人形工場

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第弐夜

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 此方を睨んで来る男が居る。
 恨めしげな表情で、切なげな表情で、此方を睨んで来る男が居る。
 浅黒い汚れた肌、禿げ上がった歪な頭、筋肉質な腕、太い足、重く厚く被さっている瞼、左右大きさの違う垂れた四白眼、団子鼻、分厚い唇の中年男性。
 襤褸の様なその服は簡易な物で、足には襤褸の様な簡易な靴を履いて居る。
 襤褸を纏った人相の悪い男が、睨み、ただ睨み、睨んで来る。
 静かに佇み、その顔をやや下に向け、とてもでは無いが愛想と云う物の存在を知らぬ様に、睨み付けて来る。

 その姿は、最初は点でしか無かった。
 翌日には胡麻粒に成り、三日目には雛豆程に成り、四日目には蚕豆程になり、五日目には饅頭程の大きさに成り、六日目には一升瓶程の大きさに成り。
 七日目には
 目の前に
 居た。
 何をするでもなく、ただ、ただ、立っている。
 襤褸を纏って、恨めしげな表情で切なげな表情で此方を睨んで来る男が、居た。

「夢の中で毎日毎日毎日毎日オッサンが少しずつ迫って来るんです!!!」
 トーストの焼ける匂い。目玉焼きの焼ける音。
 弾丸と言える旅行から帰って1ヶ月足らず。
 のんびりと朝の珈琲を淹れる眼鏡の男の足にしがみつき、取るに足りない人形の身体を精一杯使い、訴え掛ける。
「怖いんです!!! 何がしたいのか解らないじゃないですか!!!」
 否、大体の想像は付くじゃないですか!!! 寧ろ貞操の危機じゃないですか!!!
 『私』、可愛いのですから!!!
 どんな邪な想いを抱いて居るのかわからないじゃないですか!!
 否、寧ろわかるじゃないですか!!!
『私』、可愛いのですから!!!
 可愛いのですから!!!
 聞こえない振りなのか聞こえてないのか、長髪の青年が爽やかに珈琲を受け取る。
「そんな事より、兄さん、今度の仕事一緒に行けるよね」
 聞く気が無いのだろう、青年が珈琲を啜り、言う。
「また、戻っちゃったらしくてさ。面倒臭いしいっぺんに終わらせようよ。ほら、メイベルが居るから大丈夫でしょう?」
 待て待て待て。待ち給え。
 話が今一見えないのですが、要するに仕事に『私』を同行すると?
「呪いの悪霊人形退治って、どんな事すると思う?」
 ネイサン青年が言う。
「まぁ、僕らの場合、“綺麗”にして飾っとくだけなんだけど」
「ちゃんとお手入れしているよ?」
「兄さんは黙ってて」
 抗議の声を上げたものの軽く往なされて肩を落とす眼鏡ニイサン。
「退治する為には、この引き篭り兄さんの所まで人形を持って来なければならないよね」
 だけど。と言う。
 だけれども、自ら人形を持って訪れる人間は少ないのだと。
 別の人に頼んだ結果、届く前に運んでいる人間が事故に有ったり、到着して見たら忽然と消えていて依頼者の下へ戻って居たり、郵送や宅配にしても気付いたら家に帰ってしまう事が多いのだと言う。
「もう仕方無いからその場合は僕が出向いてちょっと大人しくさせてから持ち帰って来るんだ」
 にっこりと笑うネイサン青年。
 最初に私を塵芥扱いして燃やそうとしたの、何処の何方でしたか?
「勿論、燃やせる物は先に燃やすよ。でも、自力で帰っちゃう事が出来る様なモノは中々燃えなくてねぇ」
 やっぱり! やっぱりそうなんじゃないですか!!
 普通の“呪いの悪霊人形”はわたくしなんかと違って髪の一本も服の端すら燃えないんじゃないんですか!!!
「“普通の”と言うか、“今迄の”呪いの悪霊人形で、此の家で平気でアホみたいに笑ったり泣いたり文句言ったりしてるモノ、居る?」
 今現在。
 確かに今現在、その様なモノは……
「ヤギリンだけでしょう?」
「もお、またメイベルを物扱いして。こんなに可愛いのに」
 眼鏡ニイサンに抱き上げられる。
「メイベルの独り占めは駄ぁ目」
 眼鏡ニイサンの腕からひょいと取り上げ、ネイサン青年がにっこりと可愛らしく笑った。
「メイベルとお出掛け、するでしょう?」

 数時間後、機上の人と相成った。

「もう、二人には敵わないなぁ」
 楽しそうに、非常に、非常に楽しそうに、眼鏡ニイサンが言う。
 わたくしに「お出かけ用」と称してヒラヒラのフリルたっぷりのレースたっぷりのドレスを着せて膝に乗せ、楽しそうに笑う眼鏡の男は、明らかに他の客から避けられ、目を背けられて居た。
 ヘッドドレスが視界の半分以上を奪うので、非常にうっとおしい。
「すみません、兄は病気で……」
 またもやネイサン青年が何やら隣の人の同情を買いに行っている。
 足元は皮の茶色い編み上げのブーツで、丁寧に靴下まで履いている。
 相変わらずパンツは履いていないのだが。ノーパンなのであるが。引っ繰り返されても“ぱにえ”の下に“どろわぁず”なるフリルの沢山付いた半ズボンを履いているので中身が見える事は無い。否、若しかしたら此れがパンツなのだろうか?
「飛行機怖い怖いねぇ。向こうに着いたらお着替えしなくちゃねぇ」
 眼鏡ニイサンが笑顔で話し掛けて来るが、其の取り留めの無い内容に、尚一層の同情の視線がネイサン青年に集まる。

 飛行機が現地へ到着し、その後数時間掛けての車移動。
 ネイサン青年が運転する車での移動なのだが、矢鱈に派手な金綺羅の屋根の此の黒塗りの車は若しや……。
「僕の愛車だよ」
 何故、その「僕の愛車」とやらが此の地に有るのかとか、何故霊柩車をとか、如何にして手に入れたとか色々と言いたい事は有る物の、真面に返答が返って来る筈も無く、無駄な時間にも思えて黙った。
 何の疑問も抱いていないであろう眼鏡ニイサンがいそいそと荷物の中の人形用衣装類を広げ、底から一通の手紙を取り出した。
 覗き込んで見るも……ううぬ……英語……。
 ふふ、と笑うと眼鏡ニイサンが、絵本でも読み聞かせるかの様に優しく読み始めた。
 手紙に寄ると、今回引き取りに行く“呪いの悪霊人形”とやらは、どうも、今迄に何人もの幼い少女達が犠牲になって居るとの事。
 リサイクルショップのウィンドウに何時の間にか居たり、忘れて置いて行かれたかの様に公園に居たり、何時の間にか家に有ったり、知らない人から貰ったり、様々な経路を経て被害者である少女の元へ辿り着く。
 少女達は皆、とても人形を気に入り「おともだち」が「できた」と喜び、親へ報告する。
 部屋で一人で人形遊びをしている筈の少女の部屋から、別の少女の声が聞こえる。
 同じ年くらいの幼い女の子の声が。
 誰か友達でも来ているのかと、シッターや親が確認するが、人形で遊んでいる少女一人きり。
 よくある一人二役かと思うものの、やがて少女はいつも如何なる時も人形を離さなくなる。
 目撃情報の幾つかは「人形が少女を掴んで離さない」と或る。
 人形が「嫌になった」とか「嫌い」とか言っていたのにも関わらず、手放せなかったと。
 泣いて嫌がって振り回しても手から離れなかったとも。
 そして、少しずつ、少しずつ、睡眠時間が多くなる。
 昼寝程度から、気付くと遊んでいても食事中でも突然眠る様になり、そのうち二日に一度しか目覚めなくなり、一週間に一度、一ヶ月に一度、一年に一度……そしてそのまま衰弱して息を引き取る。
 その間、人形を其の手に抱き締めたまま。
「その女の子が息を引き取った後、どうすると思う?」
 ネイサン青年が運転しながら問い掛けて来る。
 まぁ普通なら其処まで気に入って居たのなら一緒に埋葬するとかでしょうか?
「だよね」
 でもね、と続ける。
 埋葬しようとすると、あれ程気に入っていて離さなかった筈の、否、離れなかった筈の人形が何処にも無いのだと言う。
 そんな悲しい想いをした嘗て娘を亡くした母親が、その曰くの人形を見つけた。
 道行く幼い少女を、自分の娘を思い出して目で追っていた。
 その少女がガレージセールで人形を見つけた。
 あの人形。
 あの時と寸分違わぬ人形。
 迷わずに、少女よりも先に手に取った。
 自分の首に掛けていたロザリオを人形に掛け、大目の現金を支払い、足早に立ち去る。
 後ろで駄々を捏ねる幼い少女の声と自分を罵倒する少女の母親の声が聞こえたが、立ち止まる訳には行かない。
 人形が消える前に。
 人形が少女を捕まえる前に。
 あの、娘と同じ、淡い金髪の色白の青い瞳の幼い少女が、娘と同じ運命を辿らない様に。
「そうして、教会に駆け込んだその人は、悪魔祓いを頼んだんだけどね」
 人形は、幼い少女の声で叫んだと言う。
「痛い」「怖い」「やめて」「助けて」「おかあさん」
 聞くに堪えなくなり、母親は神父に縋り付く。
「あの子の声だ。あの子が苦しんでいる」と。
 悪魔払いが中断された時、人形が宙に浮き、外へ飛び出そうとするも、結界に弾かれて落ちる。
 聖職者達が数人掛りで人形を取り押さえ、祝福を受けた箱へ納めた。
 人形は箱の中で暴れる物の、壊して出て来る事は出来ない様子。
「で、教会が兄さんに送り付けて来ようとして、元の教会へ戻る。の繰り返し」
 ネイサン青年が肩を竦めた。
 片田舎の小さな教会。
 そうとしか言い様の無いあまり派手さは無い小さな教会が其処に在った。
「ヤギリン、君、兄さんから離れないようにね。大丈夫だと思うけど、一応ね」
 君、呪いの悪霊人形なんだから。と続ける。
 眼鏡ニイサンは、完全に観光を楽しんでおり、小脇に自分を抱えた儘カメラを構えている。
 車の音に出て来た白髪の……にしては皺の無い年齢不詳の神父らしき男性が両手を広げて出迎えた。
 若い神父2名が後ろで軽く頭を下げかけ、驚いた様子で此方を……恐らく人形である『私』を……凝視する。
 教会内に招き入れられると、広くは無い講堂内の奥に、腰の曲がった髭の立派な老神父が鎮座している。
 目の前に紐をかけられた木箱。
 箱の中身は有るのか無いのか、静かな物である。
 気配すらしない。
 挨拶を交わし、恐らく紹介しているのだろう眼鏡ニイサンと此方を指差す。
 箱を挟んで老神父と対峙し、長椅子へわたくしを座らせると、ネイサン青年と眼鏡ニイサンが自分を挟んで座る。
 ネイサン青年と老神父が何やら話をし、眼鏡ニイサンが通訳と説明をし始めた。
「送っても送っても気がつくと此処に有るんだって」
「さっきまでずっと暴れていたんだって」
「僕達が到着する少し前に、いきなり大人しくなったんだって」
「今は気配すらしないらしいけど、中に居るのは間違い無いらしいよ」
「魅力的な可愛い人形らしいけど。メイベルの方がずっと可愛いのに決まってるのにねぇ」
「やっぱり黄色のドレスにすれば良かったかなぁ」
 眼鏡ニイサンの現在の様子は、完全に、頭が如何にかしている人である。
「あ、ほら。箱を、開けるよ」
 老神父が箱を開けようとした其の手を、白髪の年齢不詳の神父がソッと止めた。
 何やら、優しげだが棘の有る口調でネイサン青年に問うが、ネイサン青年は老神父へ返答する。
 恐らくは「その人形は呪いの悪霊人形ではないのか? 大丈夫なのか?」と聞かれ、
「呪いの悪霊人形とこのメイベルの違いも判らないなんて、御老体も大分ご苦労されていますね」と云った感じか。
 年齢不詳の神父を制し、老神父が頷いて下がらせた。
 箱を、開ける。
 果たして、箱の中には人形が、居た。
 まるで新品の様に美しく流れる淡い金髪。白く輝く陶器の肌。薔薇色の頬。青い瞳。
 恐らく見た者が全員「美しい」と感じるその容姿。
 愛らしい唇からはちらりと歯であろう白い物が見え、その小さな指先はやや開き気味に表情豊かに作られ、身に纏うのはその地域の伝統的な少女用の民族衣装。
 老神父は其の人形を箱から出す事はせず、テーブルに一枚の写真を置く。
 白髪の年齢不詳の神父が、写真を指差し口を開く。
 恐らくは、犠牲になった少女の名前と年齢と住所。
 ……啜り泣く声が聞こえた……。
 神父は、一枚、また一枚、とテーブルに並べて行く。
 『私』は声を辿り、テーブルの下を覗き込む。
 淡い金髪の少女が、テーブルの下にしゃがみ込んで、居た。

