Over Rewrite Living Dead

きさらぎ冬青

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【2020/05 狂濤】

《第三週 月曜日 午前》①

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朝、学校に到着して先生の部屋に行くとまだ鍵がかかっていた。今日は授業があるし、初日も早めに来ていたのでもう居るのではないかと思っていたが、来ていない。書庫も鍵がかかっていて入れない。小曽川さんも来ていないらしい。
仕方なく暫くドアの前で待っていると、先生のプライベートのLINEアカウントからメッセージが届いた。
「朝早くに複数依頼が入って剖検しています、カフェテリアかコンビニのイートインスペースで時間潰しててください」
指示通りカフェテリアに向かい、先生に貰った本でも読みながら時間を潰すことにした。月曜一限に出る学生が眠気覚ましにコーヒーを飲みに来ているのか思ったより賑わっている。とりあえず直ぐ出てくるブレンドを一杯頼んで、空いている場所を探して入口近い窓際のカウンター席に座った。
鞄からスマートフォンと貰った本のうちの1冊を出す。定期刊行されている専門誌で、特集として「トラウマと心理臨床」と銘打たれているものだ。目次を見ると、ちゃんと「被害遺児の記憶可塑性 藤川玲」と名前が載っている。これは心理学者としての先生の仕事なのだろうか。
監修した方の挨拶文には、子どもの犯罪被害或いは遺されたまだ子供の遺族の支援において何が難しく如何に重要か、支援される側が何を望んでいるのかを当事者の寄稿を交えて検討してほしいという内容が記されていた。その言葉から、週末の甘い時間に浮かれて忘れていたことを思い出した。
まだ確証はとれていない、しかしおそらくは先生のことと思われる、あの事件。まだいくつかウェブサイトを覗いた程度で全貌も見えていないし、先生の親御さんの名前だって確認も取れてはいない。あの事件につながる何かがここに記されているような気がして、喉の奥で心臓が鳴っているように感じる。
該当のページを探してパラパラとページを捲っていると、その途中で監修した人と先生が対談しているページがあった。どうやらこの人は先生の心理学者としての師匠にあたるらしい。対談は学生時代の話から朗らかに始まっていた。
そこには、あの事件は間違いなく先生の身に起きたことであると確証が取れる内容が書かれていた。先生の養父である藤川氏は先生の師匠と古い知人であること、そしてその人が藤川英一郎氏であることが記されている。
先生が学部生時代から非常に熱心だったこと、修士時代マスクを絶対に外さなかったこと、博士課程になってようやく外して来るようになったら顔の下半分が全然変わってしまっていたこと、顔を骨格から変えた理由が明かされていた。それは、先生の家に鏡がない理由でもあった。
先生はもともとは母親似の顔立ちであった。しかし、加害者が母の双子の姉であったため事件後自分の顔を見ることができなくなり、鏡や窓に映るなどして不意に見てしまうとパニックを起こすようになったためであること、但し整形後も完全に別の顔にはなったわけでもないので鏡は必要部分だけ見るためのものしか用意がないと語る。
「きれいなのは当たり前だよ、作り物だからね」
「きれいにするつもりでやってないから褒められると居心地が悪いんだ」
顔を褒めたときの先生の反応が脳内で再生されると、胸が痛んだ。ホテルのラウンジらしき立派なソファに師匠と向かい合って、いつもより少し整った身なりで畏まった様子で姿勢良く座った先生の写真が載っている。このときどんな気持ちでこの事を話したのだろう。
ほかにも、17歳で進学してきたとき随分と外部から騒がれていたこと、その際に先生が事件の被害者であることを暴こうとするものがいたこと、親御さんや学校側が必死に手を回して阻止していたことなども語られていた。
加えて注釈に、警察庁広域重要指定事件×××号「東京松本家族間連続殺人事件」と記されていた。
警察庁広域重要指定事件とは、同一犯による犯行と思われる事件が複数の都道府県に跨って起きた場合、または捜査の過程で他の管轄の都道府県警察組織に協力を要請した場合に警察庁が指定するものであり、1964年から施行されている制度だ。施行から56年の現時点で、件数は約120件あまり。そんなに頻度があるものではない。
にもかかわらず、先生の事件は、そのうちのひとつということ。しかも、広域重要指定事件で、家族間連続殺人ということは、他の場所でも事件が起き犠牲者が出たということだ。
対談を読み進めると、先生が心理学の道に進んだ理由もやはりその事件にあることも触れられている。
また、先生の師匠からは、養父である藤川氏が残していた当時の看護記録の話で、救出されて意識がなんとか戻った後も重い抑うつ、無気力状態が続いていたこと、徐々に投薬や生活の介助を経て回復はしたものの、藤川氏以外の人間には気を許さない状態が続き事件当時の状況の聴取になかなか取り組めず、解明には時間がかかったことが語られていた。
また、当時はトラウマを負った場合その内容を語らせるカウンセリングが主流だったことが先生のメンタルを却って追い詰めることになり(現在は否定されていて行うべきではないとされるらしい)、それがトリガーとなって先生が全生活史健忘に陥ったことが語られ、先生も「今になって断片的に思い出すことはあるけど、当時は本当に何もわからなくなっていた」と語っている。

