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【Ἔρως(Erōs)】
《第二週 日曜日 未明》
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気がつくと、右の手が一回り大きな手に包まれていた。
「長谷、トイレ行ってくる」
声をかけると握る力が少し緩んで、手が解けた。サイドテーブルの下にリビングで脱いだ服が畳んであるのに気づき、とりあえずそれを着た。
リビングは灯りがついたままになっていて、少し開けてあるカーテンの隙間から寝室に明かりが漏れている。その開いた部分から寝室を出て、カーテンは閉じた。用便を足し、洗面台で手と顔を洗い、途中で放っていた作業をしに机に向かう。
上下の瞼が少し腫れぼったく、熱を持っているのを感じる。机の直ぐ横の台所の入口のカーテンをめくって入り、冷蔵庫の冷凍室から保冷剤を取り出してペーパータオルを巻いて戻って、目を閉じて暫く瞼を冷やした。
眠りから覚める少し前、夢を見ていた。
日当たりのいい部屋の窓際で壁に持たれてノートに落書きをしている。視界は狭く、視点が低い。
誰かが隣の部屋からやってきて話しかけてきた。何を描いているのか、何故それを描き始めたのか訊いてくる。一生懸命説明すると、じゃあこれは何?こっちのは何?と更に訊いてくる。嬉しくてたくさん喋った。
でも、ふと顔を上げると、その人の顔の部分だけがスクランブル放送にかけられたようになっていて見ることができない。
「お母さん、お顔が変だよ」
「やだあ、あきくん失礼しちゃう」
笑いながら幼いおれの頬の肉を細い指が摘んで上下に動かす。
その楽しげに笑い合う姿をおれは少し離れた場所から眺めていた。その子供は自分自身のはずなのに、おれの意識はその身体にない。
「お母さんに会いたい」
聞こえないであろうと思いながら呟いてみた。
「どうしたの、ずっとここにいるでしょ」と言って、その人は幼いおれを抱きしめた。その腕の中から、子供のおれが、こちらにいるおれを不思議そうに見ている。
言葉にならない虚しさと悔しさで涙が溢れて止まらなかった。
返して。
その記憶はおれのものなのに。
忘れるならいっそ忘れたままでいいのに。
一度失ってしまったはずの記憶は、時折急に蘇る。
それも、おれが、生きていても良かったのかなと少し思えるような、ささやかな幸せや安心感を得たときにかぎって。
その度に自分が失ったもの、封じ込めてしまわなければいけなかったことの大きさを、まざまざと思い知らされる。
一旦保冷剤を置き、ラグの上で外してできるだけ隅に寄せて置いたままだった眼鏡と髪留めを拾って、着け直してまた机に戻り、パソコンのスタンバイ状態を解除して中断していた作業ファイルを開く。
水筒に入れてあった白湯を飲むとほぼ湯冷ましになっていた。面倒だが水筒を手に改めて台所に戻り、中身を捨てて洗う。その間に浄水ポットに残っていた水を沸かす。古い木製の戸棚からアッサムのティーバッグとスティックシュガーを出してストレートティを甘めに作り、再度机に戻った。
座ると身体にそこそこのダメージが残っているのを実感する。骨盤の中全体がだるく重苦しい。スツールに脚を載せて背凭れに埋もれるように座ると、今度は肩周りやら腹筋に負荷がかかって痛む。自業自得だ、仕方がない。
ワイヤレスイヤホンを取り出して接続し、サブスクリプションでサービスから適当にプレイリストを選んで、流しながら資料のファイルを読みながら執筆に取り掛かる。
イヤホンは連続再生時間が約4時間ほどの安い機種なので、充電が切れるころには必ず一旦休憩することになる。一度集中し始めるとダウンするまで取り組んでしまうのでそうやって外部から止める力を用意しておかないといけない。
一度筆が進み始めると時間の感覚は全く無くなる。充電切れを知らせる電子音が鳴って気がつく頃には既に夜は明けて、カーテンの上の隙間から陽の光が差し込んでいた。
