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第一章 女王とその奴隷
09.火傷
しおりを挟む「ああ、もう本当に埃っぽい屋敷だね!いくら掃除してもちっとも綺麗になんかなりやしない」
オデットは大きな声でそう言ってドスンッと椅子に座り込みました。今日は朝からロカルドが家を空けているので、私たちは昼食の準備すら行う必要もなく、実にのんびりとした時間が流れています。
主人の不在を良いことに、暖炉の前で陣取って動かない同僚を注意すべきか、私は頭を悩ませました。
「アンナ、ホットミルクを一つ」
「はい……?」
「今すぐ作って持って来るんだよ。小鍋で牛乳を沸かすだけだから、お前でもすぐ出来るだろう」
「オデットさん、旦那様の居ない間に冷蔵庫のものをくすねてはいけません。昨日だって小麦の袋の数が一つ減っていました。貴女が持って帰ったんじゃありませんか?」
一息で私が言い切ると、オデットはあからさまに悪い顔を作って舌打ちをしました。
これは最近気付いたことですが、この年配のメイドは、屋敷の中の食料を少しずつ自分の家へ持ち帰っているようなのです。初めこそオレンジやパンの数が合わない程度だったので私も目を瞑っていましたが、まだ使っていない小麦の袋が跡形もなく消えているのを見たとき、さすがの私も怒りを覚えました。
私だって貧乏人です。
今まで勤めた貴族の屋敷で、美味しそうな食品や、豪華な装飾品をこっそり持ち帰りたいと思ったことがないとは言えません。だけど、行動に移したことなどありません。だってそれは、犯罪なのですから。
いくらこの屋敷の主人が、まだ若く、人を使うことに慣れていない人間であると言っても、使用人である私たちが盗みを働くなど言語道断です。許されざる行為でしょう。
「頭が堅い女だねぇ。私たちはこの屋敷の管理を任されているんだよ。旦那様が正確な情報を把握してないんだから、一つ減ったって分かるもんか!」
「オデットさん!」
「そこを退きな、私が自分でミルクを沸かすから。ウスノロのあんたはフライパンの焦げでも落としてなよ、ほら!」
「熱っ……!」
近付いて来たオデットが、コンロに掛けたまま冷ましていたフライパンを私に差し出した時、運悪くその縁が手の甲に当たりました。夕食に出す予定だった魚料理に添えるソースを温めていた鉄のフライパンは、まだ十分に熱を保っていて、私は自分の皮膚が焼ける恐ろしい痛みを感じました。
「なんだい、大袈裟だね。置いておくから洗っときなよ」
ぶつくさと文句を言うオデットの声を背後で聞きながら、私は水道を捻って自分の手を冷やすことに必死でした。
手は私の大事な商売道具なのです。
私は、昼はこの手で床を磨き、夜は女王として奴隷を喜ばせる必要があります。ただでさえ腱鞘炎になって震えが起きるのに、これ以上使い物にならなくなったら困ってしまいます。
オデットへの恨みが無いわけではありませんが、性悪な彼女には何を言っても無駄です。私だって下女として仕えてきた年数は長いですから、陰湿なイジメの一つや二つは経験があります。
大抵のことは、私が我慢することで解決しました。
今回だってきっとそうなのだと思います。
そうでないとしても、私はオデットのことをロカルドに報告した場合に起こりうる展開を考えて、何も告げないという選択を選びました。
私が老婆の手癖の悪さを報告すれば、きっとロカルドは雇用主の権限で彼女を解雇するでしょう。それはつまり、五人の母であるオデットが職を失うことを意味します。そして、ロカルドはまた新たに使用人の募集を掛けなければいけません。
そんな大層なことに発展するぐらいなら、私はただ自分の手に包帯を巻いて黙っていようと、思ったのです。
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