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第三章 シグルド18歳 ケヴィン24歳 アネット23歳(?)
三章-6
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責任を取る、と言われて、アネットは少しがっかりした。
好きだから側にいてくれって、言ってくれたらよかったのにな……。
そう言われたとしても、考えを変えるつもりはなかったけど。
ケヴィンは公爵家の跡取りだ。結婚して跡取りをもうけ、家を守っていく義務がある。
その義務を放棄させるわけにはいかない。アネットを拾ってくれたクリフォード公爵に申し訳が立たないし、何よりケヴィンに貴族として歩むべき道を踏み外して不幸な目に遭ってもらいたくない。
それは最初からアネットが願っていたこと。
これだけは絶対譲れない。
あのあとあいさつに一度訪れたきり、ケヴィンは再び戦地へと旅立っていった。
アネットは仕事をしながら心の中でケヴィンを見送り、やがていつもの日常に戻っていく。
そのはずだった。
「どうしたの? アネット」
歳月が流れうわさがいくらか薄れたことと、使用人たちに多少の入れ換わりがあったこともあって、アネットは再び仕事仲間たちに溶け込みつつあった。
声をかけてきたのは、最近新しく下働きになった少女だ。アネットは声をかけられて、食事の手が止まっていることに気付いた。
「な、何でもない」
パンをちぎって口に運ぶけれども、なかなか飲み込むことができない。
「あんまりのろのろ食べてると、食べる時間なくなっちゃうよ」
わかってはいるけど、これ以上は食べられそうにない。
「あんまりお腹空いてないんだ」
「じゃあ、あたしもらっていい?」
食いしん坊の新入りは、早くもアネットの手元をねつらい始める。
アネットは苦笑して、パンの皿とスープの器を新入りのほうへ押しやった。
「うん。後片付けよろしくね」
「はぁい」
アネットは席を立って下の使用人の休憩室を出た。廊下を少し進むと、我慢できなくなってきて、アネットは小走りに洗濯室から裏庭に抜け、庭木の影に屈みこむ。
胃の底からせりあがってきたものは、透明な液体とその中にまじる、先程食べたわずかな昼食だけだった。
ここ二日、毎食こうだ。食べ物のにおいは何とか我慢しているが、口に入れると吐き気が耐えがたくなってくる。それでも多少は食べなくてはと頑張るのだが、昨日からは我慢できずに吐いてしまっていた。
吐き気は二週間以上前からあった。何か悪い病気にでもかかったのかもと思うのと同時に、もう一つの可能性も思い浮かんで怖くなる。
ちゃんと教えられた通りに飲んだじゃない。大丈夫、大丈夫……。
自分に言い聞かせても、不安は消えない。
あれから三カ月が経とうとしている。うわさから知り得た話からすると、兆候が出てくるのは今の時期だ。
ヘリオットの言葉を思い出す。よく効くと評判の薬だけど、絶対に効くとは限らない、と。
不安が、アネットの心身をさいなむ。
今まで狂うことのなかった月のものが、あれ以来やってこない。いつの間にかかばうように手を当てるようになった下腹部。
ほんとうに、この中にケヴィン様のお子が……?
吐き気が落ち着いたところで井戸から水を汲んで口に含み、先程吐いたものの上に口をすすいだ水を吐き出した。それを三回繰り返し、ほっと息をつく。
土をかけておかなきゃ……。
土を掘れそうな道具を取りに行こうと庭木の影から出たところで、アネットはぎくっとした。
井戸の脇に、さきほどまではいなかった女使用人頭のオルタンヌの姿があった。
「こんにちは、オルタンヌさん。こんなところまで来て、どうしたんですか?」
動揺を隠して、いつものようにあいさつする。
吐いているところを見られたとは限らない。もし妊娠してなかったとしても、体調が悪いことで心配をかけたくない。
「最近調子が悪いようね。あまり食事を食べていないと聞いたわ」
誰だろう? わざわざオルタンヌさんに言うなんて……。
そんなことより、今はごまかすほうが先だった。アネットは能天気な笑みをつくる。
「心配かけちゃってすみません。どっかで変なものを食べちゃっただけだと思います。ほら、あたし食いしん坊だから」
笑い飛ばそうと思ったのに、食べ物のことを思い出したとたんまた吐き気がこみ上げて、耐えきれなくなって庭木の影にかけ込んで嘔吐えずいてしまう。
苦しさに、アネットが下を向いたまま肩で息をしていると、その背をオルタンヌがさすってくれた。
「アネット。あなた、妊娠しているの?」
唐突に切り出され、アネットは血の気が引く思いがする。とっさに振り返り笑い飛ばす。
「や、やだなぁ。相手もいないのに、そんなわけないじゃないですか」
もしかしてバレてる……?