 写真は、皆、同じ年頃の少女に見えた。
 皆、淡い金髪に青い瞳。

 テーブルの下の少女が顔を上げる。
 青い瞳が涙に濡れている。
「おうちに帰りたいの」
 淡い金髪の青い瞳の、写真と同じ顔をした少女は、そう、言った。
 眼鏡ニイサンの服を掴み、テーブルの下の少女の事を知らせようと顔を上げると、視界の隅、礼拝用に並べられた椅子の陰に淡い金髪の少女が、しゃがみ込んで、居た。
 啜り泣く声が、増えて居る。
 別の椅子には、腰を掛けて泣いて居る淡い金髪の少女。
 扉の前には、佇み、顔を覆って泣いて居る淡い金髪の少女。
 講堂の四隅に、礼拝用の椅子に、一人また一人と啜り泣く声と共に増えて逝く。
 啜り泣く声が、講堂内に響き渡る。

 少女の数が50人を数えた頃、啜り泣きが止まった。

 数秒の沈黙の後、少女達の姿が掻き消えた。

 老神父が、溜息混じりに口を開き、ネイサン青年が頷く。
 見えたのかと云う確認と肯定。
 あの少女達が全て犠牲者だと言う。
 写真は、半分以上はセピアに変色しており、一番古い物は白黒だった。
 最初に見かけた少女は、一番最近の犠牲者だと言う。
 人形を此処に持ち込んだ母親の娘。
 そして、固執するかの様に全ての少女には共通点が有った。
 人形と同じ、淡い金髪、青い瞳。
 そして、年が七歳だと言う事。
 確かに、どの少女の写真も可愛らしかった。
 どの写真も無垢な笑顔で、笑っていた。
 泣いてなど、いなかった。
 どの子も。
 どの女の子も、だ。
「……お人形とは……」
 箱の中で死んだ振りをしている人形に、無性に怒りが沸いて来る。
「お人形の本分とは、幼い子供のお友達であり、遊び相手であり、時に仲良く、時に喧嘩もし、大切にされ、壊され、修復され、そして直ぐに大人になる子供達の為に、その成長を見守り、身代わりになり、守護し、慈しみ、巣立ちを見送り、時に次の世代へ受け継がれる物。別離もあるであろう。忘却される事も有るだろう。無価値な物として捨てられる事も有るだろう。だがしかし……」
 箱の中の其れに指を突き付けた。
「“アナタ”にはお人形としての矜持は持ち合わせては居ないんですか!!!」
 思わず声が大きくなる。
 突然、人形に対して説教を始める人形に、其の存在に、驚いた風で若い神父二人と年齢不詳の神父が身構えた。
 はたと自分の粗相に気付き、否否否と手を首を振る。
 ぽかんと此方を見ていた老神父とネイサン青年が、噴き出した。
 眼鏡ニイサンだけが「メイベルは優しくて賢いねぇ」と謎の賛辞を挙げて居る。
 若い神父二人と年齢不詳の神父が老神父の心底楽しそうに肩を震わせて笑う様子に、何やら声を掛けるも、笑ってしまって答えられない様子。
 代わりに、ネイサン青年が答え、その内容に信じられないと言った様子で三人共が此方を振り返った。
 視線に耐えられず、恥ずかしさに眼鏡ニイサンの影に隠れる様にしがみ付いて顔を隠した。
「ほら、メイベルは可愛いでしょう?」
 同意を求めないで下さい。思わず大声出したのは謝りますから、きちんと謝罪しますから。
 やっと発作の様な笑いの収まった老神父が、何やら神父達に指示を出す。
 何かを持って来る様にとでも言ったのだろう、若い神父が地図と古い新聞の切抜きをテーブルに並べた。
 数十年前、殺された一人の少女が居た。
 その子を拉致して殺した犯人は捕まり、処刑された。
 其の時の女の子が大事に持っていた人形が、この人形だと言う。
 金髪碧眼の、美しく可愛らしい少女。
 一番古い写真、白黒の写真の、少女。
 恐らく、その少女の姿形を悪魔が利用し、魂を閉じ込め、新しい犠牲者を求めて彷徨って居るのだと。
 教会裏手の住居施設には部屋が有るとの事だったが、件の人形を箱から出す訳にも教会から出す訳にもいかないと言うので丁重にお断りし、礼拝堂部分に寝具を持ち込んで貰う事にした。
 礼拝堂とは名ばかりで、悪魔祓い専門の神父の拠点であり、ほぼ人は来ないとの事なので、遠慮なく椅子を使って簡易寝台を二つ作ると、マットレスを敷く。
 勿論、『私』は件の人形の監視で忙しいですので、その辺は自分の事は自分で。『私』の事も自分でお願い致しております。
 が、しかし、あの啜り泣く少女達はその後出て来る事も無く、件の人形に何かの気配が有る事も無く。
 眼鏡ニイサンには見えなかった、聞こえなかった、あの啜り泣く少女達。
 彼女らの願いは、やはり、解放なのだろうか。
 おうちに帰る事。それは、安全で安心出来る場所へ。
 テーブルに並べられた儘の地図と古い新聞の切抜き。
 数十年前に殺された少女の白黒の写真。
「……明日、行ってみようねぇ……」
 眼鏡ニイサンが寝言の様に言う。
 ネイサン青年は健やかな寝息を立てている。
 て。
 寝るんですか!? 寝るんですか!??
 此の状況で!?
 寝れるんですか!?
 ただ、箱に収まって居るだけの件の人形を振り返り、物音を立てぬ様に距離を取ると、一目散に眼鏡ニイサンの寝具に潜り込んむ。
 『私』は怖くは無いですとも! ええ、怖くなんぞ無いですとも!!
 眼鏡ニイサンがですね!! この怖がりのニイサンが一人で寝たら泣いちゃうんじゃないかと思ってですね!!