イヤホンを外し、USBケーブルを繋いで、パソコンをスタンバイ状態に戻す。眼鏡と髪留めを外してその脇に置き、リビングの照明を消して寝室に戻る。できるだけ気付かれないように忍び足でベッドまで近づいた。
こういうとき相手を起こさないようにマットレスもわざわざ分けてあるにもかかわらず、自分が寝ていた方のマットレスに膝を乗せた瞬間、長谷は目を覚ました。
「先生、どこ行ってたんですか?」
「どこも行ってないよ、目が覚めたから仕事してた」
布団に潜り込んでいつものように包まろうとすると、長谷が両腕を伸ばしてきた。
「肌寒かったんじゃないですか?」
「いいよ、おれめちゃくちゃ手足冷たいよ今」
布団の中で手足を擦り合わせながら言うと「寧ろ、だと思ったからですよ」とニコニコして掌を上に向けておいでおいでしている。掌を上にしている辺りが向こうの文化っぽい。被っていた布団を置いて向こうの布団まで這っていくと長い腕が端を捲って、長谷がおれの体に手を回して引き込んだ。
そのまま抱き寄せられるがまま身を寄せると、長谷が裸のままその脚でおれの爪先を挟んだ。手を伸ばして長谷の体に触れると、やはり何も着ていない。そういや長谷、タオル巻いただけのままだった気がする。脱いだ服はどうしたんだろう。
「長谷寒くないの」
「まあ、代謝だけはいいですから。もう一眠りしましょ」
お茶飲んじゃったんだよなあ、寝れるかな。こっち来る前に弱い短時間作用のやつ割剤バサミで割って飲んでくれば良かった。あんな夢を見た後だと、もう一回寝るのもなんとなく嫌なんだよな。
「なあ、長谷、起きたらもう帰る?」
「うーん、お仕事の邪魔になりそうだし、帰ろうかなあ、名残惜しいですけど」
額に口づけて、鼻先を擦り付けて言う。
「だめって言ったら?」
顔を上げて言うと、「泊まるかどうかは訊かなかったのにそこは気にするんですね」と笑って、一際強くおれを抱きしめてから子供を寝かしつけるときするように背中をゆっくりとしたリズムで一定の速度で叩いた。
気恥ずかしくなって目を閉じて、筋肉で迫り上がった胸に顔を寄せ、耳を当てる。血液の流れるスリル音と心臓が拍動する音が聞こえる中、不思議なくらい静かな気持ちで眠りに落ちた。
「長谷、トイレ行ってくる」
声をかけると握る力が少し緩んで、手が解けた。サイドテーブルの下にリビングで脱いだ服が畳んであるのに気づき、とりあえずそれを着た。
リビングは灯りがついたままになっていて、少し開けてあるカーテンの隙間から寝室に明かりが漏れている。その開いた部分から寝室を出て、カーテンは閉じた。用便を足し、洗面台で手と顔を洗い、途中で放っていた作業をしに机に向かう。
上下の瞼が少し腫れぼったく、熱を持っているのを感じる。机の直ぐ横の台所の入口のカーテンをめくって入り、冷蔵庫の冷凍室から保冷剤を取り出してペーパータオルを巻いて戻って、目を閉じて暫く瞼を冷やした。
眠りから覚める少し前、夢を見ていた。
日当たりのいい部屋の窓際で壁に持たれてノートに落書きをしている。視界は狭く、視点が低い。
誰かが隣の部屋からやってきて話しかけてきた。何を描いているのか、何故それを描き始めたのか訊いてくる。一生懸命説明すると、じゃあこれは何?こっちのは何?と更に訊いてくる。嬉しくてたくさん喋った。
でも、ふと顔を上げると、その人の顔の部分だけがスクランブル放送にかけられたようになっていて見ることができない。
「お母さん、お顔が変だよ」
「やだあ、あきくん失礼しちゃう」
笑いながら幼いおれの頬の肉を細い指が摘んで上下に動かす。
その楽しげに笑い合う姿をおれは少し離れた場所から眺めていた。その子供は自分自身のはずなのに、おれの意識はその身体にない。
「お母さんに会いたい」
聞こえないであろうと思いながら呟いてみた。
「どうしたの、ずっとここにいるでしょ」と言って、その人は幼いおれを抱きしめた。その腕の中から、子供のおれが、こちらにいるおれを不思議そうに見ている。
言葉にならない虚しさと悔しさで涙が溢れて止まらなかった。
返して。
その記憶はおれのものなのに。
忘れるならいっそ忘れたままでいいのに。
