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田中美樹との出会い
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夏休みの城南高校グランドは、砂漠のように白く乾いていた。黙々とノックの練習をする櫻井が陽炎の中にいた。翼を広げた防球ネットに向かって打っていた。強い当たりをしてもネットが受け止めてくれるのに、櫻井のバットはただ空気だけを切るだけだった。当たっても力のない打球が寂しく転がっていた。これでは教室で練習しても何も壊さないで済むかもしれない。櫻井は自分の運動能力の欠如に呆れた。それでもボールケースのボールを全部打ち切り、また、それを一個ずつ拾ってケースにいれノックをくり返していた。小一時間もやると、四十過ぎの運動音痴のおっさんであっても汗びっしょりになった。滴る汗だけはアスリートと同じ成分に違いないと櫻井は自己満足した。
「先生!」
「先生!」
次第に声は大きくなってきていた。櫻井は、やけくそになってバットを振っていたというように見えたが、夢中になっていたので、数回呼ばれても気がつかなかった。白い帽子を被った華奢な女生徒がサンダル履きで駆け寄ってきてやっと気がついた。櫻井はスーと涼しい風が吹いたように感じた。熱中症ぎみで脳への血流が減ってきたせいか、櫻井にはぼんやりと白く美樹が見えた。昔の女優のブロマイド写真のように輪郭がぼっとなっていた。
「何ですか。」
櫻井は声が上ずった。
「生徒?君。」
また、上ずった。
「そうです。事務の人に聞いたら、地理の先生はグランドで、一人で練習しているって聞いたので。あの、レポートのことで質問なんですが。返ってきたレポートに『どうしても分からなければ、学校へ来なさい。』て、書いてあったので。」
櫻井の運動を司るスイッチは急に切れ、血圧が急降下するように感じた。脈拍は相変わらず早かった。
「職員室で、待ってもらいますか。今すぐいきますから。」
「ハイ!」
荒涼とした砂漠のようなグランドには不釣合いの声だと櫻井は思った。
職員室は人の気配が感じられず書類が詰め込まれた倉庫のようだ。行事予定を書いたホワイトボードには、夏休みのため、書き込みがほとんどなく、その上の壁には『自学自習』の文字が生徒には読めそうもない達筆で大きく掲示してあった。持ち主のいない机は、それぞれの教師のキャラクターが整理の度合いによって分かるようだった。櫻井の机は殺風景であった。整理するのが得意というのではなく、捨てるのが好きな性格なのである。もちろん、必要なものまで捨てて、後悔することも多かった。それなのになぜか机の端にはコンビニの皿と交換できるシールが5点分、貼ってあった。試合後撮ったサービス版の写真が無造作においてあった。写真には統率のとれていない部員がてんでんばらばらに写っていた。暴走族の集合写真のように斜に構えて所謂うんこ座りをするもの、横を向いているもの。中野はグローブで顔を隠していた。小河原は相変わらず、メールを打っていた。櫻井と佐藤先生だけが緊張して姿勢正しく立っていた。写真を撮っていた堀井と『集合』という言葉を嫌悪する鮫島はいなかった。
美樹はハンドバックを体の前に両手で提げ、職員室のドアの前で手持ち無沙汰に立っていた。
「ピンポンカンコン」
授業の始まりを告げるチャイムが生徒も教員もいない校内に鳴り渡った。学期中はせわしなく聞こえるチャイムもノンビリ聞こえた。
「どうぞ」
汗をタオルで拭きながら櫻井はドアを開けた。
「ウェー。」
こもった熱と、かび臭さで閉口しながら櫻井は窓を次々と開けていった。
「悪いな、遅くなって。ちょっと、片付けていたから。」
「どこがわからなかったんだっけ。」
美樹はレポートをバックから出しながら机の谷間を歩きまわる櫻井についていった。
「2回目の。」
美樹が櫻井の机の上にレポートを広げた。櫻井はシールに気がつき、剥がそうとした。
「私も集めてるんです。先生も集めているんですか。へぇ。」
「そうじゃないだけど。捨てちゃ勿体ないと思って。これ、君にあげるよ。」
「ほんとうですか。うれしい。」
櫻井はシールでもらえる皿自体見たことがないので、こんなに喜ぶということは相当高価なものがもらえるのかと単純に思った。
美樹はシールを剥がして、可愛いスヌーピーの財布に入れた。
「ここです。」
美樹は分からないレポートのページを指差した。
「時差の所か。ここ、みんながつっかえるんだよ。」
櫻井は美樹に隣の席の椅子を差し出した。
「すいません。」
「え~と。あのね。」
櫻井はあたりを見回し、地球儀を探した。窓際のロッカーの上に乱雑に積まれた資料の山の後ろに古びた地球儀は隠れていた。
「こんなとこにあった。これこれ。」
櫻井は背伸びをして取ると、精一杯の息で埃を払った。隠れていた時間と同じ量の埃が飛び散った。
「この地球儀、古くて。まだ、ソ連がロシアに変わっていないや。まあ、いいか。」
