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失恋
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じわりと空が白染んできたのに気付き、茂吉は慌てて棒と木桶を掴んだ。シジミを取りに行かねば、今日の商いができない。
普段なら絶対にしないのだが、海へと降りる道を走ろうとして、次の瞬間には空へと放り出されていた。慌てて宙を掻き、砂浜へと着地する。
「……び、びっくりした」
盛大に下半身が砂浜に埋もれつつも、両手に力を入れて抜け出そうとし、両手も砂に沈んだ。
「おわ、どうしょ」
沈んだ両手を慌てて引き抜くと、更に身体が砂に沈む。
「なんだ? なんだってんだ?」
茂吉は砂に上半身を寝かせ、足を蹴り上げた。砂が巻き散らかされ、右足が自由になる。同じ要領で左足も蹴り上げる。
ほうほうの体で砂から抜け出すと、足場を確かめるようにゆっくりと膝をついて立ち上がった。
「ふぃ、ヒドイ目にあった」
「おや、しげきっつぁんじゃねぇか。何かあったのかい?」
向こうからやってきて声をかけたのは、棒手振の長太だ。年は茂吉のひとつふたつ下だろう。茂吉と似たような格好だが、長太は長屋住まいだ。父親がおらず、母親は身体を壊して寝たきりで、まだ幼い弟妹が四人もいる。長太が棒手振でなんとか家族を養っていた。
長太のすぐ下の弟は、そろそろ十になる。
茂吉が棒手振ができなくなったら、長太の弟に得意先を譲るつもりだった。
「ちぃと転けちまって」
「ははは、ケガでもしたらツマンネェだろ。気をつけなよ」
言いながら長太が海に膝まで入る。
茂吉も、距離を取って同じように海に入る。
シジミ取りはそんなに難しくはない。足の裏で海の中の砂を軽く撫ぜてやると、足の裏に固い物が触るので、そこら辺を手で摘まんで拾うと海に浮かべた木桶に放り込む。一歩一歩そうして拾っていけば、一時もせずに木桶は埋まる。あまり欲張っても持ち上がらないので、そこそこで終わらせるのと、小さいシジミは海に返すのがコツだ。小さいシジミは海に返しておけばまた大きく育つ。『父ちゃん』から教わった通りに、茂吉は長太にも教えていた。長太の母親が倒れて、棒手振の茂吉に「棒手振を教えてくれ」と言ってきた時には驚いた。なんせ、長屋に住んで親がいる時点で自分より恵まれていると思っていたのだから。
だが、幼い長太には何をするにも金が無かった。どこぞの職人に弟子入りするにも、弟妹や母親を放っては無理だった。親方の家に住み込み、無給で家事や仕事の雑用に使役されながら職人の技術を習得、一定年限の修業を積んで一人前の職人になると親方から仕事道具などを分与され独立する。それは、弟妹や母親を見捨てると言うことだ。
その代わり、朝から棒手振をし、昼から長屋の職人の雑用を手伝って駄賃を貰い、夕方まで弟妹と一緒に藁草履を編む。編んだ藁草履は売れる。藁は米問屋から入らなくなった俵をほどいた物を貰っていた。長太と家族は、細々となんとかその日その日を生きていた。
「しげきっつぁん。棒手振できなくなったら、次は考えてんのかい?」
「ああ、あたぼうよ」
茂吉が「何も思い付かない」などと言えば、長太を困らせるだろう。
「だが、そん時までのお楽しみだ」
「なんでぇ。教えてくれたって良いじゃねぇか」
「ばぁか。おめぇらの驚いた顔が見れねぇじゃねぇか」
軽口を叩き、「ん」と腰を伸ばす。
「ほら、無駄口叩いてねぇで手を動かすんだぜ。オイラは先に行くからよ」