 降り注ぐ日の光。
 庭でショートパンツで髪を上げ水を撒いているのはお母さん。
 ガレージではお父さんがバイクを弄って遊んでいる。
 お兄ちゃんが出掛けようとして、お姉ちゃんが怒ってる。
 また勝手に使ったでしょって。
「ねぇ」
 庭の隅でお人形遊びをしていた私に、女の子が声を掛けて来た。
「あそぼ」
 鏡を見てるみたいに、同じ金髪の同じ青い目の、女の子。
 同じくらいの年の女の子。
「どこから来たの?」
「あっち」
 女の子は、木の柵の向こうを指差した。
「おかあさんとおとうさんは?」
 首を横に振る。
 仕事かな? シッターはどうしたのかな?
「シッターに内緒で出て来たら怒られちゃうのよ?」
「居ない。だいじょぶ」
 居ないのか。一人でお留守番は寂しいもんね。
「いいよ。お友達ね。お姉ちゃんの昔の服が沢山有るのよ。お姫様ごっこしよう」
 手を繋いで、家の中へ走って入る。
 お部屋に入って、服の入った箱を出すと、お友達は凄く喜んで、一緒にファッションショーをして、お姫様ごっこもして、お茶会ごっこもして、レディだから頭に本を乗せて歩くのよってマナーごっこもした。
 沢山遊んで凄く楽しくて、凄く沢山笑って。

「あんた、友達来てんの? ……何やってんの……?」
 お姉ちゃんが部屋のドアを開けて、変な顔をした。
「おかーさーん。ジェイミーが部屋中散らかしてるー」
「ちゃんと片付けなさいよー」
 下の階から、お母さんの声が聞こえる。
 お友達と顔と見合わせて、一緒に肩を竦めて舌をぺろりと出した。
「おかあさん、今日、お友達、泊まっても良い?」
 一緒に階段を下りて行って、お友達を紹介すると、お母さんは「あら」とニッコリと笑った
「勿論良いわよ。あなたと同じ金髪なのね。ちゃんとお片付けするのよ」
 きゃあきゃあと喜んで、手を繋いだまま、また部屋に戻って遊びながらお片付けを始めた。
「……あの子、あんなお人形持ってたかしら……?」
「毎日毎日お友達と遊んでいたの。楽しかったの」
 暗闇の中、椅子に座る自分の前に、淡い金髪の少女が向かい合わせに座っていた。
「毎日毎日楽しかったの。私、お友達の事が大好きだったわ」
 俯いた儘の少女が、涙を零す。
「でもね、私、お母さんもお父さんもお姉ちゃんもお兄ちゃんも大好きなの」
 大好きなのよ、と重ねて言う。
「お友達は、私がお母さんや別の人と一緒に居たり話したりすると、怒るの。凄く怒るの」
 淡い金髪の少女が、椅子に座った少女の後ろに立った。
「怒って、閉じ込めるの」
 別の少女が、椅子の下から顔を覗かせる。
「真っ暗な部屋に閉じ込めるのよ」
 別の少女が背後から声を掛けて来た。
「出してって言っても聞いてくれないの」
 違う少女が右から。
「もう、ずっと。ずっとよ」
 また違う少女が左から。
「おうちに帰りたい」
「おかあさんに会いたい」
「もういやなの」
「ここにいるのはもういやなの」
「いやなの」
「いやなの」「いやなの」
「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」
「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」
「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」「いやなの」
「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」「帰りたい」

「どうしたんだい?」
 気付けば声を上げて泣いて居た。
 講堂内の簡素な寝具の中、眼鏡ニイサンを揺さ振る。
 ネイサン青年が迷惑そうに此方を見て、背を向ける。
「助けて、あげて、欲しい。助けて。あの子達、みんな、助け……」
「ああ、わかったよ。大丈夫だよ。みんなだよね、みんな」
 欠伸をしながら寝直そうとする眼鏡ニイサンを更に揺さ振る。
「違う、違う。家に、おうちに帰りたいのに……可哀想……」
「大丈夫大丈夫。明日ね。明日」
 駄々っ子をあやす様に頭を撫でられ、寝かし付けられた。
 数時間後。
 呆れた表情でネイサン青年が此方を見ている。
「人形が寝坊するって何よ」
 何よって何よ。仕方が無いでしょうが。変な時間に起きちゃったんですから。仕様が無いでしょうが。
「そもそも寝ないでよ。人形なんだから」
 人形でも寝るものは寝るんだから仕方が無いでしょうが。
「そもそも夢を見て泣いて起きるとか馬鹿じゃないの?」
 見ちゃって泣いちゃったもんは仕方が無いでしょうが。
「ほんと、何なの、君」
「そりゃお人形だってパジャマ着て寝てたまにパジャマパーティしたりするよぉ」
 眼鏡ニイサンの言葉に、貴様の所為かとでも言いたげな視線を兄に向ける。
 少しずつ解った事だが、どうも眼鏡ニイサンの思い込みで行動が制限を受ける部分は少なからず有る。
 夜は寝るし、朝は起きる。昼間でも動けるし、灯りが無いと視界が暗い。
 髪が伸びるか如何かの判別は未だ時間が掛かるだろうが、どうやら爪は伸びない様子。
 だから、変な時間に夢を見て泣いて起きるのも、変な時間に起きたから寝坊するのも、わたくしが悪い訳では無い。
 眼鏡ニイサンの所為なのである。

 箱の人形に蓋をして再度紐を掛け、車の後ろに積むと、神父達に礼を言って教会を後にした。
「兄さんの所に居れば大人しくしてるんだから、持ち帰るだけで良いじゃん」
 運転しながら不満げにネイサン青年が言う。
 何言ってるの、と眼鏡ニイサンが声を上げた。
 そうですよ。何言ってるのですよ。
 そんな事になったら、わたくしがずーっとずーっとあの金髪の少女達に泣き憑かれ続けるでしょうが。
「メイベルがどうしてもってお願いするんだよ。とーってもとーっても可愛くお願いするんだよ。聞かない訳無いじゃないか」
 眼鏡ニイサンに抱き上げられ、昨晩の事を振り返って見て、どうにも弱みを握られた気がしてならなくなる。
「えー、もう。めんどくさいなぁ。そのお願い、辞めにしない?」
 しませんよ。しませんとも。面倒臭いって何ですか、面倒臭いって。
 本当に何なんですか。
 後ろの座席に放置された人形入りの箱は大人しい物で、本当に此れが大勢の少女を悪夢に陥れたのかと疑うくらいには、気配が何も無かった。
 ともすれば、中身だけ教会に置いて来てしまったのかと思うくらいには。
 道中何も無く、夕方には、目的の場所、あの地図の町に辿り着いて居た。
 話を聞かれない方が良いかとも思ったが、箱の中の気配が全く無いので、道中、夢の中で見た少女達の話をした。推測を交えて。
 ある日、唐突に日常に現れる被害者に似た少女。
 家族や他の人には突如人形が現れ、手放さなくなったように見えていた事。
 お友達になり、仲良くなるも、徐々に独占欲を見せ、其の内に真っ暗な部屋に閉じ込められてしまう事。
 出して貰えなくて家に帰りたくて寂しくて泣いている事。
 そして、最初の犠牲者のみが、恐らくは殺人に寄る犠牲者である事。
 犯人は既に捕まって処刑されているが、少女は救われていない事。
 幼い少女が殺されてしまった時に、そうと理解できない時に、お気に入りの人形に心を残し、お気に入りの人形で、遊びたかった。もっと遊びたかった。お友達と遊びたかった。
 その執着が、執着だけが残った結果、生きた人間のお友達を作り、その魂を縛り付け、悪意無く人形の中に閉じ込めてしまうのでは無いだろうか。
 魂が閉じ込められた少女の結末は、衰弱、そして死なのでは無いだろうか。
 子供ならではの無邪気さが、独占欲が、そうさせているのでは無いだろうか。
 だとしたら、哀しい事である。
 この最初の少女も、他の少女も、犠牲者なのだ。
 未来を奪われた、犠牲者なのだ。
 もっとお人形で遊び、もっとお友達と遊び、成長してお人形を卒業して行く筈だったのだ。
 彼女達を押さえ込むのでは無く、解放する方法は無いだろうか、と。

 町の教会の前に車を止めると、ネイサン青年一人が車を出て中に入って行った。
 小一時間後、パンと果物と飲み物の瓶。其れに何やら紙の束を持って出て来る。
「悪魔払いはしてないから、絶対持ち込まないで欲しいんだって」
 乗り込み乍言うと、荷物を後ろの座席に放る。
 後ろには箱入り呪いの悪霊人形が有るのですが!! 有るのですが!!!
「とりあえず、駐車スペースとトイレは貸してくれるらしいよ」
 別棟になっている小さな掘っ立て小屋を指差す。
「それは助かるねぇ」
 のんびりと恍けた風に眼鏡ニイサンが言う。
 否、この眼鏡が恍けているのは何時もの事なのではあるが。
 いそいそと車を出て回り込んで背後の観音扉を開けると、其処に乗り込む。
 後ろの空間、普通は仏様を積む場所であろう空間に、マットレスが敷き詰めて有った。
 成程、この兄弟二人ならまぁ、狭いが寝れない事は無い。
 観音扉を内側から閉めると、此方を手招きした。

「メイベルもおいで」
「僕も行くけどね」
 人形入りの箱を乗り越えて、移動する。
 なんとまぁ、こんな粗雑な扱いを受けても気配一つしない。
「多分、金髪の七歳の少女にしか反応しないんじゃないかな?」
 紙の束を見ながら何やら言う。
 ばら撒きながら読んでいる其れは、古い記録だった。
 少女の殺された記録。
 そして、殺人犯の処刑の記録。
「女の子達を開放って言っても、その最初の子を如何にかしなくちゃなんでしょう?」
 ネイサン青年が、記録を読みながら言う。
 記録に依れば、ある日、広場で遊んでいた筈の少女が忽然と消えた。
 大人達が手を尽くして探したが、手掛かりは見つからず、やがて、遠く離れた湖の傍の粗末な山小屋で、裸で、無残に殺害された少女の遺体が見つかった。
 少女の手には、少女に良く似た人形が有った。
 その人形は、親が買い与えた物では無かった。
 人形は、では、何故何処から来たのか。
 犯人が与えた物だろうとの推測が立つが、市場に出回った物では無かった。
 とある、駆け出しの人形師の作った物で、売り物では無かった。
 その人形師の家には、幼い少女のスケッチが沢山有った。
 件の被害少女のスケッチが一番多く有った。
 服を着ていないと思えるスケッチも多く有った。
 沢山の人形の頭や手や足や身体が艶めかしくぶら下がる工房内。
 目撃情報も多く出た。
 曰く祭りの時に幼い少女を凝視していた。
 曰く広場で被害少女を怖いくらいに見つめていた。
 曰く普段から道行く少女達を下品な目で見ていた。
 曰く、いつかそう云う事があると思っていた。
 人形師は逮捕された。
 逮捕され、拷問され、少女を殺害した罪で処刑に至った。
 だが、亡くなった少女と一緒にして置いた筈の人形は、証拠の人形は、その後、忽然と姿を消した。
 少女は手厚く埋葬され、今も墓地に眠って居ると言う。