どくんどくんと、心臓が嫌な鼓動を立てる。ごまかさなくちゃと思うのに、笑顔はひきつり、冷汗が流れるような思いがする。
少しの間、黙ってアネットを見つめていたオルタンヌは、目を伏せてため息をついた。
「あなたは幼い頃から病気一つしない元気な子だったわ。それに、あなたの今の様子には心当たりがあるわ。わたしもそうだったから」
言い切られてしまうと、返答のしようがなくなる。
オルタンヌの中では、もはや“事実”なのだ。その思い込みをくつがえせるだけの言葉を、アネットは持ち合せていなかった。
「相手は誰なの?」
答えられるわけがない。アネットはオルタンヌの視線の避けてうつむいてしまう。
「責めているわけではないの。相手との合意が得られれば、結婚だってできるわ」
結婚できる相手じゃない。名前を打ち明けるわけにもいかない。かといって適当な人の名前を出せば相手に迷惑をかけるし、見ず知らずの相手だと言ってオルタンヌに軽蔑されるのも怖い。
アネットの二の腕を、オルタンヌは両手でつかんだ。
「結婚が難しい相手なの? そうであっても何とかしてあげるから、言ってちょうだい。……具合が悪くなったのが最近なら、相手と関係を持ったのは二、三カ月前よね? ……まさか」
顔を下げてアネットの顔をのぞき込んでいたオルタンヌは、何かに気付いて顔色を変える。
アネットはとっさに叫んでしまった。
「違います! ケヴィン様じゃありません!」
言ってしまってから、慌てて口を押さえる。これでは相手が誰かを告白してしまったも同然だ。
オルタンヌは目を見開き、息を飲む。
今更遅いと思いながらも、アネットは言い訳を口にしていた。
「そんなわけないじゃないですか。あんな、ほんの少ししか邸にお戻りになられなかったのに、ケヴィン様にあたしに会いに来る暇なんかあるわけが」
「ケヴィン様なのね?」
「違います!」
けんめいに否定するけど、オルタンヌはアネットの二の腕から手を離し体を起こした。
「あなたとケヴィン様とのうわさは耳に入ってきていたけど、それはあなたを不用意にケヴィン様のところへやってしまったせいだと思って申し訳なかったの。……でも、うわさは本当だったのね」
そう言われてしまえばアネットこそ申し訳なくて、ますますうつむくしかなくなる。
「今日は旦那様が邸にお戻りになられないから、明日お話しましょう。今日はひとまずビィチャムさんに言って」
アネットは慌てて顔を上げた。
「お願いです、待ってください! 本当に違うんです!」
「どうしてそんなに否定するの? あなたにとって悪くない話だわ。愛人になれば、何不自由のない生活が送れるようになるのよ? 旦那様とケヴィン様なら、きっとあなたを粗略に扱うことはないわ。前にも言ったでしょう? ケヴィン様のお相手をするならその後の責任も取ると。ビィチャムさんも、そのつもりであなたにお相手を頼んだのだから、決してあなたに悪いようなことはしないわ。だから安心して」
愛人という言葉に誘われて、決意が揺らぎそうになる。
でも。
アネットはあきらめたように笑って、オルタンヌを見た。
「……やっぱりダメです。もしあたしがケヴィン様のお子を妊娠しているとして、それをケヴィン様が知ってしまったら、ケヴィン様はきっと生涯結婚されなくなってしまいます」
まさか、という顔をするオルタンヌにアネットは言い募る。
「あの方は貴族の義務を重んじる方ですけど、それ以上に情の深い方なんです。妻にできない女を側に置いて、その上で奥様をめとることなんてできない。貴族で、しかも公爵家の跡取りが結婚しないのでは、世間体がよくないんでしょ? あたしは、あたしのせいでケヴィン様が不幸になるのを見たくないんです……っ」
「アネット……」
オルタンヌは言い聞かせるように、アネットの肩に手を置いた。
「何にしても旦那様に言わないわけにはいかないわ。明日旦那様がお帰りになったらこの話をします」
「……はい」
アネットは観念してうなずいた。
「どうしてあなたばっかり、こんな目に遭うんでしょうね」
ため息交じりにオルタンヌは言う。
「本当ならわたしの養女として、それなりに苦労のない生活ができたはずなのに。わたしがあなたを守り切れなかったばかりに、つらい思いをさせてしまった」
悲しそうな顔をするオルタンヌに、アネットはほほえんで首を横に振った。
「それはもう気にしないでください。オルタンヌさんに育ててもらえて、あたしらっきーでした。みなしごが公爵邸で働く上級使用人の養女なんて、あつかいが良すぎたんですよ。だからよかったんです、これで。今もこうして心配してくださるし、あたし、十分しあわせなんです」
これは本当の気持ち。
