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勘違い
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いつも茂吉が担当している隣の長屋から、シジミを売って欲しいと、長太の住む長屋の家守へ話があったのは、茂吉が殴られて廃寺へ帰った直後だった。
「なんだってぇ茂吉は、今朝はシジミを売らなかったんだい? 確かにシジミ~の声は聞こえてたんだけどね?」
亀次の次男の亀三はため息混じりに聞いた。
家守の部屋の前には隣の長屋の女衆と、困った顔をした隣の家守の八助が立っていた。
八助はもう年である。亀三の父より年嵩のはずだ。
それが、女達に突き出されるように目の前に立っていて、亀三は八助を可哀想に思った。
「そぉれがぁですねぇ……」
「臭かったのよ!」
「そうそう! 臭くて顔も見れたもんじゃなかったわ!」
「すごいニオイだったんだから!」
「ありゃあ、昨日の残りに違いないね!」
「腐ってるヤツを持ってきてたんだよ!」
八助の言葉を遮って女達が口々にわめく。
ならば八助を前に出す必要もなかろうに。
「ニオイねぇ」
亀三も茂吉の事は知っている。なんせ、店子である長太の師でもあるし、もっと幼い時には貰い乳の手配で茂吉の『父』に、乳の出る店子に口を利いてやった事もある。
成長を見守ってきた一人として、茂吉がそんな事をするような人間ではないと信じている。だが、女は怖い。
「わかったわかった。長太にそちらにも振り売りに行くように言っておくよ」
八助と女達を宥め、自分の長屋へ帰るよう促すと、亀三は長太の部屋へと向かった。
「いるかい?」
長太の家は寝たきりの母親と弟妹がいる。いないはずがない。
「はぁーい。て、おとっつぁんじゃない」
だが、出て来たのは亀三の一人娘のおつうだ。
「お前はまた入り浸って迷惑かけてんのかい?」
「迷惑なんかじゃないわよう!」
頬を膨らませたおつうに、長太の弟妹が抱きつく。
「おつう姉ちゃん、母ちゃんの背をさすってくれたの」
「おつう姉、オイラ達に水飴くれた!」
「おちゅうねえたん、だっこちてくりた!」
口々に言われ、亀三は子供達の頭を撫でる。
髪を下ろしたままの女性が、布団から身体を起こした。
「すみません、大家さん。あたしがこんな身体なばっかりに、おつうちゃんに迷惑を……」
言いかけて咳き込む長太の母に、慌てておつうが駆け寄ると、背を撫でる。
「迷惑なんかじゃないよ。だって、あたしのおっかさんだもん」
おつうが産まれた時、産後の肥立ちが悪く、そのままおつうの母親は亡くなった。その時、長太の母親であるおみつが長太と一緒におつうに乳をやり、育ててくれたのだ。その時の恩もあり、おみつの夫が事故で他界した時には、子供達ごと引き取るから後妻に来ないかと打診したのだが、すげなく断られている。
だから、まぁ、おつうがおみつを母と慕い、おみつの子供達の面倒を見るのは、あながち間違いでもないのだ。
「おつう、おみつの薬を貰いに行ってきておくれ」
「はぁい」
「と、その前に長太はもう他へ売りに行ったかい?」
「長太さんなら、ついさっきあっちに行ったから、すぐ追い付くと思うわ」
「そうかい。悪いんだけど呼び戻しておくれでないかい」
「わかったぁー」
おつうが部屋を飛び出して行く。その後を子供達が追いかけた。
二人きりになった部屋の戸を閉める。
「……まだ、私の世話にはなってくれないのかい?」
「充分、お世話になっております。おつうちゃんにも、心苦しいほどに」
布団から頭を持ち上げているのも辛いのか、枕に頭を戻すおみつ。
「おみつ、あんたは私ら親子の命の恩人みたいなもんなんだ。こんなんじゃ全然足りやしない。それにね、私は、おみつ、あんたを……」
「大家さんはあたしら親子の命の恩人ですよ。こんな身体のあたしに、赤ん坊だったおつうちゃんの子守りの仕事をくれ、身体を壊してからも何くれとなく面倒を見てくれた。充分でございますよ」