一度失ってしまったはずの記憶は、時折急に蘇る。
それも、おれが、生きていても良かったのかなと少し思えるような、ささやかな幸せや安心感を得たときにかぎって。
その度に自分が失ったもの、封じ込めてしまわなければいけなかったことの大きさを、まざまざと思い知らされる。
一旦保冷剤を置き、ラグの上で外してできるだけ隅に寄せて置いたままだった眼鏡と髪留めを拾って、着け直してまた机に戻り、パソコンのスタンバイ状態を解除して中断していた作業ファイルを開く。
水筒に入れてあった白湯を飲むとほぼ湯冷ましになっていた。面倒だが水筒を手に改めて台所に戻り、中身を捨てて洗う。その間に浄水ポットに残っていた水を沸かす。古い木製の戸棚からアッサムのティーバッグとスティックシュガーを出してストレートティを甘めに作り、再度机に戻った。
座ると身体にそこそこのダメージが残っているのを実感する。骨盤の中全体がだるく重苦しい。スツールに脚を載せて背凭れに埋もれるように座ると、今度は肩周りやら腹筋に負荷がかかって痛む。自業自得だ、仕方がない。
ワイヤレスイヤホンを取り出して接続し、サブスクリプションでサービスから適当にプレイリストを選んで、流しながら資料のファイルを読みながら執筆に取り掛かる。
イヤホンは連続再生時間が約4時間ほどの安い機種なので、充電が切れるころには必ず一旦休憩することになる。一度集中し始めるとダウンするまで取り組んでしまうのでそうやって外部から止める力を用意しておかないといけない。
一度筆が進み始めると時間の感覚は全く無くなる。充電切れを知らせる電子音が鳴って気がつく頃には既に夜は明けて、カーテンの上の隙間から陽の光が差し込んでいた。
イヤホンを外し、USBケーブルを繋いで、パソコンをスタンバイ状態に戻す。眼鏡と髪留めを外してその脇に置き、リビングの照明を消して寝室に戻る。できるだけ気付かれないように忍び足でベッドまで近づいた。
こういうとき相手を起こさないようにマットレスもわざわざ分けてあるにもかかわらず、自分が寝ていた方のマットレスに膝を乗せた瞬間、長谷は目を覚ました。
「先生、どこ行ってたんですか?」
「どこも行ってないよ、目が覚めたから仕事してた」
布団に潜り込んでいつものように包まろうとすると、長谷が両腕を伸ばしてきた。
「肌寒かったんじゃないですか?」
「いいよ、おれめちゃくちゃ手足冷たいよ今」
布団の中で手足を擦り合わせながら言うと「寧ろ、だと思ったからですよ」とニコニコして掌を上に向けておいでおいでしている。掌を上にしている辺りが向こうの文化っぽい。被っていた布団を置いて向こうの布団まで這っていくと長い腕が端を捲って、長谷がおれの体に手を回して引き込んだ。
そのまま抱き寄せられるがまま身を寄せると、長谷が裸のままその脚でおれの爪先を挟んだ。手を伸ばして長谷の体に触れると、やはり何も着ていない。そういや長谷、タオル巻いただけのままだった気がする。脱いだ服はどうしたんだろう。
「長谷寒くないの」
「まあ、代謝だけはいいですから。もう一眠りしましょ」
お茶飲んじゃったんだよなあ、寝れるかな。こっち来る前に弱い短時間作用のやつ割剤バサミで割って飲んでくれば良かった。あんな夢を見た後だと、もう一回寝るのもなんとなく嫌なんだよな。
「なあ、長谷、起きたらもう帰る?」
「うーん、お仕事の邪魔になりそうだし、帰ろうかなあ、名残惜しいですけど」
額に口づけて、鼻先を擦り付けて言う。
「だめって言ったら?」
顔を上げて言うと、「泊まるかどうかは訊かなかったのにそこは気にするんですね」と笑って、一際強くおれを抱きしめてから子供を寝かしつけるときするように背中をゆっくりとしたリズムで一定の速度で叩いた。
気恥ずかしくなって目を閉じて、筋肉で迫り上がった胸に顔を寄せ、耳を当てる。血液の流れるスリル音と心臓が拍動する音が聞こえる中、不思議なくらい静かな気持ちで眠りに落ちた。
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