそうに息をついた。
ちょっと悪酔いしているのかもしれない。
「ご気分悪いんですか? 早くお部屋に戻ったほうがいいですよ」
アネットはケヴィンの隣に立って、腕を肩の上に担ごうとする。そのために伸ばした手が、ケヴィンの手のひらに押しのけられた。
「一人で戻れる」
そう言って戸枠から離れるけれど、支えを失ったケヴィンの上体はゆらゆらと揺れている。
洗濯室は床に段差がある。アネットは身をかがめてケヴィンの脇に滑り込み、体を伸ばしてケヴィンの腕を担ぎあげた。
「ここは危ないですから、洗濯室の外までは送ります」
今度は拒むことなく、ケヴィンは少しアネットに寄りかかった。アネットはそれを支え、よろよろと歩く。
出口の手前で、ケヴィンはアネットの肩から腕を外し、背を向けるようにして一人廊下に出た。
足元がおぼつかない様子なのに、アネットに部屋まで送らせる気はさらさらないらしい。
アネットはそれ以上のことはせず、洗濯室からちょっとだけ顔を出してケヴィンを見送った。
「転ばないでくださいねー……」
返事はなく、ケヴィンは長い廊下を足元をふらつかせながら壁伝いに歩いて、暗がりの向こうに消えていった。
今日は朝から、邸の中が甘い匂いでいっぱいだった。
こういう日は、午後から近衛隊士たちがやって来て、使用人全員にお菓子が配られる。
ケヴィンからアネットへの“償い”だ。アネットは一度きりと思っていたのに、今では習慣になっていた。
仕事に一段落つく頃、待ちに待った午後の休憩の時間がやってくる。
洗濯室の後片付けを終え、うきうきしながら廊下を歩いていると、休憩室のほうから声が聞こえた。
「あれ? 一個余ってる」
「誰かまだ食べてない?」
「どうせ数が間違ってただけでしょ」
「食べちゃお」
え!? ちょっと待って!
走っちゃいけないと言われている廊下を小走りし、アネットは休憩室に飛び込む。
目にしたのは、十人くらいの仕事仲間と、彼女たちの手によって大皿の上でぼろぼろにほぐされたケーキだった。
「あ……」
アネットに気付いた彼女たちの中から、小さな声がもれた。自分たちがつまむお菓子が誰のものだったのか気付き、気まずそうに眉尻を下げる。
アネットはとっさに笑顔を作っていた。
「あ、あたしはいいです。ちょっと、いろいろやることがあって……」
「あ、そう? 悪いわね」
年配の女性はほっとした顔をして、すぐさま指先につまんだままだったお菓子を口の中に放り込む。それを見た他の人たちも、次々とかけらになったお菓子を口に運んだ。
それを最後まで見届けることなく、アネットは洗濯室へと引き返した。
そう。いろいろとやることがある。それは本当のこと。
洗濯物を取り込んで畳んで、シャツやシーツにはアイロンをかけなくてはならない。それが終わったらすぐに夕飯の野菜の皮むきを始めないと。
休む暇なんてホントはない。それはみんなにも言えることなんだけど。
……いじめられてるわけじゃない。ちょっと忘れられちゃっただけ。お菓子ならまた次もある。
アネットは頬をぺしぺしと叩いて気持ちを切り替え、洗濯室から外に出て洗濯物を取り込みはじめた。
最近の夜は、ケヴィンが邸にいると知っていても、何かのついでに外を見てしまう。
お菓子を食べ損ねてしまった日の夜、繕いもので凝り固まった体を伸びしてほぐしながら、扉の窓から外をのぞいた。
すると井戸の傍らに人影を見る。
伸びを終えたアネットは、ランプを手に取り、迷うことなく扉のかんぬきを外して裏庭に出た。
真夜中、外に出て人影に近付くのは危険だとわかっている。
が、暗がりでよく見えなくても、アネットにはそれが誰なのかすぐにわかった。根拠なんてない。ただの勘だ。
ランプをかざしながら近付いていくと、真っ暗な庭を見渡すようにしていた人物がアネットに顔を向けた。
「ケヴィン様」
今夜はヘリオットたちと“お食事”には行かず、邸の中でくつろいでいたはずだ。
「どうかしたんですか?」
「君に聞きたいことがあって来た」
「だったら声をかけてくださいよ。あたしが気付かなかったらどうするつもりだったんです?」
「……その時は頃合いを見て戻るつもりだった。真夜中に女性を訪ねるのは非常識だとわかっている。だがこの時間にしか君に会うことができないから、君が気付いてくれるのを待っていた」
