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《第三章》あなたには前を向いていてほしい

第三十二話

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 昼休みが明けてすぐ、別所べっしょから内線が入った。
遼子りょうこ先生、お話したいことがあるので来てください」
 はじめは契約書の中身についてだろうと思ったが、それなら別所は内線など使わず、法務部へやって来る。ということは「仕事」の話ではない可能性が高い。遼子は思案しながら机上の書類を片付けて席を立つ。
 深雪みゆきや法務部のスタッフに別所の部屋へ行くと告げ部屋を出た。法務部と社長室は同じフロアだ。別所のもとへ向かう短い時間のなかで、呼び出される理由をあれこれ考えているうちに気持ちが重くなってきた。 別所と共有している話といってすぐに浮かぶのは別れた夫・高桑たかくわのこと。そして藤田ふじたの妻・富貴子ふきこの秘密。どれをとっても「いい話」とはいえないからだ。
 別所がいるであろう部屋のドアの前に着いた。どのような話をされても動揺しないよう気持ちを引き締める。ちらちら浮かぶ不安を頭から追い払いドアをノックした。
麻生あそうです」
「どうぞ、お入りください」
 聞こえてきた別所の声が緊張を和らげてくれた。ドアノブに手を伸ばし扉を開く。部屋に入ると、ふだんどおり格好がいい彼が窓際に立っていた。
「来ていただいてすみません。でも……」
 近づく別所の顔からほほ笑みが消えた。瞬く間に心に不安が広がっていく。
「藤田のことなので二人きりで話したくて……」
 一瞬富貴子の姿が頭に浮かんだ。
「藤田様、のことですか?」
 向けられた表情は苦笑にも受け取れる。別所の様子を窺いながら、おそるおそる尋ねたところ、
「ええ。結論から申し上げると富貴子さんからすべて聞いたそうです」
 どうぞと促され、遼子はソファに腰を下ろす。
 秘匿の罪悪感からようやく解放されたはずなのにすっきりしない。それは秘密を共有している別所が、何かを抱えているような沈んだ顔をしているからだ。もしかしたら富貴子の病が悪化したのかもしれない、そう思ったら気持ちが重くなってきた。
「富貴子さんが病気や入院の話を藤田に隠していたのは、自分自身が病と向き合う時間を作りたかったからだそうです。それがやっとできたので話したようです」
 テーブルを挟んだ向かいに座る別所が淡々と話す。
「その後二人で主治医を訪ね、病気の説明と今後の治療について相談したとのことでした」
 でも、と続きそうな雰囲気だった。遼子は緊張したまま耳を澄ます。
「以上です」
「え?」
 遼子はぽかんとした。聞かされた言葉をそのとおりに受け取れば、藤田夫妻は前向きな方向へ向かっているけれど、話した当人の表情が暗いままだ。どう受け止めたらいいのかわからず、別所を見つめたまま頭の中を整理していたら、目線の先で彼が深いため息を漏らした。
「別所さん、どう、しました?」
 戸惑いながら問いかけると、
「藤田がね、富貴子さんが自分を思って病気を隠していたのは理解できるが、悔しいと言っていたんです」
「悔しい、ですか……?」
 別所は視線を落とし頷いた。
「病気と向き合える時間がほしかったから秘密にしていたのもわかるけれど、その間どれほど不安だっただろうって……」
 中国の故事に「比翼連理ひよくれんり」というものがある。希代きだい詩仙しせん白楽天はくらくてんが作った「長恨歌ちょうこんか」のなかで玄宗げんそう皇帝と楊貴妃ようきひが誓い合った言葉からできたものだ。
 天にあっては比翼の鳥とならん
 池にあっては連理の枝とならんとす
「比翼の鳥」とは、雌雄それぞれ目と翼が一つずつあり、常に一体となって飛ぶという想像上の鳥、「連理」は連理の枝のことで、根元は別々の二本の木で幹や枝が途中でつながったものだ。どちらも男女の堅い結びつきを表している。仕事上いろいろなタイプの夫婦を見てきたが、藤田夫妻ほどこの言葉がふさわしいカップルはいなかったと言っていい。なのに富貴子が藤田をおもんばかった結果が裏目に出てしまったと知り、心に後悔が広がった。
「僕も……、悔やみました」
 沈んだ声が耳に入った。無意識のうちに落としていた目線を上げると、別所もうなだれていた。
「藤田に……、悔いを残させてしまったから」
 どうすればよかったのだろう。どうしたらこのような結果にならずにすんだのか。肩を落とす別所を見ながら必死になって考えても何も思いつかない。いや、わかっているのだ。富貴子が早々に病を打ち明けていれば、藤田は悔やむことはなかったと。でも、富貴子の立場になって考えてみると、別所が言ったとおり病と向き合う気持ちができてから話したほうが藤田を動揺させずに済む。別所だってわかっているはずだ。掛ける言葉を見つけられないまま別所に視線を向けていたら、口を閉ざしていた彼がゆっくりと顔を上げた。
「藤田はね、僕と遼子先生にすまなかったと詫びたんです。重いものを背負わせてしまったと」
 妻だけでなく自分に関わる人間たちを大事にする藤田らしい言葉だと思った。だが、心の奥にしまいこんだ罪悪感が少しずつ膨らんでいく。
「夫婦って、なんでも半分こするもんだって言ってました、藤田は。だからもう二度と富貴子さんのことで後悔したくないから社長職から退くと決めたようです」
 遼子は目を見開いた。
「そうしたら、社員たちから引き留められてしまって相談役にさせられたってぼやいてましたよ。相談役なら時間に余裕を持てるだろうし、そのすべてを使って富貴子さんと向き合いたいと思っているんでしょうね。だから結果として雨降って地固まったということです。それと……」
 目線を落としていた別所が顔を上げた。理由はわからないが、緊張しているかのように表情がこわばっている。
「もう一つ話があります。明日、仕事が終わったら付き合っていただきたいところがあるんです」
「明日、ですか?」
 遼子は首を傾げた。
「ええ。会わせたい人がいるんです、あなたに」
 別所は言い終えると静かにほほ笑んだ。それがなぜか、さみしそうに見えてならなかった。
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