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001. ロード・オブ・ロード

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 海中から見る太陽のように、白い光が揺れている。
 もう少しだ。
 もう少しだけ手を伸ばせばこの手は届く。
 
 まだ、死ねない。
 まだ、滅びを受け入れられない。
 
 この身には果たさねばならない事がある。
 同胞の無念、裏切りへの誅。人を駆逐し、世界をこの手に。

 先に冥府へと逝った無数の魂が我が名を呼ぶ。 
 夜を総べる王の名を。
 最強を誇る王の名を。
 
 天地を掴む者エーレンバール
 絶対の勝利者エーレンバール
 深淵の到達者エーレンバール
 
 魔王の中の魔王! 盟主を総べる盟主! 再起を願う臣下の声が魂を震わせる!

 そうだとも!
 我が魂が冥府へと逝くは今では無い!
 
 歪む光に手をかざす。
 これは生命の形、願いのしるし
 掴み、手中に収めれば我が秘術――蘇りの秘法は成立する。
 
 あと一歩、あと一歩だ……。
 きろ! きろ! 生命いきろ!
 
「……ぬ、ぅぅううおおおりゃあああっ!」
 
 エーテルの境界面を突き抜け、現世へと浮上する。
 自身の存在が確立し、完全な受肉を果たした。
 濡れた肌を風が撫でた。見上げる空は突き抜ける青。胸に入る空気はどこまでも清い。
 
――成功だ!
 
 達成感に胸が早鐘を打つ。
 きっと難事を成し遂げた興奮からだろう、吐く息がひどく荒い。

 両手を鳥の翼のようにおおきく開き、四肢の先端にまで空気を伝わせるように深く、深く、深く息を吸う。
 体内に息吹が満ちる、魂に感情が満ちる。
 
「フッ――……余は戻ってきたぞ。現世にな……!」

 くるぶしに打ち寄せる波の感触が心地良い。全身で感じる世界の感触。エーレンバールは再度の生を心底から実感した。
 が、続けざまにかつて味わった死の記憶が芋づる式に浮上する。
 
 それは敗北の情景。
 苦い。あまりにも苦々しい過去だ。

 この胸を貫く聖剣の冷たさ。
 13人の英雄どもの忘れ得ぬ顏。
 そして7人の裏切り者。
 
 逆臣の愉悦に浸った顏と、勝ち誇った笑い声が何度もひびく。

『愚かなる王陛下。力を持て余す暴君よ。あなたの夢が辿り着く世界には何も無い。世の平穏のため、どうかここでご退位なさると良い。そう、永遠に』

「……思い出すだけでも腹が立つ物言いよ。だが……フッハハハア……! ヤツらめ、余が<蘇りの秘法>を行使していたことについぞ気付かなかったな!」

 両肩を上下に揺らして不敵に笑う。空気で肺を満たし、過去を吹き散らすようにして大声で笑ってやった。

 怪しかろうと構うものか。どうせ誰も居ないのだ。
 自らの王が死んだと思い込み、今頃は安堵にあぐらを掻いているであろうヤツらの首を叩き落とす光景を脳裏に描けば、それこそ笑いが止まらんというもの。
 
 復讐劇!
 魔王エーレンバールが――いや万人が愛する、至高の物語!

 まさかこの王自らが登壇するとは思いもしなかったがこの際構わない。むしろ好都合だといえる!
 
「死に果てた同胞よ! 逆臣どもと人界の英雄どもに誅を下す余の覇道を、草葉の陰より見ているが良い! エーレンバールはここにあり! フハーッ! ハッハッハアッ!」

 あらん限りに両腕を伸ばし、大空を抱くようにして手の平を上向ける。腹の底よりこみあげる高笑いがどこまでも痛快だった。

 戦争、蹂躙、征服!
 これこそが我が根源!

