ネオン街の恋

伊佐ヅカ

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第一章:直哉編

第五話:翡翠の誘い

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「ええっ、現役の大学生なの。可愛いーっ!」

石楠花の壁紙に、ピンクと青のライトが交互に瞬く。
淡いお香の香りの奥に、煙草の匂いが濃く漂う──華やかで妖しい空気だ。
目の前で声をかけてきたのは、ここ『華籠』の静華しずかママ。
四十代くらいだろうか、凛とした和服美人の姿に似合わず、その声は意外なほど低く野太い。

「やめろ。直哉は純粋なんだ。手を出すなっ!!」

僕をこの店へ引きずってきたのは、和食割烹「益江」の店長だ。
錦三丁目のど真ん中に、店を構えるやり手だ。
僕のバイト先でもある。
店ではどんな客にも怯まない彼が、今日は苦手そうに僕を抱き寄せている。
それでも付き合いのため、この店の扉を開けたらしい。


高級ラウンジのような内装。
照明の落ちたフロアに、グラスを照らす派手なライト。
着物やドレスを纏ったキャストの声が飛び交い、笑い声や煙草の煙が渦を巻く。
男性ばかりのキャストであることを除けば、格式高いラウンジと変わらない──そう思った瞬間。


「鶴華ー、麻里華まりかちゃん。」

ママの呼ぶ声に、視線を向ける。

そこに現れたのは、異質なほど美しい人だった。
店内の喧噪が一瞬遠のいた気がする。
ランウェイから抜け出したような長身に、シャンパンゴールドのドレス。
髪は頭の形に沿って細かく編み込まれ、一本一本の三つ編みが均等に整えられている。
その精緻な編み込みが後ろで高く結い上げられ、動くたびにシャラリと音を立てそうな存在感を放っていた。
緑のピアスと編み上げブーツがその雰囲気をさらに引き締める。
ただ冷めた瞳で見られるだけで、背筋にぞくりとした震えが走った。

「初めまして……鶴華です。」

その一言で、胸の奥がきゅっと掴まれた。
声も素のままで、客に媚びる様子もない。
彼だけが、店内で異質であり、目が離せなかった。

「初めまして。麻里華でーす。」

甘い作り声のもう一人のキャストが紹介される。
キラキラとした二人に挟まれて、夜のお店になれない僕は、ジーパンにシャツという大学生らしい普段着のまま、おろおろするばかり。
勧められて、高級ソファへ座ったものの、落ち着かない。
鶴華やママたちの煌びやかさの中で、僕だけがモノクロ写真のように浮いて見える。
それでも彼らは気さくに話しかけてくれる。
そのアンバランスさが、余計に心臓を早くした。

「私も現役大学生でーす。一緒にお話ししよっ。」

麻里華は小柄でふわふわした雰囲気で、誰が見ても“可愛い”と口に出すタイプの子だ。  
けれど、その瞳の奥で僕を値踏みするような一瞬の光を見た気がした。  

「ママから、名大生って聞いたわよ。めっちゃ、頭いいじゃん。」

艶やかに塗られた爪先でストローをくるくる回しながら、にこやかに身を乗り出してくる。  
強い香水の匂いと甘い笑顔に包まれて、僕はすっかり観客席に取り残された気分だ。  
可愛いのに、どこか安心できない──そんな違和感が胸の奥に小さく残った。  

ライトに照らされる麻里華は、鶴華のような冷たい美しさとは違って、甘さの中に小悪魔的な愛嬌があった。  
まるで誰からも「可愛い」と言われ慣れている子猫のようで、鶴華と同じ“女の子”に見えるはずなのに、その視線の奥に潜む計算高さが妙に印象に残った。

「……あ、……まぁ……。」

ぐいぐい来る感じが、どうも苦手で……。
テーブルを挟んで向かいに座る、益江店長と静華ママが可笑しそうに声をあげて笑った。

「……この前は、ありがとう。助かった……。」

隣の鶴華が、ばつが悪そうにぼそりと話しかけた。

「この前……?」

彼とは初対面なはずなのに。

「先週の水曜日。店で薄い水割りに替えてくれただろう?」

ああ、確かに。

──同伴で現れた二人組。
カウンター席しかない店内の一角で、スーツ姿の男の隣に座った“女”は、黄色いワンピースを纏い、涼やかに笑っていた。
ネオン街に溶け込みながらも、ひときわ目を引く、張りつめた美しさ。
額のラインが際立つ、耳元までの切り揃えられたショートボブ。艶やかな黒髪は照明を受けて滑らかに光り、その輪郭の整った顔立ちをさらに際立たせていた。
席を外した瞬間、男が彼女のグラスに酒をなみなみと注ぐ様子を見て、胸がざわつく。
……酔わせる気だ。
そう悟った僕は、さりげなく薄い水割りにすり替えたのだった。