いつもより多く入った木桶を棒の両端に引っかけると、ソッと肩で持ち上げた。いつもなら勢いをつけて持ち上げるのだが、天狗の力がある今、うっかりとぶちまけてしまう可能性が高かった。
「あ、もう行くのかい。オイラももうすぐだから……」
言い募る長太を、だが、茂吉は手を振って応え、その場から離れた。うっかり天狗の力がバレても面倒な事になりそうだからだ。
下町に長屋はいくつかある。
長太達の住む裏長屋の地主は亀次という老人で、表通りに面した表長屋で荒物屋をしている。長屋の端と端には簡素な門があり、家守は亀次の二番目の息子がしていた。息子と言っても妻子ある良い年をした大人だ。亀次の荒物屋では店子が作ったものを預かって売ったりもしている。長太と弟妹の作った藁草履も置いて貰っていた。
以前はそこいら辺も茂吉と『父ちゃん』で棒手振で回っていたのだが、長太が棒手振を始めた頃に譲った。長太の長屋を中心に、左側を長太が、右側を茂吉が振り売り歩く。
いつものように。
いつものように井戸端でかしましく談笑している女性達が、「しじみ~」の声に顔を上げた。
一瞬、全員が酷く顔を歪める。
近付くと、口元を押さえてバタバタと部屋へと入って行ってしまった。
「へ?」
いつもとは違いすぎる状況に、思わず間抜けな声が出る。
「あ? なんでぇ、シジミ売りの茂吉じゃねぇか」
一つの部屋の戸が開き、無精髭の男が顔を出した。
「ちょっと! あんた! 早く閉めておくれ! ヒドイ臭いだよ、全く!」
中から男の嫁が声を荒げる。
「臭いなんてわかんねぇけどなぁ」
「なんでわからないのさ! 良いから! 今日はシジミは良いからさっさと行っておくれ!」
後半を、茂吉にだろう、叫ぶように言うと、男の首根っこを掴んで引っ込めさせ、音を立てて戸を閉めた。
ぽかりと口を開けたまま、茂吉は立ち尽くした。ぐるり、と周囲の部屋を見渡す。どこの部屋の戸も、固く閉まって、いつもの賑わいが嘘のようだ。
何かの間違いだろう、とその後も長屋から長屋へと振り売り歩くも、どこの長屋でも同じような状況だった。
一粒も売れないまま、しばらく歩くと、おまちの団子屋が見えてきた。
「茂ちゃ……」
いつものように店から出てきたおまちの笑顔が、ひきつる。
「臭いぃぃいいい!」
瞬間、おまちは店へと駆け込み、戸を強く閉めた。
「え、え? おまっちゃん……?」
おまちはそんな事しないだろう、と思っていただけに、つい、団子屋の戸を叩く。
「いやぁ! 帰って! いなくなって!」
強い拒絶に、茂吉が呆然としていると、肩に手を掛けられた。ふりむくと、見知った町人が蔑んだ目で見下ろしている。
「おめぇ、おまちちゃんに何したんだ?」
茂吉は、答える前に殴り飛ばされていた。
木桶と棒、それに中にたんまり入っていたシジミが辺りにばら蒔かれる。
だが、茂吉はおまちに拒絶された衝撃が強く、それどころではない。
ぐいと胸ぐらを掴まれて引き起こされると、更にもう一発殴り飛ばされた。
「帰ぇんな! 二度とおまちちゃんに近付くんじゃねぇぞ!」
いつの間にできたのか、野次馬達が「そうだそうだ」と尻馬に乗る。
その声に囃し立てられるようにして、茂吉はふらりと立ち上がると、何も考えられないまま、その場を立ち去った。
「忘れ物だ!」
木桶が背後から投げつけられ、頭に命中してばらけるも、茂吉はそれにすら気付かず、手ぶらで廃寺へと戻った。
ぼんやりと水瓶から水を飲んで、破れた畳へ寝転がる。
大穴の開いた天井からは日の光がさんさんと降り注いでいた。
なんだ?
何が起こった?
