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担任
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香弥の三回忌、拓海は初めての自殺未遂をしていた。まだ小学一年生、自宅二階ベランダからの飛び降りだった。
身体が軽かった事と下が植え込みだった事が功を奏した。多少の打ち身で済み、事故として処理された。泣き崩れる母親に、カラスに言われるがまま柵を乗り越えた等とは言えなかった。
香弥の命日を過ぎると、再び、カラスは「……たっくん……」としか言わなくなった。だが、ますますクラスメイト達は余所余所しくなった。毎日教室を覗き込むカラスに、怯えるクラスメイトも増えた。
次第に拓海もカラスの見分けが付くようになっていた。どこへ行くにも付いてくるカラス達の中でも特に大きいのが、他のカラス達から少し離れた場所から監視している。こいつが、カエルを飲み込んだ、最初に香弥の声で喋ったカラスだった。
拓海の母は思い悩んでいた。イトコの死は拓海にとってどうしようもないトラウマだろう。目の前で溺れて死んだのだ。拓海にしてやれる事は何でもしてやろうと思った。しかし、精神的な物からなのか難聴を発症してから更に扱いづらい子供になったのは間違いなかった。意思の疎通ができない。するつもりがない相手との生活かこんなに困難だとは思ってもみなかった。それが実の子でまだ七歳なのだから、涙も溢れようと言うものだ。そして、ベランダからの転落事故。命に別状が無くて良かったものの、足台を持ってきてベランダの柵を乗り越えたのには何か理由があるに違いないと思ったし、虐待を疑われて警察から児童相談所へも連絡が行き、カウンセリングも行った。その際、夫の姪の事故死についても警察、カウンセリング双方で話し、恐らくはそのトラウマで衝動的に死へと突き動かされている可能性もあると言われた。だから、目を離すべきではないと。もっと大人の目があるように頼れる人は居ないのかと。居たら頼っているのだ。夫の実家かダメな今、母である彼女側の実家しかないが、引っ越したばかりで再度引っ越しをして環境の変化によるストレスも良くないと言う。正直、手詰まりだった。それに今は転落事故の件での近所の好奇の目から逃げたかった。
「母ちゃんから聞いたけどさ」
弟の健治から電話が来たのは、そんな折りだった。
「姉ちゃん、引っ越したって聞いて。今、近くに来てるから、泊まりに行って良い?」
空気を読まずに続けた弟に、健治の姉であり拓海の母である彼女は少し笑った。そう言えば、笑ったのなど、いつぶりだろうか?
「夫に聞いてからね」
「恭さん、良いって!」
「また、私より先に連絡したのね」
弟と夫は仲が良かった。盆と正月は仲良く二人で呑んでいるし、子供が出来る前はよく二人で釣りやキャンプに行ったりしていたのだ。子供が出来たら子連れキャンプへと話していたのが懐かしい。が、拓海のアレルギー発症により、子連れキャンプの話も見送られていた。
夕方、早めに仕事から戻った夫は、どこかで待ち合わせていたらしく、弟と連れ立ってきた。
「お邪魔しまーす、姉ちゃん久しぶり、凄いじゃん、ちゃんと家じゃん」
無理をして前金払って買った一戸建てだ。ちゃんと家である。
弟は十年前から見た目が全然変わらない。何年履いているかわからないジーンズに代わり映えのしないTシャツ。リュックは玄関で下ろして貰う
「お風呂はちゃんと入ってるんでしょうね?」
キャンプから直接来るとは聞いていたので、ダニノミの持ち込みはお断りしたい。
「大丈夫、昼の内にスーパー銭湯行ったし」
髪を括った紐をほどくと、わざとらしく頭を振った。サラサラヘアアピールだろうが、天パの髪がモサモサと揺れるだけだ。
「てゆーかさ、この辺カラスめっちゃ多いのな。お、拓海、久しぶり。叔父さんだぞ!」
夫が拓海の肩をつつき、帰宅を知らせると、健治が声を掛けた。が、拓海は振り返らない。おおよそ、無視するのは不自然なボリュームの声ではあった。
「あ、健治、あの……」
「あ、あー、うん、来る途中で道すがら、恭さんに聞いたよ。難聴だって?」
