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へなちょこ野球部

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 強い日差し、鬱蒼とした木々、そこから湧き出す蝉の音と対照的にスタンドは閑散としていた。スコアーボードは15対7で城南高校が7回表までリードしていた。炭酸マグネシウムで手書きした15の数字はいかにも粗末で、下で行われている試合を物語っていた。
 ロン毛で茶髪のサーファーくずれの青年が堂々とホームベースとバックネットの間を歩いている。欠伸をしながらも周囲を威嚇し、存在感を振り撒いている。お粗末でも公式戦の試合中である。迷い込んだ野良猫でも少しは遠慮するだろうと監督の櫻井は呆れた。鮫島は櫻井の視線も存在も無視し、ベンチにドカッと腰をかけた。
「おはようさん。」
 相変わらず、人を食った横柄な態度である。
「おはよーす。」
 ベンチの数人が鮫島にもみ手をして慇懃に迎え入れた。
「鮫島。遅い!」
 櫻井は語気を荒げて、微塵ではあるが監督としての威厳を示そうとした。
「うるせ!」
 鮫島は、へなちょこボールを受けるように櫻井を軽くあしらい、ユニホームに着替えはじめた。櫻井は苦虫を噛み潰した表情で鮫島を見た。
「女が帰してくれなくてな。4回エッチしちゃたよ。」
 櫻井の苦々しさを察すると余計に挑発的になり、鮫島は卑猥な指の形までつくった。
「勝ってるじゃねえの。」
 スコアーボードの得点を見ながら、試合の進行など興味なさそうにつぶやいた。
「ほんとうすか。ほんとうすか。めちゃ、いいな。」
 案の定、小川原が飛びついてきた。気がつくと鮫島に膝まずいてお祈りのポーズになっている。
「ほんと、ほんとですか。」
 鮫島は小川原を見おろし「腰がふにゃふにゃで試合どころじゃねえよ。」と腰に手をあて、ゆるゆると腰を回した。
「いいすっね。いいすっね。」
 小川原も試合どこではなくなっていた。
「鮫島さん、今度、紹介してくださいよ。その子の友達とか。お姉様とか、妹様とか、お願いしますよ。」
 数人がぎごちない笑いをした。
「ストライク!バッター!アウト!」
 球審の捨て台詞のような声が青空を突き抜けた。『お前たちは野球する資格はない。とっとと帰れ!』と言っているように櫻井には聞こえた。バッターボックスの伊藤は反射的にバットをグランドに叩きつけた。
「どこみてんだよ。ボールだろ。」
 伊藤は球審に詰め寄った。球審は毅然としてベンチを指差した。伊藤は収まりつかず球審を下から上になめるように威嚇した。眉をしかめ、つま先で土を掘り、肩を上下にゆっくりと動かした。櫻井も何回か同じ威嚇を受けたことがあるので分かっていた。多分、審判も胸にジワッと熱いものが込み上げ、口の中が乾いているはずである。
 尖がった伊藤の気持ちを平静にする特効薬はキャプテンの堀井であった。
「伊藤君。いいから、いいから帰ってこい。」
 堀井は両手でムスリムのお祈りのように招き、ベンチへの帰還を促した。伊藤は球審を刺すような眼光で睨みながらもベンチに引き下がってきた。
「ご苦労さま。」
 堀井は走り終わった駅伝の選手を毛布で包み込むように慰労した。しかし、トラブルメーカーの鮫島が鎮火しかかった火に油を注いた。
「またかよ。お前、きれてんじゃねえよ。伊藤よ。今の入ってたよ。完全に。」
 伊藤はヘルメットをベンチに投げつけ、悔しさをぶつけた。青いヘルメットはベンチにぶつかり、コンクリートの床でカラカラと回った。櫻井は血の気のひくのを感じた。
「伊藤ちゃん。あとで、やつ、やきいれちゃおうぜ。」
 キャッチャーの高見はレガースをつけながら、伊藤を慰めた。伊藤はタオルを頭から被ってスパイクで悔しさをコツンコツンと蹴っていた。
「あ~あ。」
 櫻井は帽子を脱ぎ、空を見た。試合を放棄することも考えたがその方法も分からない。