「だって……ずるいじゃない……」

 其の夜、また、夢を見た。

「だって……ずるいじゃない……」

 また、金髪の少女が、立って居た。

「同じなのに」

 また、俯いて、金髪の少女が、自分の前に立って居た。

「同じなのに」

 涙も流れぬ其の目からは血が流れていた。

「私と同じなのに」

 少女は人形に成って居た。

「何で私だけ」

 あの、人形だった。

「ずるい」

 あの人形が、人形である自分の目の前に、佇んで居た。

「ずるい」

 その、可愛らしく悍ましい声に、身の毛がよだつ

「ずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるい」

 地の底から、優しく優しく呼びかけて来る様な、声。

「ねえ」

 人形が人形へ手を伸ばす。

「あそぼうよ」

「何、お座りしてるの?」
 楽しげな眼鏡ニイサンの声で、気付く。
 目の前には、箱から上半身を出し、お座りをしている、例の人形。
 そして、寝ていた筈の場所では無く、後部座席に座って人形と向かい合う、自分。
 既に、人形にはあの地獄から甘く優しく囁き掛ける様なあの気配は無い。
 背筋が凍るかと、思った。
 純粋な嫉妬。妬み。恨み。辛み。
 八つ当たりでしかない。
 その、純粋な純粋な、嫉妬。
 生きている事に対する嫉妬。
 親兄弟が居る事に対する嫉妬。
 お友達が居る事に対する嫉妬。
 ありとあらゆる事に対する嫉妬。
 透き通る程の嫉妬。
 自分と同じ様に殺されていない事への嫉妬。
 己の寂しさを空しさを埋める為の、恐らくはあの幸せな少女は自分なのだと思う為の。
 そしていつしか自分と他の少女の区別がつかなくなり。
 自分の一部なのに自分を裏切るかもしれない事が怖くて、哀しくて、寂しくて。
「あーあ、また泣いてる。泣き虫だねぇ」
 ネイサン青年が呆れた様に言う。
「今日は、その湖の傍らの山小屋とか、その女の子の家とか行くんだけど」
 コンと音をさせて、バールで人形を箱に押し戻すと、蓋をした。
「君、暴れたりしないでよねぇ」
「その人形師の工房にも行って見たいなぁ」
 完全に観光のつもりか、笑顔で眼鏡ニイサンが言う。
「あー、うん。後で時間が有ったらね」
「うんうん。ふふふ楽しみ」
 件の山の湖まで車で約四時間。山道を此の車で行けるか如何か怪しい所ではあるが。
 身支度を整え、車を出発させる。
 道中、「あ、此処が女の子の家ね」「犬が居るよ! 犬!」「其処が広場で」「後で写真撮ろうね」「彼処ら辺にその人形師の工房が有るって話だけど、何処かなぁ?」「あ、見た事が無い鳥」「兄さんうるさい」等、会話も弾み、町を抜けた辺りから静かになったと思えば、眼鏡ニイサンが静かに寝息を立てていた。
 左右には木々が徐々に多くなり、鬱蒼として来ており、其の内に道なのか森の中なのか判らなくなり。
 何時の間にか緩やかな坂道を上っており、ゆらゆらがたがたと揺らされて窓の外を見れば、だいぶんと空が近くまで来ていた。
 やや下方遠くに鬱蒼とした森が見える。
 何処から山なのか判らなかった。
 森と山の区別が難しかった。
 まぁそんなのは専門家にでも任せて置けば良いのだろう。
 途中、折れた枝を退かしたりする程度で、湖までは無事に辿り着く。
「湖にバカンスで来たりする家族も少なくないって言ってたから、多分そうかなって思ったけど、思ったより整備されてて良かった」
 ネイサン青年が、眼鏡ニイサンをバールで突きながら言った。

「わぁ、可愛いお人形!!」
 山小屋に辿り着き。その朽ちた扉を開けた瞬間、声が聞こえた。
「たくさん!? 見たいー!」
 あの少女の声が。
「ほんと!? 嬉しい!! 欲しい!」
 何かを言われて、明るく無邪気に返答する少女。
 視界が暗転する。
 声が響く。
 苦しい。と。
 苦しい苦しい…………。

 突如頭に衝撃を受けて、視界が戻った。
 呆れた半笑いの表情でネイサン青年が見下ろす。
 其の手のバールが、恐らくは此の頭部の衝撃の原因なのでしょうかね。
 息を整え…る必要が有るか如何かの議論は既に私の中では放棄されている…周囲を見渡せば、道具入れにテーブルと簡素な長椅子兼寝台が有るだけの粗末な作りの場所。
 外から見ても小さく思えたが、中に入れば尚一層狭かった。
 壁の隙間からは、扉を閉めても灯りも無い此の山小屋の中で困らない程度の陽光が差し込み、蟻やダニや他の小さな虫も入り放題である。
 黒ずんだ染みと思える物が少女の其れなのか如何かの区別も付かない。
「兄さんの所為じゃなくて、此処には、あんまり 残 っ て な い みたいだね」
 ネイサン青年が、バールと逆の手に持った呪いの箱入り人形を上下に揺らす。
 其の場所で昼食を取る物の、特に何の変化も無く、少女の家へと向かう事にする。
 眼鏡ニイサンが張り切って彼方此方に自分を置き、写真を取りまくる。
 山小屋の中、外、湖、危うくボートに乗せられて流される所だった。
 車の中で一頻り文句を言う物の、軽く謝るその声には誠意と言うものは一切、一切感じられなかった。
 撮った写真を一枚一枚見返して偶に首を傾げたりする事に忙しい様子で、全く以って誠意と言うものは云々。
 眼鏡ニイサンの駄々により、少女の家に行く前に広場に寄り又候またぞろ写真を撮りまくる。
 そして、また、何やら首を傾げていた。
 恐らくは数百枚は撮っているだろう。よく飽きないものだ。
 少女の家は、新しい家族が入って居た。
 赤毛に雀斑そばかすの兄妹。よく似た赤毛の母親が子供二人を連れて出て来る所をやや遠くから眺め、ネイサン青年は首を横に振った。
 恐らく、此処にも「 残 っ て な い 」のだろう。
 写真を何枚か撮り、眼鏡ニイサンが首を傾げる。
 箱の人形は何の気配もせず、死んだ振りを続けている。
「困ったなぁ」
 ネイサン青年が広場の芝生で寝転ぶ。
「もう、人形普通に燃やそうか」
 既に時は夕暮れ。
 また教会へ戻って車中泊かと呟き。面倒臭くなったのであろう物騒な事を言い出す。
 眼鏡ニイサンに却下され、再び教会の駐車場にて夜を明かす。
 再び教会から食べ物を調達し、ネイサン青年が戻って来た。
 被害者の少女を埋葬後、消えた人形は何処へ行ったのか。
 其の人形は本当に此の人形なのか。

 処刑された人形師は、駆け出しと言う物の、やや年嵩ではあった。
 それも、家業の人形師を継ぐのを嫌がり、若い頃は仲間と小さな悪さを繰り返した。
 酒場でくだを巻き、女にちょっかいを掛け、弱い奴からは金を巻き上げ、強い奴とは喧嘩をした。
 勘当されて家出してからも何度も家に戻っては憂さ晴らしに暴れた。
 母親は泣かせたし、祖母も泣かせた。
 父親と爺だけはぶちのめす事が出来なかった。
 それは単純に腕力の差で。
 泣いて更生を乞う母親にカッとなって初めて手を上げた時、父親に殺されるかと思う程殴られた。
 殴られて殴られて殴られて殴られて、家の外に捨てられた。
 一週間は真面まともに食事が出来なかった。
 仲間の元に身を寄せて居たが、直ぐに追い出された。
 結婚したい人が出来たのだと。
 一生を掛けて大事にしたい相手が出来たのだと。
 だから、もう、馬鹿はやらない。
 女房と子供を養えるような仕事について、一人前になって、迎えに行くのだと。
 お前も早くこんな事卒業しろよと。

「…ヤギリン…ヤギリン…」
「…メイベル…メイベル…」
 遠くでニイサンとネイサンの呼ぶ声が聞こえる。

 俺は、仲間に置いて行かれると思った。
 裏切られたと思った。
 ヘタレ野郎めって罵倒した。
 だけど、そんな俺に、奴らは、笑って言った。
「もう、馬鹿は卒業だ」って。
「お前は何時までそんなとこで燻ってるつもりだ」って。
 そんな事を言ったって、あいつらにはわかりゃしない。
 此の俺の見て呉れに他人は笑い、そして、怯える。
 浅黒い汚れた肌、禿げ上がった歪な頭、筋肉質な腕、太い足、重く厚く被さっている瞼、左右大きさの違う垂れた四白眼、団子鼻、分厚い唇。
 何処を取っても女が寄ってくる筈は無ぇ。
 嫁や、ましてや子供なんざ、俺に望めるべくも無え。
 俺は心底くさくさしていた。
 そんな時に、あの幼い少女を見つけたんだ。
 あの、光に輝く淡い金髪。
 空よりも青い透通る宝石の様な青い瞳。
 陶器よりも白く肌理細かく美しい肌。
 薔薇色の頬。
 衝撃だった。
 初めてだった。
 初めての感情だった。
 初めて、あの少女を、如何にかして、自分の物にしたいと思った。
 直ぐに家に帰って親と祖父母に土下座した。
 人形師の仕事を継ぎたいと。
 今迄の事を許して欲しいと。
 生まれ変わったと思って欲しいと。
 何とか許して貰った俺は、何度も何度も広場に足を運んだ。
 あの少女を見る為に。
 あの少女の全てを目に焼き付ける為に。
 あの少女の全てを写し取る為に。
 只管広場に通い、スケッチを繰り返した。