どこまで説明するか迷って、頷く。夫が、拓海の視線を健治に誘導すると、拓海は驚いた表情で、小さく会釈した。
「お、じ、さ、ん、だぞ。覚えてるか?」
ゆっくりと喋る健治に、拓海が頷くと小さな声で言った。
「……けんちゃん……」
「そう、けんちゃんだ!」
記憶力良いなと頭を撫でる。
夫と息子を風呂へと行かせ、彼女は弟へ冷たい紅茶を出した。
「姉ちゃんのアイスティー上手いんだよな」
言いながら、グラスの中身を一気飲みする。
「なぁ、姉ちゃん、キャンプ行かね? 恭さんと俺と拓海とでさぁ。小学校って夏休みいつからよ?」
気を使っているのだろうか。きっと酷い顔をしているのだろう。アレから一年。疲れた。疲れていた。それに、こういう話をする時には、夫へ先に話を通しているのだろう。弟は、そう言う人間である。
翌日から、有給を取ってあると言う夫と、そろそろ夏休みに入る拓海を連れ、弟の車でキャンプへと繰り出す事になった。
必要な物は全て車にあると言う頼もしい言葉に、最低限の物だけ持っての遠出である。
冷房の壊れた車内は窓を開けて冷たい物を飲みながらしのぎ、よく笑う弟につられて息子も夫もよく笑った。それを言うと「君も笑ってる」と夫に指摘され、久方ぶりに心が軽くなっているのを感じた。
拓海は、キャンプが初めてだった。カラスは相変わらず「……たっくん……」と拓海を呼ぶが、それ以上に大きな声で笑いながら「拓海!」と呼ぶ叔父の声がカラスの声を掻き消した。車はポンコツで冷房は無いし、ガタゴトガタゴトうるさいし、飲もうとした水は暴れる座席で溢すし、溢してもゲラゲラ笑って「すぐ乾くから気にするな」なんて言う。前に会ったのは二年前の正月で、その時もお酒を溢して「その内乾く」とストーブの前を占領していた。
耳が聞こえづらい事すら忘れて笑い疲れた頃、キャンプ場へと着いた。途中で買った肉や野菜やカップ麺にお菓子。野菜もちゃんとと言う母に、叔父と父が肉コールを繰り返して母が根負けしていたのも面白かった。
バーベキューをしていると、トンビが飛んできて、それまで木の上から見下ろしていたカラス達を追い払い始めた。健治が「トンビ頑張れ! 負けるな! トンビ!」とか言いながらビールを開けたので、みんなでトンビを応援しながら肉を焼いた。二十か三十はいたカラスが、数羽のトンビに追い払われ、トンビには功労賞として高級肉を進呈した。怒涛の内に日が沈み、バーベキューの片付けを終えた叔父と父がテントへ戻って来た。母はずっと拓海の傍で笑っていた。日が沈むと途端に空気が清んだ気がした。
「キャンプだと、お料理も片付けも男がやるんだね」
「ああ、こんな楽しい事、女ども譲れないからな!」
普段の家事との違いを純粋に口にしただけだが、心底楽しそうに叔父が返す。
「楽しいから、叔父さんは殆ど家に帰らないぞ」
「威張れた話じゃないでしょう」
呆れたように言う母は、それでも笑っていた。やがて電気を消して簡易ベッドに横になると、寝袋の叔父と父が芋虫のように転がっているのに気付いて、また笑った。
「けんちゃんのベッドとっちゃってごめんなさい」
小さな声で言ったつもりが、思ったよりも大きく響く。
「大丈夫。姉ちゃんを寝袋で寝かしたら怒られそうだからな。知ってるか? 拓海の母ちゃんは怒ると熊より怖いんだぞ?」
「そうなの?」
「俺なんか、何度……ああいや……」
言い淀んだのは、姉と目が合ったからだ。
「まぁ、熊より怖い母ちゃんと、それと結婚した勇気ある男の父ちゃんと、その母ちゃんの弟の俺が居るから、何も怖くねぇよ」
「ほんと?」
だから、ゆっくり寝な。と言う叔父に、拓海は食い気味に口を開く。
「本当に怖いの無い?」
「何が、怖いんだ?」
健治の声が、真剣な響きを帯びる。茶化さないで真面目に聞いてくれているのだ。
「……かやちゃん……」
声を絞り出した瞬間、虫の音さえ静まり返った気がした。
「友達?」
「イトコ。この間、死んじゃったのに、カエルになったの。カエルをカラスが食べて、カラスになったの」
「……そうか……」
「かやちゃんが、早く死んでって言うから、ぼく、死のうと思ったけど、できなかったの」