「さあ、ラスト、みんな、しまっていこうぜ。」
 堀井の声に櫻井を初めとして全員が我に帰った。堀井は心に波風をたてることはないのか。冷静沈着振りに櫻井は、動揺している自分の不甲斐なさを痛感した。もう一人、ある意味、動じない奴がいた。鮫島だ。櫻井は時々、羨ましくも感じる。鮫島にとって周囲のヒトやモノは全部、一人遊びのおもちゃに過ぎないのではないのだろうか。鮫島はどんな状況であっても自分勝手であった。
「堀井。最終回、俺に投げさせろよ。」
 櫻井も堀井も不意を突かれた。
「え。」
 冷静な堀井も困った表情に変わった。球審と一塁塁審がベンチに声をかけてきた。
「攻守交代、はやくしよう。」
 伊藤はベンチから立とうとしない。
「キャプテン、やっぱ最後はエースで4番が締めくくんないとな。な、小河原」
 鮫島はスポーツドリンクを呷りながら、自分の世界に埋没して「うん、うん、うん。」と唸った。
「そうっすよ。鮫島さん、最終回、ビシッとお願いします。」
 女の子を紹介してくれるかもしれないという淡い期待で小川原は応援のエールを送った。
「先生、いいですか。」
 堀井は常識では、はかれない鮫島の圧力に圧倒されて、櫻井に助けを求めた。
「・・・・」
 櫻井は堀井の心情を察しながらも、首を横に振った。
「野球もわからないくせに、偉そうにするんじゃねえよ。あ。」
 おもちゃを取り上げられた鮫島は烈火のごとく、吼えた。
「素人が口出しするなよ。」
 伊藤が先輩を援護してきた。櫻井はその伊藤のゆっくりとした凄みのある声はどこか聞き覚えがあった。大学の頃、観た『やくざ映画』で聞いた台詞だと思った。『野球は筋書きの無いドラマ』というが『やくざドラマ』ではないかと櫻井は思った。
「いいからいいから俺に任せろ。」
 鮫島は堀井に目配りをするとピッチャーマウンドに走った。取り残された堀井は帽子を目深に被り、スパイクの歯がグランドの土を掴むザクッという音を残して、自分のポジションまでダッシュをしていった。
 バックネットでは大会役員が大きなやかんから、麦茶をへこんだアルミのコップに注ぎながら、愚痴をこぼしていた。
「また、もめてますな。」
「またですね。もう、試合が始まって3時間ですか。夕立がくるとまずいですよね。」
 ピッチャーマウンドで肩を大きく振ったり、屈伸したり準備をしている鮫島に球審から白いボールが渡された。
「プレーボール!」球審は二本指をキャッチャーの頭上に突き出した。
 にわか作りの駄々っ子ピッチャーに魂の籠ったボールが投げられるわけはない。ストライクがまったく入らない。駄々っ子は足でマウンドの土を蹴ったり、唾を吐き捨てたり、グラブをたたきつけるが、ボールはホームベースの上を通らない。最初はきわどいコースをボールにされると、審判に食って掛かっていったが、一球ごとにアドレナリンの分泌が低下してくると次第にふて腐れてきた。サードの伊藤もベースに座り込んでいる。スコアーボードの7回裏の点数が1点2点と加算されていった。駄々っ子は「もういいよ。」と開き直ると、今度は肩の力が抜け、ストライクが入るようになったが、力の無いボールは絶好の餌食であった。『ボコボコ』という言葉以外にはないように打たれた。城南高校野球部は9人で手をつないで敗戦に向かって転げ落ちていった。セカンドがフライを落球する。サードの伊藤の股間をボールがすり抜ける。センター前ヒットをセンターが後逸する。今まで立っていた櫻井も気が抜けたように、なよなよとベンチに座った。
 スタンドでカップ酒を飲みながら、欠伸をするホームレスのような観客が櫻井の目に入った、ワープをしてその隣にいる自分を想像した。この集団の外であればどこでも良いと思った。ベンチでメールを暢気に打つ小河原を見るとなお更、その思いは助長された。
「タイム!」