優秀なのかやっぱり非常識なのか、どっちとも言い難い発言。
アネットは小さくため息をついた。
「遠慮なんて今更でしょう? 真夜中に何度あたしの部屋を通り道にしたと思ってるんです? ともかくこっちに来てください。そこだと誰に見られるかわからないから」
建物から少し離れた井戸の周囲からは、屋根裏部屋の小さな窓も見える。みんな寝静まった夜中でも、誰かが目を覚ましてふと窓の下をのぞかないとも限らない。
アネットは部屋に戻りかけたけれど、ケヴィンは動こうとしなかった。
もう一度ため息をついて振り返る。
「あたしはそこの部屋で寝てますけど、物置に変わりないんです。むしろあたしのほうが間借りしてるっていうか。だから気にしないでくださいよ」
側に戻って、空いている手でケヴィンの手首をつかむ。引っ張ると、拒むことなくケヴィンはついてきた。
“物置き”に入ってすぐ、アネットはケヴィンにベンチをすすめる。
「それも今は単なるベンチです」
そう言い切って、自分はさっさと丸椅子に座る。
木箱の上に置いてあった服を膝の上に置き、小さなランプの明かりをたよりに繕いものを始めた。シーツの端のしまつや、衣服のつぎ当て。縫わなければならないものはいくらでもあって、一晩で終わらないこともある。
「ためこむと後が大変だから、失礼させていただきますね。それで聞きたいことって何ですか?」
ケヴィンは少し迷ったようだけど、そのうちベンチに腰をおろした。
「今日の菓子は美味かったか?」
「え──」
唐突な質問。その内容に、アネットはぎくっとして針を進める手をわずかに止めてしまう。
アネットの心中を知ってか知らずか、ケヴィンは淡々と言い直した。
「料理人に、今日の菓子は美味かったかと聞かれた。わたしはそう好きではないから、聞かれてもよくわからないんだ。それに、君にやるつもりで作らせているものだから、君の意見を聞いたほうがいいと思い、返事を保留している」
あきれて返事ができなかった。
そんなの、適当に答えておけばいいのに……。
だいたいその場で答えられるはずのものを保留になんかして、変に思われなかったんだろうか。
そう思いながらも、アネットはほっとしていた。
食べてないのがバレたわけではなさそうだ。
「美味しかったですよ」
あの時のみんなの様子からして、それは間違いないと思う。
「やわらかくってふわふわしてて、また食べたいです」
昼間見た光景を思い出しながら、アネットは感想を作っていく。余っていた分をあっという間に分けてしまうくらいだ。きっとみんなもまた食べたいと思っているはず。
これ以上の感想を言いようがない。アネットは話を終わらせるように言った。
「それにしても、そんなことをわざわざ聞きに来てくれたんですか? ちゃんとした答えを言わなきゃならないからって、真面目にもほどがありますよ」
ケヴィンは何も言わなかった。
間が持たなくなりそうになって、アネットは陽気な口調で続ける。
「これからは“美味かった。また食べたい。新しい菓子にも期待している”って答えておいてくださるといいです。あたしいつも、そんな感じのこと思ってますから」
しゃべることがなくなると、部屋の中は急に静まり返った。
今日の天候は穏やかで、風の音すら聞こえてこない。
真夜中過ぎの邸の中からは、物音一つしない。
進める針やわずかな衣擦れの音は、賑やかしにもならなくて。
沈黙に息苦しさを感じ始めた時、ふいにケヴィンは立ち上がった。
外に続く扉のほうへ足を向ける。
「どちらに行かれるんですか?」
「庭を少し散策してから戻る。今夜はここを通らないから、君は早く寝るといい。──夜ももう遅い」
「そうですね。……おやすみなさい」
木箱の上に繕いものを置いて立ち上がったアネットを、ケヴィンはちらり振り返った。そしてつぶやくように「おやすみ」というと、静かに扉を開けて出ていった。
……予想していたとはいえ、そういう反応はちょっと傷つくなぁ。
焦ってベンチから飛び退いたケヴィンを眺めながら、アネットは肩をすくめた。
──今ここで、君にわたしの相手をするようにと言ったら……?