「お前さんも、頑固だねぇ」
「大家さんこそ」
「おみつ、もう、名前で呼んじゃくれないのかい?」
「……そんな仲じゃあ……ございませんでしょう?」
無理矢理に自分の部屋に連れて行くこともできる。そうすればこの身体の弱い女は一人では自分の部屋に戻る事もできないだろう。
おみつたちの部屋を己の部屋から一番近い所にしたのは、赤ん坊だったおつうの面倒を見て貰うためだったが、すぐに顔を見に来れるし、厠も井戸も近い。良いことだらけだ。
パタパタと子供達の足音と高い声が聞こえ、亀三は部屋から出た。
おつうと子供達に引っ張られて長吉が戻って来る所だった。
「やぁ、悪いねぇ」
「話は聞きやした。でも、しげきっつぁん、今朝も一緒にシジミ取りしてたんですけどねぇ?」
「じゃあ、シジミが悪くなってたわけじゃないんだな。まぁ、それは良いとして、隣の長屋にも売りに行ってくれないかね。オネエサン達が怖ぁい顔で「シジミーシジミー」て迫って来るもんでね、私もすっかり縮みあがっちまったよ」
はははと笑って亀三が言うと、長太が困ったように笑う。
「いつもの量しか無いんですけど、良んですかね?」
「それは仕方なかろうよ。手間賃で少し高く売っても良いくらいさ」
にこやかに話し、長太はペコリと一つ頭を下げると、隣の長屋へと歩いて行く。
「シジミ~」の声に、待ってましたとばかりに戸がいくつも開けられた音がした。
ふと見れば、娘が頬を膨らませて亀三を見上げていた。
「おとっつぁんは、長太さんに甘えすぎだと思うの!」
「そうかい?」
亀三は面食らった。面倒を見てやってはいても、自分が甘えていたつもりはコレッポッチも無かった。
「長太さんだって、いつまでもシジミ売りじゃあ無いんですからね!」
それもそうだ。長太はおつうと同い年だから、あと二年もすれば別の商売をしなければならない。
「おつう、お前、長太達きょうだいに読み書きと算用術を教えないかい?」
にやり、と、亀三は口の端を上げた。
長屋の揉め事は家守の仕事である。
シジミが今日だけ買えない程に茂吉が臭いからと言って、いつもの倍の量、倍の地域を長太一人に回らせるのは土台無理な話だ。長太のすぐ下の弟が今度の正月で十になるが、まだまだ身体が小さい。一緒に回らせるのは現実的ではない。
何があったのかと、亀三は八助と連れ立って、茂吉の目撃情報を頼りに聞いて回った。
すると、とにかく臭かった。あんな嫌な臭いは初めて嗅いだ。と女衆が言うのに対して、男衆は臭いなぞ感じなかったが、かかぁが怖いので黙っていた、と言う。
そして、いつもシジミを買うと言う団子屋のおまちちゃんの悲鳴と、通りかかった若い衆との喧嘩を聞いて、頭を抱えた。
喧嘩と言えば聞こえは良いが、どうも一方的に殴られていたらしい。挙げ句、木桶で殴られたとか。
茂吉と言えば、長太の兄貴分だ。廃寺に住んでいながら、毎日海に入ってるからか、潮の臭いはしてもそんな悪臭がした事なぞ一度も無い。
「困ったねぇ」と良いながら八助と別れて部屋に戻ると、おつうが待ち受けていて両手を差し出してきた。
「おっかさんの薬代! 貰って来るんでしょう?」
ああ、そうだった。と財布からいくらか出して握らせる。
「足りないわ! みんなの分の飴も買うんだから! お駄賃はずんでちょうだい!」
気の強い娘に、思わず笑みがこぼれる。
「はいはい」といくらか足すと、おつうは満足げに笑って自分の財布に仕舞い込んだ。
「じゃあ、行ってきまーす!」
「ああ、帰って来たら頼みがあるからね。すぐに戻るんだよ」
「はぁい」
昼前に戻って来たおつうは、長太と一緒だった。
「おっかさんにお薬飲ませてから戻るわね!」
「ああ。そうだ、長太は少し話があるから後で来なさい」
「え、へぇ」
唐突に言われ戸惑う長太を、いたずらっ子のような表情でおつうが見ていた。
戻ったおつうに、握り飯を二つばかり竹の皮に包んだ物を持たせる。
「こいつを茂吉に届けてくれやしないかい? どうも酷く殴られたようでね。万が一の事があっちゃいけない。少し様子を見てきておくれ」