 キャプテン堀井がこの場に及んでも勝負の最中であることをみんなに覚醒させようとしていた。内野がマウンドに集まってきた。選手は目覚めるより、眠りにつくように、でれでれと歩いてきた。堀井は熱中症にかかったように呆然とした鮫島に声をかけた。
「楽にいきましょう、鮫島さん。まだ、うちが勝ってるんだから。」
 堀井は見たくないものを見るようにスコアーボードを振り返った。7回裏6点が入っていた。帽子を目深に被りなおすとボールをキャッチャーの高見からもらって手で捏ね回し、鮫島に渡した。伊藤は完全にふてくされていた。ほかの選手は試合終了のサイレンを待っているだけだった。
「鮫島さん。ストレート一本で行きましょう。今までが練習で、これからが本番すよ。思い切って投げれば大丈夫すよ。」
 駄目亭主の女房役である高見が慰めた。鮫島には慰めは耳に入らなかった。しかし、敵のベンチの野次は耳に届いた。
「いつまでやってんだよ。ピッチャー、コントロールないんだから。交代しちゃったら。ピッチャー。こ。う。た。い。」
 容赦ない嘲笑の合唱にすかさず、高見が反応した。キャッチャーの面を振りかざしてなまはげのような形相で突進していった。マウンド近くにいた審判が制止した。堀井がダッシュしていち早く羽交い絞めにして止めた。敵チームの選手は中指を突き上げ、すごみをきかしている。
「試合再開するよ。さあ、守備位置について。」
 球審が諌めた。高見は敵のベンチをにらみながらホームベースへ戻った。櫻井の頭の中は混乱し、そこに直射日光がジリジリあたり、脳が臨界に達しそうであった。まずは暑さを避けることが先決であると、また、よろけながらベンチの日陰に座った。
「プレー!」
 球審が櫻井をまた混沌に引きずり込んでいった。満塁だった。鮫島が投げた。バッターがスイカを割るように、バットを振り降ろした。大飛球が飛んだ。右中間の芝生の中をボールが転々としていった。ボールを追うセンターの中野が延びた雑草に引っかかり転んだ。その拍子でスパイクが脱げた。小太りの中野は自分が走るより転がって行くボールにスパイクを当てて止めたほうが早いと判断し、スパイクを投げた。後に、これは規則違反であることを櫻井は審判から知らされ叱責を受けた。櫻井は他の顧問たちの前で注意を受けた恥ずかしさより、こういったレアな野球のルールを勉強できたことを誰かに自慢したかった。
                  *
 蝉の声が頭から降ってくる木陰に車座になって、選手たちが座っていた。傍らにバッドやグローブが土まみれになり、選手の心境のように乱雑に置いてあった。中心に櫻井が立っていた。帽子を脱ぎ、ユニフォームの袖で流れる汗を拭きながら櫻井は「ご苦労さまでした。」と慰労した。そこには静止した無風の空間があるだけで誰も櫻井の方には視線を上げようとしなかった。高見は1リットルのジュースを飲んでいた。伊藤は濡らしたタオルを顔に乗せ寝ていた。センターの中野は敗戦を確定させた自分の失策を悔いて俯いていた。小川原は何かにとりつかれたようにメールを打っていた。『敗戦の将は兵を語らず』というが鮫島の姿はなかった。
 櫻井は逃げ出したい欲求だけで、試合を総括する言葉が見つからなかった。
「小河原、そんなの後でいいよ。」
 櫻井はとまず、わかりやすい当面の敵を咎めた。監督の存在自体気が付いていない小河原が止めないのを見ると「小河原、後にしろよ。」
 監督の存在自体気が付いていない小河原が止めないのを見ると堀井は語気を強め、櫻井に救いの手を差し伸べた。 小河原は堀井に頭をちょこんと下げ、メールを止めた。
「ご苦労様でした。」
 櫻井は、気持ちの伴わない唯の大声を選手の頭に浴びせた。何人かの選手が堀井に気を使って櫻井を見た。伊藤は白いタオルで顔を被い大の字で寝ていた。
「鮫島はどうした。」
 櫻井は鮫島がいないのは分かっていたが、否、いなくてよかったのだが、選手の手前、逃亡した敗戦の首謀者を探す振りをした。