 そして、
 あの日は、
 来た。

「メイベル!」
 現実に引き戻される。
 ここは車内で、目の前に眼鏡ニイサンとネイサン青年が居る。
 傍らには、呪いの悪霊人形が気配も無く箱に収まっている。
「突然、変な男の声で話し始めるから驚いちゃった」
 心配したよぉ、と眼鏡ニイサンが言う。
 話していたのはネイサン青年だったと思っていた。
 否、途中からあの男の自分語りになっていた。
 そのあの男の自分語りを、わたくしが語っていたと言うのだろうか。
 あの男の声で。
 ……あの……どこか見覚えの有る男……。
 あんな強烈な外見、一度見たら忘れなさそうな物なのに、つい最近、見た様な気がするのに、思い出せない。
 あの、何処かで見た様な外見の、男。
「明日は、其の女の子の墓に行ってみよう」
 ネイサン青年が言う。
 墓地までは車で1時間程らしい。
「あと、工房ね」
 眼鏡ニイサンの無邪気な言葉に、はいはいと手を振る。
 箱に目をやると、やはり呪いの箱入り人形は気配も無く生きて居るのか死んで居るのか判りもしない。
「あの子、だいぶ傷んでるし、あの子を作った工房なら、道具も手入れの道具も有るだろうからね。少しね、綺麗にしてあげたいなと思ってねぇ」
 眼鏡ニイサンは、時々優しすぎて馬鹿なんじゃないかと思う事が有るけれど。
 その優しさに自分が救われて居るのもまた事実なので。
「ばっかじゃないの?」
「えー。ヒドイ事言わないでよ」
 ネイサン青年の言葉を否定せずに置いた。

 朝。
 久し振りに何事も無く起きれた気がする。
 爽やかな朝日。青い空。
 異国の町並みを車を走らせ、墓地へと向かう。
 教会からの紹介状を持って。
 どうも、教会の中の人は呪いの悪霊人形をどうしても持ち込んで欲しくないらしく、かなり融通を利かせてくれているのだが、其れには悪魔払い専門の最初の教会に居た老神父の一筆が大きい所は間違いないだろう。
 墓地に近づくに連れて、カタカタと箱の中身が音を立てる。
「ひぃ」
 思わず驚いて声が出る。
「大丈夫? 少し道が悪いからね」
「……平気なのですか……?」
「……ん??」
 眼鏡ニイサンは何も気付いて無いのか、首を傾げて心底「何が?」と言う表情で見返して来る。
 カタカタと軽い音を立てて居た人形入りの箱は、少しずつ音が大きくなり、カタカタからガタガタへ。
 ガタガタからガタンガタンへ。
 そして、ドタンバタンへ。
 明らかに中で何かが暴れて居る音へと変化していた。
 平然としている眼鏡ニイサンに、気付いていないだけなのか聞こえていないのかと問い質したい気持は有るものの、下手な事を言って混乱に陥られても面倒臭いので、ソッとして置く事にする。
「此れは、当たりかなぁ」
 何が嬉しいのか、嬉しそうにネイサン青年が言った。
 果たして、霊園へ到着した直後、ドンと大きな音を鳴らした後、再度、呪いの悪霊人形入りの箱は静まり返った。
「びっくりしたねぇ。石に乗り上げたのかな?」
 そんな石など見当たらないと云うのに。
 墓地は霊園の中にある。
 霊園の入り口には美しく飾られた門があり、白く美しい彫刻と気高さの感じられる建物から管理人が顔を出した。
 ネイサン青年が手紙を渡す。
 手紙を一読した管理人が笑顔で門を開け、車毎霊園内へと進む。
 噴水が出迎え、立ち並ぶ彫刻と整えられた花々に野鳥が遊ぶ。
 高い木々で区切られた区画内には一面芝生の中、白く四角い記念碑のみの墓標が綺麗に整列している。
 約10分後。指定された目印を見つけ、車を停める。
 ネイサン青年が人形入りの箱を無造作に持って下り、入り口から何番目、何列目。と教えられた通りに数えて行くと、一つの碑に辿り着いた。
 刻まれて居る名前は、“アイリーン”と読めた。
 あの少女の物で間違いなさそうだった。
 箱の中身は静まり返っている。
 やおら、ネイサン青年が箱を開けた。
「……あ……」
 飛び出して来るかと思ったその人形は、何事も無く、箱に収まって居る。
 ただ、その外見は、最初に見た時とは違う。
 酷く古びて、髪の輝きはくすみ、青く輝いていた瞳も白く濁り、薔薇色の頬は色を失い、顔から服にかけては黒く染みが広がっており、服の生地も傷んで虫が喰っていた。
「うーん、何度見ても可哀想だよねぇ」
 驚くネイサン青年と自分を傍目に眼鏡ニイサンが言った。
 人形に他に変化は無い様子で、気配も何も無い。
 ただの古びた人形にしか見えない。
 少女の墓の周囲を見るも、何か他の墓と違いが有るわけでも無く……有った。
 少女の墓の碑に他の其れには無い何かの模様が小さく刻まれていた。
「何でしょうかね、これは?」
「うん、専門外だけど、これは多分……」
 素朴な疑問を抱く自分に、しゃがみ込んで考えるネイサン青年が答える。
「多分、何かの儀式のための……」
 ふらふらとあちこち眺め、カメラを向けていた眼鏡ニイサンが、声を上げる。
「どれどれ。あ、其れ。此れと一緒だねぇ」
 そうして指差したのは、別の墓の碑。
 少女の墓から大分遠く、だが、同じ区画内の。
 他に探すも、その二つだけに刻まれた3cm程の、星の様な花の様な模様。
 墓の名は、《ザカラシュレン》。
「この模様が僕の考え通りなら、恐らくこの墓は、その人形師の物だと思うんだけど、いや、おかしいな。そんな筈が無いんだけど……」
 ネイサン青年が首を傾げる。
「何だろうねぇ?」
 眼鏡ニイサンが興味無さそうに同調し、此方に向けてカメラを構える。
 カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャと連続音が響いた。
「ちょっと兄さん、何やってるのぉ、こんな所で」
「撮るつもりなかったんだけど、連写モードになってたみたい」
 もう昼になってしまうからと、眼鏡ニイサンが駄々を捏ね、人形の箱の蓋をして、車に戻る。
 確かにこれ以上の収穫は無さそうに思えた。
 門の所で、管理人に感謝を述べつつ、人形師の墓について聞くと、「知らない」と「そこは別の人の墓の筈だ」との返答。では誰の? と聞くも「関係の無い事は答えられない」とつれない。
 片道一時間を戻り、一旦教会に寄る。
 教会で当時の裁判記録を借り、湯を貰い、人形師の墓の場所を尋ね、食事を済ませてから、人形師の家へ向かう。
 その家は気味悪がった町の人々に寄り、完全に封鎖され、別の言い方をすれば、当時の儘に保存されていた。
 教会で借りて来たのだと言ってネイサン青年が鍵を開ける。
 黴臭く埃っぽい部屋。眼鏡ニイサンが窓を開け乍部屋を見て回った。
「見て」
 嬉しそうに眼鏡ニイサンが言う。
 当時の儘、逮捕された時の儘、閉じられていた工房は、眼鏡ニイサンにとっては玩具箱の様な物なのだろう。
 道具や手足や頭や身体が、眼鏡ニイサンの部屋に負けず劣らず位には有る。

 いそいそと呪いの悪霊人形を箱から出し、服を丁寧な手付きで脱がせる。
 大人しく脱がされる人形の首の後ろの部分に、あの模様があった。
 花の様な、星の様な、碑に刻まれて居た模様。
 湯で塗らした布で、丁寧に丁寧に顔を、身体を、手足を、拭き上げる。
 時間を掛けて丁寧に丁寧に。
「ほら」
 嬉しそうにネイサン青年が言う。
 黒ずみが落ちる度に、白い元の人形の肌が見える度に、何かが、淡い金色の光が、蛍の様に人形から抜けて揺らぎ、窓から外へと空へとふわりふわりと上がって逝く様に見えた。
 幾つもの幾つもの淡い金色の光が上がって逝く。
 そして何十個目かの光が、少女のような気がした。
 あの、教会で見た、泣いていた少女の幻影を、見た。
 其の少女の幻影が見えなくなる頃、呪いの悪霊人形は、すっかりと其の肌に白さを取り戻し、恐らく血痕だろう黒ずみも、すっかりと落ちて居た。
 ただし、首の後ろの模様は消えなかった。
 服は、眼鏡ニイサンの鞄の中の予備の黄色のドレスを着せた。
「凄いでしょう? 兄さんは本当に凄いんだよ」
 ネイサン青年は自慢気に言う。
 そうは仰いますが、その「凄い」お兄さん、そこで爆睡しておりますが……。
 疲れたのか、作業台で人形を片手に妙な姿勢で眠り扱ける眼鏡ニイサン。
 其の作業に見惚れている間に気付けば外は真っ暗ですし、仕方が無いと言えば仕方が無いのでしょうが。
 もう少し大人としてですね、せめてですね、車までですね。
 ネイサン青年が人形を箱に入れ直し、眼鏡ニイサンを引き摺って車後部に放り込む。
 空気の入れ替えと称して窓を閉めなかったのは面倒臭かっただけでしょう。
 人形師の工房の前に停めた車でそのまま朝を待つ事にする。

 其の夜。夢を見た。否、聞いた。

 やっとだ。やっと出来た。やっと俺のあの子が出来上がった。

 わぁ、可愛いお人形!!
 ねぇ、お嬢ちゃん、もっと沢山可愛いお人形を見たくないかい?
 見たいー!
 お兄さんはね、お人形を沢山持ってるんだよ。一つあげようか。
 ほんと!? 嬉しい!! 欲しい!
 沢山有るから、好きな物を選ぶと良いよ。お兄さんの家に見においで。

 アイツだ!!
 アイツがいつもこの場所で女の子達を見ていたんだ!!
 アイツだ!!
 アイツの作った人形が落ちていた!!
 アイツだ!!!
 見ろ!! この人形を! あの子そっくりじゃないか!!

