Over Rewrite Living Dead

きさらぎ冬青

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【1989/05 Tears】

《第二週 月曜日》

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制服の生地が固くて重たい、早く脱ぎたい。こんなの着て通わなきゃいけないなんて鬱陶しくてしょうがない。そもそもぼくは勉強するだけだったら自分ひとりでやったほうが楽しいし効率よくやれる。実際今取り組んでいるのは高校の数学と理科系の科目だし、大人に混じって英会話を習ったりもしてるし、何の不足もない。わざわざ日中の楽しめる時間を学校なんかで過ごしたくない。
でも、お父さんとお母さんは仕事があるし、子供を家にひとりにするのは心配なんだろう。仕方がない。とりあえず保健室に登校してひとりで好きに勉強していい、図書室の利用は他の生徒に遭遇しない授業中、教科によって使える部屋は授業で利用がないとき、一般の教室の授業や行事には基本参加しないという、極力人と接さないことを条件に学校に通うことになった。
昼休みの時間、お母さんに道順を教わりながら歩いて送ってもらい学校に着いた。玄関まで迎えに来た養護教諭の先生に連れられて、保健室に向かう。先生の苗字はありふれたもので、他にも同じ苗字の先生もいるということで、典子先生と呼んでほしいと言われたのでそれに倣うことにした。
典子先生は「他にも保健室登校の子が居て、その子は元気がなくて寝ていることが多いから静かにしてあげてほしい」と言ったので、できるだけ音を立てないよう、静かに部屋に入って扉を閉めた。3つあるベッドのうち一番奥、窓側がカーテンで仕切られて閉じている。もうひとりはどうやらそこにいるらしい。
先生の机の他に、4人ほど座れるように会議用の長机を2つ並べて、座面にクッションを付けたパイプ椅子が並べてある。簡易な衝立で囲ってあり、そこを自由に使っていいと言われた。そして、ベッドも具合が悪くて必要としている人が来ない限り使って良いとのことだった。但し、通常は典子先生かまたは校医の先生が常駐で付添うようで、完全に自由ではないらしい。居ないとき部屋から出たり何かあれば職員室に内線で連絡するようにとのことだった。
あと、やはり怪我人や具合の悪い人が来る場所なので人の出入りはそれなりにあることと、担任の先生が一応居るので毎週面談することは説明された。嫌だな、それが一番面倒だ。同じ年くらいの人間も、先生という立場の人もぼくはすごく苦手だ。理解が浅いくせ興味本位で口出ししてくるし、無駄にテンションが高くてうるさい。一緒にいるなら、多分そこで寝ている子くらい、元気がないくらいの子のほうが安心する。
寝ている子は男の子、女の子、どっちなんだろう。女の子じゃないほうがいいな。正直ぼくはまだ典子先生でさえ、それどころか自分のお母さんでさえ、まだなんとなく怖く感じてしまってうまく話せない。どうして怖いと感じるのかはよくわからない。ぼくには1年くらい前までの記憶しかないから。それ以前どうしていたのか知らないからわからない。
「玲くん、担任の先生呼んでくるから座って待っててくれる?」
首を縦に振ると、先生は部屋を出ていった。
衝立の中に入り机に鞄を置いた。衝立を出ると大きな窓の上の長細い通風窓が開いていて、淡い緑色の薄いカーテンが風に揺れている。衝立の向こうに回り込んで覗くと壁際には薬や応急処置につかう資材が入った棚があり、冷蔵庫が有り、電気ポットも置いてある。隅には身長や座高を測る台や体重計が置いてあった。振り返るとカーテンに囲われた窓際のベッドからは、寝息が聞こえている。
やや離れたグラウンドから掛け声や応援の声が聞こえてきたり、どこからか誰かの歌う声が聞こえたり、はしゃぐ声が聞こえたり、何気に騒がしい。家の中だったらひとりだし窓も開けないから静かに過ごせるのにな、と思うとやっぱり落ち着かない。自分の意思でラジオを流していてその音が流れているのとはわけが違う。望まない音声は耳障りでしか無い。
さして広くもない部屋で落ち着かずウロウロしていると、典子先生が担任の先生を伴って戻ってきた。担任は若い男性の先生で皆藤先生という人だった。幸い穏やかな落ち着いた人で、グイグイ来るようなところはなさそうで少し安心した。新米なので至らないことも多いかもしれない、何かあったら面談のとき相談してほしいと言って、すぐ職員室に戻っていった。