「帰りました。」
 堀井が呟くように答えた。
「そうか・・・。」
 選手は球場の中にいた非日常の5時間が時差ぼけを発症させたように空虚であった。唯一堀井だけがスコアーブックを高見に見せながら試合の総括を選手にした。理路整然たる堀井の講評にうなずくだけの櫻井であった。
「櫻井先生、終わりにしましょう。」
 佐藤先生が能率的な言葉をかけてきた。
「はい。」
 櫻井は賛成したもの、まだ最後の一押しが必要であると感じた。
「みんな。聴いてくれ。」
 櫻井はミンミン蝉に対抗するように声高にと叫んだ。その後、自分の口から感動するような名言が出るに違いないと思ったが、何も浮ばなかった。なさけない気持ちが声のトーンを下げるだけだった。
「俺も野球が初めてで、まだストッキングのはき方もわからない。この4月、城南に来て校長に野球の顧問だ。といわれた時にはどうしようかと思った・・」
 櫻井は生徒に言うべきでないことまでが口をついで出てきてしまった。櫻井の目線は生徒からだんだん地面に落ちていった。地面には油蝉が白い腹を仰向けに、6本の足を駄々をこねるように動かしていた。もう精気もなく、近くの葉っぱと同じ軽さのようだ。しかし、まだ木に集りたいのか、もがいている。櫻井はまたこの学校でもこの蝉のように地団駄踏んで、もがくのだろうと感じ取ると、背中に寒気が走った。
 思い直すように櫻井は上を見上げた。入道雲が雪化粧した山々のように聳えていた。
 以前、櫻井は超底辺校にいた。教師は教師ではなく、刑務所の刑務官のように眼光鋭く、絶えず生徒を威嚇し、規律を徹底する仕事だった。毎日毎日、朝の来るのが辛く、『こんなはずでは。』という思いに纏わり付かれながら仕事をしていた。『まいにち、まいにち僕らは鉄板の・・・』という『およげ!たいやきくん』の歌詞を繰り返し口ずさむと何故だか心が軽くなった。
 ショーシャンク刑務所のことを扱った映画を観たのはその頃であった。その映画の中の一シーンの一言が心に焼きついた。年老いた囚人が主人公にこう言った。『塀の中では絶対持ってはいけないものがある。それは希望だ。』と櫻井はその言葉を拳拳服膺としようと決めた。
                  *
 校長室には校長と教頭が並んでソファに座り、櫻井がその前に許しを請うような表情で座っていた。校長は黄ばんだ壁に囲まれた質素な部屋とアンバランスな豪華なソファにもたれかかり、教頭と櫻井は幾分前かがみになって、座り心地をもてあますように浅く座っていた。
「櫻井先生は前の学校ではクラブ、何をやっていらっしゃいました?」
 校長が口火をきった。
「サッカーの顧問でした。」
「そうですか。サッカーですか。強かったですか。」
「まあまあだと思います。私は、副顧問でしたので、専ら指導は体育の専門の先生がしていました。」
「教頭先生、確か、櫻井先生には野球の顧問をお願いすることになっていましたよね。」
「はい。そうです。」
 教頭は膝に乗せた書類の束に目を移しながら頷いた。
 櫻井はその時、教頭の脂ぎった頬に笑いを見た。あとから、こじつけた記憶ではなく、確かに『良い気味。』と言うような嫌な笑いを見た。
「私が、ですか。私が・・・ですか。野球は全然経験ないですが。」櫻井は唐突な依頼に戸惑い、反芻するように聞き返した。
「心配ないです。ほかにも顧問の先生がいらっしゃいますから。」
 校長はとさっさと終わせようとした。
 教頭は櫻井がまだどんな人間なのか分からない。管理職に反抗的なのかノンポリなのか。見極めるために、まずは優しく接してきた。
「先生、小さい時、キャッチボールとか、そうそう、三角ベースで遊んだことあるでしょ。」
「はあ、それは。」
「それだったら大丈夫ですよ。全日の高校野球とは雲泥の差ですから。野球というと甲子園の野球をイメージしてしまいますが。あれとは全然違います。」
 話題を終わらせたはずの校長がまた、乗ってきた。
