ネオン街の恋

伊佐ヅカ

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第二章:鶴華編

第三話:鉄紺のざわめき

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「ええ、なおちゃん。可愛い~。」


夜七時──。

同伴出勤でもなければ、だいたい七時に店内に入り、着替えやメイクを済ませる。
店の準備を簡単に済ませ、予約客と自分の着く卓を確認したら、あとは皆携帯を触って時間を潰す。

最近は、何かとスマホの写真フォルダを開くことが増えた。

それはこっそり撮影した、文庫本に集中している直哉の写真。
直哉は時間が余ると、本を読む。
俺なんか本はもちろん漫画すら、読み方がわからない。
でも、本を読む横顔が神秘的で美しいと思った。
パジャマ姿で窓際に座り、微動だにしない。
窓から柔らかい朝日が差し込んで、思わずカメラを向けた。

雑誌の表紙でも通用するほどの一枚が撮れたと思っている。

「ってか、鶴華。どういうこと?同棲してんの?」

勝手に背後から盗み見て、麻里華は弾丸のように質問を浴びせてくる。

「同棲じゃねー。あいつにも色々事情があるんだ。たまに泊ってくんだよ。」

「やーん、ほら、ママ!!やっぱりあの時、私が連れて帰るべきだった!!」

泣き真似をしながら、ちゃっかり俺の手からスマホを奪い取る。

「何?この料理の写真?」

「え、泊めたお礼に、毎回作ってくれる……。」

派手にデコレーションされた爪で、器用に写真をスクロールしていく。

「はぁ。頭良くて、顔可愛くて、実家金持ちで、料理まで出来るとか、ハイスぺ過ぎでしょ。」

何故だかたいして仲良くないのに、麻里華がぐいとソファの隣に腰を下ろす。

確かにそう言われれば、直哉は女の子が放っておかないような好物件なのだろう。
しかし、一緒にいる限り特定の親しい女性がいるような影はない。

「で、付き合ってんの?」

証拠とばかりに麻里華が付きつけて来たのは、直哉の無防備な寝顔の写真。

「ええっ。鶴華となおちゃんって、付き合ってんの?」

面白そうと静華ママまで雑談に加わる。

「だから、ちげーよ。」
  
吐き捨てるように言いながら、胸の奥で別の声が囁く。  
──もし、直哉となら。  
そんな妄想を打ち消すように、舌打ちしそうになった。

「まー、そうだよね。医者の息子って言ってたし、そんなお育ちがいい坊ちゃんが、私達底辺のオカマなんて相手にしねーわ。」

麻里華の言葉が、浮かれていた心に突き刺さる。

「せいぜい、卒業までの暇つぶしよ。面白い生き物を真近で見たいだけ。どうせ、一緒にいても結婚できないし、子供が出来るわけでもない。なおちゃんには、立派な未来があって、私達には?何があんのさ?」

「ちょっと……麻里華。鶴華に絡まないの。……この子、彼と別れたばっかでね……。」

ママが麻里華の手を引き、カウンターへ座らせる。
客の前では粗相がないように、上手に話を聞いてやるんだろう。

直哉のことが、好きだ。
でも、好きの先に何があるのだろう。

目の前の快楽を分かち合うことしか知らない俺は、好きの先に何を見ればいいのかわからなかった。  

未来……今まで生きることが精一杯で、その先を考えないようにしていた。  
直哉ぐらい頭がいいと、やっぱりその先を見据えているのだろう。  
そう思うと、胸の奥がざわついた。  
俺は未来なんて語れる人間じゃない。  
気付けば、その差がどうしようもなく怖くなっていた。 




そんなことを考えながら、ベッドに転がった。  

『なおちゃんには、立派な未来があって、私達には?何があんのさ?』

ずっと頭の中で、麻里華の言葉が繰り返される。

隣では直哉がぐっすり眠っている。  
その寝顔は不安なんて一片もなく、無邪気そのものだ。 

眠れる気がしなくて、ベッドから直哉の綺麗な寝顔を眺めていた。
ふいに瞼が震え、半ば寝ぼけた声が漏れる。  

「……おかえり。」  

ふわりと笑った顔は、満開の花みたいに綺麗で。  
胸のざわめきは一気に溢れ、堪えきれず喉が鳴った。  
ああ、やっぱり駄目だ。  
どうしようもなく、こいつが好きだ。 