 世界よ、人よ、神々よ! 見ているがいい!
 復活を果たした魔王エーレンバールが持てる力の全てを尽くし、今度こそこの世の全てを平らげてやろうではないか!
 
 
 
「……あの」

 どこからか遠慮がちな小さな声が聞こえ、喜色満面に高笑いを続けるエーレンバールの興を削いだ。

 空気を読めぬこいつはいったい何者だ? まあ良い。誰であろうと構わない。
 魔王の再臨に立ち合いし幸運なる者よ、近くへ来るが良い。
 
 そう思いながらに声の方向へと目を向けると、視線の先には焚き木を囲んで車座に座り込んだ甲冑集団。
 おそらくは騎士だろう、その全員が誰ひとりの例外もなく、こちらへと熱心な視線をくれていた。
 
 好奇、関心、嫌悪。
 好意的なものはひとつも見当たらない、イヤな目だ。

 声を掛けてきたのは騎士の1人、まだ少年にも見える若い男だった。
 彼は顏を赤らめ、そしておずおずとした調子でまたもや遠慮がちに、
 
「あなたがどこのどなたかは存じ上げませんが、その、婦女子が裸のままに野外で叫ぶというのはいかがなものかと……思いまして……」

 エーレンバールが笑う。
 人間風情が何を言う。婦女子? 裸? 目が曇っているにも程があろうというものだ。

「……何を申すかと思えば。余が婦女子だと? はっ、笑わせるでないわ! 魔王エーレンバールのこの! 闇の英傑に相応しい! 勇壮極まる出で立ちが見えぬのか!? 見よ! この漆黒の鎧を! 一切の光を飲み消す暗黒の外套を!」

 男へ目掛けて右腕を勢いよく掲げ、空いた左腕の指先を我が胸へと添え、胸を誇るようにしてエーレンバールが高らかに言う。

 魔王と婦女子の違いが分からぬあたり目か脳の病だろうとは思うが、余がこうまで見せつければ人間どもにも我が勇姿が見えることだろう。
 
 と、違和感。
 
「む……?」

 胸に向けた指先が柔いものに触れる。
 押せば浅く沈み、返す弾力はさながら餅のよう。

 よくよく見てみれば我が身は暗黒の鎧をまとっておらず、外套のあるはずの背に吹き付ける風がやたらに寒い。
 
「む、む?」

 頬に触れる。これもまた柔らかい。
 よもやとは思うが……。いや、これはもはや確信と言っていい。
 
「待て。待て待て待て……。なんだこれは? 肌……? 人の肌だと!?」

 そうと気付けばエーレンバール本来の深く、厳かな声もどこにも無い。
 この喉が紡ぐのは小鳥のさえずりにも似た、軽やかな少女の声!
 
「そこな騎士! 貴様に頭を下げるのは業腹だが、本当に業腹だが! 剣を寄越せ!」
「えっ。いや、いやいや、そういうわけには」
「ええい! 少しばかり鏡代わりにするだけだ! さっさと寄越さぬか!」

 ずしり、と怒気を滲ませる重い足音は聞こえない。
 代わりに立つのは浅瀬の水を蹴り飛ばす、ぱしゃぱしゃとした涼やかな水の音。

「貸せ!」
「ちょっ、ちょっと! あなた裸でそんな、近付かないで!」
 
 当惑顏のままの少年騎士の腰にぬらりと手を回して剣を引き抜く。
 新品同然によく磨かれた一振りだった。

 栄誉と戦いを好むエーレンバールが鼻を鳴らす。
 血の臭うがまるでしない剣。まるで生娘のようだな。反吐が出る。
 普段ならば不快の顏をおおっぴらに見せてやるところだが、今は急ぎだ。

 鏡のように磨き上げられた剣の腹を前にし、目を閉じ、深く息を吸い、
 
「――……まさか。冗談ではないぞ……」

 そこには一縷まとわぬ裸身の女。
 金髪紅眼のうら若き女がこちらを見返していた。
 
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