拓海は、ぐずりと鼻を鳴らした。
「それはダメだ。死んだらダメだぞ。どんなに母ちゃんが強くても、拓海が死のうとしたら守れないからな。死のうとしない。叔父さんと約束できるな?」
「うん」
慌てて約束をさせ、健治がほうと息を吐いた時、ひっそりと拓海の両親の吐息も聞こえた。拓海の寝息が聞こえ始め、漸く大人達も眠りへ付く事が許された。
朝焼けと共にカラスの声が聞こえ、飛び起きたが、もう拓海はカラスに怯えた様子は見えなかった。すぐに朝ご飯の準備にかかると再びトンビが巡回に訪れ、カラスが追い払われた。朝ご飯も賑やかに終わり、撤収作業を終えると、再び、ガタゴトガタゴトとうるさく暴れる車で家路を急いだ。
それから、毎年、香弥の命日には健治とのキャンプが恒例になった。どんなにカラスが集まっても、車の音と叔父の声の方が大きかった。その日だけ過ぎれば、後は「……たっくん……」しか言わなくなるのだ。徐々にカラスを無視をする事が上手くなっていっていた。ただ、難聴は治らない。カラスもだが、周囲の人間を無視する事も増えた。登下校時や学校内でわざと聞こえない音量で話す人間が増えた。大抵は、登下校時や体育の時に拓海を見下ろしてカラスがついて移動していたり、難聴で聞こえないのを揶揄ったりしているだけだった。
小学六年になった。担任は若い男の先生で、明るくて爽やかで親にも生徒にも人気のある先生だった。が、しかし、拓海は担任に無視され始めた。理由はわからない。もしかしたら、担任の言葉を拓海が聞き取れなかったことが理由かもしれない。もしかしたら、言葉数の少ない拓海が癇に触ったのかもしれない。担任は聞き取れない位の口頭のみで連絡事項を告げる。今までは「難聴だから」と何度も声をかけてくれたりしたクラスメイトも徐に無視をし始め、テストも移動教室も拓海を置き去りにし、担任に準じてクラスメイト全員が拓海を無視するようになった。
そうなると掌を返したかのように担任は笑顔で拓海の傍まで来て、聞こえる程度の声で、言った。「たっくん、死んでくれよ」と。一年の時の飛び降り事件を知っている子から聞いたのだろう。それから毎日、担任が耳元で囁くようになった。
「たっくん、なんでまだ生きてるの?」
「たっくん、なんで生きてるの?」
「かやちゃんが呼んでるんだろ?」
「たっくーん」
大人の男の声に、カラスの香弥の声が被る。窓の外からはいつも、カラスが教室を覗いていた。
拓海は六年の秋から学校に行かなくなった。
始めは、腹痛だった。夏休み明け初日、腹痛にのたうち回る拓海を、両親は慌てて病院へ連れて行った。だが、待ち合いで椅子に座っている内に痛みは嘘のように消えた。
それから、毎朝、腹痛に見舞われるようになった。
家から出なくなり、部屋の窓は雨戸で締め切っていた。それでも外からは香弥の声が聞こえていた。
不登校になり暫くすると「たくみくんへ」と書かれた手紙が届くようになった。利き手と逆の手で書かれたような不自然な字の手紙は差出人が無く、宛先も切手も貼っていない。中はノートの切れはしに、やはり利き手と逆の手で書かれたような不自然な字で「たっくん」「シネ」の文字がビッシリと書き込まれていた。夜中のいつ郵便受けに入れられたものか、朝、母親が見つけ、友達からかと喜んで拓海へ渡した。
「お友達、何て? うちに遊びに来てもらうのはどうかしら?」
勤めて明るく言う母親の言葉を、拓海は聞こえない振りした。
手紙は毎日続き、10月に入ると、朝、クラスメイトが迎えに来るようになった。母親が喜び、拓海の部屋へと声を掛けに行くが、内側から掛けられた鍵は開かず、返事もなく、「ごめんね、お腹が痛いみたい」と迎えに来た子供達を学校へと見送る。それが毎日続いた。カラスは相変わらず香弥の声で拓海を呼ぶ。
冬になり、年が明け、3月になり、卒業式の日、卒業証書を届けに、担任とクラスメイトが拓海の家に訪れた。
「最後だから、最後に一目顔を見せてくれよ。頼むよ」
そう、近所中に聞こえるような大きな声で担任に言われ、母親に促されて玄関先まで出た拓海の目の前には、クラスメイトが全員揃っていた。皆一様に紺のブレザーに卒業生の花をつけている。