 違う!!
 俺じゃない!!
 俺は見ていただけだ!!
 あの子に何もしていない!!
 あの子に似た人形を作っただけだ!
 何もしていない!!
 何も!!

 しくしくと啜り泣く声が聞こえる。
 少女達が全て呪いの悪霊人形から開放され逝くべき所へ逝った様に見えたと言うのに。
 まだ誰か少女が泣いている。
「こわいの。ひとりは、こわいの」
 少女が泣き乍、言う。
「みんながかくしてくれてたのに、かくれてたのに」
 声が近付いて来る。
「こわいの。みつかっちゃうの。こわい。こわいの」
 心底怯えた声で、近付いて来る。
「こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい」
 声が、周囲をぐるぐると回る。
「こわいの」
 声が、止まった。
 呪いの悪霊人形が、目の前に立って、居た。
 黄色いドレスを着て、立って居た。
「食べられちゃうの」

 飛び起きた時、陽は既に燦々と輝き、道行く人は妙な場所に停められた妙な車を一瞥して通り過ぎて行っていた。
 胡散臭い「教会許可証的な物」をフロントガラスに貼り付けているので、「何か知らないけど教会が許可を出しているのなら」と放置して頂いているのだろう。助かるが、其の内詐欺で捕まりそうなものである。
 眼鏡ニイサンはまだ寝て居るし、呪いの悪霊人形は箱の中だし、ネイサン青年は朝食中だった。
 て言うか其の優雅に飲んで居る温かそうな珈琲は何処から出現したんですかね?
 近所のおばちゃんだろう中年女性が珈琲のおかわりを持って現れる。
 ネイサン青年は笑顔で感謝の意を述べ、「貴女に祝福のあらん云々」的な事を返して居る。
 詐欺師で訴えられる前に協会に逮捕されそうである。
 眼鏡ニイサンが寝ている間に、と、夢の話をした。
 夢の、声だけの夢の話。
「んー」
 何やら考え込むネイサン青年。
「ねぇ、此れ見てごらん」
 何時の間に起きて居たのか、眼鏡ニイサンがノートパソコンにカメラを繋いで、撮った写真を見ていた。
 飛行機の中、空港、教会、町中、広場、湖と山小屋、霊園、此処人形師の工房……。
 教会で呪いの悪霊人形を、受け取った後の写真に、其れこそ其の後の写真全てに、小さく黒い人影が写り込んで居た。
 そんな人影など無かったと断言できる場所ですら、小さく写りこんで居た。
「で、ね?」
 最後の一枚、呪いの悪霊人形を綺麗にした後の、服が黄色いドレスの写真。
 その人形だけを撮った写真。
 其処に、白く長い男の手が、両手が、大事そうに後ろから捕まえ様として居るかのように、手だけが写り込んでいた。
「可愛く撮れてるだろう?」
「兄さんは黙ってて」
 嬉しそうに言う眼鏡ニイサンを黙らせ、ネイサン青年が画面を覗き込む。
 禍々しい此の腕が地獄の底から伸びている気がして、背筋に冷たい物が走る。
「取り敢えず、取り敢えず其の人形師の墓に……」
 行ってみよう。と言い、再度思い出した様に、資料を読み出す。
 せがんで読み上げて貰う。
 裁判記録には、殺害方法とその凶器、動機、其の他の事も資料として付いていた。其の資料。
 本人否認の儘、処刑に臨んだ事。
 状況証拠は充分な事。
 犯人に暴行や強姦未遂等の前科が有る事。
 現場に落ちて居た人形は、件の人形師が初めて造った最初の人形であり、最後の人形で有る事。
 被害少女は生きた儘、下腹部を裂かれ、頬と耳と局部には歯型が残っており、噛み千切られて居た事。
 恐らく野生動物に寄る物だろうと考えられ、遺族の意向で詳しくは調べられず動物の特定迄には至って無い事。だがしかし、恐らく、一見して猿か其れに類する物ではないかとの事。
「……食べられちゃうの……」
 夢の中の言葉が、口をついて出た。
 ネイサン青年が、此方を見、無言で運転席へと移動した。
 無言の儘、車を走らせて、一時間半。
 朽ちた集合墓地の中に、その人形師は眠ると言う。
 墓地の管理人なぞ居らぬ、ただ、穴を掘って其処に投げ込むだけの乱暴な墓。
 其処に、他の処刑された犯罪者と区別される事も無く放り込まれ、どの骨が件の人形師かもわからない状態だと言う。
「……掘るの……?」
 じぞちゃん、と眼鏡ニイサンが呼びかける。
 ジッと無言で身動ぎもせずにその墓穴を見つめ、たっぷり一時間は経っただろうか。
「いや、辞めとくよ」
 いつもの笑顔でネイサン青年が振り返った。
「兄さんは違うと思うんでしょ?」
「うんまぁ、そうだねぇ」
 力仕事苦手だしねぇ、と肯定だか何だか判らない返答をする。
「メイベルも違うって言ってたじゃない?」
 くらりと眩暈がする。
 夢の中で言い募る男の濁声が蘇る。
 俺じゃない。と言ったあの声が。

 俺じゃない。
 俺は、あの子に似た人形を作っただけだ。
 あの子に似せて人形を作っただけだ。
 あの子の容姿が、魂が、眩しかった。
 あの子の様な淡い金髪が。
 あの子の様な青い瞳が。
 あの子の様な白い肌が。
 あの子の様な明るい笑顔が。
 あの子の様な。
 あの子になりたかった。
 俺は。
 あの子に
 なりたかった。
 あの子が欲しくて、あの子になりたくて。
 あの子の様に産まれたくて。
 せめて、人形を造った。
 みんなに愛されたくて。
 愛されたくて。
 愛されたくて。
 人形を造ろうと思った。
 俺は
 愛されないから
 俺の人形はきっと
 愛して貰えるから
 愛して貰える様な
 愛される様な
 人形を造る人形師になろうと
 あの時に思ったんだ

 毎日、少女が広場に来る時間を知っていた。
 広場に来て遊んで居るのを見ては、スケッチした。
 天使の様だった。
 否、紛れも無い天使だった。
 夕方家に帰ってからは寝食を忘れて、人形を造った。
 幾つも幾つも顔を造り、違う気がしてまた新しい顔を造り、手も足も身体も何度も何度も造り直した。
 沢山の人形の部位が天井からぶら下がり、乾燥させている間にもまた作った。
 納得がいくまでに何個も何個も造った。
 気が付けば人形師らしい工房内に変わり果てていたが、それでも乾燥すれば違う気がしてまた造った。
 そうしている内に少女は少しずつ成長していた。
 日に日に成長する少女に追いつかぬ己の技量に追いつこうと必死でもがいた。
 いっそ天使の如き少女の成長を止めればと思わぬ瞬間も無かったとは言わぬ。
 だが、俺は、あの少女が天使の如きあの少女の笑顔が見れなくなるなぞ考えたくも無かった。
 やっと納得のいく俺の天使が出来上がった時、あの少女を初めて見掛けてから1年と半年も経っていた。
 服は、少女が祭りで着ていた衣装にしよう。
 完成した人形を、師匠である祖父と父に見せる為、ソッと抱えて工房から実家へ向かう。
 祖父と父は、褒めて喜んで、そりゃあ喜んだ。
 喜んだんだ。
 そりゃあそうだよな。
 町のダニが息子だった頃と、跡継ぎが出来た今じゃ大違いだ。
 だけど、人形は、消えた。
 其の夜、久し振りの酒にほろろに酔って家に帰って寝て起きたら、人形は何処にも居なくなって居た。
 必死で探した。
 消えた人形を、必死で探した。
 確かに、久し振りに酔っていたとは言え、工房に持ち帰って、作業台の上に座らせた。
 確かに、工房に持ち帰った。
 なのに、何処を探しても、見つからない。
 布団をひっくり返し、沢山の人形の部位を掻き分け、寝台も作業台も自分の服を突っ込んである箪笥の中も、水瓶も、広くは無い部屋の中、工房内を何度も何度も引っ繰り返して夜中まで探した。
 やがて。
 気付かぬ内に、外が騒ぎになっていた。
 幼い少女が家に帰らぬと。
 それがあの天使だった事を知ったのは、人形を喪失した失意から立ち直れず暫し引き篭もった後だった。
 俺は、人形だけならず、天使までも、喪失していた。
 そして、食事も取れぬ儘何日が過ぎただろう。
 少女の遺体が見つかったと、そこには自分が造った人形が落ちていた。
 その人形を持って歩いている所を見た、目撃者が居る。
 その人形を造ったのは貴様だと家族も証言していると。
 警察が挙って押し寄せて来た。
 失ったものがいっぺんに見つかった事、
 その双方が、双方ともが、再び喪失していた事を知った事。
 違う、と言った声は、口から出なかった。
 違う、と言いたかった言葉は、誰も耳にも届かなかった。
 違う、と訴えた目は、家族に逸らされた。
 違う、と伝えたかった意思は、何にも伝わらなかった。
 罵られ、石を投げられ、殺意を向けられた。
 俺は、生まれ変わりたかった。
 愛される、天使になりたかった。