「ええー、しげきっつぁん、かわいそう。わかったわ」
二つ返事でおつうが頷くと、茂吉の家である廃寺へと向かって行った。おつうの足なら日の高い内に戻るだろう。
「さ、長太、入んなさい」
そうして、家守部屋で、長太と向かい合って座った。
家守部屋は他の長屋の部屋より広く、かつ部屋数もある。裏長屋の入り口にある門に隣接した表長屋で、厠と井戸にも近い。そして、そのすぐ裏、というか横に、長太家族の部屋があった。
「あの、なんでしょうか?」
長太は困っていた。今後、シジミを反対側の茂吉が振り売り歩いていた場所まで長太が担当するとなると、どうしたって無理だ。だが、昼の日の高い時間にはシジミは悪くなる。弟はまだ小さくてこれから少しずつ手伝わせようと思っていた所だった。明日から一人立ちなぞ無理だ。
「いや、長太、お前、読み書きと算用術をうちのおつうから習いなさい」
思っても居なかった事を言われ、顔を上げる。
「え、でも、それは、そんな時間と金は……」
「手習いの真似事は夜にうちでやってそのまま泊まれば良い」
「おっかさんと、弟たちを放っては……」
「なら、みんなでうちに寝泊まりすれば良い」
「え? で、でも……」
「これはね、お前だけじゃない。弟や妹や、おみつ、お前のおっかさんのためでもあるんだ」
長太の頭がぐらぐらと揺れる。
「うちには男の子が居ないからね。お前には、しっかりとして貰わないと」
にこりと和やかに言う亀三の言葉に、長太の顔が真っ赤になった。
「しげきっつぁん……?」
山に入る道すがら、変な臭いが漂ってきた。嗅いだ事の無い嫌な臭いに、おつうは思わず手拭いで口と鼻を塞ぐ。
廃寺に近づくにつれ、それは強烈になっていく。が、茂吉に万が一の事が有ったのでは無いか? との心配から、おつうは無理をして歩を進めた。
廃寺の前まで来ると、気絶しそうになる。
「しげ……」
二度目の呼び掛けに、部屋でぼんやりと天井を見上げていた茂吉が、こちらへ顔を向けた。
酷い顔だった。血まみれで、顔中紫色に腫れ上がっていた。
「これ……」
持たされた握り飯を、入り口すぐの炊事場に置くと、ウッと吐き気がせり上がってきた。
慌ててその場を離れる。
背後から「おつうちゃん」と声を掛けられたが、それどころではない。山を駆け下り、町の近くまで一目散に駆けた。
口と鼻から手拭いを外し、悪臭がしない事を確認すると、大きく息を吸い込み、むせた。
二度三度深呼吸をして、おつうは自分の部屋のある長屋へと戻って行った。
泣き疲れて呆然と天井に空いた穴から空を見上げていると、名前を呼ばれた気がして、そちらを見た。
若い女の子が片手で口元を覆い、サッと何かを炊事場へ置くと、走って逃げてしまう。
あれは、確か、そう、長太の長屋の大家の娘のおつうだ。年は長太と同じ頃だった気がする。
緩慢な動きで炊事場に置かれた物を見ると、竹の皮に包まれた握り飯だった。
おつうが、握ったのか。
おつうが、わざわざ自分を心配して様子を見に来てくれたのか。
一つ、口に放り込む。
優しい塩味が身体に染みた。
そうか、と茂吉の目に再び涙が光る。
おつうは、様子を見に来たものの、恥ずかしくて走って帰ってしまったのだ。
きっと、おまちに拒絶され、あの男に酷く殴られたのを見て、居ても立っても居られずに来てくれたのだろう。
いじましさに心が震える。
おつうの可愛らしい、まだ幼さの残る顔を思い浮かべ、残りの一つも口に入れた。
そうだな、大家なんてのも良いかもしれない。年下の女房と長屋の切り盛りをして、おつうに良く似た娘と息子……。
そこまで思い描き、ハッとする。
あの恥ずかしがりようじゃ、茂吉の方から引っ張ってやらなければ何も進展しないだろう。
奥ゆかしい、恥ずかしがり屋のおつうが頬を染めて頷いてくれるのを思い浮かべ、慌てて水瓶の水を頭から被る。
柄杓で水をすくい、四~五杯も飲むと、心が決まった。
とりあえず、握り飯のお礼を言おう。
そして、夫婦になってくれと言うんだ!