担任が、卒業証書の入っているだろう筒を拓海に手渡す。
「卒業おめでとう、たっくん」
クラスメイト達が、手に手に封筒を差し出す。その全てには利き手と逆の手で書かれたような不自然な、あの字で「たくみくんへ」とあった。
身体が軽かった事と下が植え込みだった事が功を奏した。多少の打ち身で済み、事故として処理された。泣き崩れる母親に、カラスに言われるがまま柵を乗り越えた等とは言えなかった。
香弥の命日を過ぎると、再び、カラスは「……たっくん……」としか言わなくなった。だが、ますますクラスメイト達は余所余所しくなった。毎日教室を覗き込むカラスに、怯えるクラスメイトも増えた。
次第に拓海もカラスの見分けが付くようになっていた。どこへ行くにも付いてくるカラス達の中でも特に大きいのが、他のカラス達から少し離れた場所から監視している。こいつが、カエルを飲み込んだ、最初に香弥の声で喋ったカラスだった。
拓海の母は思い悩んでいた。イトコの死は拓海にとってどうしようもないトラウマだろう。目の前で溺れて死んだのだ。拓海にしてやれる事は何でもしてやろうと思った。しかし、精神的な物からなのか難聴を発症してから更に扱いづらい子供になったのは間違いなかった。意思の疎通ができない。するつもりがない相手との生活かこんなに困難だとは思ってもみなかった。それが実の子でまだ七歳なのだから、涙も溢れようと言うものだ。そして、ベランダからの転落事故。命に別状が無くて良かったものの、足台を持ってきてベランダの柵を乗り越えたのには何か理由があるに違いないと思ったし、虐待を疑われて警察から児童相談所へも連絡が行き、カウンセリングも行った。その際、夫の姪の事故死についても警察、カウンセリング双方で話し、恐らくはそのトラウマで衝動的に死へと突き動かされている可能性もあると言われた。だから、目を離すべきではないと。もっと大人の目があるように頼れる人は居ないのかと。居たら頼っているのだ。夫の実家かダメな今、母である彼女側の実家しかないが、引っ越したばかりで再度引っ越しをして環境の変化によるストレスも良くないと言う。正直、手詰まりだった。それに今は転落事故の件での近所の好奇の目から逃げたかった。
「母ちゃんから聞いたけどさ」
弟の健治から電話が来たのは、そんな折りだった。
「姉ちゃん、引っ越したって聞いて。今、近くに来てるから、泊まりに行って良い?」
空気を読まずに続けた弟に、健治の姉であり拓海の母である彼女は少し笑った。そう言えば、笑ったのなど、いつぶりだろうか?
「夫に聞いてからね」
「恭さん、良いって!」
「また、私より先に連絡したのね」
弟と夫は仲が良かった。盆と正月は仲良く二人で呑んでいるし、子供が出来る前はよく二人で釣りやキャンプに行ったりしていたのだ。子供が出来たら子連れキャンプへと話していたのが懐かしい。が、拓海のアレルギー発症により、子連れキャンプの話も見送られていた。
夕方、早めに仕事から戻った夫は、どこかで待ち合わせていたらしく、弟と連れ立ってきた。
「お邪魔しまーす、姉ちゃん久しぶり、凄いじゃん、ちゃんと家じゃん」
無理をして前金払って買った一戸建てだ。ちゃんと家である。
弟は十年前から見た目が全然変わらない。何年履いているかわからないジーンズに代わり映えのしないTシャツ。リュックは玄関で下ろして貰う
「お風呂はちゃんと入ってるんでしょうね?」
キャンプから直接来るとは聞いていたので、ダニノミの持ち込みはお断りしたい。
「大丈夫、昼の内にスーパー銭湯行ったし」
髪を括った紐をほどくと、わざとらしく頭を振った。サラサラヘアアピールだろうが、天パの髪がモサモサと揺れるだけだ。
「てゆーかさ、この辺カラスめっちゃ多いのな。お、拓海、久しぶり。叔父さんだぞ!」
夫が拓海の肩をつつき、帰宅を知らせると、健治が声を掛けた。が、拓海は振り返らない。おおよそ、無視するのは不自然なボリュームの声ではあった。
「あ、健治、あの……」
「あ、あー、うん、来る途中で道すがら、恭さんに聞いたよ。難聴だって?」
どこまで説明するか迷って、頷く。夫が、拓海の視線を健治に誘導すると、拓海は驚いた表情で、小さく会釈した。
