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第一章:直哉編
第三話:白に還る
しおりを挟む鶴華の手を引いて、ビルの立ち並ぶ名駅裏の太閤通りを進む。
錦ほどではないが、飲食店やキャバクラのネオンがぎらつき、路地裏の影を強く照らしていた。
仕事帰りのサラリーマンや学生が怪訝な目で僕等を見る。
鶴華は俯き、長い髪で顔を隠すようにして歩いていた。
行き交うサラリーマンや学生がちらりとこちらを見やり、好奇心や軽い軽蔑を滲ませた視線を残していく。
通りを行く人々の会話がふっと途切れ、すれ違いざまにひそひそと声が落ちる。
夜のネオンが照らすアスファルトの上、僕らはまるで異物のように浮き上がって見えたのだろう。
寒風に肩をすくめ、小さく震える鶴華の背中。
羞恥か怯えか、どんな思いでこの視線を受けているのか想像すると胸が詰まる。
でも、僕にとってはその背も、俯いた横顔も、愛おしくて仕方がなかった。
絶対に守りたい──そんな決意だけが、足取りを力強くさせた。
夢にまで見た鶴華の手の温もりを、今こうして握っている。
その現実が信じられなくて、何度も手のひらに力を込めて確かめた。
雑踏の中にいても、僕らだけが別の世界を歩いているようだった。
ビルの隙間を抜けた風が吹き付けるが、僕の胸は熱かった。
「……あまり早く歩くなっ。」
鶴華の足がもつれそうになって、気が早ってしまっている自分を反省した。
嬉しい気持ちと鶴華の気が変わらないうちに、家へ連れ帰ってしまいたい気持ちが胸を占める。
素足の鶴華の足が痛まぬように靴を貸したが、鶴華には小さかった。
「踵を踏みつけることになるから、いいよ。」
僕の真新しい白いスニーカーと靴下のどちらかを貸すことを提案すると、究極の選択を迫られたような表情で、スニーカーを選んだ。
ちょっとしたやり取りが四年前のようで、あまりに懐かしくて、あまりに愛おしくて、今ここにある現実が信じられないほど幸福だった。
太閤通りのアスファルトは昼間の熱をすっかり失い、夜風が吹き抜けるたびに靴下越しでも足の裏が冷たくしびれる。
それでも胸の奥は熱く、寒さを感じないほどだった。
「……いいとこ、住んでんな。」
僕のアパートを見上げて、鶴華はぽつりとつぶやいた。
「立地だけだよ。築年数は結構経ってる。」
名古屋駅から徒歩ニ十分。
駅にも、職場である区役所にも近い。
徒歩五分圏内に、コンビニもスーパーもある。
ただ、名古屋駅は駅前と駅裏があり、僕の住む駅裏は若干治安が悪い。
駅裏は戦後から高度経済成長にかけて、名古屋駅及び東海道線を引く日雇い労働者の簡易宿泊所があったエリアだ。
その名残で、昔から浮浪者や低所得者が多い地域だ。
そのため、中村区の保護係はノウハウに長けた者が多い。
一時期は、全国のホームレスの間で『困ったら中村区を目指せ』と言われたほどだ。
立ち止まってしまった鶴華の手を引いて、オートロックのエントランスを抜けると部屋へ案内する。
先に入って、玄関と廊下の電気をつけたのに、鶴華は玄関先で動かなかった。
足を止めたまま、薄暗い廊下を無言で見回している。その影が玄関灯に落ち、表情をうかがうことさえできない。
「……どうしたの?」
声をかけても返事はない。鶴華はゆっくりと腕を組み、エントランスのオートロックの向こうを、落ち着きなく見やった。
外へ逃げる算段でも立てているのかと錯覚してしまうほど、そのまま出て行ってしまいそうな雰囲気が漂う。
細い肩が微かに揺れた。
寒さのせいか、それともこの部屋に入りたくないという拒絶なのか――その判断がつかないのが余計に胸を締め付ける。
せっかく見つけて、やっと連れて帰れたのに。
ここでまた拒まれたら、彼は二度と僕の前に現れないかもしれない。
想像しただけで胃の奥が冷たくなる。
冬の夜気が玄関扉の隙間から吹き込み、冷たい風が背中を撫でた。
鶴華の影は少しも動かず、その沈黙が、鼓動の速さをさらに煽る。
思わず伸ばした手が、鶴華の指をぎゅっと握った。
「……お願いだ。」
震える声でそう呟き、そのまま手を引く。