クリフォード公爵邸の前に捨てられて、公爵に拾われて、オルタンヌに預けられて育ててもらって、ケヴィンと出会うことができた。
これ以上の人生なんて、アネットには望むべくもない。
しあわせそうにほほえむアネットを見て、オルタンヌは目尻に涙を浮かべた。
「あなたはほんとうにいい子ね。わたしの娘ではもったいないくらいだわ」
「そう言ってもらえてうれしいです」
にっこりと笑うと、オルタンヌもほっとしたように笑みをこぼした。
「今日はもう、仕事をしなくていいわ。ゆっくり休みなさい。明日旦那様にお話して、それからお医者さまを呼んでもらいましょう」
「はい」
アネットは素直に返事をする。
けれども、アネットはもう決めていた。
ケヴィンは頑固で、一度決めたことは貫こうとする。
撤回させるには、決めることそのものをできなくするしかないだろう。
そのためには、選択肢そのものをなくしてしまうしかない。
ケヴィン様、ごめんなさい。ずっとここにいるって言ったのに、約束を守れなかった……。
涙をこらえ、アネットは心の中でつぶやく。
しあわせでいて。不幸になんかならないで。
それだけが、アネットの望み。
翌日、クリフォード公爵邸の中に、アネットはいなかった。
アネットが部屋にしている洗濯室隣の物置には、すっかり繕われた洗濯物がきちんとたたんで積み上げられ、わずかな私物はどこにも見当たらない。
オルタンヌは帰邸した公爵に事情を話し、公爵は人を出して方々を探させたのに。
邸の前に捨てられたため身寄りがなく、ずっと働き通しで邸外に知り合いがいるとも思えず。
これまで働いてきた給金は、使用人の財産を管理しているビィチャムの手元から引きだされることがないまま。
アネットは誰にも知られず、忽然と姿を消した。
第三章 完
好きだから側にいてくれって、言ってくれたらよかったのにな……。
そう言われたとしても、考えを変えるつもりはなかったけど。
ケヴィンは公爵家の跡取りだ。結婚して跡取りをもうけ、家を守っていく義務がある。
その義務を放棄させるわけにはいかない。アネットを拾ってくれたクリフォード公爵に申し訳が立たないし、何よりケヴィンに貴族として歩むべき道を踏み外して不幸な目に遭ってもらいたくない。
それは最初からアネットが願っていたこと。
これだけは絶対譲れない。
あのあとあいさつに一度訪れたきり、ケヴィンは再び戦地へと旅立っていった。
アネットは仕事をしながら心の中でケヴィンを見送り、やがていつもの日常に戻っていく。
そのはずだった。
「どうしたの? アネット」
歳月が流れうわさがいくらか薄れたことと、使用人たちに多少の入れ換わりがあったこともあって、アネットは再び仕事仲間たちに溶け込みつつあった。
声をかけてきたのは、最近新しく下働きになった少女だ。アネットは声をかけられて、食事の手が止まっていることに気付いた。
「な、何でもない」
パンをちぎって口に運ぶけれども、なかなか飲み込むことができない。
「あんまりのろのろ食べてると、食べる時間なくなっちゃうよ」
わかってはいるけど、これ以上は食べられそうにない。
「あんまりお腹空いてないんだ」
「じゃあ、あたしもらっていい?」
食いしん坊の新入りは、早くもアネットの手元をねつらい始める。
アネットは苦笑して、パンの皿とスープの器を新入りのほうへ押しやった。
「うん。後片付けよろしくね」
「はぁい」
アネットは席を立って下の使用人の休憩室を出た。廊下を少し進むと、我慢できなくなってきて、アネットは小走りに洗濯室から裏庭に抜け、庭木の影に屈みこむ。
胃の底からせりあがってきたものは、透明な液体とその中にまじる、先程食べたわずかな昼食だけだった。
ここ二日、毎食こうだ。食べ物のにおいは何とか我慢しているが、口に入れると吐き気が耐えがたくなってくる。それでも多少は食べなくてはと頑張るのだが、昨日からは我慢できずに吐いてしまっていた。
吐き気は二週間以上前からあった。何か悪い病気にでもかかったのかもと思うのと同時に、もう一つの可能性も思い浮かんで怖くなる。
ちゃんと教えられた通りに飲んだじゃない。大丈夫、大丈夫……。
自分に言い聞かせても、不安は消えない。
あれから三カ月が経とうとしている。うわさから知り得た話からすると、兆候が出てくるのは今の時期だ。
ヘリオットの言葉を思い出す。よく効くと評判の薬だけど、絶対に効くとは限らない、と。
不安が、アネットの心身をさいなむ。
今まで狂うことのなかった月のものが、あれ以来やってこない。いつの間にかかばうように手を当てるようになった下腹部。
ほんとうに、この中にケヴィン様のお子が……?
