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第四章 シグルド20歳~ ケヴィン26歳~ アネット25歳(?)~
四章-4
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扉をたたく音と、開けろとわめく声はまだ続いている。
アネットは仕方なく縫いかけのドレスに縫い針をさして立ち上がった。ドレスを落ちないように椅子の上に盛ると、足音を立てないように隣の部屋に入り、廊下に続く扉に近付く。
あきらめて帰ってくれればいい。
だけど相手は、アネットがほとんど部屋を空けないことを知っている。
以前居留守を決め込んでいたら、言葉通り扉を壊されてしかも弁償してもらえなかったから、痛い出費をくらってしまった。
それにうるさい。親しい人たちは同情してくれるけど、そうではない人たちはアネットに対しても迷惑顔をして苦情を言うこともあった。こんなことが二週間近くも毎日続いて、アネット自身も限界に近い。
そろそろ住む場所を変えなきゃ。誰かいいところを紹介してくれるといいけど……。
扉をがたがた揺らされて、これ以上されたら壊れると思ったところで、アネットは鍵を開けた。
内開きの扉が開く。
我が物顔で入って来ようとするのは、細面でそこそこ顔はいいが、アネットに嫌悪感を抱かせる表情をした男だった。
「やめてよね。近所迷惑になるじゃない」
「おまえがさっさと鍵を開ければいいんだ」
なれなれしい視線を向けられて、背筋がぞっとする。
「何であんたのために鍵を開けなきゃならないのよ。出てって!」
「邪険にするなよ。俺たちの仲だろ?」
「あんたと仲良くなった覚えなんかないわよ! 帰って! 帰ってよ!」
男は下卑た笑みを浮かべ、アネットの耳元へ顔を寄せた。
「帰って欲しければ言えよ。あの子どもの父親が誰なのかをさ」
耳元にささやかれ、気持ち悪さに耐えられなくて後ろへ飛び退いた。
この男は顔見知りの娼婦の情夫だ。二週間程前に外で声をかけられて以来、ずっとつきまとわれている。
──あの子が情夫に話しちまったんだろうね。あんたのことを。
この部屋を用意し仕事を持ってきてくれた娼婦のレミナは、そう言っていた。
下街にこっそり隠れて暮らすアネット母子に、金のにおいをかぎつけたのだろう。エイミーの父親は金持ちと踏んで、アネットから聞き出そうとする。エイミーの存在を父親に知らせて、金をせしめようというのだ。
──帰ってほしいからって金を渡したりなんかしちゃダメだよ。ああいう男は味をしめるからね。
アネットもその通りだと思う。金を払って追い出せるならどんなに楽かと思うが、一度でも金を渡したら、やってくるたびに金をせびるようになる。
この男を情夫にしている娼婦は、男が連日アネットの部屋を訪れていることに気付いて、アネットに「人の男をとるんじゃない」と言いがかりをつけてきた。部屋に押し掛けてきて話も聞かずにアネットを殴って髪を引っ張ったが、すぐに近所の娼婦たちが気付いて引き離してくれた。そのあとレミナが彼女を諭してくれたのか、あれ以来姿を見せることはない。
この男と彼女の両方を相手にしていたら、さすがのアネットも参ってしまっていたことだろう。
男は彼女にもアネットにも悪いと思うところがまったくないらしく、この部屋にやってきては、アネットの恋人面をしようとする。
騒ぎを聞き付けて、多分誰かが警備隊を呼んでくれている。こいつが警備隊の手も焼く札付きの悪でよかったと思うのはこういう時だ。小物だったら、この程度のいざこざは痴話げんかとして片付けられてしまう。
「何度も言ってるけど、あの子の父親は平民よ。慰謝料をふんだくれるような相手じゃないわ」
「だったら何で、隠れるようにして暮らしてるんだよ?」
「それは、相手が妻子持ちで、迷惑をかけたくなかったから……」
語尾がわずかに細くなったことに嘘を見抜かれ、強引に抱き寄せられる。
「あの子ども、どっかのお貴族様のご烙印なんだろ?」
言い当てられて、ぎくっと身をこわばらせる。それに気付いて男は得意げに語りはじめた。