これは単なる怖がらせ。そのつもりがないことはすぐにわかった。
ケヴィンはこういうことをさせるような人じゃない。そのことは一カ月前からよく知っている。
使用人頭に頼まれて、夜の相手をするためにケヴィンの部屋を訪れた時、ケヴィンはアネットが服を脱ごうとするのを止めて、それどころか酒に酔った上での出来事を償ってくれようとした。
償わなくていいと言ったアネットに、ケヴィンが困惑した理由はわからないでもない。
酔っていたとはいえ、ケヴィンの手はアネットの体をまさぐり、唇に唇を押しつけた。
それが性的な意味合いのある触れ方だったということは、アネットにもわかっている。
でも、それだけのことだ。
最後までされたわけでもないし、ケヴィンはひどく反省していた。
そんな彼が、アネットに夜の相手をさせるわけがない。
それに。
ただ見つめられただけで言われても、怖さに欠けるのよねぇ……。
本当に怖がらせたかったら、押し倒すか、せめて手を伸ばしてくるくらいしないと。
ヘリオットならやりそうだけど、艶事にあまり縁のないらしいケヴィンは、きっとそういうことに考えが及ばなかったのだろう。
ただ、そのようにされたからといって、実際にアネットが怖いと思うかどうかはわからない。
──だったらお相手しますよ?
本気、というか、実際そういうことになっても、別にかまわなかった。
初めての相手がケヴィンだったららっきーだとホントに思うし、ケヴィンが悪い女につかまってしまうくらいなら、いっそアネットを遊び相手にしてくれたらと思う。
ケヴィン様はあたしのことを危なっかしいと思ってるみたいだけど、あたしからすればケヴィン様のほうが危なっかしいんだけどなぁ。
気分はケヴィンの母親か姉のようだ。いや、もしそうだったらケヴィンの相手にはなれないんだけど。
とはいえ。
──では、わたしが今、その気になったと言ったらどうする?
かすれ声でそう言われた時には、さすがにドキッとした。
「すっすまない! しかし、君はこれを本当にベッドに?」
立ち上がったケヴィンは、信じられないような目でベンチを見て、それからアネットのほうを向いた。
「こんな狭いところですし、ベッドの数も限られてますからね。寝る時はそこに畳んであるマットを敷いて寝るんです。寝心地悪くないですよ?」
ベンチの隅に畳んで置かれた寝具を指して、アネットは言う。
ケヴィンはまだ信じられない様子でわずかに目を見開いていたけれど、よろよろと洗濯室に続く扉に近付いていった。
信じられなくても、女性の部屋だと知ったからには早々に退散しようってことね。
ケヴィンが固まってしまいいつまで経っても動かないから、ちょっとショックを与えてみるつもりでここがアネットの部屋だとバラしてしまったけど、これでもうここには来なくなってしまうかもしれない。
うーん、残念なことしちゃったかなぁ。
言ってしまったものは仕方ない。
アネットは丸椅子から立ち上がって、ケヴィンについていく。
扉を開いたところで、ケヴィンは振り返った。
「今まで頼み忘れていたのだが」
「何でしょう?」
「このことは殿下には内緒にしてほしい」
このこと?