吐き気が落ち着いたところで井戸から水を汲んで口に含み、先程吐いたものの上に口をすすいだ水を吐き出した。それを三回繰り返し、ほっと息をつく。
土をかけておかなきゃ……。
土を掘れそうな道具を取りに行こうと庭木の影から出たところで、アネットはぎくっとした。
井戸の脇に、さきほどまではいなかった女使用人頭のオルタンヌの姿があった。
「こんにちは、オルタンヌさん。こんなところまで来て、どうしたんですか?」
動揺を隠して、いつものようにあいさつする。
吐いているところを見られたとは限らない。もし妊娠してなかったとしても、体調が悪いことで心配をかけたくない。
「最近調子が悪いようね。あまり食事を食べていないと聞いたわ」
誰だろう? わざわざオルタンヌさんに言うなんて……。
そんなことより、今はごまかすほうが先だった。アネットは能天気な笑みをつくる。
「心配かけちゃってすみません。どっかで変なものを食べちゃっただけだと思います。ほら、あたし食いしん坊だから」
笑い飛ばそうと思ったのに、食べ物のことを思い出したとたんまた吐き気がこみ上げて、耐えきれなくなって庭木の影にかけ込んで嘔吐えずいてしまう。
苦しさに、アネットが下を向いたまま肩で息をしていると、その背をオルタンヌがさすってくれた。
「アネット。あなた、妊娠しているの?」
唐突に切り出され、アネットは血の気が引く思いがする。とっさに振り返り笑い飛ばす。
「や、やだなぁ。相手もいないのに、そんなわけないじゃないですか」
もしかしてバレてる……?
どくんどくんと、心臓が嫌な鼓動を立てる。ごまかさなくちゃと思うのに、笑顔はひきつり、冷汗が流れるような思いがする。
少しの間、黙ってアネットを見つめていたオルタンヌは、目を伏せてため息をついた。
「あなたは幼い頃から病気一つしない元気な子だったわ。それに、あなたの今の様子には心当たりがあるわ。わたしもそうだったから」
言い切られてしまうと、返答のしようがなくなる。
オルタンヌの中では、もはや“事実”なのだ。その思い込みをくつがえせるだけの言葉を、アネットは持ち合せていなかった。
「相手は誰なの?」
答えられるわけがない。アネットはオルタンヌの視線の避けてうつむいてしまう。
「責めているわけではないの。相手との合意が得られれば、結婚だってできるわ」
結婚できる相手じゃない。名前を打ち明けるわけにもいかない。かといって適当な人の名前を出せば相手に迷惑をかけるし、見ず知らずの相手だと言ってオルタンヌに軽蔑されるのも怖い。
アネットの二の腕を、オルタンヌは両手でつかんだ。
「結婚が難しい相手なの? そうであっても何とかしてあげるから、言ってちょうだい。……具合が悪くなったのが最近なら、相手と関係を持ったのは二、三カ月前よね? ……まさか」
顔を下げてアネットの顔をのぞき込んでいたオルタンヌは、何かに気付いて顔色を変える。
アネットはとっさに叫んでしまった。
「違います! ケヴィン様じゃありません!」
言ってしまってから、慌てて口を押さえる。これでは相手が誰かを告白してしまったも同然だ。
オルタンヌは目を見開き、息を飲む。
今更遅いと思いながらも、アネットは言い訳を口にしていた。
「そんなわけないじゃないですか。あんな、ほんの少ししか邸にお戻りになられなかったのに、ケヴィン様にあたしに会いに来る暇なんかあるわけが」
「ケヴィン様なのね?」
「違います!」
けんめいに否定するけど、オルタンヌはアネットの二の腕から手を離し体を起こした。
「あなたとケヴィン様とのうわさは耳に入ってきていたけど、それはあなたを不用意にケヴィン様のところへやってしまったせいだと思って申し訳なかったの。……でも、うわさは本当だったのね」
そう言われてしまえばアネットこそ申し訳なくて、ますますうつむくしかなくなる。
「今日は旦那様が邸にお戻りになられないから、明日お話しましょう。今日はひとまずビィチャムさんに言って」
アネットは慌てて顔を上げた。
「お願いです、待ってください! 本当に違うんです!」