「……ありがと……。」

戻った彼女──いや、この人──は気まずそうに礼を言った。

***

「……あれ?もっとショートカットのお姉さんだったような……。」

「っははっ!」
  
目を丸くしたあと、鶴華が小馬鹿にしたように笑った。

「髪型なんて、エクステやウィッグでコロコロ変わるよ。今日も半分はエクステ。」

「……エクステ……?」

知らない単語に戸惑う僕を見て、益江店長が苦笑する。

「益江さん、この子夜連れ回しちゃダメっすよ。……純粋すぎる。何でこんな子が、錦にいるの?」

鶴華の軽口に、店長も戸惑ったように頬を掻いた。

「なーんで、いてくれるんだろうね。」

ほぼ二年になる付き合いなのに、店長が怪訝に思っているとは僕は知らなかった。

「ハードボイルド小説が好きで……。酒、煙草、女って世界を覗こうかと……。」

僕の回答に、鶴華は腹を抱えて笑い、店長は目を丸くして驚いた。

「で、酒、煙草、女はどうだった?」

最早、仕事を忘れて素に戻ったのか、鶴華は男友達との会話のノリで肩を組んで楽しげに覗き込んで来た。

「はい、酒はアルコールアレルギーのため、ほとんど飲めませんでした。煙草は、試しに吸ってみたけど無理でした。女は……小説どおり、怖いなと……。」

蝶よ花よと美しい錦の女性たち。
同伴として利用される店で見る、男女の駆け引き。
下心と下心のぶつかり合い。
同伴の店でこれなのだ。
このあとお店へ行くとどうなるのか……。

店長もママもお腹を抱えて笑っている。  
鶴華はツボに入ったのか、化粧が崩れないように涙を拭きながら笑っていた。  
なのに、その仕草の一つ一つが妙に色っぽい。  
長い指先や、ゆるく肩を揺らす動きに漂う男の色気が、僕の心臓をざわつかせる。


「そんなに笑わなくても……。」

笑いの余韻の中、差し出されたグラスを何気なく手に取る。  
軽い炭酸水のように感じた液体を口に運んだ。  
──そのあとの記憶は驚くほど曖昧だ。

──気がついた時、知らない天井が見えた。

部屋は異様なまでに静かだった。
シャンデリアの飾りがわずかに揺れて、金属の小さな触れ合う音がカチリと響く。
窓の隙間から差し込む光が、黄色のカーテンの揺れに合わせて壁に淡い影を踊らせる。
脱ぎ捨てられたワンピースや、ベッドサイドのアクセサリー。  
甘ったるい香水の匂いが鼻を刺した。  
……ここは、誰の部屋だ?

頭がじんと痛む。
後頭部が枕に沈むたび、鈍い痛みが広がる。  
昨日の夜に何があったのか思い出そうとするが、霧がかかったように記憶が途切れている。  
僕を夜の街へ引っ張っていった店長の姿もない。

遠くで、シャワーのような水音が規則的に響いていた。  
カーテンの隙間から差し込む光の筋に、湯気のような気配を感じてぞくりとする。

身体を起こす勇気が出ない。  
寝返りを打つことさえためらわれるほど、胸の奥で心臓が暴れている。  
喉はひどく乾き、指先が冷たい。  
小さな物音ひとつで飛び起きそうになる。

ガラリ、と浴室のドアが開く音がした。  
濡れた足音がゆっくりと近づいてくる。  
――逃げ場はない。
息が浅くなり、背中を冷たい汗が伝う。

「おー、起きた?」

軽やかにかけられた声は少しハスキーで、耳に心地よく残った。
予想外の低音ボイスに、思わず飛び起きて凝視する。
髪から水滴を散らしながらタオルで頭を拭う男は、パンツ一枚のまま。
すらりとした肩のラインから鍛えられた胸板、締まった腹筋まで、一つ一つのラインが無駄なく洗練されている。
どこかだらしない仕草なのに、その体の動きには妙な色気が漂っていて、目を逸らそうとしても視線が張り付いて離れなかった。

湯気を纏った肌は白く、濡れた髪の水滴が首筋を伝い、鎖骨を掠めて落ちる。
その一瞬さえも緩慢で挑発的に見える。

同年代のはずなのに、彼はまるで別の世界にいる生き物のようで──僕は息を飲むことしかできなかった。

「昨日のこと、覚えている?」

益江店長と『華籠』へ行って……。
改めて、目の前の青年の顔をまじまじと眺めた。
濡れた前髪の隙間から覗く黒い瞳が、照明の光を受けて艶やかに揺れる。
どの角度から見ても破綻のない整った輪郭。

「……鶴華……さ……ん?」

「お、思い出してきた?麻里華がジンジャエールとハイボールを間違えて渡したせいで、酔いつぶれたんだけど。大丈夫か?」

部屋の隅に置かれた、小さなレトロ冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出すと、ポイと投げてよこした。