茂吉には何が何やらまるで理解ができなかった。
昨日までと今日のあまりに違うみんなの態度に、自分が何か悪い事をしたのかと考える。
昨日は、普通にシジミを買って貰っていた。おまちだっていつも通りおきゃんだった。小さな尻と切れ上がった小股が年頃の茂吉の恋心を刺激した。変な目で見ていたからか? いや、だったらもっと前から兆候があってしかるべきだろう。昨日までと今日と何が違う? 何が……。
そこで、つ、と顔を伝う赤い物に気付いた。先ほど木桶をぶつけられた時の傷だろう。だが、痛みは無い。
……痛くない……。
「おめぇか!」
茂吉は己の胸ぐらを掴んで揺さぶる。
だが、服が延びるだけだ。
「おい! 神だか天狗だか知らねぇが、おめぇ! オイラの中のおめぇだよ!」
返事は、無い。
「おめぇが何かしやがったな! こん畜生! メシのタネが無きゃオイラもおめぇもお陀仏だってわかってやがんだろうな!」
わめいた。わめいて、茂吉は己の頬を殴り付けた。
端から見れば気が違ったと思われるだろう。
が、幸いにも見る者もいない廃寺だ。
殴って殴って殴って殴って殴って……。
飽きた。
反応が無いのだ。
口の中が切れても、歯が抜けても痛くもない。
人ではないモノになってしまった。
脱力する。
恐らくはそう言う事なのだろう。
そして、おまちを始めとする女性達にはそれがバレていたのだ。
そこで、ふと首を傾げる。
男衆には特に拒絶されなかった気がする。
会わなかっただけかも知れないが、少なくとも一目散に逃げられたりはしていなかった。
そうだ、自分を殴った男には見覚えがあった。大工の見習いの余七だ。余七も「茂吉が何か悪い事をした」ゆえに、おまちが拒絶したと考えたのだろう。余七に会おう。そして、おまちに話を聞いて貰おう。何か誤解があったに違いない。おまちが直せと言えば悪い所は直そう。そして、ゆくゆくは団子屋に婿入りしても良い。いや、そうすればおまちとの事も将来の事も全て上手く行く。
茂吉は、自分が団子屋の亭主になり、おまちと子供とはしゃぐ姿を想像して、顔を赤らめた。
善は急げとばかりに、茂吉は廃寺を文字通り、飛び出た。
ひと跳ねで山を降りると、軽い足取りで建物の屋根の上を走った。この時、茂吉は気付いてなかったが、足は屋根には着いておらず、宙を鳥よりも早く走っていた。
と、余七を見つける。
余七はまだ、おまちの団子屋の前にいた。
おまちと話をしているようだった。
咄嗟に建物の影に隠れる。
おまちが、余七の腕の中に飛び込んだ。
茂吉は、何が起きているのか理解ができなかった。
余七がおまちをキツく抱き締め、団子屋の店舗の中へと入って、戸を閉めた。
茂吉は、そっと横に回って窓から中を覗いた。
団子屋の主人であるおまちの父親の姿はない。抱き合う若い男女ふたりきりである。
やがて、おまちが顔を上げ、余七の顔がおまちに覆い被さり……。
限界だった。
どう、と地面を蹴り、空高く飛び上がると、夢中で空を駆けた。
数秒で廃寺へと飛び込むと、茂吉は堰を切ったように泣き始めた。
大声で、赤子のように。
茂吉の、初めての失恋だった。
普段なら絶対にしないのだが、海へと降りる道を走ろうとして、次の瞬間には空へと放り出されていた。慌てて宙を掻き、砂浜へと着地する。
「……び、びっくりした」
盛大に下半身が砂浜に埋もれつつも、両手に力を入れて抜け出そうとし、両手も砂に沈んだ。
「おわ、どうしょ」
沈んだ両手を慌てて引き抜くと、更に身体が砂に沈む。
「なんだ? なんだってんだ?」
茂吉は砂に上半身を寝かせ、足を蹴り上げた。砂が巻き散らかされ、右足が自由になる。同じ要領で左足も蹴り上げる。
ほうほうの体で砂から抜け出すと、足場を確かめるようにゆっくりと膝をついて立ち上がった。
「ふぃ、ヒドイ目にあった」
「おや、しげきっつぁんじゃねぇか。何かあったのかい?」
向こうからやってきて声をかけたのは、棒手振の長太だ。年は茂吉のひとつふたつ下だろう。茂吉と似たような格好だが、長太は長屋住まいだ。父親がおらず、母親は身体を壊して寝たきりで、まだ幼い弟妹が四人もいる。長太が棒手振でなんとか家族を養っていた。
長太のすぐ下の弟は、そろそろ十になる。
茂吉が棒手振ができなくなったら、長太の弟に得意先を譲るつもりだった。
「ちぃと転けちまって」
「ははは、ケガでもしたらツマンネェだろ。気をつけなよ」
言いながら長太が海に膝まで入る。
茂吉も、距離を取って同じように海に入る。
シジミ取りはそんなに難しくはない。足の裏で海の中の砂を軽く撫ぜてやると、足の裏に固い物が触るので、そこら辺を手で摘まんで拾うと海に浮かべた木桶に放り込む。一歩一歩そうして拾っていけば、一時もせずに木桶は埋まる。あまり欲張っても持ち上がらないので、そこそこで終わらせるのと、小さいシジミは海に返すのがコツだ。小さいシジミは海に返しておけばまた大きく育つ。『父ちゃん』から教わった通りに、茂吉は長太にも教えていた。長太の母親が倒れて、棒手振の茂吉に「棒手振を教えてくれ」と言ってきた時には驚いた。なんせ、長屋に住んで親がいる時点で自分より恵まれていると思っていたのだから。