櫻井の講義が始まった。地球儀を回したり、上にしたり下にしたりして時差の説明を熱心にした。ただ、美樹はポカンと口を開けて聞いているだけだった。
「わかった?」
櫻井は教師にありがちな押し売りの言葉で結んだ。
「ふ。」
美樹は笑った。笑顔に答える形で櫻井も笑った。最近、胃に負担のかかる笑いばかりだったので、久しぶりに精神衛生上、貴重な笑いをしたと櫻井は思った。
「つまんないよな。こんなこと。いいやここの答え、ヨハネスブルクは○月○日の○時○分。・・・・駄目だな。早く、答え書いちゃえよ。」
櫻井はため息をつきながら、講義を聴いてくれたお礼に答えを教えた。地球儀をだっこしながら櫻井は田中が答えを書くのを待っていた。
「ここがロタ島。隣の先生は中国。向こうの先生はヨーロッパ。夏休みだからみんな。いいな。君はどこに行ったことがある。海外は。」
今度は地球儀を目線より上にして、櫻井は地球を下からのぞき込むように言った。
「え。」
急な質問に美樹はとまどった。
「まだ、一度も行ったことがありません。」
「そうか。ないか。今、うちの奥さん、ロタ島にいるんだ。別に住んでいるわけじゃないんだけど。友達とバカンスなんだ。俺なんか海外って言えば、学生の時、八丈島に行っただけだもんな。・・・まあ、愚痴いってもしょうがないか。」
美樹は小さな微笑みを返した。
「じゃあ、また分からないことがあったら来て下さい。説明しますから。本当はもう少し説明うまいから。」
「ありがとうございました。」
櫻井は美樹の後ろ姿を見送りながら、名前をまだ聞いていないことに気がついた。
「君、名前を聞いていなかった。」
「田中美樹です。」
「そう。田中さんか。」
美樹は次に続く櫻井の言葉を待って、出口のノブに手をかけながら、ドアを開けるのを躊躇しているようだったが、櫻井は手のひらを返すように机に向かってしまった。
*
翌日の夕暮れ時のグランドにもノックの練習をする櫻井がいた。キャッチャーフライの練習をひたすらする櫻井にあかね雲を鑑賞する余裕はなかった。夕焼けで赤く染まった彼の頬からは中年の悲壮感も消えていた。どちらかといえば犬を自転車につないで公園の壁を相手にキャッチボールする少年のようなほのぼのとした感じであった。それにしても、三十年近いブランクは正直であった。バットに当たらないか、まぐれで当たってもいいあたりで前に飛んでしまう。
「よっしゃ、もう一丁!」
自分を奮い立たせるために発した声にへんてこな不自然さを感じ、櫻井はニタっと笑った。すると余分な力が抜けて、ボールはまっすぐに上に飛んでいった。
「先生!」
遠くから堀井の声がした。
「よお!どうした?」
赤く染まった空に放り出せれた白球はまっさかさまに櫻井の頭上に落ちてきた。
「いて!」
頭を抑えて、グラッと膝を折った櫻井を見て、堀井の隣に、ふてくされていた伊藤が手をたたいて馬鹿笑いをし始めた。
「ウホォ。ウホォ、ウホォ、ウホォ。バカっじゃねえの。ウホォ、ウホォ、ウホォ。」
堀井も短く微笑んだ。
「見たか。成功だ。キャッチャーフライ初めてできた。堀井、どこまで飛んだか見たか?」
「結構、上がりましたよ。先生、すごいじゃないですか。5メートルぐらい飛んでました。」
堀井は思いやりの中にも思慮分別がある答えを相変わらずした。
逆に自分の打ったボールのように舞い上がってしまっている櫻井は
「やればできるという、見本だな。カッカッ。」
バットを水戸黄門の杖のようについて胸を張った。
「アホカ。度素人が。」
伊藤の笑いは冷笑に変化し、ツバとともに吐き捨てられた。
「何しに来た。練習するか。」
「今日は、何にも持ってきていないし、いいです。それより、伊藤君の進路のことで相談に来ました。」
伊藤がみるみる不機嫌になっていった。
「もう、いいよ。堀井。いこう。」
伊藤は体型の1.5倍はあるTシャツとズボンを着て、いつでも体をでかく見せて威圧する準備をしているようだった。ズボンをずりさげ、パンツを露出する吐き方はルーズなようで、見せるパンツの面積を神経質に調整していた。
以前、櫻井はガングロギャルに『ルーズソックスをはいている女は男や金にはきっちりしていて、ぜっていルーズじゃねぇ。』と聞いたことがあった。
伊藤の首のドクロのネックレスも米兵のドッグタグのように心のIDが正確に刻んであるのではないかと思った。
「そうか。それじゃ。進路室で待ってろよ。すぐ行くから。」
櫻井は伊藤の本当の所を一つ読み解いたように、少し誇らしげだった。
「はい。」
もちろん、堀井の返事だった。
進路室の廊下や壁には色々な学校の進路説明会のポスターが所狭しと貼ってあった。放送大学のポスターがやけにでかい。『自宅がキャンバス』と勧誘の言葉が目についた。堀井と伊藤は部屋に入らず、廊下に座り込んで専門学校の資料を熱心に読んでいた。
「伊藤君、ここどう。」
「いいけど、高いよ。120万なんて家にはねえよ。学校も遠いしな。」
「何だ、中で待ってればいいのに。」
櫻井は進路室のドアを開けながら二人を迎え入れた。
「おお、涼しい。」