「おまえは下街のにおいがしねーんだよ。はすっぱな口を聞いても、立ち居振る舞いがどっかお上品なんだ。かといって貴族というほど世間知らずでもない。お貴族様の邸で下働きしてたんじゃねーのか? それでご主人様に手を出されて孕まされて、邸を追い出されたんだろ。……なぁ、おまえをそういう境遇に陥れた貴族野郎に復讐したいと思わないのか? おまえが邸を追い出されたってことは、子どもの存在が知られると困ることがあるんだろ? だったら子どものことを言いふらすって言ってやれば、口止め料にいくらでも金を出すぜ?」
途中まで言い当てられて、この男の金に対する嗅覚に怖れをなしたが、後半は見当違いもいいところだ。
アネットは追い出されたんじゃない、逃げて来たのだから。
ケヴィンに対する侮辱ともとれる男の思い込みに怒りがこみ上げて来て、アネットは男の腕の中で暴れた。
「いい加減にしてよね! そんなんじゃないったら!」
男は腕を振り回すアネットを、胸元に抱き込んで片腕を封じ、もう一方の手を空いている方の手でつかんで、抵抗を難なく押さえ込んでしまう。
男は再びアネットの耳元に顔を寄せた。
「観念しろって。──愉しませてやるからよ」
耳までなめられてしまえば、男の言葉の意味は明白だ。
「嫌!」
アネットは先程より一層、がむしゃらに暴れた。男の体との間に挟み込まれた腕を引き抜き、手当たり次第に振り回す。爪に痛みを覚えてはっとすれば、アネットの手首を離した男は自分の顔をさすった。
男の頬に、少量だが血が塗り広げられる。
瞳に怒りが宿った。
「こいつ!」
荒々しく肩をつかまれる。男の指が引っかかって襟ぐりが押し広げられ、アネットの首筋が半分露わになった。
男の動きが一瞬止まる。
次の暴力におびえて硬直しているアネットの服の下にあるものに気付き、男はそれをずるずると引っ張りだした。気付いてすぐさま止めようとするが、アネットの力では男にかなわない。
長い紐の先についている小袋を、男は引きちぎる勢いで開けた。中から転がり出る指輪をごつごつとした手のひらで受け止める。
男は簡単の呟きをもらした。
「へぇ……」
「返して!」
アネットは飛びつこうとするが、男は指につまんでひょいと掲げる。頭一つ分も背丈の違う男に腕を上げられてしまうと、それだけでもう手が届かない。
「いいもん持ってるじゃねーか。こりゃあきっと値打ちもんだぜ? 売ればいい値段がつきそうだ」
「売るつもりはないわ! 返してってば!」
男はにやっといやらしい笑みを浮かべて、アネットを見下ろす。
「この指輪、子どもの父親のもんだろ。子どもがそいつの子どもだっていういい証拠にもなるな」
細くてシンプルな指輪だが、元の持ち主は前国王の姉、クリフォード公爵の妻だ。もしかするとそこからケヴィンの身元が割れてしまうかもしれない。
アネットは掲げられた男の腕に取りすがり、よじのぼるようにして男の手を降ろそうとした。
返してと言っただけでは決して手元には戻らない。体重をかけて懸命に男の手を自分に近付ける。
「往生際が悪いぞ、こら!」
アネットに引っ張られて腕をひねったのか、男は顔をしかめて大きく腕を振る。振り払われたアネットは、背後に置かれていたテーブルに上半身を叩きつけられた。
息がつまるほどの痛みから回復するのを待てず、アネットは声を振り絞る。
「やめて! 返して! それは」
それは、エイミーとケヴィンをつなぐ唯一のもの。
アネットのせいで父親を知らないで育つエイミーに、託さなければならない。
愛されるはずだった証として。
痛みになんかかまっていられない。
アネットは机を押すようにして体を起こすと、前のめりに倒れそうになる勢いも利用して男の腰にしがみつく。
「てめぇ、しつけぇぞ!」
怒声をあげながら、男は指輪を握った腕を振り上げる。アネットはとっさに目をつむった。
殴られても離すわけにはいかない──!
だが、アネットの身にこぶしが振り下ろされることはなかった。
その代り、男のがなり声が室内に響く。
「何しやがる!」
「窃盗の現行犯だな。もうすぐ警備隊が来る。大人しく捕まるがいい」
低くて、心地いい深みのある声がする。
その声に、アネットの心臓は跳ねた。
何で今ここで、この声がするの……?
