Over Rewrite Living Dead

きさらぎ冬青

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【2020/05 狂濤】

《第三週 月曜日 午前》②

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芝公園4号地は高級住宅地にも近い都心部にも拘らず、公園はどこか他の目的地に向かうため通り抜ける人が殆どで、屯したり話し込んでいるような人は見受けられない。人馴れした野鳥が時折飛んできたり、おこぼれがもらえると思っているのか遠巻きにベンチの方を見ながらちょんちょん地面を飛び跳ねてくる。見ていると先生が無邪気に駐車場の雀を追いかけていたのを思い出してしまう。周囲に人の目が無くなったこともあって急に気が緩んだのか、涙が溢れた。
肩幅程度開いた膝に肘をついて、顔を下に向けて泣いていると、自分の前で人が立ち止まった。慌てて涙を拭って顔を上げると、そこには見覚えのある顔があった。先週会ったときより短くはなっているがきれいなグレイヘア、凛とした顔立ち。授業の日とは違う少しカジュアルめな装いではあるが、大石先生だった。
「あれ、きみ、長谷くんじゃない。アキくんにいじめられた?」
「え、大石先生、なんで」
動揺しているおれに構わず隣に座り、ポケットから取り出した小さなタオルハンカチをおれに差し出す。受け取ると鞄からスキットルボトルを取り出して一口中の液体を飲んだ。こちらまでふわりとフルーティで甘味がありながらも、かなり強いとわかる酒の香りが漂う。
「おれは夜勤明けて帰るとこだよ、図書館で借りてた児童書を返してきたんだ」
児童書。意外なものを読むんだな、と思った。
「先生、おうちはお近くなんですか」
「君の職場の傍だよ、まあうちは魚籃坂の方だけど」
東京タワーを眺めながら、のんびりと酒を嗜んでいる横顔は、とても救急救命医の夜勤明けとは思えない穏やかで安らいだ表情をしている。しかし、青みがかった隈ができた目の周りや、やや土気色にくすんだ顔色からは相当な疲労が溜まっていることが感じ取れた。こんなとこで話し込んでていいんだろうか。
「大石先生は、藤川先生とは知り合って長いですか?」
「ん?ああ、長いといえば長いね、中学で一緒だったから。どうしたの、あいつには深入りするなっておれ前に言ってなかったっけ?」
もう泣いているところも見られてしまったので、週末のこと以外は白状した。先生に先週度々誘惑されたこと、先生のことを好きになってしまったこと、先生のことを知りたくて調べていて事件のことを少し知ってしまったこと、先生の寄稿した本からその事件後の経緯を知ってしまったこと、それらに酷くショックを受けていること。大石先生はおれの顔を見て真剣に聞いていた。そして、ため息をついてから呟いた。
「だからやめときなって言ったのさ」
そのあと「長谷くんは、知って、それでどうしたい?」と問いかけてきた。
知ってどうするか?考えていなかった。
「いえ、ただ、知りたかっただけです…なんとなくですけど、これまでの先生のことがわかれば、先生のコロコロ変わる態度や言動の意味とか、そうしてしまう理由がわかるかと思って。おれがバカだから読み取れて無くてわかんないだけかもしれないし、知ったその先のことまでなんて、浅はかなんで全然考えてなかったですけど」
正直に答えると、大石先生はスキットルボトルの蓋を締め、鞄に仕舞った。その鞄からスマートフォンを出して、こちらに向けた。
「長谷くんさ、連絡先交換しとこうよ。あいつに関することだったら、おれで良かったら話は聴くよ。きみの職場とおれの家近いし、タイミングが合えば飯くらいごちそうしてあげられるし」
意外だった。深入りするなと言っていたのに、知ってしまったものはしょうがないということなんだろうか。おれも鞄からスマートフォンを取り出す。すると先生からメッセージが届いている通知が表示されていたので、急いでロックを解除して画面を切り替えた。取り急ぎ先生から連絡が入ったので戻ることを伝えて互いのLINEだけ登録し、名刺を交換した。
「長谷くん、じゃあまた今度」
「はい、ありがとうございました」
芝公園を後にする途中振り返ると、大石先生は鞄からペットボトルの水を出して飲んでいた。そりゃあ夜勤明けにストレートでウイスキーなんて飲んでたら酔いの回るのも早いだろうに、大丈夫なんだろうか。
歩きながらスマートフォンで改めて先生のメッセージを確認する。
「午前中いっぱいかかる見込みで授業準備が十分できていないので昼休みは籠もります、前回と同じ教室で授業するのでそれまで時間を潰して、3限直接教室に来てください」
ああ、やっぱりそうなるか。急いで戻る必要もなさそうだ。一旦またカフェテリアに戻って、早めに食事でも摂って一旦頭の中を空にしよう。そのあと、飯野さんに先生のことはどこまで知っているのか、メールでもいいから訊こう。警察庁広域重要指定事件になっているほどの事件を、何も知らないということはないはずだ。

一件目に時間を要した。体調を崩し衰弱しているとの通報を受けて救急搬送されてきたものの不審点が多くERが警察に通報、必要な処置はしたものの回復せず助からず亡くなった児童の遺体だった。ある程度長期の栄養失調により衰弱していたのもあるが、それに加え低体温、不自然な頭部の血腫の多さ、衣類に隠れるあらゆる部位の皮下出血がみられ明らかな虐待死だった。
外傷は多いが主因はそこになく、MRIなどでも頭蓋内の損傷はなかったため、低体温からの全身障害、つまり凍死に近い状態にあったとみて鑑別した。採取した血液は溶血しておらず凝固能力も維持されており、死後硬直はまだ時間が経っていないため頸部まで。外観には保温処置しても体温が上がらなかったのか明らかな立毛筋の収縮と、全身の不自然な筋硬直があった。
単身赴任で地方に離れていた父親は妻の逮捕と子の死亡の報せを受けるまで虐待を一切知らなかったとのことで、司法解剖に入るためERの待合に承諾を貰いに行くとひどく憔悴していた。これはおれが勝手に自分の裁量で行なったことだが、彼のケアに時間を割いた。
あとは解剖自体は死因的に侵襲性をそこまで要しないと鑑み極力切開を避けたが、全身の痣が痛々しく、苦しそうな表情のまま亡くなっていたので終了後のエンバーミングで時間を食った。通常は看護師や助手に任せるなり、遺族の希望があれば葬儀社や本職の人に依頼したりするが、これもおれが自分の判断で行なったことだ。
搬送されてきたのがハルくんが準夜だった日曜の夜で、繁忙だったこともあり泊まり込んで対応して今朝この子を看取り、おれにご遺体を引き継いで帰っていった。
ハルくんは自分がひどく扱われて育ったので子供の虐待や不審死に遭遇するのは心が荒むと話していた。でも、なにげに付き合いは長いはずなのにハルくんがどういう育ちかおれはあまり知らない。但、嘗てハルくんが家庭で何か問題があってひどく傷ついて心を閉ざしていたことは覚えている。初めて出会ったときハルくんは泣いていた。でも、何故泣いていたのかも、おれはまだよく知らない。
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