 俺は
 天使にも
 天使を造り出す存在にも
 何にも
 何にも
 なれなかった。

「それが本当だとすると……」
 不意に、水中から引き揚げられた様な、現実に引き戻された様な、夢から唐突に覚めた様な。
 そんな感覚を覚えた。
「んー、戻ってきたのかなぁ」
 ネイサン青年が覗き込んで来る。
「墓に来たからかねぇ、ずっと言いたくても誰も聞いてくれなかっただろう愚痴を拾ったんだねぇ」
 ネイサン青年がぐりぐりと頭を撫で付けて来る。
 眼鏡ニイサンは疲れたのか、車の中でお休み中のご様子。
 寝かせた儘、ネイサン青年が車を出発させる。
 途中、鈍い音が後ろから何度か聞こえたのですが……。
 人形師の工房迄戻り、眼鏡ニイサンをバールで突いて起こす。
「それが本当なら、話の辻褄が合うんだよねぇ。兄さん、お仕事だよ、お仕事」
 眼鏡ニイサンが、目を眼鏡の上から擦りながら、もたもたと身体を起す。
 其れに何の意味が有るのかと小一時間膝を突き合わせて聞いて見たい気もしなくもありませんが。
 ネイサン青年は、眼鏡ニイサンを責付いて工房内に入ると、やおら優雅な動作で眼鏡ニイサンの眼鏡を、取り上げた。
「|亜爻|《あぎょう》家当主|二三|《にさん》様、お役目で御座います」
 恭しく呪いの悪霊人形の箱を差し出す。
 眼鏡を取られた兄さんの目が髪で隠れ、いつもの笑顔が消えた。
 箱を受け取り、作業台へ向かい、人形を取り出す。
 服を脱がし、呪いの悪霊人形の首の後ろに刻まれた花の様な星の様なあの模様が剥き出しになると、其処に指を触れた。
 刻み込まれた筈の模様が、シールでも貼って有ったかの様に浮かび上がり、そのまま、剥がれる。
 呪いの悪霊人形には、パテで埋めた訳でも無いのに、綺麗に痕が消えている。
 そして、その浮かび上がった剥がれた模様を、どうしようかと少し迷った様子に見えたが、

 ぺたり。

 貼り付けた。
 何故か。
 『私』の額に。

「……な……にしてくれてるんですか!?」
「似合うよー?」
 眼鏡ニイサンの眼鏡を戻しつつ、ネイサン青年が興味無さそうに言う。
「わぁ、何其れ、ビンディみたいで可愛いねぇ」
 眼鏡ニイサンがはしゃいだ声を出すが、この眼鏡……自分でしておいて何を……。
 陽は既に真上に在る。
 行き先も告げずにネイサン青年が再び車を走らせ始めた。
 呪いの悪霊人形は箱に戻して在る。
 数時間後、あの霊園の前に辿り着いて居た。
 管理人は教会のよこした妙な車の妙な一行を覚えていた。……強烈な印象だったのだろう事は間違いない……。
 悪魔祓い専門の教会の紹介状は、どうやら、免罪符の役割も果たすらしく、「悪魔祓いの為に、一晩過ごしますので、宜しくお願い致します」と告げると、既に陽が落ち掛けていると言うのに快く門を開けてくれた。但し、夜中に管理棟を訪れても悪魔に乗っ取られている可能性が有る為、朝まで迎え入れる事が出来ない。との事だった。
 悪魔祓いが目的では無かった場合は夜中に霊園に入り込む事自体が出来ない体制になっている事を説明されがてら、夕食だけとお呼ばれした後、あの少女の碑のある区画まで車を走らせる。
 あの、星の様な花の様な模様のある碑のある、あの場所へ。
 真っ暗な中、少女の碑の有る区画まで問題無く到着する。
 夜風に冷え込む中、件の呪いの箱入り悪霊人形は車に中に置いた儘、少女の碑まで歩いた。
 あの模様は直ぐに見つかった、
 再び、眼鏡ニイサンが眼鏡を取り、ふわりと浮かび上がらせて取り……
 だから何故わたくしの額に貼り付けるのですかね!?
 もう一つの模様の有った碑を探すも、見つからない。
 《ザカラシュレン》と名の刻まれた、あの碑。
「まぁ、見つからない物は仕方無いし…」
 取り敢えずの目的は果たしたしと、車に戻る。
 箱に入った儘の呪いの悪霊人形は、何事も無く大人しくしていた。
 眼鏡ニイサンは倒れる様に横になった瞬間から寝息を立てている。
 昼間あれだけ寝ていてよく眠れるものだと感心する。
 否、若しかしたら眼鏡を取った時から寝惚けていたのかも知れない。
 額に刻まれた星の様な花の様な模様を鏡で確認し、撫でる。
 がっつり刻まれて居る。
 刃物で刻んだ様に、がっつり。

 其の夜、夢を見た。
 否、夢だと思いたい物を、見た。
 ネイサン青年も眼鏡ニイサンも呪いの悪霊人形も眠り扱けている、深夜。
 目が覚めた。
 音が何もしなかった。
 夜の特有の、風が葉を揺らす音、鳥の声、虫の音、自然のそう云った気配や音が、一切、しなかった。
 ネイサン青年と眼鏡ニイサンが、呪いの悪霊人形の箱すら、何か硝子一枚向こうで在るかの様な。
 世界から隔絶されたかの様な。
 切り取られ、硝子の箱に入れられたかの様な。

 ぼこり。
 と、鈍い音が、外からした。
 音が消えた世界で、土の下から、音がした。
 見なくても理解る。
 白い手が、細く、白い男の手が、其処から、墓の下から、生えて居た。
 其の白い手と、其の墓と、自分だけが、その硝子の箱に閉じ込められて居た。
 白い手が、此方へと伸びて来る。
 硝子を叩く。声を上げる。しかし、音が掻き消える。掻き消される。
 何かに食べられたかの様に、助けを求める声は音は届かない。
 何時の間にか開いていた車の扉から、引きずり出される。
 硝子の箱が小さく成って逝く。
 自分とその墓だけを内包した硝子の箱が、その距離に応じて縮まって逝く。
 拒否する声も、喚く声も、何もかもが掻き消され、飲み込まれ、食べられてしまう。
 墓まで引き摺られ、もう一本の腕が、捉えて来た。
 其処には、真っ黒い晦冥くらさの中、青く光る目が、白く光る歯が、其処に在った。
「つぅかまぁえたぁ」
 地の底から響く様な声で、溜息の様な声で、ソレは喋った。
 抵抗空しく一気に墓の中へと引き摺り込まれる。
 意識が暗転する。
 沈み込む。
 落ちて行く。
 奥へ。
 深く。
 深く。
 奥へ。
 奥へ。
 奥底へと。
 落ちて
 落ちて
 落ちて逝く。

 ……美しい……
 呟くと青年は鏡にのめり込むように頬擦りした。
 蜂蜜色の黄金の巻き毛。
 青く理知的な瞳。
 透き通るような白い肌。
 しなやかな指先。
 細く長い手足。
 その身を包む濃紫の礼服。
 真っ白なブラウスは、さながら月夜に咲き誇る花のようにさえも思える。
「ザカラシュレン様、皆様がお待ちですよ」
 ノックとと共に執事が扉の向こうから声を掛ける。
 急かしに来たのだ。
「すぐに行く」
 凛々しい声で返答すると、ザカラシュレンと呼ばれた青年は名残惜しげに鏡を撫で、ソッと離れる。
 調度品は何れも此れも高そうで、一目で高級品と判る。
 扉を出て広く長い廊下を後ろに控える執事に伴われ行くと、大広間の扉が開け放たれた。
 現れた青年に、集まっていた煌びやかな服装の男女が次々と声を掛ける。
「おめでとう御座います」
「おめでとう」
「もう大人の仲間入りだ」
「誕生日おめでとう」
「おめでとう」
「此の度は大変御目出度く」
「おめでとうございます」
「もう18か。早いものだ」
 よく似た蜂蜜色の金髪の中年男性が青年の肩を抱き寄せる。
 何れも。
 何れも此れも、心からの賛辞など無い。
 下卑た美しく無い醜い笑顔だった。
 青い目をした母が、冷徹な視線のみを寄越し、溜息を吐く。
「ありがとうございます」
 そう返答する自分すら醜い物の様に見下すあの女。
 美しい僕を汚らわしい物であるかの様に見下すあの女。
 ふつりと、黒い物が心の奥に沸いた。
 パーティがお開きになった後、下女を部屋に呼ぶ。
 いつもの様に。
 いつもの様に裸に剥き、いつもの様に鞭で打つ。
 あの女によく似た下女ばかりを選んでいた。
 淡い金髪の、青い目の、白い肌の下女を。
 下女が悲鳴を上げる度に、この美しいこの僕の穢れが洗い流される気がした。
 下女の肌に蚯蚓腫れが走る度に、心の痛みが癒える気がした。
 下女の、あの女の、その存在意義が僕である様に、この美しい僕でしかない様に、教育し、正し、理解する様に。
 あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、あの女が、