大学や専門学校からお客がくるため進路室は学校の中ではわずかに空調が効いている所だった。
「失礼します。」
堀井は立とうとしない伊藤の肩を叩いた。伊藤は無言で堀井に応え、仕方なく立った。
「まあ、座れよ。」
櫻井は二人にパイプ椅子を差し出した。壁を覆う本棚に目を移しながら、櫻井はそれ以上のことは言わず、我関せずの姿勢だった。ここから先は生徒が主体的に行動しなければならない領域で、教師はづけづけと分かったふりをして説明してもいけないし、ましてや、どけどけ俺にまかせろと恩着せがましく、踏み込んではならないと櫻井は学んでいた。待つことが最良であった。三人は図書館にいるように本棚から、まちまちに資料を引き出し手にとって見ていた。その内に堀井が沈黙に我慢できなくなった。
「ゲーム、作りたいんだろ。伊藤君。先生、ゲーム作る専門、どんなところがありますか。学費があまり高くないところがいいんですけど。」
「え~伊藤はコンピューター関係に進学したいんだ。」
櫻井は軽く思いもよらなかったように答えたが、内心では何で自分のことなのに自分の口から出せないんだ。本当は、負の座標に身をおいて何にもしたくないのではないかと、生徒指導の研修会で講師が言っていた言葉が思い出された。
櫻井は伊藤から全く無視されていると、銃で脅してでも正の座標の方に連れて行きたくなった。
「この前、学校に来た専門学校の先生が学校に来たけど。確か、ゲーム関係だったな。」
櫻井は段ボール箱に乱雑に入れられたパンフレットの山から探し当て、その関係の学校案内を取り出した。
「伊藤、早い内に学校見学に行って来た方がいいな。これ。」
学校案内を伊藤は受け取り渋々見た。
「実際、学校に行ってみて施設を見学したり、カリキュラムの説明を受けてきた方がいいな。できれば、授業が始まる2学期に行ってどんな生徒がどんな風に授業を受けているのか見せてもらった方がなおさらいいけどな。・・・一度、行って来いよ。行けば必ず、モチベーションが上がると思うよ。」
「でも、学費こんなに高いですね。」
堀井は伊藤の保護者の感覚であった。
「奨学金で行く手もあるよ。新聞配達なんかやってみるきないか。伊藤。」
伊藤はまったく無視で、学校案内に食い入っていた。
「伊藤君、先生がアドバイスしてくれてるんだから、自分の考えを先生にちゃんと言ったらいいよ。」
堀井は不肖な息子を心配してきた父親になっていた。
「もういいや。」
伊藤も父親に甘える駄目息子であった。伊藤は椅子から立ち上がり出ていこうとした。
「すいません。」
「堀井があやまることないよ。堀井、友達思いだな。」
「そんなことはありません。今度、二人で学校見学に一度行ってみます。」
堀井は伊藤の後を追い、出ていった。机の上には伊藤が放置していった資料が開いたまま置いてあった。覗いてみるとゲーム大賞の受賞の記事があった。そのタイトルは『劣等生だった自分に少し光が見えてきました。』だった。 櫻井何となく嬉しくなって顔がほころんだ。
*
ピィヨピィヨピィヨピィヨと職員室の内線電話が鳴った。
「もしもし、櫻井です。」
「田中という生徒からお電話です。」
ぶっきら棒に事務の女性が電話の相手を告げた。
「もしもし。」
その声は昨日、聞いたすがすがしい声だった。櫻井は背後に小鳥のさえずりが聞こえた。そよ吹く風が窓のカーテンを揺らした音も聞こえたように感じたがそれは当然錯覚だった。
「先生、今から学校へ行ってもいいですか。・・・・。レポートの事ではないです。・・・。はい、すぐ行きます。・・・・。ぜんぜん、大丈夫です。」
櫻井はさっきまでのネバネバした風がさらさらの風に入れ替わったように感じた。櫻井は意味なく、周りを見渡した。
『美樹の部屋は窓から光が射し込み明るい部屋だ。整頓された女性の部屋。その規格通りに家具が配置されている。壁には可愛いピンで愛犬の写真がいくつもさしてある。ロタ島にいる奥さんとは全然、趣味が違うだろうな。』
櫻井は寅さんのように、マドンナに妄想を抱いている自分に情けなくなり、頭を左右に振って、つまらない考えを消した。
「ピンポンカンコン」
電力の無駄でしかないチャイムが櫻井しかいない職員室に鳴った。雑音がないため直に音が響き、櫻井はハッとして我に帰った。
櫻井は節電のため薄暗くなった職員室でパソコンに向かった。丸まった背中からボォッと柔らかい液晶の光が漏れ、蛍を抱えているようだ。
壁の時計は7時近くを指していた。職員室の内線がまた鳴った。
「はい、職員室です。はい、上に通して下さい。」
櫻井は背伸びをした。
「遅れてすいません。初めて車で来たので道、迷っちゃた。」
現れた美樹は開口一番、フレンドリーに謝った。
「今日は何ですか。」
「用事がないと来ちゃいけないんだ。」
「そんなことないけど。」
櫻井は予期しない美樹の言葉に戸惑った。
「あのさ。あのさ。私の車、かっこいいよ。見て見て。」
美樹は一瞬、顔を曇らせたが、窓辺に近づき櫻井を手招きした。櫻井が美樹の視線を追うように窓から下を見ると駐車場に赤いスポーツカーが駐車してあった。