ぼうぜんとしながらおそるおそる顔を上げれば、この場に新たに現れた男性が、男の手首をひねり上げて、開かせた手のひらから指輪をつまんで取り上げている。庶民の着るシャツにベストといった姿をしているから目を疑ってしまったけど。
長身で、端正な顔をした、アネットが一日たりとも忘れられなかった人。
その人と目が合うと、アネットは男の腰から腕を解いて、その場にへなへなとへたりこんでしまった。
男から指輪を取り戻せた安堵と、見つかってしまったという虚脱感。
ケヴィンが言った通り、間を置かずに黒っぽい制服を着た警備隊員が数人やってきて、男に縄をかけはじめた。
「その女はいいのか!? 分不相応な指輪を持ってたのはそいつだぞ!」
わめく男に、ケヴィンは冷ややかに視線を向ける。
「この指輪はわたしが彼女に贈ったものだ。彼女が持っていて何ら不思議はない」
男の目がかっと見開かれた。
「おまえか! よく見ればそっくりだ! なぁ、その女は今は俺の女なんだ。これまで面倒みてやった慰謝料をはずめよ。俺はそれを受け取る権利がある。なぁ、そうだろ!?」
体に力が入らず荒目の木の床に座り込んだまま、アネットは言い返した。
「あんたの世話になんかなった覚えない! 今度こそ二度と牢屋から出てくるな!」
そのあとも男はわめいていたが、縄で腕と胴をしっかりとくくられ、警備隊員数人に囲まれて、ろくな抵抗もできずに引き立てられていく。廊下に出た男は、集まってきていた近所の人々に罵倒を浴びせられる。その罵倒が遠退いていくことで、男が遠ざかっていくことを感じアネットはほっと息をついた。
「大丈夫か?」
差し伸べられたケヴィンの手のひらに、アネットの胸は甘くうずいた。
大きくて、少しだけ節ばった手。過去、この手と何度も触れ合った。
もう見ることさえかなわないと思っていたのに、今アネットのために差し出されている。
ここで拒むのは不自然。
自分にそう言い訳して、アネットは自分の手のひらを重ねた。
ケヴィンの手に支えられて、アネットはまだ力のあまり入らない体を何とか立たせる。自分の足で立てたところで、名残惜しく思いながらもケヴィンの手のひらから自分の手を引いた。
「ありがとうございました。おかげで助かりました」
ちゃんと、笑えているだろうか。
ケヴィンに再会できて泣きたくなる気持ちを押し隠して。
「偶然ですね。この辺りに用事があったんですか?」
我ながら、この白々しさにあきれてしまう。
貴族のケヴィンが下街に用があることなどまずない。アネットがロアルに連れていかれた酒場にはたびたび足を運んでいたそうだが、今は昼間だから酒を飲みに来たということはないだろう。
とすれば、目的は一つしか思い当たらない。
捜してもらえたという喜びが、体を奥底から震わせる。
自分から逃げ出しておいて、何を喜んでいるの?
アネットは心の中で自分を叱咤し、溢れそうになる思いを必死にこらえる。
思い出しなさい。あたしは何のためにケヴィン様から離れようとしたの?