そして、それとは入れ替わりに別な人が入ってきた。その女性は焦りや不安を抱えた表情で窓際の方に向かい、カーテンを翻しその中に入ると、一方的に話し始めた。
「大石くん、起きれる?」
中にいる子は男の子なのか。呼びかけに返事はない。
「校長先生とか校医さんともあなたのことずっと話してて、保護者の方がこれ以上対応できないようであれば、児童相談所に通告したほうがいいんじゃないかって言われてて、ただ、大石くんの場合そうなるとお母様にもお話が行くことは避けられないと思うの、それは大石くんは困るんじゃないかと思って待ってくださいってお願いしたの…大石くんがどうしたいかにもよるし、待ってくださいって」
口早に現在の状況を伝えると、抑揚のない声が返ってきた。
「任せます」
ベッドリネンの擦れる音がして、会話を遮るように布団を深く被り直す様子が伺える。
「今の家にいたってしょうがないし、あの人にもっと直接的に迷惑がかけられるならそのほうがいい」
その後も暫くなんとか話し合いたいのか女性は大石くんに話しかけていたが、やがて午後の授業の開始チャイムが鳴り始め、諦めて典子先生に挨拶して部屋を出ていった。典子先生は大石くんの居るカーテンの内側をそっと覗いて、何も言わず閉じた。衝立の中で待っていた僕に声をかける。
「玲くん、5時間目わたし女子の保体の授業のヘルプでいないけど、ここで勉強しててもらっていいかな」
頷くと、典子先生は「初日なのにごめんね、何かあったら誰かしら居るから内線にかけてね」と言い残して足早に出ていった。先生、おれがここまで一言も発していないことには何も思わなかったのかな。多分何かあっても内線なんてかけられないんだけどな。
ともかく、ようやく部屋の中も実質ぼくだけになり、休み時間が終わって環境音も少し静かになった。制服を脱いで椅子の背凭れに掛けて、机に家から持ってきた通信教育のテキストと問題集とノート、筆記具を出した。
単元に示された解法で淡々と例題を解く。本当はこの単元で示されている解法で解くより、もっと前にやった別の式を組み合わせてやったほうが短縮できて楽だけど、あくまでこれはこの単元の例題だからしょうがない。多分テストでやったら「考え方としては間違ってないが、この単元のテストの回答としては×」となってしまう。そういう意味でも受験や学校のための問題はつまんないなと思う。
もっと自由に自分で調べて追求するようなことは大学や院まで行かないとやれないなんて。まどろっこしいから早く大検とって、大学に行かないと。知りたいことなんていくらでもあって、時間がいくらあったって足りない。ぼくは、自分のことを取り戻す方法を知りたい。人の心が、脳が、何故本人を裏切るようなことをするのか知りたい。でもそのためには今は試験を確実に突破することを考えないと。
黙々と単元ごとの例題を解いて、それに似た過去問を探して解く。反復に飽きたら別の科目のテキストを読んで気分転換する。或いは落書きして完全に一旦頭の中をリセットして休ませる。だいたい1つのことに飽きるまで10分とか15分だから、3ターンもすれば授業時間は終わる。落書きとしてテキストにあった顕微鏡写真を見ながら模写していると、すすり泣く声が聞こえてきた。
ぼくのほかにはこの部屋には今、もうひとりしか居ない。
音を立てないようにそっと席を立ち、ベッドのそばに忍び寄る。カーテンを捲ると気づかれて隠れてしまうだろうと考え、おろしたての制服のズボンが汚れるとは思いつつも、ベッドの下を潜った。ゆっくりと窓側に抜けて顔を出すと、胸から上を布団から出してベッドに横たわったまま、涙も拭わず只その人は泣いていた。
突然ベッドの下から出てきた僕には流石に驚いている様子ではあったが、かと言って大仰に驚いてみせたりもせず、こちらを呆然と見ていた。ぼくは体を起こして膝立ちになり目線の高さを合わせると、枕にまで染み入ってそうなほどの涙の跡を見て、思わずまだ彼の頬に残っている大粒の涙を拭った。そして早くもテグスのような銀色のものが混じっている頭髪にそっと触れ、その頭を撫でた。
彼は何が起きてここにいるのか、何故泣いているのかもわからないし、何か慰めになるようなことを言ってあげたいのに、なんと声をかけていいのかわからない。
自分が悲しいときそうしてほしいように、ずっと撫でているうちにいつか本で見た言葉が脳裏を過ぎり、何故か涙が溢れた。

『なみだは、にんげんがもっている いちばん透明な宝石です』(※)



 ※引用:ロング・グッドバイ 寺山修司詩歌選(講談社文芸文庫)より
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