「え。君の?」
櫻井は車自体より白線をはみ出し、だいぶ斜めになって置いてある車の駐車の仕方の方が気になった。
「すごいね。高かったろ。自分で買ったのか?」
「そう。パン屋さんでバイトしてたんだ。」
「そう。」
「120万円もしたんだ。」
「え。新車じゃないんだ。中古か。」
「いいじゃん。」
機嫌を悪くしたように、美樹は櫻井の背中を人差し指で突っついた。
「君さ。何で来たの。」
「あの車。」
「そうじゃなくて。」
「美樹。先生に会いに来たかったから。」
「・・・・・」
櫻井はこんな困り方は何年振りかと思った。
「何で、夏休みなのに学校にいるの。みんな先生いないのに。」
周りを見渡しながら美樹は追求してきた。
「家にいられないんだ。奥さんが怖くて。」
「仕事です。」
反射的に答えた。
「そうですか。あ、分かった。パソコンでゲームしたり、遊んでるんでしょう」。
「まさか。もう、事務室も帰るから、俺も帰るぞ。」
「先生、せっかく来たんだから何か為になる話、してよ。」
「急に。何それ。」
「せっかく来たのに。」
「為になる話な。・・・・。ちょとだけ感動した話だったらあるか。」櫻井はこのリクエストに応えるために用意させられていたのかもしれない出来事を思い出した。昨日の帰宅途中の電車の車内で見たことだった。
「駅を発車したら、俺の前に一人の男の子が座ったんだ。子どもとしか見えなかったが本当は大人だと思う。その子はダウン症だと思う。別にその時には気にかけるでもなくぼうっと見ていたんだけど。そのうち、女の子が後の車両から歩いてきてその男の子の隣に座ったんだ。男の子は、最初、少し無愛想な目で女の子を見ていたんだけど。女の子も同じダウン症だった。多分、仕事の帰りかもしれないな。しかし、どう見ても、彼女のあどけない顔は少女なんだよな。電車の音にかき消されて、二人の話し声は聞こえないけど。深刻そうに男の子は、眉をひそめて彼女に訴えかけていて。何か説得しているようなんだ。女の子は、時々強く、あいづちをうって、そう、時々、甘えながら彼の肩に顔を埋めてた。二人は、しっかり寄り添い、難しいことを二人の力で解決していこうとしているようだったな。でも、説破詰まったものは感じられないし、逆に、可愛らしいんだ。内の生徒は見ていて不愉快になるだけだけどな。同じカップルでも。この間も教室の電気をつけたら、一つの椅子に二人が重なって座っていて。」
「いいから、そんな話は。それからどうしたの。」
美樹は櫻井の脱線を元に戻した。
「ごめん。俺の降りる駅に近づいた時、女の子が自分のバッグから、スヌーピーの袋に包んだペットボトルを出したんだ。キャップをあけ、自分で飲んだんだけど。その後、その子、ペットボトルの口をピンクのハンカチで拭きながら男の子に渡したんだ。男の子は、それが当たり前のような少し横柄な態度でそれを受け取ると、一気に飲んだ。それから、男の子がまた、ペットボトルを返すと、今度は忘れてしまったのか拭かないで女の子が飲んだんだ。そうすると、女の子の顔がみるみるうちに真っ赤になってさ。 ・・・天使のような羞恥心だろ。」
「へえ。いい話ね。」
美樹は、羞恥心が感染したように下を向いた。
櫻井は余韻を消すように美樹に思いつきの質問をした。
「田中さんはどうして内の学校に入ってきたの。」
「いいや。いい。」
話題の方向を直感した櫻井は手を振って、うち消した。
「そんな話、したくないだろうから。」
「いいよ。別に。え~と、いじめ。」
美樹は顔を上げると軽く答えた。
「前の学校で私、いじめられたの。汚いとか言われたし、無視された。」
美樹は急に無表情になった。
「そうか。大変だったな。・・・・。もういいよ。それだけで。」
怨念で圧縮された重い空気を感じた櫻井は排気口を探した。しかし、次から次から美樹の口から黒ずんだ空気は噴き出された。
「今では何とも思っていないから大丈夫です。でも。友達に悩みを相談すると、みんな私はあなたになれないから。どうしようもできなって言うでしょう。あなた考えすぎよって、はねつけるでしょ。自分から相談するときには、親身になって聞いてくれないと怒るくせに。自分が相談を受ける立場になると人の話を聞いているのか聞いていないのか、分からないぐらい無関心。何でみんな自分のことだけなの・・・。大変ね、とか。がんばろうねとか。何で言ってくれないの。それだけでもいいのに・・・。中には、あんたは弱い。そう考えるのはおかしい。って攻撃してくる人もいる。そういう人間、最低でしょ。」
息継ぎもしないで間断なく出てくる言葉に、美樹が興奮し、収拾がつかなくならないように、櫻井は、とにかく肯定した。
「そうだな。まず、その人のことを受け入れる事だな。」
美樹はいつもと違う口調に気がつき、冷静さを取り戻そうと、乱れてもいない襟を正した。
「私、高校卒業したら臨床心理学勉強してカウンセラーになろうと思っているの。」
「すごいな。俺もカウンセリング受けに行こうかな。」
「先生、本当に来てください。」
