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第一章 女王とその奴隷
27.役割
しおりを挟む車が私の家へ到着する頃、空はもう暗くなっていました。
私は送り届けてくれたロカルドに茶でも出すべきなのか、それとも深く感謝を伝えるだけで良いのか判断し兼ねました。
白い息を吐くロカルドに向かって、とりあえず建前だけでも誘っておくべきかと「中へ入りますか?」と遠慮がちに聞いてみたところ彼は頷いたので、仕方なく部屋の中へと招き入れました。こんなことは以前もあったような気がします。
「すみません…大したものは出せませんが」
差し出した紅茶の入ったティーカップを少し眺めて、ロカルドは口を付けました。
自分が普段使っている食器を、自分の雇い主が使っているのは不思議な風景です。なにぶん滅多に来客のない我が家なので、私は緊張を覚えました。正直落ち着きません。
「あの…ルーベンさんが、旦那様が結婚するって」
「結婚?」
しくじりました。
話題に困ってつい口を突いて出ましたが、こんな話を振れば私が普段から主人のプライベートを同僚と噂するスピーカー女だと打ち明けるようなものです。
きょとんとした顔のロカルドになんと説明するべきか困っている間に、彼は「もしかして」と自ら口を開きました。
「見合いの話か?ヴィラモンテの人たちは随分と世話好きが多いみたいで、出会う人皆が俺に縁談を持って来ようとする」
落ちぶれても貴族なんだな、と溢す表情は悲しげでした。
私にはよく分かりません。平民として生まれ、特に比較的貧しい平民として育った私には、貴族の悩みなど理解できるわけもありません。ただ、黙って生きているだけで金には困らず、媚びへつらわなくても縁談が舞い込む状況の何が不満なのかと不思議に思いました。
「乗り気ではないのですか?」
「まぁな。まだ街のことも知らない部分が多いのに、結婚相手なんて遠い話だ」
ロカルドは、私が彼の書いた手紙を読んだことを知らないのでしょう。私の胸は平然と吐かれた嘘に大きく抉られました。手紙の中で彼は、縁談を受け入れると書いていたのです。それは遠い未来の話とは言えません。
「旦那様は、婚約したいと思った相手も居なかったのですか?貴族令息は適齢期になると婚約者を選ぶと聞きますが…」
聞き齧った知識を思い返しながら尋ねると、ロカルドは急に下を向いて黙り込みました。プライベートなことに踏み込み過ぎたでしょうか。
長引く沈黙に耐えかねて「出過ぎたことをすみません」と謝ろうとしたとき、ロカルドは顔を上げました。それは何かを決意したような堅い表情でした。
「昔、婚約したことはある」
「そうなのですね……」
驚くことではありません。
しかし、彼が現在独り身であるということはつまり、その婚約がどういうわけか破談になったことを意味します。私の反応を見ながらロカルドは話し続けました。
「相手は父が商売で関わっていた子爵家の娘で、俺は十八歳で学園を卒業するまでの三年間彼女の婚約者だった」
過去を思い出すように時折言葉を切ります。
「そして、学園を卒業すると同時に彼女は他の男と結婚した」
「え?」
「相手は俺の友人だ。これだけ話すと一方的に俺が婚約破棄されたと思うかもしれないが、実はこの話には理由がある。彼女が俺を見限ったのは……俺が不貞を働いたからなんだ」
「………!」
私はハッとしてロカルドを見ました。
それは言い訳出来ない事実のようでした。
ロカルドは青い瞳を揺らしながら、ミュンヘン公爵家と婚約者だった令嬢、そして彼女が選んだかつての友人との確執について語ります。それは私が雇われ始めた頃に、彼が話してくれた父親の逮捕に繋がる話でもありました。
彼の話を整理すると、その昔王都で鎬を削っていた二つの名家があり、それこそがミュンヘン公爵家とロカルドの友人のエバートン公爵家でした。しかし、エバートンはかつて多額の負債をミュンヘンに肩代わりしてもらったことがあるそうで、借金を返しても頭が上がらない関係が続いていたようです。
問題はここからで、その負債というものを生み出した原因が、ミュンヘン公爵が送り込んだ工作員による仕業だったと言うのです。何十年も前の話なので捜査も難航したそうですが、公爵本人の自白を元に経緯を辿っていった結果、すべてが仕組まれたことであると立証されたようでした。
しかし、ロカルドの父が犯した犯罪と、ロカルド本人の不貞はまた別問題です。「誠意など微塵もなかった」という彼の言葉が本当であれば、不貞も一度や二度とではなかったのでしょう。
私は知ってしまった主人の過去に、言葉を失いました。
「だから、アンナ……俺は絶対に幸せになってはいけない。君だけは俺を軽蔑して、嘲って、最期の瞬間まで見下していてくれ。馬鹿みたいに赦しを求め続ける俺の手を踏み躙って、現実を教えてほしい」
ロカルドは私の手を取って、祈るように目を閉じます。
私は自分が引き受けた役割の重さを今更ながら実感しました。
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