ロアルは約束を守ってくれなかった。
部屋にほとんどこもりきりのアネットを、王都に戻って三週間余りの間に自力で探し出せたとは思えない。
やっぱり信用するんじゃなかった。ロアルはケヴィンをすごく慕っていたから、黙っているわけがなかったのだ。
約束を守ってもらえなかった悔しさと、ケヴィンの元から逃げ出したいたたまれなさで、目の前にいる人の顔をろくに見ることができなかった。
ちょっとは笑えたと思う。けれどすぐに目をそらしてしまい、話を続けることができない。
しばしの沈黙の後、ケヴィンが口を開いた。
「アネット」
名を呼ばれて、どきんと胸が高鳴る。
ベッドの中でしか呼ばれたことがないという記憶が、アネットの身に熱を灯らせる。
アネットにとって、ケヴィンに名前を呼ばれるのは特別なこと。
でもそれにほだされてちゃいけない。
アネットは自分に言い聞かせる。
非情になれ。
アネットは仕方なく縫いかけのドレスに縫い針をさして立ち上がった。ドレスを落ちないように椅子の上に盛ると、足音を立てないように隣の部屋に入り、廊下に続く扉に近付く。
あきらめて帰ってくれればいい。
だけど相手は、アネットがほとんど部屋を空けないことを知っている。
以前居留守を決め込んでいたら、言葉通り扉を壊されてしかも弁償してもらえなかったから、痛い出費をくらってしまった。
それにうるさい。親しい人たちは同情してくれるけど、そうではない人たちはアネットに対しても迷惑顔をして苦情を言うこともあった。こんなことが二週間近くも毎日続いて、アネット自身も限界に近い。
そろそろ住む場所を変えなきゃ。誰かいいところを紹介してくれるといいけど……。
扉をがたがた揺らされて、これ以上されたら壊れると思ったところで、アネットは鍵を開けた。
内開きの扉が開く。
我が物顔で入って来ようとするのは、細面でそこそこ顔はいいが、アネットに嫌悪感を抱かせる表情をした男だった。
「やめてよね。近所迷惑になるじゃない」
「おまえがさっさと鍵を開ければいいんだ」
なれなれしい視線を向けられて、背筋がぞっとする。
「何であんたのために鍵を開けなきゃならないのよ。出てって!」
「邪険にするなよ。俺たちの仲だろ?」
「あんたと仲良くなった覚えなんかないわよ! 帰って! 帰ってよ!」
男は下卑た笑みを浮かべ、アネットの耳元へ顔を寄せた。
「帰って欲しければ言えよ。あの子どもの父親が誰なのかをさ」
耳元にささやかれ、気持ち悪さに耐えられなくて後ろへ飛び退いた。
この男は顔見知りの娼婦の情夫だ。二週間程前に外で声をかけられて以来、ずっとつきまとわれている。
──あの子が情夫に話しちまったんだろうね。あんたのことを。
この部屋を用意し仕事を持ってきてくれた娼婦のレミナは、そう言っていた。
下街にこっそり隠れて暮らすアネット母子に、金のにおいをかぎつけたのだろう。エイミーの父親は金持ちと踏んで、アネットから聞き出そうとする。エイミーの存在を父親に知らせて、金をせしめようというのだ。
──帰ってほしいからって金を渡したりなんかしちゃダメだよ。ああいう男は味をしめるからね。
アネットもその通りだと思う。金を払って追い出せるならどんなに楽かと思うが、一度でも金を渡したら、やってくるたびに金をせびるようになる。
この男を情夫にしている娼婦は、男が連日アネットの部屋を訪れていることに気付いて、アネットに「人の男をとるんじゃない」と言いがかりをつけてきた。部屋に押し掛けてきて話も聞かずにアネットを殴って髪を引っ張ったが、すぐに近所の娼婦たちが気付いて引き離してくれた。そのあとレミナが彼女を諭してくれたのか、あれ以来姿を見せることはない。
この男と彼女の両方を相手にしていたら、さすがのアネットも参ってしまっていたことだろう。
男は彼女にもアネットにも悪いと思うところがまったくないらしく、この部屋にやってきては、アネットの恋人面をしようとする。
騒ぎを聞き付けて、多分誰かが警備隊を呼んでくれている。こいつが警備隊の手も焼く札付きの悪でよかったと思うのはこういう時だ。小物だったら、この程度のいざこざは痴話げんかとして片付けられてしまう。
「何度も言ってるけど、あの子の父親は平民よ。慰謝料をふんだくれるような相手じゃないわ」
「だったら何で、隠れるようにして暮らしてるんだよ?」
「それは、相手が妻子持ちで、迷惑をかけたくなかったから……」