 何時の間にか、下女が事切れて居た。
 まただ。
 何人目だろう。
 この僕の美しさに耐えられずに死んでしまうなんて。
 なんて可哀想なのだろう。
 なんて寂しい女なのだろう。
 なんて愚かな女なのだろう。
 新しい下女を調達させなくては。
 出来れば、この僕の美しさに耐えられる下女を。
 美しい僕の寵愛を受けるのは、美しくなければならない。
 新しい下女を求めた時、立ち並んだソレ等はとてもでは無いが、僕に相応しい物は無かった。
 どれも、美しくなかった。
 髪の色も肌の色も目の色も鼻も口も身体つきも何もかも気に入らなかった。
 20名居たその何れも此れもが気に入らなかった。
 失意の内に、町へと向かう。
 町に所用が有ったのだが、其処等を歩いている中に若しや砂金が混じっては居ないかと云う期待もあった。
 期待以上だった。
 広場で遊ぶ、淡い金髪の、青い瞳の、薔薇色の頬、白い肌の少女。
 天使の様だった。
 無垢で、眩しくて、美しい。
 穢れを何も知らぬ、恐れを何も知らぬ、無邪気な笑顔。柔らかそうな頬。滑らかな肌。
 嗚呼あの肌に針を突き立て悲鳴を上げさせ鞭を揮い平伏させ涙を流して自分に懇願し愛顧を求めるその姿を想像するだけで、気絶する程震えた。
 あの女を、幼い姿から蹂躙できる喜びに打ち震えた。
 ずっと、ずっと思って居たのだ。
 思っては居たのだ。
 下女が手に入る度に、もっと無垢で美しいモノは居ないのかと。
 もっと、美しい僕に相応しく美しい存在は居ないのかと。
 しかし、事を急いては仕損じる。
 僕の愛は、ともすれば理解され難い事は、僕とて知っていた。
 だから、用意周到に観察した。
 観察して、事に及んだ。
 塵如きが、路傍の石如きが、あの天使を写し取ったかの様な人形を抱えて歩いて居たのを見た時は、怒りに震えた。
 だから、取り戻した。
 此れは、僕の物だから。
 僕の物だから。
 そして、広場に向かう少女に、にこやかに声を掛けた。
「ねぇ、お嬢ちゃん、もっと沢山可愛いお人形を見たくないかい?」
 簡単だった。
 幼い少女を車に連れ込み、連れ帰った。
 少女は車になど乗った事が無いのだろう、其れもそうだ。この車は此の辺りでも初めての車なのだから。
 館に連れ帰り、手を繋いで部屋案内する。人形を抱き、スキップをしながら隣を歩く天使の姿に、嗚呼と思わず見惚れる。
 この美しい髪を、美しい肌を、美しい瞳を、美しい頬を、手足を、身体を。
 部屋に鍵を掛け、人形を少女から取り上げると椅子に座らせた。
 裸になる様に云うと、怪訝な表情で嫌がった。
 其れはそうだろう。
 僕の美しさの前に己の未熟な肌を晒せぬと恥ずかしいのだろう。
 其処を理解した上で、丁寧に丁寧に平手打ちした。
 頬が赤く腫れ、少女が甲高い声を上げて泣いた。
 何という甘美な。
 何という。
 己の手に残る柔らかさ。
 少女の甘美な叫び声。
 美しく赤く腫れた頬。
 何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
 満足するまで平手打ちを繰り返した。
 気付けば、少女は声を上げなくなっていた。
 あの声を聞きたいとこの僕が言っているのに、涙を流すだけになっていた。
 つまらなくなった僕は、再び、服を脱いで裸になる様に言うと、少女は服を脱いだ。
 思った通りの、白く美しく柔らかそうな肌をしていた。
 下着は恐らく僕に脱がせて欲しかったのだろう、残っていた小さな布を剥ぎ取る。
 嬉しさのあまりだろう、涙を流す少女を、愛おしいと思った。
 こんなに人を愛おしいと思った事は無かった。
 少女の背に、鞭を揮った。
 再び甲高い声を上げ始めた少女に、夢中になって鞭を揮った。
 明け方、少女に軟膏を塗り、痛み止めを飲ませると、少女は眠りに落ちた。
 此の僕の此の手の中に、ずっとすっと籠に入れて離さず飼っていたい。
 こんな気持は初めてだった。
 愛おしく、手離さず、壊したい。
 ずっとずっと僕だけの物にしたい。
 僕だけ見て僕だけ触れて僕だけが自由に壊せる。
 僕だけの天使。
 僕は、僕の天使に夢中になった。
 あの女が如何でも良くなる位に、天使は僕に官能を甘美な時間を与えてくれた。
 誰よりも甲高く鋭い悲鳴は、幼さと純粋さを含んで居て綺麗だった。
 誰よりも青く澄んだ瞳は涙を流す度にキラキラと輝いて宝石よりも美しかった。
 誰よりも柔らかな肌は、歯を立てる度に痕が残り、其の血は甘やかだった。
 食べたい位愛おしかった。
 夢中になった。
 夢中になって夢中になって夢中になった。
 耳を噛み千切り、頬の肉を食らい、局部から血と肉を啜り、下腹部を切り裂き、
 気付けば、少女が事切れていた。
 ただの、モノになっていた。
 悲鳴も上げぬ涙も流さぬただの、モノになっていた。
 モノに興味は無い。
 捨てて来る様に、執事に下知した。
 ふと血に染まった人形が目に入る。
 其れも一緒に捨てさせた。

 それで、何故、其の後……
 そう、山の湖の傍の山小屋に捨てた後。
 何故、人形と墓に細工した?
 何故魂を縛り付けた?

 素朴な疑問に、何かに気付いた様な気配がする。
 闇の中、何かに気付いて、動揺したようなそんな気配がする。
「気が変わった。魂は極上だった。純粋で綺麗で美しかった。この美しい僕に相応しかった」
 返答が返って来るとは思わなかった。
「なんだ!? お前、何だ!? お前達、何なんだ!?」
 狼狽える声は聞き取り辛い。
 遠くから細波の様な音が引っ切り無しにしている所為だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
 やがて、陰翳の中、一人の蜂蜜色の髪の男が、沢山の何かに群がられて踠き身を捻らせて居るのが見える。
 その何かは、辿れば、自分の口から止め処無く出て居り、止め処無く止め処無く、細波に思えた其れは「おぎゃあ」と「おぎゃあおぎゃあ」と泣き喚き。
「辞めろ! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い! 醜い!」
「 お ぎゃ あ 」
 何時の間にやら、蜂蜜色の髪の男が、赤ん坊の渦に飲み込まれ、見えなくなる。
 ぴしり。
 何かに皹が入った様な軽い音が、した。
 薄い硝子が割れた様な小気味良い音と共に、気付けば墓から大根の様に引っこ抜かれた所だった。
 眼鏡ニイサンがおいおいと泣き乍泥で汚れるのも構わずに抱き締めて来る。
「感謝しておきなよね」
 ネイサン青年がそう言い乍バールで指した方向には、あの呪いの悪霊人形が箱から出て鎮座して居た。
 土を払って、黄色いドレスを纏った人形に近付くと、今迄死んだ振りして居たのが不思議な程もじもじと「……ありがとう……」と呟いた。
 濁声で。
「天使をあの悪魔から開放してくれて、ありがとう」と。
 ネイサン青年や眼鏡ニイサンや呪いの悪霊人形が何か喋っているが……
 思考が追い付かない。
 兎に角、突如呪いの悪霊人形が箱をぶち破り……蓋が割れていた……眼鏡ニイサンとネイサン青年を叩き起こし、墓まで引っ張って連れて行き、一つの墓に足の先を残して引き摺り込まれて居るわたくしを発見し、大きな蕪よろしく引っ張り揚げたのだと言う。
 思考が追い付かない儘、此方に起こった事を有りの儘に話す。
 恐らく、過去を垣間見た事。
 奴の思考を読んだ事。
 そして、赤ん坊の事。
 何が如何なったのか全く理解らない事。
「……多分……」
 と、ネイサン青年が言う。
「多分、食べちゃったんじゃないかな? 君の中の、その赤ん坊達が」
 赤ん坊って会話が成り立たないし何がしたいのか解らないし怖いよねぇ。
 と言うネイサン青年の言葉に、黄色いドレスの呪いの悪霊人形が頷いた。

 此方に笑いかけて来る男が居る。

 心底安心した表情で、やや照れた様な表情で、此方に笑い掛けて来る男が居る。
 浅黒い汚れた肌、禿げ上がった歪な頭、筋肉質な腕、太い足、重く厚く被さっている瞼、左右大きさの違う垂れた四白眼、団子鼻、分厚い唇の中年男性。
 襤褸の様なその服は簡易な物で、足には襤褸の様な簡易な靴を履いて居る。
 襤褸を纏った人相の悪い男が、其の人相の悪さが吹き飛ぶ様な笑顔で笑い掛けて来る。
 静かに微笑み、其の顔をやや上に向け、天使の様な淡い金髪の青い目の幼い少女の手を取り、笑い掛けて来る。

 天使は、一人、また一人と増えて行った。
 少しずつ少しずつ空へと昇がって逝き、50人を数える淡い金髪の少女の姿の天使達に取り囲まれ
 その姿は、一升瓶ほどの大きさに成り、饅頭程の大きさに成り、蚕豆程になり、雛豆程になり、胡麻粒になり、点になって見えなくなって逝った。

「貴様かああああああ!!!!!!」
 飛び起きて、車の天井に頭を打つ。
 傍らの黄色いドレスの人形は既にただの人形で有る事は見た目にも明らかである、あるが。
「貴様か、貴様か、貴様か!!!」
 中身の無いただの容器で或る人形を揺さ振る。
「どうしたの? メイベル?」
「暴れるなら捨てて行くよ?」
 既に動いている車中、眼鏡ニイサンがのんびりと言い、ネイサン青年が恐ろしい事を平然と言う。
「思い出したのですよ!! こいつ!! こいつが!!!」
「もう成仏しちゃったんだからしょうがないでしょう。あれ、成仏で良いんだっけ? 昇天?」
 興味無さそうにネイサン青年が言う。
「何もかもこいつが仕組んだ事に違い無いと言うのに良いんですかそんな事で! 其れでも由緒有る亜ぎ……」
「うるさいよ」
 心底興味無さそうに言うネイサン青年の言葉に打ち拉がれ、眼鏡ニイサンにしがみ付いた。
 ふと、そう言えばあの墓の模様は如何したのだろうと疑問を口に出す。
「えー? 折角だから其の儘にして来たよ」
 え? なんですか? 如何云う事ですか?
 ソッと額に手を触れると指先に花の様な星の様な模様が刻まれた儘になって居る。
「彼のお墓の下の空間は、主が居なくなった今、ヤギリンが使い放題だよー。良かったねー」
 良くない。全然良くない。全く良くない。
「ほら。空港見えて来た。思ったより長旅になっちゃったねぇ」
 お風呂に入りたいなぁ……と呟いたネイサン青年の言葉に、珍しく心底同意した。
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