「何だよ、夢の中で俺が帰って来たか?」

もし、夢の中でもこうして待ってくれているのだとしたら……。
この幸せそうな笑顔が俺に向けられたものなら……。

望みを持ってもいいのだろうか。
直哉も少なからず、思ってくれているのでは。

途端、胸がざわめき落ち着かない気持ちになる。
もっと近くで直哉を見たくて、気配を殺してゆっくりとベッドを抜け出す。
直哉の横に寄り添うように、寝転ぶと優しい石鹸の香りがする。
規則正しい寝息すら、愛おしく思う。
大切にしたいという思いと、自分のものにしてしまいたいという相反する気持ちが渦巻く。
愛おしいという甘やかな気持ちと、直哉は俺の気持ちを受け入れてくれるのかという不安。
胸の中がぐちゃぐちゃになって、こんな思いは初めてで苦しい。

ゆっくりと直哉の髪へ触れた。
ふわふわとした癖毛が、優しい性格の直哉みたいで好きだ。
少しだけまろみを残した、頬をなぞる。

俺の好きな人。

閉じられたアーモンド形の綺麗な目に長い睫毛。
いつも笑みを向けてくれる、色づいた唇。
そっと、柔らかい唇を指先でなぞる。
直哉の眠りは深いようで、起きる気配はない。
どうしても、そこへ触れてみたくて、ゆっくりと唇を寄せた。
頭の中に直接響くように鼓動が聞こえる。
咎める者は誰もいないのに、緊張して手が強張る。
それでも、胸の中は愛しい人に触れられる喜びで溢れていた。

押し当てた唇は、温かく柔らかい。
その一瞬で胸が満たされるほど幸福だったのに――。

次の瞬間、ざらついた感覚が喉を塞ぐ。
俺なんかが、こんな幸せを持っていいはずがない。
心の奥底から、そう囁く声が聞こえた。

胸のざわめきは痛みに変わり、やり場を失った思考は自然と過去を呼び覚ます。
思い出したくもないのに、勝手に浮かぶ。




いつも、波の音が聞こえていた。

沖縄の海沿いの、ボロボロの借家に母と二人で住んでいた。
老人ホームで介護士として働き、夜勤もこなす母。
貧しかったけれど、母との生活は穏やかだった。
けれど、あの男が来るとすぐに壊れる。何度も、何度も。


小学校から帰り、がらりと玄関を開けると、乱暴に脱ぎ捨てられた男物の革靴。
背中に冷たいものが流れ、指先が恐怖で震えた。
直後、派手な音を立てて食器が割れる音がする。

「もう、……やめてっ!」

居間へ飛び込むと、顔を真っ赤にして拳を振り上げる父がいた。

顔だけが取り柄の男で、女の家を転々としている。
時折、金が足りなくなると、こうして母に金をせびりに来るのだ。

「お母さん!!」

怯えた目で父を凝視している。

瑛人えいと!!来てはダメ!」

震えた声で泣き叫びながら、痛みに備えて身体を竦める。

軋む骨の音が聞こえそうなほどに、重く打ち付けられる肉の音。
酒の匂いを巻き散らす、父の荒い息。
俺は、その痛みを嫌というほど、知っている。
……だから、動けなかった。
父の標的がこちらへ向かないように、そっと息をすることしか出来なかった。


そんな弱い俺でも、年月が流れれば身体は大きくなる。
──高校二年の冬。ついに殴り返した。

久しぶりに金をせびりに来た父を、思いっきり殴り飛ばしてやった。
男は酒を飲み、足元がおぼつかない状態だったし、体力的にも老いがきていた。

積年の恨みを晴らすように、必要以上に殴り続けた。
鼻の骨が折れ、顔面が血塗れになっても、この男が母にしてきたことを思えば。

「ごめんなさい……やめてく……。」

母がどれだけ、同じ言葉を口にしても止めなかったくせに。

「瑛人!!」

間に入った母は、怯えた目をして俺を見ていた。
その目は、いつか手を上げた父を見る目と同じ。
はっとした。
ああ、俺は確かにあの男の子供で、同じ血が流れているのだと理解した。