語尾がわずかに細くなったことに嘘を見抜かれ、強引に抱き寄せられる。
「あの子ども、どっかのお貴族様のご烙印なんだろ?」
言い当てられて、ぎくっと身をこわばらせる。それに気付いて男は得意げに語りはじめた。
「おまえは下街のにおいがしねーんだよ。はすっぱな口を聞いても、立ち居振る舞いがどっかお上品なんだ。かといって貴族というほど世間知らずでもない。お貴族様の邸で下働きしてたんじゃねーのか? それでご主人様に手を出されて孕まされて、邸を追い出されたんだろ。……なぁ、おまえをそういう境遇に陥れた貴族野郎に復讐したいと思わないのか? おまえが邸を追い出されたってことは、子どもの存在が知られると困ることがあるんだろ? だったら子どものことを言いふらすって言ってやれば、口止め料にいくらでも金を出すぜ?」
途中まで言い当てられて、この男の金に対する嗅覚に怖れをなしたが、後半は見当違いもいいところだ。
アネットは追い出されたんじゃない、逃げて来たのだから。
ケヴィンに対する侮辱ともとれる男の思い込みに怒りがこみ上げて来て、アネットは男の腕の中で暴れた。
「いい加減にしてよね! そんなんじゃないったら!」
男は腕を振り回すアネットを、胸元に抱き込んで片腕を封じ、もう一方の手を空いている方の手でつかんで、抵抗を難なく押さえ込んでしまう。
男は再びアネットの耳元に顔を寄せた。
「観念しろって。──愉しませてやるからよ」
耳までなめられてしまえば、男の言葉の意味は明白だ。
「嫌!」
アネットは先程より一層、がむしゃらに暴れた。男の体との間に挟み込まれた腕を引き抜き、手当たり次第に振り回す。爪に痛みを覚えてはっとすれば、アネットの手首を離した男は自分の顔をさすった。
男の頬に、少量だが血が塗り広げられる。
瞳に怒りが宿った。
「こいつ!」
荒々しく肩をつかまれる。男の指が引っかかって襟ぐりが押し広げられ、アネットの首筋が半分露わになった。
男の動きが一瞬止まる。
次の暴力におびえて硬直しているアネットの服の下にあるものに気付き、男はそれをずるずると引っ張りだした。気付いてすぐさま止めようとするが、アネットの力では男にかなわない。
長い紐の先についている小袋を、男は引きちぎる勢いで開けた。中から転がり出る指輪をごつごつとした手のひらで受け止める。
男は簡単の呟きをもらした。
「へぇ……」
「返して!」
アネットは飛びつこうとするが、男は指につまんでひょいと掲げる。頭一つ分も背丈の違う男に腕を上げられてしまうと、それだけでもう手が届かない。
「いいもん持ってるじゃねーか。こりゃあきっと値打ちもんだぜ? 売ればいい値段がつきそうだ」
「売るつもりはないわ! 返してってば!」
男はにやっといやらしい笑みを浮かべて、アネットを見下ろす。
「この指輪、子どもの父親のもんだろ。子どもがそいつの子どもだっていういい証拠にもなるな」
細くてシンプルな指輪だが、元の持ち主は前国王の姉、クリフォード公爵の妻だ。もしかするとそこからケヴィンの身元が割れてしまうかもしれない。
アネットは掲げられた男の腕に取りすがり、よじのぼるようにして男の手を降ろそうとした。
返してと言っただけでは決して手元には戻らない。体重をかけて懸命に男の手を自分に近付ける。
「往生際が悪いぞ、こら!」
アネットに引っ張られて腕をひねったのか、男は顔をしかめて大きく腕を振る。振り払われたアネットは、背後に置かれていたテーブルに上半身を叩きつけられた。
息がつまるほどの痛みから回復するのを待てず、アネットは声を振り絞る。
「やめて! 返して! それは」
それは、エイミーとケヴィンをつなぐ唯一のもの。
アネットのせいで父親を知らないで育つエイミーに、託さなければならない。
愛されるはずだった証として。
痛みになんかかまっていられない。
アネットは机を押すようにして体を起こすと、前のめりに倒れそうになる勢いも利用して男の腰にしがみつく。
「てめぇ、しつけぇぞ!」
怒声をあげながら、男は指輪を握った腕を振り上げる。アネットはとっさに目をつむった。
殴られても離すわけにはいかない──!
だが、アネットの身にこぶしが振り下ろされることはなかった。
その代り、男のがなり声が室内に響く。
「何しやがる!」
「窃盗の現行犯だな。もうすぐ警備隊が来る。大人しく捕まるがいい」
低くて、心地いい深みのある声がする。
その声に、アネットの心臓は跳ねた。
何で今ここで、この声がするの……?