「お、じ、さ、ん、だぞ。覚えてるか?」
ゆっくりと喋る健治に、拓海が頷くと小さな声で言った。
「……けんちゃん……」
「そう、けんちゃんだ!」
記憶力良いなと頭を撫でる。
夫と息子を風呂へと行かせ、彼女は弟へ冷たい紅茶を出した。
「姉ちゃんのアイスティー上手いんだよな」
言いながら、グラスの中身を一気飲みする。
「なぁ、姉ちゃん、キャンプ行かね? 恭さんと俺と拓海とでさぁ。小学校って夏休みいつからよ?」
気を使っているのだろうか。きっと酷い顔をしているのだろう。アレから一年。疲れた。疲れていた。それに、こういう話をする時には、夫へ先に話を通しているのだろう。弟は、そう言う人間である。
翌日から、有給を取ってあると言う夫と、そろそろ夏休みに入る拓海を連れ、弟の車でキャンプへと繰り出す事になった。
必要な物は全て車にあると言う頼もしい言葉に、最低限の物だけ持っての遠出である。
冷房の壊れた車内は窓を開けて冷たい物を飲みながらしのぎ、よく笑う弟につられて息子も夫もよく笑った。それを言うと「君も笑ってる」と夫に指摘され、久方ぶりに心が軽くなっているのを感じた。
拓海は、キャンプが初めてだった。カラスは相変わらず「……たっくん……」と拓海を呼ぶが、それ以上に大きな声で笑いながら「拓海!」と呼ぶ叔父の声がカラスの声を掻き消した。車はポンコツで冷房は無いし、ガタゴトガタゴトうるさいし、飲もうとした水は暴れる座席で溢すし、溢してもゲラゲラ笑って「すぐ乾くから気にするな」なんて言う。前に会ったのは二年前の正月で、その時もお酒を溢して「その内乾く」とストーブの前を占領していた。
耳が聞こえづらい事すら忘れて笑い疲れた頃、キャンプ場へと着いた。途中で買った肉や野菜やカップ麺にお菓子。野菜もちゃんとと言う母に、叔父と父が肉コールを繰り返して母が根負けしていたのも面白かった。
バーベキューをしていると、トンビが飛んできて、それまで木の上から見下ろしていたカラス達を追い払い始めた。健治が「トンビ頑張れ! 負けるな! トンビ!」とか言いながらビールを開けたので、みんなでトンビを応援しながら肉を焼いた。二十か三十はいたカラスが、数羽のトンビに追い払われ、トンビには功労賞として高級肉を進呈した。怒涛の内に日が沈み、バーベキューの片付けを終えた叔父と父がテントへ戻って来た。母はずっと拓海の傍で笑っていた。日が沈むと途端に空気が清んだ気がした。
「キャンプだと、お料理も片付けも男がやるんだね」
「ああ、こんな楽しい事、女ども譲れないからな!」
普段の家事との違いを純粋に口にしただけだが、心底楽しそうに叔父が返す。
「楽しいから、叔父さんは殆ど家に帰らないぞ」
「威張れた話じゃないでしょう」
呆れたように言う母は、それでも笑っていた。やがて電気を消して簡易ベッドに横になると、寝袋の叔父と父が芋虫のように転がっているのに気付いて、また笑った。
「けんちゃんのベッドとっちゃってごめんなさい」
小さな声で言ったつもりが、思ったよりも大きく響く。
「大丈夫。姉ちゃんを寝袋で寝かしたら怒られそうだからな。知ってるか? 拓海の母ちゃんは怒ると熊より怖いんだぞ?」
「そうなの?」
「俺なんか、何度……ああいや……」
言い淀んだのは、姉と目が合ったからだ。
「まぁ、熊より怖い母ちゃんと、それと結婚した勇気ある男の父ちゃんと、その母ちゃんの弟の俺が居るから、何も怖くねぇよ」
「ほんと?」
だから、ゆっくり寝な。と言う叔父に、拓海は食い気味に口を開く。
「本当に怖いの無い?」
「何が、怖いんだ?」
健治の声が、真剣な響きを帯びる。茶化さないで真面目に聞いてくれているのだ。
「……かやちゃん……」
声を絞り出した瞬間、虫の音さえ静まり返った気がした。
「友達?」
「イトコ。この間、死んじゃったのに、カエルになったの。カエルをカラスが食べて、カラスになったの」
「……そうか……」
「かやちゃんが、早く死んでって言うから、ぼく、死のうと思ったけど、できなかったの」
拓海は、ぐずりと鼻を鳴らした。
「それはダメだ。死んだらダメだぞ。どんなに母ちゃんが強くても、拓海が死のうとしたら守れないからな。死のうとしない。叔父さんと約束できるな?」