誰もいない学校。街灯に照らされた駐車場。美樹が車に乗り込んだ。狭いスポーツカーの後部座席にはぬいぐるみが山のようにあった。
「先生、電車なんでしょう。駅まで乗せてってあげようか。」
「いいよ。いいよ。」
櫻井は後ずさりをした。
「ちょっと考えすぎでしょ。それでは色々ありがとうございました。」
櫻井は美樹の様々な面を見たような気がした。走り去って行く車を見送る櫻井は今日も疲れていた。
「先生!」
「先生!」
次第に声は大きくなってきていた。櫻井は、やけくそになってバットを振っていたというように見えたが、夢中になっていたので、数回呼ばれても気がつかなかった。白い帽子を被った華奢な女生徒がサンダル履きで駆け寄ってきてやっと気がついた。櫻井はスーと涼しい風が吹いたように感じた。熱中症ぎみで脳への血流が減ってきたせいか、櫻井にはぼんやりと白く美樹が見えた。昔の女優のブロマイド写真のように輪郭がぼっとなっていた。
「何ですか。」
櫻井は声が上ずった。
「生徒?君。」
また、上ずった。
「そうです。事務の人に聞いたら、地理の先生はグランドで、一人で練習しているって聞いたので。あの、レポートのことで質問なんですが。返ってきたレポートに『どうしても分からなければ、学校へ来なさい。』て、書いてあったので。」
櫻井の運動を司るスイッチは急に切れ、血圧が急降下するように感じた。脈拍は相変わらず早かった。
「職員室で、待ってもらいますか。今すぐいきますから。」
「ハイ!」
荒涼とした砂漠のようなグランドには不釣合いの声だと櫻井は思った。
職員室は人の気配が感じられず書類が詰め込まれた倉庫のようだ。行事予定を書いたホワイトボードには、夏休みのため、書き込みがほとんどなく、その上の壁には『自学自習』の文字が生徒には読めそうもない達筆で大きく掲示してあった。持ち主のいない机は、それぞれの教師のキャラクターが整理の度合いによって分かるようだった。櫻井の机は殺風景であった。整理するのが得意というのではなく、捨てるのが好きな性格なのである。もちろん、必要なものまで捨てて、後悔することも多かった。それなのになぜか机の端にはコンビニの皿と交換できるシールが5点分、貼ってあった。試合後撮ったサービス版の写真が無造作においてあった。写真には統率のとれていない部員がてんでんばらばらに写っていた。暴走族の集合写真のように斜に構えて所謂うんこ座りをするもの、横を向いているもの。中野はグローブで顔を隠していた。小河原は相変わらず、メールを打っていた。櫻井と佐藤先生だけが緊張して姿勢正しく立っていた。写真を撮っていた堀井と『集合』という言葉を嫌悪する鮫島はいなかった。
美樹はハンドバックを体の前に両手で提げ、職員室のドアの前で手持ち無沙汰に立っていた。
「ピンポンカンコン」
授業の始まりを告げるチャイムが生徒も教員もいない校内に鳴り渡った。学期中はせわしなく聞こえるチャイムもノンビリ聞こえた。
「どうぞ」
汗をタオルで拭きながら櫻井はドアを開けた。
「ウェー。」
こもった熱と、かび臭さで閉口しながら櫻井は窓を次々と開けていった。
「悪いな、遅くなって。ちょっと、片付けていたから。」
「どこがわからなかったんだっけ。」
美樹はレポートをバックから出しながら机の谷間を歩きまわる櫻井についていった。
「2回目の。」
美樹が櫻井の机の上にレポートを広げた。櫻井はシールに気がつき、剥がそうとした。
「私も集めてるんです。先生も集めているんですか。へぇ。」
「そうじゃないだけど。捨てちゃ勿体ないと思って。これ、君にあげるよ。」
「ほんとうですか。うれしい。」
櫻井はシールでもらえる皿自体見たことがないので、こんなに喜ぶということは相当高価なものがもらえるのかと単純に思った。
美樹はシールを剥がして、可愛いスヌーピーの財布に入れた。
「ここです。」
美樹は分からないレポートのページを指差した。
「時差の所か。ここ、みんながつっかえるんだよ。」
櫻井は美樹に隣の席の椅子を差し出した。
「すいません。」
「え~と。あのね。」
櫻井はあたりを見回し、地球儀を探した。窓際のロッカーの上に乱雑に積まれた資料の山の後ろに古びた地球儀は隠れていた。
「こんなとこにあった。これこれ。」
櫻井は背伸びをして取ると、精一杯の息で埃を払った。隠れていた時間と同じ量の埃が飛び散った。
「この地球儀、古くて。まだ、ソ連がロシアに変わっていないや。まあ、いいか。」
櫻井の講義が始まった。地球儀を回したり、上にしたり下にしたりして時差の説明を熱心にした。ただ、美樹はポカンと口を開けて聞いているだけだった。
「わかった?」
櫻井は教師にありがちな押し売りの言葉で結んだ。
「ふ。」
美樹は笑った。笑顔に答える形で櫻井も笑った。最近、胃に負担のかかる笑いばかりだったので、久しぶりに精神衛生上、貴重な笑いをしたと櫻井は思った。
「つまんないよな。こんなこと。いいやここの答え、ヨハネスブルクは○月○日の○時○分。・・・・駄目だな。早く、答え書いちゃえよ。」