母は、今度は父を背にして守るように立っていた。
もう、ここには居られないのだと悟る。
その夜、俺は家を出た。


いつ父に生活費を取られてもいいように、元々アルバイトをしていた。
その金で、内地の福岡、中州へ渡った。
あと数ヶ月で十八歳になる為、何とかホストの下働きとして拾われる。

そこから二年間は、ホストを続けた。
拾ってもらった恩と二十歳を越えないと、客と一緒に酒が飲めないため雇ってくれる店が限られるからだ。

正直、ホストは向いていないとすぐに実感した。
そもそも女が苦手だ。
無駄に容姿だけはいい男のおかげで、昔から女が群がる。
金を貰っている以上、その女たちの我儘に答えるのは骨が折れる。
その上、金がない女には風俗を斡旋していること知ってしまった。
不幸になるとわかっていても、依存している女が母親の姿と重なり、見て見ぬ振りが辛い。


そんな愚痴を小さなバーで零していたとき、カウンターの端に座っていた着物姿の女が言った。
妙に野太い声で、それでいて人を見抜くような目をしていた。

「女の闇を覗いて、見て見ぬふりしてやるのがホストでしょ。向いてないわね、あんた。」

反射的にむかついた。
けれど、その声音には妙な力があった。
突き放すのではなく、叩きつけてでも救い上げようとする力強さ。

「何だよ……。」

「あんた、可愛い顔してるじゃない。うちに来なさいよ。ビジネスオカマでもいい、売れりゃ勝ちよ。」

それが静華ママとの出会いだった。
化粧の仕方も、服装の選び方も、酒の注ぎ方も、全部ママに叩き込まれた。
中途半端な態度を見せれば容赦なく怒鳴られ、失敗すれば尻を叩かれる。
けれど、不思議なことに突き放されることだけはなかった。

「転んでもいい。立ち上がり方を覚えな。」

厳しい言葉の裏に、必ず温もりがあった。
俺にとっての“第二の母”は、この人だった。

“鶴華”という名前はママが付けた。

「ださっ。」

 と笑う、そんな俺に真剣な顔をして言った。

「しけた顔してるから、目出度い鳥の名前よ。飛び続けて、どこでも生きていけるように。華は、私から一文字あげる。」

他に代案が出せるわけもなく、ありがたく頂戴した。
初めて誰かが、未来を願ってくれた名前だったから。

その日を境に、俺は“瑛人”ではなく、“鶴華”として生きるようになった。
やがてママが名古屋で店を出すと聞き、迷わず付いて行った。
この人の下でなら、自分もまだ人として生きていけると思えたから。


それから俺は、ずっと夜の世界で生きている。

若さに任せて、怖いものなんてなかった。
いや、正しくは、もう何を失っても構わないと思っていた。

客に誘われればそのまま流される夜もあったし、仕事帰りの勢いで関係を持つこともあった。
「遊びだ」「ビジネスだ」と笑い飛ばしながら、心のどこかでは何度も抉られていた。
抱いても、抱かれても、残るのはざらついた虚しさだけ。
それでも、どうでもいいと思っていた。
明日を生き延びられるなら、それで充分だったから。
だから俺は汚れている。


何も知らずに眠る、清い俺の思い人。
やがて就職して、立派な社会人になって、いずれは家庭を持つのだろう。
そうなれば、錦に足を運ぶこともなくなり、俺の存在なんて思い出さなくなる。
きっと、学生時代の一時の気まぐれとして片付けられる。

でも今は、隣で寝顔を見られる。
微笑んだときに揺れる睫毛も、寝返りのたびに漏れる吐息も、全部俺だけのものに思えてしまう。
未来では失われるとわかっていても、どうしても手放したくなかった。

だから、せめて俺の汚さに気づかないで。
恋じゃない。
友人だ。
そう繰り返しながらも、胸は灼けるように疼いていた。
直哉が錦を去るその日まで、せめて隣で笑っていてほしい。
それだけでいいと願うほどに──俺の想いは、もう手のつけようがなく熱を帯びていた。

「好きだよ。」

眠る唇に触れながら、吐息のように言葉を落とす。

返事なんてあるはずがないのに、直哉の口元がふっと緩んだ気がした。
微笑んでくれた錯覚だけで、胸の奥が熱く満たされていく。

たとえ夢の中の誰かに向けられた笑みでもいい。
今だけは、自分の言葉に応えたように思わせてくれ。

そう願いながら、俺は目を閉じた。
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