いろいろあり過ぎてどれのことかわからない。泥酔して真夜中に帰ってくることなのか、アネットとこうして話していることか、それとも一カ月前のあれをきっかけにアネットと知り合ったことを言っているのか。
わからなかったけれど、どうせ返事は一緒だ。だから聞き返すのはやめた。
「わかってますよ。っていうか、あたしじゃ王子様にお会いすることもできませんって」
ケヴィンは背が高い。アネットとでは、頭一つ分の身長差がある。
何か考えているような、問いたげな視線で見下ろしてくるケヴィンに、アネットは心得てますというようににっこり笑った。
「誰かに話すと王子さまにまで話が伝わっちゃうかもしれませんし、誰にも言いませんよ」
内緒にしておくのは、アネットの保身にもなる。こうしてケヴィンと話していることが知れれば、使用人のみんなに何を言われるかわかったものではないから。
ケヴィンはどう思ったのか。
戸枠に体をもたせかけ、額に手を当てて苦しそうに息をついた。
ちょっと悪酔いしているのかもしれない。
「ご気分悪いんですか? 早くお部屋に戻ったほうがいいですよ」
アネットはケヴィンの隣に立って、腕を肩の上に担ごうとする。そのために伸ばした手が、ケヴィンの手のひらに押しのけられた。
「一人で戻れる」
そう言って戸枠から離れるけれど、支えを失ったケヴィンの上体はゆらゆらと揺れている。
洗濯室は床に段差がある。アネットは身をかがめてケヴィンの脇に滑り込み、体を伸ばしてケヴィンの腕を担ぎあげた。
「ここは危ないですから、洗濯室の外までは送ります」
今度は拒むことなく、ケヴィンは少しアネットに寄りかかった。アネットはそれを支え、よろよろと歩く。
出口の手前で、ケヴィンはアネットの肩から腕を外し、背を向けるようにして一人廊下に出た。
足元がおぼつかない様子なのに、アネットに部屋まで送らせる気はさらさらないらしい。
アネットはそれ以上のことはせず、洗濯室からちょっとだけ顔を出してケヴィンを見送った。
「転ばないでくださいねー……」
返事はなく、ケヴィンは長い廊下を足元をふらつかせながら壁伝いに歩いて、暗がりの向こうに消えていった。
今日は朝から、邸の中が甘い匂いでいっぱいだった。
こういう日は、午後から近衛隊士たちがやって来て、使用人全員にお菓子が配られる。
ケヴィンからアネットへの“償い”だ。アネットは一度きりと思っていたのに、今では習慣になっていた。
仕事に一段落つく頃、待ちに待った午後の休憩の時間がやってくる。
洗濯室の後片付けを終え、うきうきしながら廊下を歩いていると、休憩室のほうから声が聞こえた。
「あれ? 一個余ってる」
「誰かまだ食べてない?」
「どうせ数が間違ってただけでしょ」
「食べちゃお」
え!? ちょっと待って!
走っちゃいけないと言われている廊下を小走りし、アネットは休憩室に飛び込む。
目にしたのは、十人くらいの仕事仲間と、彼女たちの手によって大皿の上でぼろぼろにほぐされたケーキだった。
「あ……」
アネットに気付いた彼女たちの中から、小さな声がもれた。自分たちがつまむお菓子が誰のものだったのか気付き、気まずそうに眉尻を下げる。
アネットはとっさに笑顔を作っていた。
「あ、あたしはいいです。ちょっと、いろいろやることがあって……」
「あ、そう? 悪いわね」
年配の女性はほっとした顔をして、すぐさま指先につまんだままだったお菓子を口の中に放り込む。それを見た他の人たちも、次々とかけらになったお菓子を口に運んだ。
それを最後まで見届けることなく、アネットは洗濯室へと引き返した。
そう。いろいろとやることがある。それは本当のこと。
洗濯物を取り込んで畳んで、シャツやシーツにはアイロンをかけなくてはならない。それが終わったらすぐに夕飯の野菜の皮むきを始めないと。
休む暇なんてホントはない。それはみんなにも言えることなんだけど。
……いじめられてるわけじゃない。ちょっと忘れられちゃっただけ。お菓子ならまた次もある。
アネットは頬をぺしぺしと叩いて気持ちを切り替え、洗濯室から外に出て洗濯物を取り込みはじめた。
最近の夜は、ケヴィンが邸にいると知っていても、何かのついでに外を見てしまう。
お菓子を食べ損ねてしまった日の夜、繕いもので凝り固まった体を伸びしてほぐしながら、扉の窓から外をのぞいた。
すると井戸の傍らに人影を見る。
伸びを終えたアネットは、ランプを手に取り、迷うことなく扉のかんぬきを外して裏庭に出た。
真夜中、外に出て人影に近付くのは危険だとわかっている。
が、暗がりでよく見えなくても、アネットにはそれが誰なのかすぐにわかった。根拠なんてない。ただの勘だ。