だが、幼い長太には何をするにも金が無かった。どこぞの職人に弟子入りするにも、弟妹や母親を放っては無理だった。親方の家に住み込み、無給で家事や仕事の雑用に使役されながら職人の技術を習得、一定年限の修業を積んで一人前の職人になると親方から仕事道具などを分与され独立する。それは、弟妹や母親を見捨てると言うことだ。
その代わり、朝から棒手振をし、昼から長屋の職人の雑用を手伝って駄賃を貰い、夕方まで弟妹と一緒に藁草履を編む。編んだ藁草履は売れる。藁は米問屋から入らなくなった俵をほどいた物を貰っていた。長太と家族は、細々となんとかその日その日を生きていた。
「しげきっつぁん。棒手振できなくなったら、次は考えてんのかい?」
「ああ、あたぼうよ」
茂吉が「何も思い付かない」などと言えば、長太を困らせるだろう。
「だが、そん時までのお楽しみだ」
「なんでぇ。教えてくれたって良いじゃねぇか」
「ばぁか。おめぇらの驚いた顔が見れねぇじゃねぇか」
軽口を叩き、「ん」と腰を伸ばす。
「ほら、無駄口叩いてねぇで手を動かすんだぜ。オイラは先に行くからよ」
いつもより多く入った木桶を棒の両端に引っかけると、ソッと肩で持ち上げた。いつもなら勢いをつけて持ち上げるのだが、天狗の力がある今、うっかりとぶちまけてしまう可能性が高かった。
「あ、もう行くのかい。オイラももうすぐだから……」
言い募る長太を、だが、茂吉は手を振って応え、その場から離れた。うっかり天狗の力がバレても面倒な事になりそうだからだ。
下町に長屋はいくつかある。
長太達の住む裏長屋の地主は亀次という老人で、表通りに面した表長屋で荒物屋をしている。長屋の端と端には簡素な門があり、家守は亀次の二番目の息子がしていた。息子と言っても妻子ある良い年をした大人だ。亀次の荒物屋では店子が作ったものを預かって売ったりもしている。長太と弟妹の作った藁草履も置いて貰っていた。
以前はそこいら辺も茂吉と『父ちゃん』で棒手振で回っていたのだが、長太が棒手振を始めた頃に譲った。長太の長屋を中心に、左側を長太が、右側を茂吉が振り売り歩く。
いつものように。
いつものように井戸端でかしましく談笑している女性達が、「しじみ~」の声に顔を上げた。
一瞬、全員が酷く顔を歪める。
近付くと、口元を押さえてバタバタと部屋へと入って行ってしまった。
「へ?」
いつもとは違いすぎる状況に、思わず間抜けな声が出る。
「あ? なんでぇ、シジミ売りの茂吉じゃねぇか」
一つの部屋の戸が開き、無精髭の男が顔を出した。
「ちょっと! あんた! 早く閉めておくれ! ヒドイ臭いだよ、全く!」
中から男の嫁が声を荒げる。
「臭いなんてわかんねぇけどなぁ」
「なんでわからないのさ! 良いから! 今日はシジミは良いからさっさと行っておくれ!」
後半を、茂吉にだろう、叫ぶように言うと、男の首根っこを掴んで引っ込めさせ、音を立てて戸を閉めた。
ぽかりと口を開けたまま、茂吉は立ち尽くした。ぐるり、と周囲の部屋を見渡す。どこの部屋の戸も、固く閉まって、いつもの賑わいが嘘のようだ。
何かの間違いだろう、とその後も長屋から長屋へと振り売り歩くも、どこの長屋でも同じような状況だった。
一粒も売れないまま、しばらく歩くと、おまちの団子屋が見えてきた。
「茂ちゃ……」
いつものように店から出てきたおまちの笑顔が、ひきつる。
「臭いぃぃいいい!」
瞬間、おまちは店へと駆け込み、戸を強く閉めた。
「え、え? おまっちゃん……?」
おまちはそんな事しないだろう、と思っていただけに、つい、団子屋の戸を叩く。
「いやぁ! 帰って! いなくなって!」
強い拒絶に、茂吉が呆然としていると、肩に手を掛けられた。ふりむくと、見知った町人が蔑んだ目で見下ろしている。
「おめぇ、おまちちゃんに何したんだ?」
茂吉は、答える前に殴り飛ばされていた。
木桶と棒、それに中にたんまり入っていたシジミが辺りにばら蒔かれる。
だが、茂吉はおまちに拒絶された衝撃が強く、それどころではない。
ぐいと胸ぐらを掴まれて引き起こされると、更にもう一発殴り飛ばされた。
「帰ぇんな! 二度とおまちちゃんに近付くんじゃねぇぞ!」
いつの間にできたのか、野次馬達が「そうだそうだ」と尻馬に乗る。
その声に囃し立てられるようにして、茂吉はふらりと立ち上がると、何も考えられないまま、その場を立ち去った。
「忘れ物だ!」
木桶が背後から投げつけられ、頭に命中してばらけるも、茂吉はそれにすら気付かず、手ぶらで廃寺へと戻った。
ぼんやりと水瓶から水を飲んで、破れた畳へ寝転がる。
大穴の開いた天井からは日の光がさんさんと降り注いでいた。
なんだ?
