カエル沼

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カラス

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 木漏れ日で反射する緑色の水面。水草が花を咲かせ、大きめの葉の上でカエルが三匹重なっている。時折キラリと光る魚。盛り上がった葉の下のカエル。まだ尻尾の取れないカエル。それは、カエル沼の縁から水面を覗き込む少女ごと、一枚の絵画の様に美しかった。次の瞬間、少女が水音と共に消えた。水の中から、少女が見上げる。

「……たっくん……」

 香弥が水に沈んだ。


 小学校入学式の朝。

「拓海、用意できたか?」

 真新しいランドセルを背負い入学式用のスーツを着て髪を綺麗に整えられた拓海は、母親と父親に付き添われて玄関から出た。

「雨が降らなくて良かっ……!」

 母親の上げた小さな悲鳴にそちらを見る。母親の視線の先には、十数羽のカラスが電線に並んでいた。出勤やゴミ捨て等で出て来た近所の人が、多数のカラスに思わず怯む。そのカラスは拓海に向かって、一度ずつ「カァ」と鳴いた。「カァ」と鳴く声は、拓海には従妹が拓海を呼ぶ声に聞こえていた。

 入学式直前に引っ越して来た拓海には、十ヶ月程前に溺死した同じ年の従妹、香弥がいた。香弥の死から十ヶ月、カラスは香弥の声で拓海を呼ぶ。カエルはもう、香弥の声で拓海を呼ばない。カラスが、カラスだけが、香弥の声で拓海を呼ぶ。

 早歩きになる母親に手を引かれ、拓海は駆け足になる。

「おか、おかあさん!」

「ちょ、落ち着けって!」

 子供と夫が居た事を思い出した様に立ち止まり、振り返る。

「……ごめんごめん、間に合うか不安で慌てちゃった」

 固い笑顔を見せ、小学校までの道のりを覚えるように拓海に言うと、母親は拓海の歩幅に合わせて歩き始めた。二人の後ろを、父親がついて行く。その後ろを一際大きなカラスが、一定の間隔を開けて着いていっていた。

 拓海は難聴である。生まれつきではない。去年の初夏、正確には従妹の事故死からだ。耳に水が入っていると拓海が言うので耳鼻科に受信したが、原因はわからずじまいだった。勿論、水は入っていない。だが、常に水が耳に入ったように音を遮断している。ストレス性のものだろう、と言うのが医師の診断だった。

 小学校入学に際し、診断書は学校側へ提出していた。少しでも不自由なく過ごせるように、気を使って貰えるようにと。

 入学式の日、一人ずつ名前を呼ばれた時、四十名いる新入生の中、拓海は一人だけ返事をしなかった。否、できなかった。聞こえなかったのである。担任の先生に二度呼ばれ、隣の子につつかれて慌てて返事をした。保護者席に失笑がさざめきの様に広がり、拓海の両親は苦笑していた。

「比企石拓海君は……」

 クラスの最後まで一人ずつ名前を読み上げた後、担任が徐に口を開いた。

「耳が聞こえない病気です」

 体育館の中の、全員が、どよめく。

「せ、先生、それは今ここでは……」

 慌てて教頭先生が担任を制しようと声を掛ける。

「病気の! 人を! 笑っては! いけません!」

 担任が声を荒げると同時に、他の先生方が立ち上がり、駆け寄った。

「皆さん! 比企石君に謝って! 謝って!」

「まぁまぁ」

「先生、その話は後で、後で話しましょう」

 マイクから引き剥がされた担任のヒステリックな怒鳴り声が体育館に響く。呆然とする生徒と保護者、それに来賓の視線を受け、担任は体育館から引きずり出されて行った。

 視線が、拓海に集まる。拓海は顔が熱くなるのを感じて俯いた。さすがにあれだけ大声を出されれば聞こえている。謝ってなど欲しくない。拓海には、なぜ担任の教師があんなに激怒したのかわからなかったし、なぜ今自分が恥ずかしい思いをしなければならないのかわからなかった。

「えー、まぁ、皆さん、一人一人違うので、お互いを尊重しましょうね、という事で……」

 急遽、担任の交代という事で、新しい担任が決まるまで、教頭先生が受け持つ事になった。

 クラスの中で、拓海は「耳の聞こえない可哀想な子」と言う事になった。口々に「ごめんね」と謝り、泣くクラスメイトに、拓海は「いいよ」としか返せなかった。

 次第に、拓海は返事をしない子供になった。名前を呼ばれた気がして返事をすると、誰も呼んでいない事がある。それは決まってカラスが鳴いた時だった。「耳が聞こえない子」「可哀想な子」「誰も呼んでないのに突然返事をする子」として、拓海はクラスメイトに敬遠されるようになった。友達は出来ず、話し掛けようとしても距離を取られた。

 カラスは毎日、拓海の部屋も教室も覗き込み、「カァ」と鳴く。


 ソレは香弥の命日が近付くにつれ……

「ねぇ、たっくん」

 香弥の声で喋るカラスが……

「ねぇ、たっくん、どうして?」

 カラスの語彙が増えていった。

「どうして、来てくれないの?」

 十数羽も集まったカラスが……

「ねぇねぇねぇ、あそぼうよ」

 口々に……

「ねぇ、どうして?」

 香弥の声で……

「たっくん、どうして助けてくれなかったの?」

 拓海を……

「ねぇ、どうして、かやを死なせたの?」

 責め立てる。

「たっくんが悪い子だからだよ」

 拓海は知ってしまった。

「なんで一緒に死ななかったの?」

 香弥の声が聞こえるのは……

「たっくんが死なせたんだよ」

 拓海だけな事。

「たっくん、こっち来て」

 香弥の声だけが……

「ねぇねぇねぇ助けてよ」

 はっきりと聞こえる事。

「どうして死んでくれないの?」

 そして自分が……

「早くそこから飛び降りてよ」

 香弥を死なせてしまった事。


 香弥の三回忌、拓海は初めての自殺未遂をしていた。まだ小学一年生、自宅二階ベランダからの飛び降りだった。

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