「うん」
慌てて約束をさせ、健治がほうと息を吐いた時、ひっそりと拓海の両親の吐息も聞こえた。拓海の寝息が聞こえ始め、漸く大人達も眠りへ付く事が許された。
朝焼けと共にカラスの声が聞こえ、飛び起きたが、もう拓海はカラスに怯えた様子は見えなかった。すぐに朝ご飯の準備にかかると再びトンビが巡回に訪れ、カラスが追い払われた。朝ご飯も賑やかに終わり、撤収作業を終えると、再び、ガタゴトガタゴトとうるさく暴れる車で家路を急いだ。
それから、毎年、香弥の命日には健治とのキャンプが恒例になった。どんなにカラスが集まっても、車の音と叔父の声の方が大きかった。その日だけ過ぎれば、後は「……たっくん……」しか言わなくなるのだ。徐々にカラスを無視をする事が上手くなっていっていた。ただ、難聴は治らない。カラスもだが、周囲の人間を無視する事も増えた。登下校時や学校内でわざと聞こえない音量で話す人間が増えた。大抵は、登下校時や体育の時に拓海を見下ろしてカラスがついて移動していたり、難聴で聞こえないのを揶揄ったりしているだけだった。
小学六年になった。担任は若い男の先生で、明るくて爽やかで親にも生徒にも人気のある先生だった。が、しかし、拓海は担任に無視され始めた。理由はわからない。もしかしたら、担任の言葉を拓海が聞き取れなかったことが理由かもしれない。もしかしたら、言葉数の少ない拓海が癇に触ったのかもしれない。担任は聞き取れない位の口頭のみで連絡事項を告げる。今までは「難聴だから」と何度も声をかけてくれたりしたクラスメイトも徐に無視をし始め、テストも移動教室も拓海を置き去りにし、担任に準じてクラスメイト全員が拓海を無視するようになった。
そうなると掌を返したかのように担任は笑顔で拓海の傍まで来て、聞こえる程度の声で、言った。「たっくん、死んでくれよ」と。一年の時の飛び降り事件を知っている子から聞いたのだろう。それから毎日、担任が耳元で囁くようになった。
「たっくん、なんでまだ生きてるの?」
「たっくん、なんで生きてるの?」
「かやちゃんが呼んでるんだろ?」
「たっくーん」
大人の男の声に、カラスの香弥の声が被る。窓の外からはいつも、カラスが教室を覗いていた。
拓海は六年の秋から学校に行かなくなった。
始めは、腹痛だった。夏休み明け初日、腹痛にのたうち回る拓海を、両親は慌てて病院へ連れて行った。だが、待ち合いで椅子に座っている内に痛みは嘘のように消えた。
それから、毎朝、腹痛に見舞われるようになった。
家から出なくなり、部屋の窓は雨戸で締め切っていた。それでも外からは香弥の声が聞こえていた。
不登校になり暫くすると「たくみくんへ」と書かれた手紙が届くようになった。利き手と逆の手で書かれたような不自然な字の手紙は差出人が無く、宛先も切手も貼っていない。中はノートの切れはしに、やはり利き手と逆の手で書かれたような不自然な字で「たっくん」「シネ」の文字がビッシリと書き込まれていた。夜中のいつ郵便受けに入れられたものか、朝、母親が見つけ、友達からかと喜んで拓海へ渡した。
「お友達、何て? うちに遊びに来てもらうのはどうかしら?」
勤めて明るく言う母親の言葉を、拓海は聞こえない振りした。
手紙は毎日続き、10月に入ると、朝、クラスメイトが迎えに来るようになった。母親が喜び、拓海の部屋へと声を掛けに行くが、内側から掛けられた鍵は開かず、返事もなく、「ごめんね、お腹が痛いみたい」と迎えに来た子供達を学校へと見送る。それが毎日続いた。カラスは相変わらず香弥の声で拓海を呼ぶ。
冬になり、年が明け、3月になり、卒業式の日、卒業証書を届けに、担任とクラスメイトが拓海の家に訪れた。
「最後だから、最後に一目顔を見せてくれよ。頼むよ」
そう、近所中に聞こえるような大きな声で担任に言われ、母親に促されて玄関先まで出た拓海の目の前には、クラスメイトが全員揃っていた。皆一様に紺のブレザーに卒業生の花をつけている。
担任が、卒業証書の入っているだろう筒を拓海に手渡す。
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