ネオン街の恋

伊佐ヅカ

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第一章:直哉編

第九話:朱の罠

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鍵を回す手の震えが止まらない。
扉を閉める音が、やけに大きく反響した。
誰もいない。
いつもの匂い──香水と煙草と、洗い立てのタオルの微かな洗剤の匂い──だけが残っている。
安心するはずのそれが、今日は胸の内側を刃物みたいに撫でていく。

ソファの上、深緑のドレスが斜めに落ちている。
僕が粘着ローラーで細かいゴミを取って、僕が畳み、僕が彼の衣装ケースへしまう。
そうやって“二人の部屋”の形を保ってきたはずなのに、空っぽの空気が、僕ひとりの滑稽さを照らし出す。

麻里華の声が頭の奥で繰り返される。
──彼氏。
二音で十分だった。
内側で何かがばきん、と割れる。
割れ目から滲むものを、手で押さえようとして、押さえられない。

「……ただの、友達だもんな。僕は。」

声にすると、余計に痛い。
ただの友達……なら、どうして、灰皿に残る彼の口紅のついた吸殻を捨てるのを躊躇ってしまうのか。
どうして、帰ってくる時間に合わせて炊飯器の保温を切る癖がついた。
どうして、ベッドサイドの小物入れに並ぶピアスの向きを、無意識に揃えてしまう。
どうして。

胸ポケットが重い。
合鍵。
取り出して掌に乗せる。
ひんやりした金属に僕の体温が移っていく。
──渡された夜の、あのぶっきらぼうな横顔。
煙草の火。
そっぽ向いたままの「礼なんていらねぇ。」
あれは、僕にだけ向けられた温度だった。
信じたい。
あれだけは、僕だけのものだったと。

それでも、想像が勝手に動き出す。
見たことのない顔。
名も知らない声。
麻里華の「彼氏」という言葉が、頭の中でぐるぐると反響する。
その瞬間、想像したくもない光景が勝手に形を取ってしまう。

鶴華の長い指が、その男の腰を引き寄せる。
吐息が混ざり、舌が絡み、僕の知らない甘い声が夜に零れた。
その光景が脳裏で勝手に再生され、胸の奥がぎゅっと抉られる。
男は恋人として、最後まで愛される。
慰めではなく、彼に求められる。
僕が求めた恋人としての熱量。
それらを、知らない男に奪われていく。
胸の奥で、胸の中で何かがぐしゃりと潰れる音がした。

頭では「ただの想像だ」とわかっているのに、心臓がひりつくように痛い。
胃の奥が掴まれるみたいに苦しくて、吐き気すら込み上げる。

どうしてだ。
僕の名前を呼ぶ声を、誰より近くで聞いていたのは僕だったのに。
笑い声も、涙も、ぜんぶ知っていたのは僕だったのに。

「やめろ」

声が出た。
僕自身に向かって。
想像を止めろ。止めろ。止まらない。
胃の奥がぎゅっと縮み、喉が焼ける。
世界が少し傾いて見える。

スマホを掴む。
「どこ?」と打って、消す。
「帰ってきて」と打って、消す。
送信ボタンに親指を近づけて、画面を消す。
送った瞬間、何かが壊れてしまいそうで。
送らないままでも、何かが確実に壊れていく音がする。

僕は知っている。
彼は僕を「甘えさせて」くれる。
髪を撫でる。
抱き寄せる。
優しい。──けれど、それが“恋じゃない”ことも知っている。
知っているのに、知ってからの夜の方が、彼の体温に溺れた。
あの腕の重さで、呼吸が楽になるから。
だから、罰なら受けるべきだ。
これは僕のわがままだ。
僕は彼にふさわしくない。
タイプでもない。
恋人にもなれない。
……でも、だからこそ、手放せない。
手放したら、僕の中の世界が空洞になってしまう。

枕に顔を押し付ける。
洗い替えを買ったのは僕だ。
柔軟剤は僕が選んだ。
けれど、その全部を鶴華の匂いが上書きする。
深呼吸する。
胸が痛い。

好きだ。
どうしようもなく、好きだ。
彼が他の誰かの名を呼ぶ口元を想像して、吐き気がするほど、好きだ。

「僕たちは、ただの友達。」

唱え続ける。
呪文みたいに。
口の中で転がすうちに、言葉が砂になって崩れていく。

友達。友達。友達──じゃあ、どうして鍵は僕の手の中にあるのか。
どうして、泣く僕の頭を抱えて「なおやの弱さは俺だけが知ってればいい」なんて言った。
どうして、あの夜のキスは、いつまでも熱い。

時計の秒針が静かに進んでいく。
このまま朝まで一秒ずつ数えきったら、何かが鎮まるだろうか。
──違う。違うだろ。
僕は知っている。
これは一時の動揺じゃない。
ゆっくり、確実に沈んでいく感覚だ。
底の見えないところまで。
溺れる先に何があるか、想像したくないのに、想像してしまう。
もし、彼が二度と帰ってこないと言ったら。
もし、鍵を返せと言ったら。
もし、僕の目の前でその“彼氏”に微笑んだら。
……その時、僕はどうする?