ぼうぜんとしながらおそるおそる顔を上げれば、この場に新たに現れた男性が、男の手首をひねり上げて、開かせた手のひらから指輪をつまんで取り上げている。庶民の着るシャツにベストといった姿をしているから目を疑ってしまったけど。
長身で、端正な顔をした、アネットが一日たりとも忘れられなかった人。
その人と目が合うと、アネットは男の腰から腕を解いて、その場にへなへなとへたりこんでしまった。
男から指輪を取り戻せた安堵と、見つかってしまったという虚脱感。
ケヴィンが言った通り、間を置かずに黒っぽい制服を着た警備隊員が数人やってきて、男に縄をかけはじめた。
「その女はいいのか!? 分不相応な指輪を持ってたのはそいつだぞ!」
わめく男に、ケヴィンは冷ややかに視線を向ける。
「この指輪はわたしが彼女に贈ったものだ。彼女が持っていて何ら不思議はない」
男の目がかっと見開かれた。
「おまえか! よく見ればそっくりだ! なぁ、その女は今は俺の女なんだ。これまで面倒みてやった慰謝料をはずめよ。俺はそれを受け取る権利がある。なぁ、そうだろ!?」
体に力が入らず荒目の木の床に座り込んだまま、アネットは言い返した。
「あんたの世話になんかなった覚えない! 今度こそ二度と牢屋から出てくるな!」
そのあとも男はわめいていたが、縄で腕と胴をしっかりとくくられ、警備隊員数人に囲まれて、ろくな抵抗もできずに引き立てられていく。廊下に出た男は、集まってきていた近所の人々に罵倒を浴びせられる。その罵倒が遠退いていくことで、男が遠ざかっていくことを感じアネットはほっと息をついた。
「大丈夫か?」
差し伸べられたケヴィンの手のひらに、アネットの胸は甘くうずいた。
大きくて、少しだけ節ばった手。過去、この手と何度も触れ合った。
もう見ることさえかなわないと思っていたのに、今アネットのために差し出されている。
ここで拒むのは不自然。
自分にそう言い訳して、アネットは自分の手のひらを重ねた。
ケヴィンの手に支えられて、アネットはまだ力のあまり入らない体を何とか立たせる。自分の足で立てたところで、名残惜しく思いながらもケヴィンの手のひらから自分の手を引いた。
「ありがとうございました。おかげで助かりました」
ちゃんと、笑えているだろうか。
ケヴィンに再会できて泣きたくなる気持ちを押し隠して。
「偶然ですね。この辺りに用事があったんですか?」
我ながら、この白々しさにあきれてしまう。
貴族のケヴィンが下街に用があることなどまずない。アネットがロアルに連れていかれた酒場にはたびたび足を運んでいたそうだが、今は昼間だから酒を飲みに来たということはないだろう。
とすれば、目的は一つしか思い当たらない。
捜してもらえたという喜びが、体を奥底から震わせる。
自分から逃げ出しておいて、何を喜んでいるの?
アネットは心の中で自分を叱咤し、溢れそうになる思いを必死にこらえる。
思い出しなさい。あたしは何のためにケヴィン様から離れようとしたの?
ロアルは約束を守ってくれなかった。
部屋にほとんどこもりきりのアネットを、王都に戻って三週間余りの間に自力で探し出せたとは思えない。
やっぱり信用するんじゃなかった。ロアルはケヴィンをすごく慕っていたから、黙っているわけがなかったのだ。
約束を守ってもらえなかった悔しさと、ケヴィンの元から逃げ出したいたたまれなさで、目の前にいる人の顔をろくに見ることができなかった。
ちょっとは笑えたと思う。けれどすぐに目をそらしてしまい、話を続けることができない。
しばしの沈黙の後、ケヴィンが口を開いた。
「アネット」
名を呼ばれて、どきんと胸が高鳴る。
ベッドの中でしか呼ばれたことがないという記憶が、アネットの身に熱を灯らせる。
アネットにとって、ケヴィンに名前を呼ばれるのは特別なこと。
でもそれにほだされてちゃいけない。
アネットは自分に言い聞かせる。
非情になれ。
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