「頭、痛くないか?それにしても、本当にグラス半分で酔っぱらうんだな。しかもハイボールなんかで。」

からかうような笑みを浮かべながらも、声の調子は不思議と柔らかい。
頭を撫でる仕草が、まるで小さな子どもをあやすようで、胸の奥がざわついた。

「『バーボン、ロックで。』とか、言いたかったですよ、僕も。実際は、一パーセントのチューハイ一缶で眠ってしまいます。」

「本当にハードボイルド引きずってる。」

そう言って、また笑われた。
鶴華は、僕の友達にはいないタイプだ。
飄々として自由で、それでいて自分の足で立っている感じ。
年齢は同じくらいなのに、先に社会に出ているせいか、随分大人な感じがする。

折角の会話を遮るように、入り口近くに無造作に置かれた鞄の中の携帯電話が震えた。

「今朝、八時ごろからずっと鳴ってる。」

「……はぁ……。」

鶴華は鬱陶しそうに視線を向けただけで、手近にあった煙草の箱を掴むと一本引き抜く。
僕が憧れる小説の登場人物のように、金属音と共にオイルライターで火を点けた。
途端、紫煙がふわりと立ち上り、甘いメンソールの匂いが漂う。

「誰から?彼女?」

「……お母さん。」

重い吐息が部屋の空気に混ざる。鶴華は何も言わず、灰皿に灰を落とした。

「兄が家を出てから……酷く過干渉で……。正直、参ってる。」

なぜか、彼には素直に言葉が出る。
鶴華はベッドの端に腰かけ、長い脚を組んで黙って煙を吐いた。
無表情に見える横顔なのに、不思議と「もっと話していい」と言われている気がした。

──父は仕事ばかりで、母は家に縛られ、兄は優秀すぎた。
兄が医大進学と同時に出て行った途端、僕の肩に全ての視線と期待が乗った。
反発するように美術大学を志したが、「現実を見ろ」と突きつけられる冷たい声が耳に残っている。

「学費は出しません。保証人にもなりません。」

母の声が脳裏にこだました。

鶴華はまた、灰を落とした。
長い指先と煙の仕草が妙に静かで、語る僕の胸のざわめきを吸い取っていく。

「名古屋大学なら、文句言えない……ってことで認められたけど、下宿費は駄目だって。結局、実家暮らし。」

「へぇ。」

小さく相槌を打つ声が、タバコの煙の向こうから届いた。
反応は薄いのに、なぜだろう、心の中の重しが少しずつ軽くなっていく。
だが、実家暮らしな以上、母の過干渉は変わらない。
その癖、いっぱしの母親みたいに「学生の間はバイトをするべき」なんて言ってくる。

そんな母親への反抗心もあって、錦でのアルバイトを始めたのだ。
もちろん、母親は僕が錦で働いているなんて、微塵も知らない。
名古屋の和食割烹店で接客のバイトをしていると認識している。

ごくたまに「徹夜でのカラオケ」と称して、店長が夜の社会見学へ連れて行ってくれる。
店長が母へ直接電話をしてくれるため、許されているに過ぎない。
なので、午前八時を過ぎても帰らない息子を心配している。

鳴り続ける電話が耳障りで、仕方なく電話に出る。
母に友人宅へ泊まったことを告げて、一方的に切った。
女の子じゃないのだから、そんなに心配しなくても。

はぁーと重い溜息が漏れる。

「真面目ちゃんの家も、大変なんだな。」

鶴華は灰皿に煙草を押し付けて火を消すと、にやりと笑って僕を見た。

「じゃあさ、帰りたくなくなったら、俺んち来れば?」

さらりとした口調。
まるで「コンビニ寄ってく?」くらいの軽さで。

「……えっ?」

思わず固まる僕に、鶴華はクスリと笑った。

「心配すんなって。お前、俺のタイプじゃないから。」

煙に掠れた声がやけに心地いい。

「そ、そういうの、面と向かって言うなよ……。」

僕が困った顔をすると、鶴華は面白そうに目を細めた。

「だってさ、そうじゃなきゃ怖いだろ?ほら、俺って顔もキャラもこうだし。……でも、気分転換したいときくらい、俺んち逃げてきていいよ。」

その軽口に、胸がちくりとする。
でも、同時にふっと力が抜けた。
鶴華の言葉は雑なのに、不思議と救われる。

「……いいの?……本当に、来るよ……。」

「おお、来い、来い。どうせ、寝るためだけの部屋だからさ。」

軽く笑いながら言う鶴華は、どこまでも自由で、壁を作らない。
だけど灰皿を僕の方へ寄せて、煙が流れないように気を配る仕草は、その言葉よりずっと優しい。

きっと僕なんて、鶴華にとって何でもないのだろう。
だけど、そんな彼の気まぐれみたいな優しさに、胸の奥がきゅうっと熱くなる。

「ありがとう。」

ただの一言なのに、口に出した瞬間、胸の奥でじんわりと響いた。
こんなふうに誰かに頼れて、甘えることを許されるのは、いつぶりだろう。
自分のために差し出された優しさに、心の張りつめた糸が少しだけ緩む。
鶴華が作ってくれたこの小さな居場所が、思った以上に僕の中で大きな意味を持っていた。
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