答えは出ない。出したくない。
けれど、ひとつだけはっきりしている。
──僕は、待つ。
笑われてもいい。
惨めだと言われてもいい。
ここで待つ。
帰ってくるまで、何度でも待つ。
迎えに行く。何度でも。
彼が拒んでも、突き放しても、僕はまた扉を叩く。
それが間違いだとしても、病的だとしても、僕の中の何かはもう選んでしまった。
選び方を知ってしまった。
“手放さない”という選び方を。

掌の鍵を握り直す。
金属の角が皮膚に食い込む痛みで、かろうじて呼吸の速度が整う。
涙の跡が冷えて、頬がひりひりする。
帰ってきたら、僕は何と言うだろう。
「おかえり。」
それだけでいい。
他は何もいらない。
詮索もしない。
責めない。
──その代わり、どうか。
どうか、ここに帰ってきて。
僕のいる、この狭い部屋に。
君の匂いが染みついた、この場所に。

静まり返った室内で、冷蔵庫のモーター音が遠くに響いた。
夜は長い。けれど、僕の長い夜は、ここが始まりだ。
君を手放さないと決めた夜。
僕だけが知っていればいい、と言われた弱さを、君だけに向けて持ち続けると決めた夜。

ドアの向こうを見つめる。
いつでも開くように、耳を澄ます。
心臓が、合図のようにひとつ、大きく鳴った。




さすがに二連続の外泊はないだろうと、緊張して待っていた。
しかし、一向に鶴華は帰って来ない。
何度もスマホを覗くが、連絡もない。

カタンという小さな物音に、顔を上げた。
──ああ、やっと帰って来た。
扉の向こうの人の気配に、張りつめていた胸が緩む。

けれど、ふらつく足取りで部屋へ入ってきた鶴華を見て、安堵はすぐに凍りついた。
酔っているはずなのに、目の焦点が合っていない。
僕を見ているようで、どこか遠くをさまよっているような視線。
胸の奥に、説明できないざわめきが走った。

「……なおやぁ。」

甘ったるい声。
けれど、その響きはいつもの柔らかさではなく、湿って熱を帯びた異様なものだった。
その笑みは笑顔なのか歪みなのか──僕は言葉を失い、足が床に縫いつけられたように動けなかった。
何……何が、起きている?

次の瞬間、肩を強く引き寄せられ唇が押し付けられる
タバコと酒に混じる知らない薬品めいた匂いが鼻を突く
舌が荒々しく差し込まれ呼吸が奪われる
いつもと違う 押し付けるような官能的な口づけに指先が震える

「……っや、やめ……!」

必死に声を押し出すが掠れて自分にすら聞こえない
痛いほどの力で手を引かれベッドの上へ投げ出される
視界がぐるりと回転し 見慣れた天井が遠く霞む
ベッドが軋む 重みがのしかかる シャツのボタンが乱暴に外される
冷たい空気が肌を撫で背筋が凍る
彼の指は熱いのに その瞳には僕が映っていない

「……かわいいなぁ なおや……」

どろりとした声音が耳を打つ 全身が固まる
鶴華の手が胸を撫でる ザラリとした違和感が皮膚を這う
どうしようもない悪寒が走る
その触れ方は優しさでも愛情でもなく ただ獲物を確かめるみたいで

「……鶴華、やめて……っ」

声は震える 手も足も動かない
熱い息が耳を舐めるようにかすめる 心臓が喉までせり上がる
これは鶴華じゃない
鶴華の形をした何かだ
得体の知れない怪物が耳を食む
彼なら絶対にそんな触れ方はしない そう思うのに指先は直に下腹部へ
先を探るように 弱いところだけを弄る

嫌だ嫌だ
鶴華になら 何をされてもいいのに
今の鶴華は 鶴華じゃない

「……もう、いやだ……!」

悲痛な叫びが部屋に響く
一瞬だけ 鶴華の肩がびくりと揺れた

──そう思った瞬間、世界がぐらりと揺れた。
唐突に、重い身体が僕の上へ崩れ落ちる。
息が詰まり、視界が一瞬真っ白になる。
耳元に響くのは、浅く乱れた呼吸──それが次第に、深い寝息へと変わっていく。

恐怖でこわばったまま、僕は動けなかった。
「助かった」と胸の奥で安堵する一方、背筋をなぞるような得体の知れない寒気が抜けなかった。

見上げた寝顔は、目の下に深い隈を刻み、口元には消えきらない笑みの影。
それでも、確かに鶴華だった。
震える手で抱き寄せれば、体温も匂いも変わらないのに――今、覆いかぶさるように眠るこの人を失ったら、もうどこにも行けない気がした。
何があっても、ここにいたい。
その想いだけが、胸の奥でしつこく鳴り続けていた。

しばらくして、鶴華の体をゆっくりと横へ押しやり、布団へ転がす。
重みが離れた瞬間、張りつめていたものが一気に崩れ落ち、声を殺した嗚咽がこぼれた。

「……なんでだよ……。」

顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら、枕に縋る。
半裸で乱れた自分が、酷く惨めに思えた。
さっきまでまとわりついた甘ったるい笑みも、異様に爛れた声も、全部、見知らぬ誰かみたいで──。

違う、こんなの僕の知ってる鶴華じゃない。
……なのに、目の前で眠る彼は、ずっと僕が守りたかった鶴華で。

「嫌いになんてなれない」と、涙でぐちゃぐちゃになりながらも必死に自分へ言い聞かせた。

布団を掛け直そうとしたとき──胸ポケットから、何かがするりと落ちた。
ベッドに転がった小さな透明の袋。

「……え……?」

震える手で拾い上げる。
見たこともない、カラフルな錠剤。
ニュースでしか見たことがない光景が、現実として掌に乗っていた。

心臓が、痛いほど暴れ出す。
視界の端で眠る鶴華が、得体の知れない存在に見えてしまう。
さっきまでの笑い声が耳に蘇って、ぞっと背筋が冷たくなった。

「まさか……そんなわけ、ない……。」

必死で否定するのに、脳裏では「薬」という単語が赤文字で点滅して離れない。
怖い。怖い。
愛しているのに──どうして、こんなものを。

袋を握る手が震えて止まらない。
鶴華に触れたいのに、近づくのが恐ろしい。
涙と嗚咽で喉を詰まらせながら、僕は布団に崩れ落ちた。


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