「どうしてそんなに否定するの? あなたにとって悪くない話だわ。愛人になれば、何不自由のない生活が送れるようになるのよ? 旦那様とケヴィン様なら、きっとあなたを粗略に扱うことはないわ。前にも言ったでしょう? ケヴィン様のお相手をするならその後の責任も取ると。ビィチャムさんも、そのつもりであなたにお相手を頼んだのだから、決してあなたに悪いようなことはしないわ。だから安心して」
愛人という言葉に誘われて、決意が揺らぎそうになる。
でも。
アネットはあきらめたように笑って、オルタンヌを見た。
「……やっぱりダメです。もしあたしがケヴィン様のお子を妊娠しているとして、それをケヴィン様が知ってしまったら、ケヴィン様はきっと生涯結婚されなくなってしまいます」
まさか、という顔をするオルタンヌにアネットは言い募る。
「あの方は貴族の義務を重んじる方ですけど、それ以上に情の深い方なんです。妻にできない女を側に置いて、その上で奥様をめとることなんてできない。貴族で、しかも公爵家の跡取りが結婚しないのでは、世間体がよくないんでしょ? あたしは、あたしのせいでケヴィン様が不幸になるのを見たくないんです……っ」
「アネット……」
オルタンヌは言い聞かせるように、アネットの肩に手を置いた。
「何にしても旦那様に言わないわけにはいかないわ。明日旦那様がお帰りになったらこの話をします」
「……はい」
アネットは観念してうなずいた。
「どうしてあなたばっかり、こんな目に遭うんでしょうね」
ため息交じりにオルタンヌは言う。
「本当ならわたしの養女として、それなりに苦労のない生活ができたはずなのに。わたしがあなたを守り切れなかったばかりに、つらい思いをさせてしまった」
悲しそうな顔をするオルタンヌに、アネットはほほえんで首を横に振った。
「それはもう気にしないでください。オルタンヌさんに育ててもらえて、あたしらっきーでした。みなしごが公爵邸で働く上級使用人の養女なんて、あつかいが良すぎたんですよ。だからよかったんです、これで。今もこうして心配してくださるし、あたし、十分しあわせなんです」
これは本当の気持ち。
クリフォード公爵邸の前に捨てられて、公爵に拾われて、オルタンヌに預けられて育ててもらって、ケヴィンと出会うことができた。
これ以上の人生なんて、アネットには望むべくもない。
しあわせそうにほほえむアネットを見て、オルタンヌは目尻に涙を浮かべた。
「あなたはほんとうにいい子ね。わたしの娘ではもったいないくらいだわ」
「そう言ってもらえてうれしいです」
にっこりと笑うと、オルタンヌもほっとしたように笑みをこぼした。
「今日はもう、仕事をしなくていいわ。ゆっくり休みなさい。明日旦那様にお話して、それからお医者さまを呼んでもらいましょう」
「はい」
アネットは素直に返事をする。
けれども、アネットはもう決めていた。
ケヴィンは頑固で、一度決めたことは貫こうとする。
撤回させるには、決めることそのものをできなくするしかないだろう。
そのためには、選択肢そのものをなくしてしまうしかない。
ケヴィン様、ごめんなさい。ずっとここにいるって言ったのに、約束を守れなかった……。
涙をこらえ、アネットは心の中でつぶやく。
しあわせでいて。不幸になんかならないで。
それだけが、アネットの望み。
翌日、クリフォード公爵邸の中に、アネットはいなかった。
アネットが部屋にしている洗濯室隣の物置には、すっかり繕われた洗濯物がきちんとたたんで積み上げられ、わずかな私物はどこにも見当たらない。
オルタンヌは帰邸した公爵に事情を話し、公爵は人を出して方々を探させたのに。
邸の前に捨てられたため身寄りがなく、ずっと働き通しで邸外に知り合いがいるとも思えず。
これまで働いてきた給金は、使用人の財産を管理しているビィチャムの手元から引きだされることがないまま。
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