あんまり急いで追い越しても詰まらないし、少し焦らす位が良いのか?
そんな風に文字通り浮かれた頭と足取りで、空を歩き、おつうの居る長屋へと辿り着いた。既に辺りはほの暗く、夕げの煙が立ち上っている。
茂吉がソッとおつうの部屋の窓へと近づくと、やけに賑やかな気配がした。
窓から覗くと、大家の部屋である筈なのに、何故か長太家族がおつうとその父親と一緒に食事をしていた。
子供達の嬉しそうな声に混じり、おつうが長太の母親を「おっかさん」と呼ぶのが聞こえた。
「ダメですよ、おとっつぁんの前であたしをおっかさんだなんて……」
「あら、あたしが長太さんと夫婦になれば、本当のおっかさんでしょう?」
「ちょちょちょちょちょ、待って!」
「待ちませーん! あたしは長太さんの嫁なんですからね!」
慌てる長太に、すり寄るおつう。
「はい、あなた。あーん」
「あ、あーん」
はははと軽快な笑い声がした。大家だ。
「今から尻に敷かれて結構結構」
「兄ちゃん、顔真っ赤ー」
「まっかっかー」
子供達が囃し立てる。
茂吉は、くるりとおつうの部屋に背を向けた。
どん、と地面を蹴って空高く跳ね上がると、無表情のまま廃寺へと戻った。
無表情のまま、古い破れた畳を見下ろす。
寝転がり、天井の穴を見上げると、星が煌めいていた。
何か、胸に込み上げてくる物があり、「ぐふっ」と口から音が漏れる。
星々の輪郭が滲む。
止めどなく溢れる涙を拭いもせず、そのままにした。
短い恋だった。
「なんだってぇ茂吉は、今朝はシジミを売らなかったんだい? 確かにシジミ~の声は聞こえてたんだけどね?」
亀次の次男の亀三はため息混じりに聞いた。
家守の部屋の前には隣の長屋の女衆と、困った顔をした隣の家守の八助が立っていた。
八助はもう年である。亀三の父より年嵩のはずだ。
それが、女達に突き出されるように目の前に立っていて、亀三は八助を可哀想に思った。
「そぉれがぁですねぇ……」
「臭かったのよ!」
「そうそう! 臭くて顔も見れたもんじゃなかったわ!」
「すごいニオイだったんだから!」
「ありゃあ、昨日の残りに違いないね!」
「腐ってるヤツを持ってきてたんだよ!」
八助の言葉を遮って女達が口々にわめく。
ならば八助を前に出す必要もなかろうに。
「ニオイねぇ」
亀三も茂吉の事は知っている。なんせ、店子である長太の師でもあるし、もっと幼い時には貰い乳の手配で茂吉の『父』に、乳の出る店子に口を利いてやった事もある。
成長を見守ってきた一人として、茂吉がそんな事をするような人間ではないと信じている。だが、女は怖い。
「わかったわかった。長太にそちらにも振り売りに行くように言っておくよ」
八助と女達を宥め、自分の長屋へ帰るよう促すと、亀三は長太の部屋へと向かった。
「いるかい?」
長太の家は寝たきりの母親と弟妹がいる。いないはずがない。
「はぁーい。て、おとっつぁんじゃない」
だが、出て来たのは亀三の一人娘のおつうだ。
「お前はまた入り浸って迷惑かけてんのかい?」
「迷惑なんかじゃないわよう!」
頬を膨らませたおつうに、長太の弟妹が抱きつく。
「おつう姉ちゃん、母ちゃんの背をさすってくれたの」
「おつう姉、オイラ達に水飴くれた!」
「おちゅうねえたん、だっこちてくりた!」
口々に言われ、亀三は子供達の頭を撫でる。
髪を下ろしたままの女性が、布団から身体を起こした。
「すみません、大家さん。あたしがこんな身体なばっかりに、おつうちゃんに迷惑を……」
言いかけて咳き込む長太の母に、慌てておつうが駆け寄ると、背を撫でる。
「迷惑なんかじゃないよ。だって、あたしのおっかさんだもん」