「でも先生、全国大会もあるのでしょう。」
「はい、8月にあります。先生、昔、欽ちゃんがやっていた番組、ご存知でしょ。たしか、8チャンネルでしたか。あれですよ。」
 櫻井が食いついてくると思ったのか明るい声で同意を求めた。
「はぁ。」
 櫻井はいくら記憶を辿っても、陰も形も無いことなので空返事をするしかなかった。
「そういう目標があるから、うちの部活の中でも一番熱心に活動しています。でも先生、大丈夫ですよ。第一、硬式ではなく軟式ですから。」
「ボールが柔らかいほうですか。」と櫻井は半ば納得したように言ったが、キャッチボールも3年前、前任校の職員レクレーション大会のソフトボールで数球しただけだった。自分の頭の中で考えた距離より、ずっと前でボールが落ちたのを覚えていた。打撃もこんなでかいボールなら絶対当たると完全に見くびって打ったもののバットが空をきったのを覚えていた。
                     *
 蝉の声を押しのけて櫻井の一人芝居は続いていた。
「4月から4ヶ月。練習に参加している。というか、ボール拾いか、ただ、見ているだけだったけどな。俺も一応城南高校野球部の監督になったからにはこれから一生懸命がんばる。練習をしてノックもできるようになるから。・・・がんばるから、みんなも来年に向けて一生懸命練習しましょう。この悔しさをばねにしましょう。」
「はい。」
 堀井がたった一人、大きな返事をした。
「それから、今年が最後の高見、西山。伊藤もそうだっけ。」
 櫻井は伊藤を見たが、完全に無視してウェットティシュで体を拭いていた。櫻井はあきらめて堀井に確認した。
「そうです。」
 堀井が相槌を打った。
「鮫島は。鮫島も卒業か?」
 櫻井は堀井におんぶに抱っこであった。
「鮫島さんは。永久に高校生だそうです。」堀井が答える前に高見がどこから湧き出したか分からない笑顔でうけを狙った。
 櫻井は選手が笑ったのをこの時初めて見た。櫻井への嘲笑はあったが、屈託のない笑顔は初めてだった。
「え。そうか。とにかく、レポート、スクーリングがんばって、卒業できるようにしてください。」
 櫻井は場が明るく和んだのに乗じ、一番言いたい事を言った。
「高見君卒業できるの。」
 堀井が高見をからかった。堀井のそんな態度も初めてであった。櫻井は堀井のことをストイックな武士の頭領のような人間で、日々、真剣勝負に明け暮れていると考えていた。堀井も肩の力を抜くことをあるのだと櫻井は堀井の違った面を見たように思った。
「大丈夫です。」
 高見も堀井の言葉はご託宣のように響いている。下を向いてしまった。 
 櫻井はしょげた高見に何か救いの手を差し伸べなければと直感した。
「高見、進路のことで相談があったらいつでもこいよ。」
 櫻井はほとんど思いつきで言った。
「うん。」
 高見は素直に頷いた。櫻井は初めて毒のない反応を高見からもらった。
「それでは解散!」
 櫻井が今シーズンの終わりを宣告すると、高見が櫻井の足を指で突っついた。
「先生、堀井さん。」
「あ、忘れていました。キャプテンから一言。」
 櫻井は肝心なことを失念していた。
「高見ありがとう。」
 櫻井から感謝されると、高見はまた、頭をうな垂れた。
 堀井は三〇分前の無秩序な混乱が嘘のように、紳士的にまとめた。
「え~と。来年は必ず、全国大会に行きましょう。お疲れ様でした。」
 櫻井は引率の佐藤先生に生徒への助言を促したが先生は笑いながら遠慮した。
「ちょと、来てくれないか。」
 櫻井はウェットティシュで体を拭きまくっている伊藤に声を掛けた。一ケースを使い切った伊藤が振り返った。
 堀井が何かを感じたように近寄ってきた。
「なんだよ。」
 伊藤はウェットティシュの芳香剤の匂いと同じようなキツイ反応であった。櫻井は高見のようにいかないのは承知していた。
「伊藤さあ、さっきのように切れてバットを投げつけたりするのはまずいよ。な。」