「……俺、臭いだろ。それに……。部屋が汚れる……。」
「……一緒にいて欲しい。」
鶴華の体は一瞬抵抗したが、僕の必死さに負けたのか、観念したように力が抜けた。
その瞬間、胸の奥に熱いものがこみ上げ、僕は半ば抱き寄せるようにして彼を中へと引き入れた。
見慣れた1LDKの僕部屋に、鶴華がいる。それだけで、少し安心できた。
誰かを部屋へ招き入れる予定などないため、机にはパソコンが出しっ放しで、持ち帰った仕事の書類が積まれている。
安価なスチール製の本棚には、仕事関係の本と趣味で集めた文庫本が整然と並ぶ。
カーテンの隙間から漏れる街灯の明かりが、落ち着いた緑色のカーペットに淡い影を落としていた。
鶴華は足を止め、静かに周囲を見回していた。
その顔には戸惑いと苛立ち、そしてほんのわずかな安堵が入り混じっている。
「……悪いな。」
搾り出すように小さく呟くその声は、かつての艶やかな彼とは違い、どこか弱々しかった。
僕は首を振り、玄関の扉を閉める。
やっと――やっとここまで来られたんだ。
心臓の鼓動が早すぎて、胸が痛い。
今すぐにでも彼を抱きしめたい気持ちを押し殺し、
「寒かったろう、まずお風呂に入ろう」
とだけ、できる限り穏やかな声で告げた。
鶴華に断って、持っていた毛布と痛んで汚れていた衣服をビニールのゴミ袋へ入れる。
浴室の向こうで滴る水音が響き、湿った空気が漂う。
そこに混じるのは、鶴華が纏っていた匂い。
さっきまで抱えていた彼の体温を思い出し、胸がぎゅっと締め付けられる。
奇跡のような一日だった。
夢の中で何度も求めた人が、今こうして僕の家の中にいる。
信じられない幸福と、どうしようもない不安がせめぎ合い、落ち着かない。
浴室で鶴華の動く気配と音がするだけで、ドキドキする。
ソワソワして、落ち着かない。
『……ねぇ、直哉。俺を連れて帰って、どうするつもり?』
耳元で甘く囁かれた声が、水音に重なり甦る。
理性を必死で掴んでいないと、心臓が暴れてしまいそうだった。
何かしていないと落ち着かない。
部屋の隅のプラスチック製の衣装ケースから、新品の下着をおろす。
大きめのロンTと厚めのスウェットパンツを用意したが、僕より大きい鶴華は、着られるだろうか?
衣類を用意しながら、今度は不安に胸の奥がきゅっと締め付けられる。
ほんの少しでも気を抜けば、鶴華はまたどこかに消えてしまう――そんな恐怖が頭を離れない。
目の前に広がるのは、いつもと何一つ変わらない僕の部屋。
小さなキッチンに整然と並んだ調味料の瓶、フローリングに置かれたままの仕事用リュック、片付かない机。
何の変哲もないこの空間に、彼がいるだけで現実感がぐらりと揺らぐ。
心臓の音がうるさくて、自分の鼓動で幻を打ち消そうとしているみたいだ。
湯気を含んだ湿った空気の向こうに、彼が確かに存在している。
その事実がまだ信じられない。
手を伸ばして触れなければ、幻のまま消えてしまうんじゃないか。
夢みたいな夜だ。
だけどその夢を、どうしても現実にしたい――その一心で、僕は静かに息を整えた。
脱衣所に衣類と洗い立てのバスタオルを用意する。
不安と幸福が入り混じる感情を抑えて、何でもない声を装う。
「鶴華、ここに服とタオルを置いておくから使って。」
それだけ伝えて、脱衣所を出るはずだったのに、ガチャリと浴室の折戸は開いた。
湿った空気が肌を撫で、鼻先をかすめる石けんの香りに心臓が跳ねる。
髪から滴る水滴が首筋を伝うのを、ただ見ているしかなかった。
視線を逸らそうとしても、吸い寄せられる。
鎖骨のくぼみ、濡れた睫毛。
四年ぶりに目の前にある現実は、僕の呼吸を奪うには十分だった
「……あの、えっと、ここに置くね。」
声が震えているのが自分でもわかる。
早く出ていかなければ。
なのに足が動かない。
彼の存在が、熱を帯びて部屋を満たしていく。
今ここで目を逸らしたら、消えてしまいそうで――どうしても離れられなかった。
僕の鼓動だけが、やけにうるさく響いていた。
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