おつうが産まれた時、産後の肥立ちが悪く、そのままおつうの母親は亡くなった。その時、長太の母親であるおみつが長太と一緒におつうに乳をやり、育ててくれたのだ。その時の恩もあり、おみつの夫が事故で他界した時には、子供達ごと引き取るから後妻に来ないかと打診したのだが、すげなく断られている。
だから、まぁ、おつうがおみつを母と慕い、おみつの子供達の面倒を見るのは、あながち間違いでもないのだ。
「おつう、おみつの薬を貰いに行ってきておくれ」
「はぁい」
「と、その前に長太はもう他へ売りに行ったかい?」
「長太さんなら、ついさっきあっちに行ったから、すぐ追い付くと思うわ」
「そうかい。悪いんだけど呼び戻しておくれでないかい」
「わかったぁー」
おつうが部屋を飛び出して行く。その後を子供達が追いかけた。
二人きりになった部屋の戸を閉める。
「……まだ、私の世話にはなってくれないのかい?」
「充分、お世話になっております。おつうちゃんにも、心苦しいほどに」
布団から頭を持ち上げているのも辛いのか、枕に頭を戻すおみつ。
「おみつ、あんたは私ら親子の命の恩人みたいなもんなんだ。こんなんじゃ全然足りやしない。それにね、私は、おみつ、あんたを……」
「大家さんはあたしら親子の命の恩人ですよ。こんな身体のあたしに、赤ん坊だったおつうちゃんの子守りの仕事をくれ、身体を壊してからも何くれとなく面倒を見てくれた。充分でございますよ」
「お前さんも、頑固だねぇ」
「大家さんこそ」
「おみつ、もう、名前で呼んじゃくれないのかい?」
「……そんな仲じゃあ……ございませんでしょう?」
無理矢理に自分の部屋に連れて行くこともできる。そうすればこの身体の弱い女は一人では自分の部屋に戻る事もできないだろう。
おみつたちの部屋を己の部屋から一番近い所にしたのは、赤ん坊だったおつうの面倒を見て貰うためだったが、すぐに顔を見に来れるし、厠も井戸も近い。良いことだらけだ。
パタパタと子供達の足音と高い声が聞こえ、亀三は部屋から出た。
おつうと子供達に引っ張られて長吉が戻って来る所だった。
「やぁ、悪いねぇ」
「話は聞きやした。でも、しげきっつぁん、今朝も一緒にシジミ取りしてたんですけどねぇ?」
「じゃあ、シジミが悪くなってたわけじゃないんだな。まぁ、それは良いとして、隣の長屋にも売りに行ってくれないかね。オネエサン達が怖ぁい顔で「シジミーシジミー」て迫って来るもんでね、私もすっかり縮みあがっちまったよ」
はははと笑って亀三が言うと、長太が困ったように笑う。
「いつもの量しか無いんですけど、良んですかね?」
「それは仕方なかろうよ。手間賃で少し高く売っても良いくらいさ」
にこやかに話し、長太はペコリと一つ頭を下げると、隣の長屋へと歩いて行く。
「シジミ~」の声に、待ってましたとばかりに戸がいくつも開けられた音がした。
ふと見れば、娘が頬を膨らませて亀三を見上げていた。
「おとっつぁんは、長太さんに甘えすぎだと思うの!」
「そうかい?」
亀三は面食らった。面倒を見てやってはいても、自分が甘えていたつもりはコレッポッチも無かった。
「長太さんだって、いつまでもシジミ売りじゃあ無いんですからね!」
それもそうだ。長太はおつうと同い年だから、あと二年もすれば別の商売をしなければならない。
「おつう、お前、長太達きょうだいに読み書きと算用術を教えないかい?」
にやり、と、亀三は口の端を上げた。
長屋の揉め事は家守の仕事である。
シジミが今日だけ買えない程に茂吉が臭いからと言って、いつもの倍の量、倍の地域を長太一人に回らせるのは土台無理な話だ。長太のすぐ下の弟が今度の正月で十になるが、まだまだ身体が小さい。一緒に回らせるのは現実的ではない。
何があったのかと、亀三は八助と連れ立って、茂吉の目撃情報を頼りに聞いて回った。