何が起こった?
茂吉には何が何やらまるで理解ができなかった。
昨日までと今日のあまりに違うみんなの態度に、自分が何か悪い事をしたのかと考える。
昨日は、普通にシジミを買って貰っていた。おまちだっていつも通りおきゃんだった。小さな尻と切れ上がった小股が年頃の茂吉の恋心を刺激した。変な目で見ていたからか? いや、だったらもっと前から兆候があってしかるべきだろう。昨日までと今日と何が違う? 何が……。
そこで、つ、と顔を伝う赤い物に気付いた。先ほど木桶をぶつけられた時の傷だろう。だが、痛みは無い。
……痛くない……。
「おめぇか!」
茂吉は己の胸ぐらを掴んで揺さぶる。
だが、服が延びるだけだ。
「おい! 神だか天狗だか知らねぇが、おめぇ! オイラの中のおめぇだよ!」
返事は、無い。
「おめぇが何かしやがったな! こん畜生! メシのタネが無きゃオイラもおめぇもお陀仏だってわかってやがんだろうな!」
わめいた。わめいて、茂吉は己の頬を殴り付けた。
端から見れば気が違ったと思われるだろう。
が、幸いにも見る者もいない廃寺だ。
殴って殴って殴って殴って殴って……。
飽きた。
反応が無いのだ。
口の中が切れても、歯が抜けても痛くもない。
人ではないモノになってしまった。
脱力する。
恐らくはそう言う事なのだろう。
そして、おまちを始めとする女性達にはそれがバレていたのだ。
そこで、ふと首を傾げる。
男衆には特に拒絶されなかった気がする。
会わなかっただけかも知れないが、少なくとも一目散に逃げられたりはしていなかった。
そうだ、自分を殴った男には見覚えがあった。大工の見習いの余七だ。余七も「茂吉が何か悪い事をした」ゆえに、おまちが拒絶したと考えたのだろう。余七に会おう。そして、おまちに話を聞いて貰おう。何か誤解があったに違いない。おまちが直せと言えば悪い所は直そう。そして、ゆくゆくは団子屋に婿入りしても良い。いや、そうすればおまちとの事も将来の事も全て上手く行く。
茂吉は、自分が団子屋の亭主になり、おまちと子供とはしゃぐ姿を想像して、顔を赤らめた。
善は急げとばかりに、茂吉は廃寺を文字通り、飛び出た。
ひと跳ねで山を降りると、軽い足取りで建物の屋根の上を走った。この時、茂吉は気付いてなかったが、足は屋根には着いておらず、宙を鳥よりも早く走っていた。
と、余七を見つける。
余七はまだ、おまちの団子屋の前にいた。
おまちと話をしているようだった。
咄嗟に建物の影に隠れる。
おまちが、余七の腕の中に飛び込んだ。
茂吉は、何が起きているのか理解ができなかった。
余七がおまちをキツく抱き締め、団子屋の店舗の中へと入って、戸を閉めた。
茂吉は、そっと横に回って窓から中を覗いた。
団子屋の主人であるおまちの父親の姿はない。抱き合う若い男女ふたりきりである。
やがて、おまちが顔を上げ、余七の顔がおまちに覆い被さり……。
限界だった。
どう、と地面を蹴り、空高く飛び上がると、夢中で空を駆けた。
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