櫻井はため息をつきながら、講義を聴いてくれたお礼に答えを教えた。地球儀をだっこしながら櫻井は田中が答えを書くのを待っていた。
「ここがロタ島。隣の先生は中国。向こうの先生はヨーロッパ。夏休みだからみんな。いいな。君はどこに行ったことがある。海外は。」
今度は地球儀を目線より上にして、櫻井は地球を下からのぞき込むように言った。
「え。」
急な質問に美樹はとまどった。
「まだ、一度も行ったことがありません。」
「そうか。ないか。今、うちの奥さん、ロタ島にいるんだ。別に住んでいるわけじゃないんだけど。友達とバカンスなんだ。俺なんか海外って言えば、学生の時、八丈島に行っただけだもんな。・・・まあ、愚痴いってもしょうがないか。」
美樹は小さな微笑みを返した。
「じゃあ、また分からないことがあったら来て下さい。説明しますから。本当はもう少し説明うまいから。」
「ありがとうございました。」
櫻井は美樹の後ろ姿を見送りながら、名前をまだ聞いていないことに気がついた。
「君、名前を聞いていなかった。」
「田中美樹です。」
「そう。田中さんか。」
美樹は次に続く櫻井の言葉を待って、出口のノブに手をかけながら、ドアを開けるのを躊躇しているようだったが、櫻井は手のひらを返すように机に向かってしまった。
*
翌日の夕暮れ時のグランドにもノックの練習をする櫻井がいた。キャッチャーフライの練習をひたすらする櫻井にあかね雲を鑑賞する余裕はなかった。夕焼けで赤く染まった彼の頬からは中年の悲壮感も消えていた。どちらかといえば犬を自転車につないで公園の壁を相手にキャッチボールする少年のようなほのぼのとした感じであった。それにしても、三十年近いブランクは正直であった。バットに当たらないか、まぐれで当たってもいいあたりで前に飛んでしまう。
「よっしゃ、もう一丁!」
自分を奮い立たせるために発した声にへんてこな不自然さを感じ、櫻井はニタっと笑った。すると余分な力が抜けて、ボールはまっすぐに上に飛んでいった。
「先生!」
遠くから堀井の声がした。
「よお!どうした?」
赤く染まった空に放り出せれた白球はまっさかさまに櫻井の頭上に落ちてきた。
「いて!」
頭を抑えて、グラッと膝を折った櫻井を見て、堀井の隣に、ふてくされていた伊藤が手をたたいて馬鹿笑いをし始めた。
「ウホォ。ウホォ、ウホォ、ウホォ。バカっじゃねえの。ウホォ、ウホォ、ウホォ。」
堀井も短く微笑んだ。
「見たか。成功だ。キャッチャーフライ初めてできた。堀井、どこまで飛んだか見たか?」
「結構、上がりましたよ。先生、すごいじゃないですか。5メートルぐらい飛んでました。」
堀井は思いやりの中にも思慮分別がある答えを相変わらずした。
逆に自分の打ったボールのように舞い上がってしまっている櫻井は
「やればできるという、見本だな。カッカッ。」
バットを水戸黄門の杖のようについて胸を張った。
「アホカ。度素人が。」
伊藤の笑いは冷笑に変化し、ツバとともに吐き捨てられた。
「何しに来た。練習するか。」
「今日は、何にも持ってきていないし、いいです。それより、伊藤君の進路のことで相談に来ました。」
伊藤がみるみる不機嫌になっていった。
「もう、いいよ。堀井。いこう。」
伊藤は体型の1.5倍はあるTシャツとズボンを着て、いつでも体をでかく見せて威圧する準備をしているようだった。ズボンをずりさげ、パンツを露出する吐き方はルーズなようで、見せるパンツの面積を神経質に調整していた。
以前、櫻井はガングロギャルに『ルーズソックスをはいている女は男や金にはきっちりしていて、ぜっていルーズじゃねぇ。』と聞いたことがあった。
伊藤の首のドクロのネックレスも米兵のドッグタグのように心のIDが正確に刻んであるのではないかと思った。
「そうか。それじゃ。進路室で待ってろよ。すぐ行くから。」
櫻井は伊藤の本当の所を一つ読み解いたように、少し誇らしげだった。
「はい。」
もちろん、堀井の返事だった。
進路室の廊下や壁には色々な学校の進路説明会のポスターが所狭しと貼ってあった。放送大学のポスターがやけにでかい。『自宅がキャンバス』と勧誘の言葉が目についた。堀井と伊藤は部屋に入らず、廊下に座り込んで専門学校の資料を熱心に読んでいた。
「伊藤君、ここどう。」
「いいけど、高いよ。120万なんて家にはねえよ。学校も遠いしな。」
「何だ、中で待ってればいいのに。」
櫻井は進路室のドアを開けながら二人を迎え入れた。
「おお、涼しい。」
大学や専門学校からお客がくるため進路室は学校の中ではわずかに空調が効いている所だった。
「失礼します。」
堀井は立とうとしない伊藤の肩を叩いた。伊藤は無言で堀井に応え、仕方なく立った。
「まあ、座れよ。」
櫻井は二人にパイプ椅子を差し出した。壁を覆う本棚に目を移しながら、櫻井はそれ以上のことは言わず、我関せずの姿勢だった。ここから先は生徒が主体的に行動しなければならない領域で、教師はづけづけと分かったふりをして説明してもいけないし、ましてや、どけどけ俺にまかせろと恩着せがましく、踏み込んではならないと櫻井は学んでいた。待つことが最良であった。三人は図書館にいるように本棚から、まちまちに資料を引き出し手にとって見ていた。その内に堀井が沈黙に我慢できなくなった。