すると、とにかく臭かった。あんな嫌な臭いは初めて嗅いだ。と女衆が言うのに対して、男衆は臭いなぞ感じなかったが、かかぁが怖いので黙っていた、と言う。
そして、いつもシジミを買うと言う団子屋のおまちちゃんの悲鳴と、通りかかった若い衆との喧嘩を聞いて、頭を抱えた。
喧嘩と言えば聞こえは良いが、どうも一方的に殴られていたらしい。挙げ句、木桶で殴られたとか。
茂吉と言えば、長太の兄貴分だ。廃寺に住んでいながら、毎日海に入ってるからか、潮の臭いはしてもそんな悪臭がした事なぞ一度も無い。
「困ったねぇ」と良いながら八助と別れて部屋に戻ると、おつうが待ち受けていて両手を差し出してきた。
「おっかさんの薬代! 貰って来るんでしょう?」
ああ、そうだった。と財布からいくらか出して握らせる。
「足りないわ! みんなの分の飴も買うんだから! お駄賃はずんでちょうだい!」
気の強い娘に、思わず笑みがこぼれる。
「はいはい」といくらか足すと、おつうは満足げに笑って自分の財布に仕舞い込んだ。
「じゃあ、行ってきまーす!」
「ああ、帰って来たら頼みがあるからね。すぐに戻るんだよ」
「はぁい」
昼前に戻って来たおつうは、長太と一緒だった。
「おっかさんにお薬飲ませてから戻るわね!」
「ああ。そうだ、長太は少し話があるから後で来なさい」
「え、へぇ」
唐突に言われ戸惑う長太を、いたずらっ子のような表情でおつうが見ていた。
戻ったおつうに、握り飯を二つばかり竹の皮に包んだ物を持たせる。
「こいつを茂吉に届けてくれやしないかい? どうも酷く殴られたようでね。万が一の事があっちゃいけない。少し様子を見てきておくれ」
「ええー、しげきっつぁん、かわいそう。わかったわ」
二つ返事でおつうが頷くと、茂吉の家である廃寺へと向かって行った。おつうの足なら日の高い内に戻るだろう。
「さ、長太、入んなさい」
そうして、家守部屋で、長太と向かい合って座った。
家守部屋は他の長屋の部屋より広く、かつ部屋数もある。裏長屋の入り口にある門に隣接した表長屋で、厠と井戸にも近い。そして、そのすぐ裏、というか横に、長太家族の部屋があった。
「あの、なんでしょうか?」
長太は困っていた。今後、シジミを反対側の茂吉が振り売り歩いていた場所まで長太が担当するとなると、どうしたって無理だ。だが、昼の日の高い時間にはシジミは悪くなる。弟はまだ小さくてこれから少しずつ手伝わせようと思っていた所だった。明日から一人立ちなぞ無理だ。
「いや、長太、お前、読み書きと算用術をうちのおつうから習いなさい」
思っても居なかった事を言われ、顔を上げる。
「え、でも、それは、そんな時間と金は……」
「手習いの真似事は夜にうちでやってそのまま泊まれば良い」
「おっかさんと、弟たちを放っては……」
「なら、みんなでうちに寝泊まりすれば良い」
「え? で、でも……」
「これはね、お前だけじゃない。弟や妹や、おみつ、お前のおっかさんのためでもあるんだ」
長太の頭がぐらぐらと揺れる。
「うちには男の子が居ないからね。お前には、しっかりとして貰わないと」
にこりと和やかに言う亀三の言葉に、長太の顔が真っ赤になった。
「しげきっつぁん……?」
山に入る道すがら、変な臭いが漂ってきた。嗅いだ事の無い嫌な臭いに、おつうは思わず手拭いで口と鼻を塞ぐ。
廃寺に近づくにつれ、それは強烈になっていく。が、茂吉に万が一の事が有ったのでは無いか? との心配から、おつうは無理をして歩を進めた。
廃寺の前まで来ると、気絶しそうになる。
「しげ……」
二度目の呼び掛けに、部屋でぼんやりと天井を見上げていた茂吉が、こちらへ顔を向けた。
酷い顔だった。血まみれで、顔中紫色に腫れ上がっていた。
「これ……」