 伊藤の肩に手を置いた。こっちは丸腰だ。話しあいたいだけだ。と胸襟を開いているのに伊藤はその手を振り払った。自分のユニフォームについた土をゴミになったティッシュで拭きはじめた。
「切れたら自分の実力も発揮できなくなるぞ。将来自分の思うようにいかないことがたくさんあると思うよ。そんな時いちいち切れていたら、お前、損するよ。」
 櫻井は少し、むきになって伊藤の頭上から言葉を浴びせた。
「伊藤君、高校野球なんだから。・・・。それでなくとも、他の学校から城南は評判悪いんだから。」
 また、堀井が助け舟を出してきた。
 ハリネズミのように無数に突き出ている怒りの触覚のどこか一本に触れたのだろう。伊藤は立ち上がると語気を荒げた。
「野球知ねいからだよ。プロを見て見ろよ。打てなっかたらああいう風にするんだよ。星野監督知ってか。いつも、ブチ切れてるだろ。いいんだよ。一生懸命やってる証拠なんだから。」
 伊藤は自分の信条を言いきって、櫻井と堀井を突き放した。
 櫻井と堀井は唖然として顔を見合わせた。伊藤はつばの広い帽子を目深にかぶり、ゆったりとしたズボンに両手を入れ、自分の世界に閉じこもった。櫻井と堀井は伊藤の後ろ姿を見送るだけだった。肩から下げた野球用のエナメルのバッグがだらしなく背中に垂れていた。よく見ると退学した学校の名前が黒いマジックで消されていた。カッターナイフで傷つけた跡もあり、前の学校の野球部で負った遺恨を物語っていた。
 砂埃が立ち、木々の枝が揺れると雲行きが怪しくなってきた。空がみるみる暗くなってきた。野球場がある公園の街路樹の下を櫻井は大きな荷物をほとんど引きずるように歩いていた。監督の背中はヘルメットが詰まった大きなバックで隠れていた。手には飲料水を入れるタンクがぶら下がって、その反対の手には中指と人差し指に挟まれたタバコがあり、薬指と小指にはボールケースが引っかかっていた。役割が終わった道具は死体のように重かった。佐藤先生が後ろから小走りで櫻井に追いついてきた。
「すいませんね。野球部の顧問、誰もやる人がいないもので。実は、私も顧問だった先生が転勤しなかったら、今年は遠慮しようかと思っていました。新しい先生だけで顧問を任せられませんし、一応今年だけという約束で引き受けたという次第なんです。内の学校も大変な部活を引き受けてくれる先生がなかなかいなくて。」
「はあ。」
 気の抜けたような返事を櫻井はしたが、できれば一つでも荷物をもってほしいと言いたかった。
「でも、引き受けたのはやぶさかではないのですが、私より若い先生の方がいいのではないですか。若い先生たくさんいますし。私も年ですし。今年、厄年です。」
 櫻井はどうして同情を買おうとするようなことを言ったのか、少し、自分自身幻滅した。最近、櫻井はとみに虚勢を張ることができなくなってきている自分に気づいていた。歳を重ねて自然体になってきているということは道理に適っているのかもしれないが、つまらない。枯淡の境地にはまだ入りたくないと思っていた。
「先生、若く見えますよ。三十代だと思ってました。」
 佐藤先生に言われると、満更でもなく笑った。櫻井はお世辞には人一倍弱かった。
 公園の駐車場にたどり着き、櫻井が荷物をドサッと降ろした時、『ヒューン!』という乾いた音とともに一台の大型トラックが駐車場から疾風のごとく走り去っていった。トラックの横腹には『地球は、ボクらが守ります!』の字がブルーのペンキで書かれていた。老朽化したタグボートの船体でも、ここまで錆付いてはいないだろうと思うほど、ボロボロのボディに鮮やかなブルーは満艦飾の広告より目立った。雷が爆音を立てたと思ったら、雨の臭いと共に夕立がシャワーのように叩きつけ、駐車場はあっという間にプールのようになった。
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