聞き慣れない言葉なのでスマートフォンを出して検索してみると、瞬時に結果が出た。
全生活史健忘。別名、解離性健忘、逆行性全健忘。
出生以来~発症以前の自分に関する記憶が思い出せない、一般的にいう記憶喪失状態。障害されるのは自分に関する記憶で、学習、習得していた内容や社会的エピソードは覚えていることもある。
その多くは心因性ではあるが、頭部外傷をきっかけとして発症することもある。記憶は次第に戻ってくることが多い。

記憶喪失?先生が?
1つの事件でなくしたものがあまりに多すぎないか。
家族も、名前も、顔も、そして記憶まで。
その状態から回復して、大検とって人より早く大学に入って、研究の道に進んで、一旦離脱して医学生になって、法医学に転向して、ここに辿り着くまでいったいどうやって、どんな思いで先生は生きてきたんだ。

動揺で指先が冷たくなり力が入らない。震える指でおそるおそるページを捲り、対談の続きに目を通す。
先生は、記憶を失くした後も鏡を見るとパニックを起こすということは、記憶はなくなったわけではなく一時的に退避されているものと考え、取り戻すことができるのではないかという思いがあり、PTSD状態からの回復方法や記憶の可塑性について研究をするために、そして研究するなら養父の知人である師匠のもとでやりたいと願い出て親子で大検と受験の対策に取り組んだと話していた。
しかし、研究や師匠の小僧さんとして著しい成果を上げていく反面、整形依存や自傷行為、性的逸脱行為がどんどんひどくなっていき、保護された警察署や搬送先から連絡が来たりするようになり「このままでは目的を果たす前に死んでしまう」と繰り返し諭したと師匠が答え、それに対して先生は「あの頃は本当に申し訳ありませんでした」と謝罪している。
そしてその後先生は博士号を取得できてから暫くして退学を申し出たこと、全く違う道をこれから考えるというのは難しいので、養父の病院を継ぐことも視野に入れて精神医学分野に移って学びながら今後を考えることにしたが、そこでも同じような経緯を辿ってしまうことになり、やはり躓いたのだという。
その際に複数の先生方や周りから、「これまでのきみの研究自体が社会の役に立たないわけではないが、これ以上どうにか生きるしかない自分の内面に意識を向け続けるよりも、他者の身体の有り様に目を向けて貢献したらどうか、その精神的潔癖さと慎重さは医師としては必要なものだ、事件のことが心残りならば、事件や事故で無念のまま亡くなった方のために役立ってみないか」と勧められたのが法医学分野だったという。
結果的にこの分野で活動するようになってから荒んだ行動は落ち着き、精力的に多摩キャンパスで解剖医兼助手として活躍し、今の地位と自由な立場をを手に入れ、親からの支援を受けずに経済的にも自立して生活できるようになった、世話になった方全員に感謝していると、先生が述べたところで、対談は〆られていた。
その次のページから、先生の寄稿した記事だったが、続けて読み切る気力が持てず、一旦ブックマーカー代わりに先程コーヒーを買ったときのレシートを折って挟んで、本を閉じた。傍らで忘れられてすっかり冷めたコーヒーを口に運び、溜息をついた。手に持った紙コップの中で暗い焦茶色の液体が揺れて、改めて自分が震えているのがわかる。
震えている理由は単純ではなかった。改めて湧き上がる事件への憤り、先生が喪ったものへの嘆き、いち個人としてあまりに悲しすぎて泣き出したい気持ち、そういったものが濁流のように自分の中で渦を巻いて飲み込まれそうな畏怖感で、どうにかなってしまいそうだった。
何より、このあと最悪でも午後には授業があるので、先生と顔を合わせることになる。そのときいったいどんな顔をして会えばいいのかわからない。真面目に仕事に取り組み丁寧に指導してくれる先生、人を見透かして欲望を焚きつける先生、思わせぶりに人を試す意地の悪い先生、悪戯好きで甘えん坊な先生。その顔の裏にあるものが積み重なった喪失だなんて。やっぱり神様なんて居ない、救いなんてどこにもないじゃないか。
乗り越えられない試練は与えない?ふざけんな、仮に乗り越えられたとしたってそのためについた疵は消えるわけじゃない、それどころかその疵が消し去ってしまったもののほうがどう見たって多いじゃないか。やり場のない怒りが自分の中でおさまらない。乱暴に鞄に物を片付け、席を立って紙コップを捨ててから表に出た。
スマートフォンを見てもまだ先生や小曽川さんから連絡は入っていない。一旦キャンパスを出て、気を紛らわすために御成門駅方面に向かい、そのまま三田線の路線上を沿って芝公園に出た。直ぐそばに東京タワーがそびえている。できるだけ人気の少ない場所を探して、ベンチに腰を下ろした。一応業務命令で見学に来ていて、待機を命じられているのに衝動的に外に抜け出してしまうなんて、よくないことはわかっている。でも、ひとりになりたかった。
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