「ゲーム、作りたいんだろ。伊藤君。先生、ゲーム作る専門、どんなところがありますか。学費があまり高くないところがいいんですけど。」
「え~伊藤はコンピューター関係に進学したいんだ。」
櫻井は軽く思いもよらなかったように答えたが、内心では何で自分のことなのに自分の口から出せないんだ。本当は、負の座標に身をおいて何にもしたくないのではないかと、生徒指導の研修会で講師が言っていた言葉が思い出された。
櫻井は伊藤から全く無視されていると、銃で脅してでも正の座標の方に連れて行きたくなった。
「この前、学校に来た専門学校の先生が学校に来たけど。確か、ゲーム関係だったな。」
櫻井は段ボール箱に乱雑に入れられたパンフレットの山から探し当て、その関係の学校案内を取り出した。
「伊藤、早い内に学校見学に行って来た方がいいな。これ。」
学校案内を伊藤は受け取り渋々見た。
「実際、学校に行ってみて施設を見学したり、カリキュラムの説明を受けてきた方がいいな。できれば、授業が始まる2学期に行ってどんな生徒がどんな風に授業を受けているのか見せてもらった方がなおさらいいけどな。・・・一度、行って来いよ。行けば必ず、モチベーションが上がると思うよ。」
「でも、学費こんなに高いですね。」
堀井は伊藤の保護者の感覚であった。
「奨学金で行く手もあるよ。新聞配達なんかやってみるきないか。伊藤。」
伊藤はまったく無視で、学校案内に食い入っていた。
「伊藤君、先生がアドバイスしてくれてるんだから、自分の考えを先生にちゃんと言ったらいいよ。」
堀井は不肖な息子を心配してきた父親になっていた。
「もういいや。」
伊藤も父親に甘える駄目息子であった。伊藤は椅子から立ち上がり出ていこうとした。
「すいません。」
「堀井があやまることないよ。堀井、友達思いだな。」
「そんなことはありません。今度、二人で学校見学に一度行ってみます。」
堀井は伊藤の後を追い、出ていった。机の上には伊藤が放置していった資料が開いたまま置いてあった。覗いてみるとゲーム大賞の受賞の記事があった。そのタイトルは『劣等生だった自分に少し光が見えてきました。』だった。 櫻井何となく嬉しくなって顔がほころんだ。
*
ピィヨピィヨピィヨピィヨと職員室の内線電話が鳴った。
「もしもし、櫻井です。」
「田中という生徒からお電話です。」
ぶっきら棒に事務の女性が電話の相手を告げた。
「もしもし。」
その声は昨日、聞いたすがすがしい声だった。櫻井は背後に小鳥のさえずりが聞こえた。そよ吹く風が窓のカーテンを揺らした音も聞こえたように感じたがそれは当然錯覚だった。
「先生、今から学校へ行ってもいいですか。・・・・。レポートの事ではないです。・・・。はい、すぐ行きます。・・・・。ぜんぜん、大丈夫です。」
櫻井はさっきまでのネバネバした風がさらさらの風に入れ替わったように感じた。櫻井は意味なく、周りを見渡した。
『美樹の部屋は窓から光が射し込み明るい部屋だ。整頓された女性の部屋。その規格通りに家具が配置されている。壁には可愛いピンで愛犬の写真がいくつもさしてある。ロタ島にいる奥さんとは全然、趣味が違うだろうな。』
櫻井は寅さんのように、マドンナに妄想を抱いている自分に情けなくなり、頭を左右に振って、つまらない考えを消した。
「ピンポンカンコン」
電力の無駄でしかないチャイムが櫻井しかいない職員室に鳴った。雑音がないため直に音が響き、櫻井はハッとして我に帰った。
櫻井は節電のため薄暗くなった職員室でパソコンに向かった。丸まった背中からボォッと柔らかい液晶の光が漏れ、蛍を抱えているようだ。
壁の時計は7時近くを指していた。職員室の内線がまた鳴った。
「はい、職員室です。はい、上に通して下さい。」
櫻井は背伸びをした。
「遅れてすいません。初めて車で来たので道、迷っちゃた。」
現れた美樹は開口一番、フレンドリーに謝った。
「今日は何ですか。」
「用事がないと来ちゃいけないんだ。」
「そんなことないけど。」
櫻井は予期しない美樹の言葉に戸惑った。
「あのさ。あのさ。私の車、かっこいいよ。見て見て。」
美樹は一瞬、顔を曇らせたが、窓辺に近づき櫻井を手招きした。櫻井が美樹の視線を追うように窓から下を見ると駐車場に赤いスポーツカーが駐車してあった。
「え。君の?」
櫻井は車自体より白線をはみ出し、だいぶ斜めになって置いてある車の駐車の仕方の方が気になった。
「すごいね。高かったろ。自分で買ったのか?」
「そう。パン屋さんでバイトしてたんだ。」
「そう。」
「120万円もしたんだ。」
「え。新車じゃないんだ。中古か。」
「いいじゃん。」
機嫌を悪くしたように、美樹は櫻井の背中を人差し指で突っついた。
「君さ。何で来たの。」
「あの車。」
「そうじゃなくて。」
「美樹。先生に会いに来たかったから。」