持たされた握り飯を、入り口すぐの炊事場に置くと、ウッと吐き気がせり上がってきた。
慌ててその場を離れる。
背後から「おつうちゃん」と声を掛けられたが、それどころではない。山を駆け下り、町の近くまで一目散に駆けた。
口と鼻から手拭いを外し、悪臭がしない事を確認すると、大きく息を吸い込み、むせた。
二度三度深呼吸をして、おつうは自分の部屋のある長屋へと戻って行った。
泣き疲れて呆然と天井に空いた穴から空を見上げていると、名前を呼ばれた気がして、そちらを見た。
若い女の子が片手で口元を覆い、サッと何かを炊事場へ置くと、走って逃げてしまう。
あれは、確か、そう、長太の長屋の大家の娘のおつうだ。年は長太と同じ頃だった気がする。
緩慢な動きで炊事場に置かれた物を見ると、竹の皮に包まれた握り飯だった。
おつうが、握ったのか。
おつうが、わざわざ自分を心配して様子を見に来てくれたのか。
一つ、口に放り込む。
優しい塩味が身体に染みた。
そうか、と茂吉の目に再び涙が光る。
おつうは、様子を見に来たものの、恥ずかしくて走って帰ってしまったのだ。
きっと、おまちに拒絶され、あの男に酷く殴られたのを見て、居ても立っても居られずに来てくれたのだろう。
いじましさに心が震える。
おつうの可愛らしい、まだ幼さの残る顔を思い浮かべ、残りの一つも口に入れた。
そうだな、大家なんてのも良いかもしれない。年下の女房と長屋の切り盛りをして、おつうに良く似た娘と息子……。
そこまで思い描き、ハッとする。
あの恥ずかしがりようじゃ、茂吉の方から引っ張ってやらなければ何も進展しないだろう。
奥ゆかしい、恥ずかしがり屋のおつうが頬を染めて頷いてくれるのを思い浮かべ、慌てて水瓶の水を頭から被る。
柄杓で水をすくい、四~五杯も飲むと、心が決まった。
とりあえず、握り飯のお礼を言おう。
そして、夫婦になってくれと言うんだ!
あんまり急いで追い越しても詰まらないし、少し焦らす位が良いのか?
そんな風に文字通り浮かれた頭と足取りで、空を歩き、おつうの居る長屋へと辿り着いた。既に辺りはほの暗く、夕げの煙が立ち上っている。
茂吉がソッとおつうの部屋の窓へと近づくと、やけに賑やかな気配がした。
窓から覗くと、大家の部屋である筈なのに、何故か長太家族がおつうとその父親と一緒に食事をしていた。
子供達の嬉しそうな声に混じり、おつうが長太の母親を「おっかさん」と呼ぶのが聞こえた。
「ダメですよ、おとっつぁんの前であたしをおっかさんだなんて……」
「あら、あたしが長太さんと夫婦になれば、本当のおっかさんでしょう?」
「ちょちょちょちょちょ、待って!」
「待ちませーん! あたしは長太さんの嫁なんですからね!」
慌てる長太に、すり寄るおつう。
「はい、あなた。あーん」
「あ、あーん」
はははと軽快な笑い声がした。大家だ。
「今から尻に敷かれて結構結構」
「兄ちゃん、顔真っ赤ー」
「まっかっかー」
子供達が囃し立てる。
茂吉は、くるりとおつうの部屋に背を向けた。
どん、と地面を蹴って空高く跳ね上がると、無表情のまま廃寺へと戻った。
無表情のまま、古い破れた畳を見下ろす。
寝転がり、天井の穴を見上げると、星が煌めいていた。
何か、胸に込み上げてくる物があり、「ぐふっ」と口から音が漏れる。
星々の輪郭が滲む。
止めどなく溢れる涙を拭いもせず、そのままにした。
短い恋だった。
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だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
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