ランプをかざしながら近付いていくと、真っ暗な庭を見渡すようにしていた人物がアネットに顔を向けた。
「ケヴィン様」
今夜はヘリオットたちと“お食事”には行かず、邸の中でくつろいでいたはずだ。
「どうかしたんですか?」
「君に聞きたいことがあって来た」
「だったら声をかけてくださいよ。あたしが気付かなかったらどうするつもりだったんです?」
「……その時は頃合いを見て戻るつもりだった。真夜中に女性を訪ねるのは非常識だとわかっている。だがこの時間にしか君に会うことができないから、君が気付いてくれるのを待っていた」
優秀なのかやっぱり非常識なのか、どっちとも言い難い発言。
アネットは小さくため息をついた。
「遠慮なんて今更でしょう? 真夜中に何度あたしの部屋を通り道にしたと思ってるんです? ともかくこっちに来てください。そこだと誰に見られるかわからないから」
建物から少し離れた井戸の周囲からは、屋根裏部屋の小さな窓も見える。みんな寝静まった夜中でも、誰かが目を覚ましてふと窓の下をのぞかないとも限らない。
アネットは部屋に戻りかけたけれど、ケヴィンは動こうとしなかった。
もう一度ため息をついて振り返る。
「あたしはそこの部屋で寝てますけど、物置に変わりないんです。むしろあたしのほうが間借りしてるっていうか。だから気にしないでくださいよ」
側に戻って、空いている手でケヴィンの手首をつかむ。引っ張ると、拒むことなくケヴィンはついてきた。
“物置き”に入ってすぐ、アネットはケヴィンにベンチをすすめる。
「それも今は単なるベンチです」
そう言い切って、自分はさっさと丸椅子に座る。
木箱の上に置いてあった服を膝の上に置き、小さなランプの明かりをたよりに繕いものを始めた。シーツの端のしまつや、衣服のつぎ当て。縫わなければならないものはいくらでもあって、一晩で終わらないこともある。
「ためこむと後が大変だから、失礼させていただきますね。それで聞きたいことって何ですか?」
ケヴィンは少し迷ったようだけど、そのうちベンチに腰をおろした。
「今日の菓子は美味かったか?」
「え──」
唐突な質問。その内容に、アネットはぎくっとして針を進める手をわずかに止めてしまう。
アネットの心中を知ってか知らずか、ケヴィンは淡々と言い直した。
「料理人に、今日の菓子は美味かったかと聞かれた。わたしはそう好きではないから、聞かれてもよくわからないんだ。それに、君にやるつもりで作らせているものだから、君の意見を聞いたほうがいいと思い、返事を保留している」
あきれて返事ができなかった。
そんなの、適当に答えておけばいいのに……。
だいたいその場で答えられるはずのものを保留になんかして、変に思われなかったんだろうか。
そう思いながらも、アネットはほっとしていた。
食べてないのがバレたわけではなさそうだ。
「美味しかったですよ」
あの時のみんなの様子からして、それは間違いないと思う。
「やわらかくってふわふわしてて、また食べたいです」
昼間見た光景を思い出しながら、アネットは感想を作っていく。余っていた分をあっという間に分けてしまうくらいだ。きっとみんなもまた食べたいと思っているはず。
これ以上の感想を言いようがない。アネットは話を終わらせるように言った。
「それにしても、そんなことをわざわざ聞きに来てくれたんですか? ちゃんとした答えを言わなきゃならないからって、真面目にもほどがありますよ」
ケヴィンは何も言わなかった。
間が持たなくなりそうになって、アネットは陽気な口調で続ける。
「これからは“美味かった。また食べたい。新しい菓子にも期待している”って答えておいてくださるといいです。あたしいつも、そんな感じのこと思ってますから」
しゃべることがなくなると、部屋の中は急に静まり返った。
今日の天候は穏やかで、風の音すら聞こえてこない。
真夜中過ぎの邸の中からは、物音一つしない。
進める針やわずかな衣擦れの音は、賑やかしにもならなくて。
沈黙に息苦しさを感じ始めた時、ふいにケヴィンは立ち上がった。
外に続く扉のほうへ足を向ける。
「どちらに行かれるんですか?」
「庭を少し散策してから戻る。今夜はここを通らないから、君は早く寝るといい。──夜ももう遅い」
「そうですね。……おやすみなさい」
木箱の上に繕いものを置いて立ち上がったアネットを、ケヴィンはちらり振り返った。そしてつぶやくように「おやすみ」というと、静かに扉を開けて出ていった。
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