「・・・・・」
櫻井はこんな困り方は何年振りかと思った。
「何で、夏休みなのに学校にいるの。みんな先生いないのに。」
周りを見渡しながら美樹は追求してきた。
「家にいられないんだ。奥さんが怖くて。」
「仕事です。」
反射的に答えた。
「そうですか。あ、分かった。パソコンでゲームしたり、遊んでるんでしょう」。
「まさか。もう、事務室も帰るから、俺も帰るぞ。」
「先生、せっかく来たんだから何か為になる話、してよ。」
「急に。何それ。」
「せっかく来たのに。」
「為になる話な。・・・・。ちょとだけ感動した話だったらあるか。」櫻井はこのリクエストに応えるために用意させられていたのかもしれない出来事を思い出した。昨日の帰宅途中の電車の車内で見たことだった。
「駅を発車したら、俺の前に一人の男の子が座ったんだ。子どもとしか見えなかったが本当は大人だと思う。その子はダウン症だと思う。別にその時には気にかけるでもなくぼうっと見ていたんだけど。そのうち、女の子が後の車両から歩いてきてその男の子の隣に座ったんだ。男の子は、最初、少し無愛想な目で女の子を見ていたんだけど。女の子も同じダウン症だった。多分、仕事の帰りかもしれないな。しかし、どう見ても、彼女のあどけない顔は少女なんだよな。電車の音にかき消されて、二人の話し声は聞こえないけど。深刻そうに男の子は、眉をひそめて彼女に訴えかけていて。何か説得しているようなんだ。女の子は、時々強く、あいづちをうって、そう、時々、甘えながら彼の肩に顔を埋めてた。二人は、しっかり寄り添い、難しいことを二人の力で解決していこうとしているようだったな。でも、説破詰まったものは感じられないし、逆に、可愛らしいんだ。内の生徒は見ていて不愉快になるだけだけどな。同じカップルでも。この間も教室の電気をつけたら、一つの椅子に二人が重なって座っていて。」
「いいから、そんな話は。それからどうしたの。」
美樹は櫻井の脱線を元に戻した。
「ごめん。俺の降りる駅に近づいた時、女の子が自分のバッグから、スヌーピーの袋に包んだペットボトルを出したんだ。キャップをあけ、自分で飲んだんだけど。その後、その子、ペットボトルの口をピンクのハンカチで拭きながら男の子に渡したんだ。男の子は、それが当たり前のような少し横柄な態度でそれを受け取ると、一気に飲んだ。それから、男の子がまた、ペットボトルを返すと、今度は忘れてしまったのか拭かないで女の子が飲んだんだ。そうすると、女の子の顔がみるみるうちに真っ赤になってさ。 ・・・天使のような羞恥心だろ。」
「へえ。いい話ね。」
美樹は、羞恥心が感染したように下を向いた。
櫻井は余韻を消すように美樹に思いつきの質問をした。
「田中さんはどうして内の学校に入ってきたの。」
「いいや。いい。」
話題の方向を直感した櫻井は手を振って、うち消した。
「そんな話、したくないだろうから。」
「いいよ。別に。え~と、いじめ。」
美樹は顔を上げると軽く答えた。
「前の学校で私、いじめられたの。汚いとか言われたし、無視された。」
美樹は急に無表情になった。
「そうか。大変だったな。・・・・。もういいよ。それだけで。」
怨念で圧縮された重い空気を感じた櫻井は排気口を探した。しかし、次から次から美樹の口から黒ずんだ空気は噴き出された。
「今では何とも思っていないから大丈夫です。でも。友達に悩みを相談すると、みんな私はあなたになれないから。どうしようもできなって言うでしょう。あなた考えすぎよって、はねつけるでしょ。自分から相談するときには、親身になって聞いてくれないと怒るくせに。自分が相談を受ける立場になると人の話を聞いているのか聞いていないのか、分からないぐらい無関心。何でみんな自分のことだけなの・・・。大変ね、とか。がんばろうねとか。何で言ってくれないの。それだけでもいいのに・・・。中には、あんたは弱い。そう考えるのはおかしい。って攻撃してくる人もいる。そういう人間、最低でしょ。」
息継ぎもしないで間断なく出てくる言葉に、美樹が興奮し、収拾がつかなくならないように、櫻井は、とにかく肯定した。
「そうだな。まず、その人のことを受け入れる事だな。」
美樹はいつもと違う口調に気がつき、冷静さを取り戻そうと、乱れてもいない襟を正した。
「私、高校卒業したら臨床心理学勉強してカウンセラーになろうと思っているの。」
「すごいな。俺もカウンセリング受けに行こうかな。」
「先生、本当に来てください。」
誰もいない学校。街灯に照らされた駐車場。美樹が車に乗り込んだ。狭いスポーツカーの後部座席にはぬいぐるみが山のようにあった。
「先生、電車なんでしょう。駅まで乗せてってあげようか。」
「いいよ。いいよ。」
櫻井は後ずさりをした。
「ちょっと考えすぎでしょ。それでは色々ありがとうございました。」
櫻井は美樹の様々な面を見たような気がした。走り去って行く車を見送る櫻井は今日も疲れていた。
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