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第二章 男爵とそのメイド
69.或る二人の誓い
しおりを挟む食事を終えて、私たちは海の近くを歩くことにしました。
お腹がいっぱいだったのでちょうど良い散歩です。
風が吹くたびにどこからか潮の香りが運ばれて来て、私は自分が鳥のなったような気持ちになります。高い場所からこのヴィラモンテの夜景を見下ろせたら、さぞかし気分が良いことでしょう。
隣を歩く主人は私に歩幅を合わせてくれているようです。
いつも追い掛ける背中が見えないのは少し不思議です。
「アンナ……話があるんだ」
私は黙ってロカルドを見上げます。
暗い空の下で、彼の表情までは見えません。
「どうしましたか?」
返事をしながら、私はロカルド・ミュンヘンと初めて会った日のことを思い出していました。彼は何かに怯えていて、終始落ち着きがなく、警戒態勢でした。尖ったナイフのような心を癒すことが出来たのかは分かりませんが、最後に私の膝の上で目を閉じた彼が泣いていたのは覚えています。
目の前のロカルドを見つめてみます。
真っ直ぐに伸びた背筋、前を向いた顔。
もう彼は、あの時の彼ではありません。
「君に会えたこと、今でも時々夢なんじゃないかと思う」
「………随分と長い夢ですね」
そうだな、と言ってロカルドは少し笑います。
「自分のした行いや、父の犯罪…色々と考えると生きていて良いのか分からなくなる。本当は赦されてはいけないと理解してる。だけど、俺はどこまでも強欲で……」
「旦那様、」
ロカルドは私の足元に手を突き、跪きました。
そうしてポケットから小さな箱を取り出します。
本の中や、人様の話から聞いてたシーンが、今まさに私の身に起こっているとは信じ難いことでした。私の双眼は真剣な顔のロカルドと、彼の手に乗せられた白い箱の上を何度か往復します。
夢よりも、夢のように思えたのです。
私は今も眠り続けているのでしょうか?
「アンナ…俺にチャンスをくれないか?」
「チャンス?」
「恋人で良いなんて言ったけど、君を幸せにするにはそれなりの時間が必要だと思うんだ。それに、ミュンヘンの屋敷は一人で住むには広過ぎる」
「……愚鈍なので、もっとシンプルに伝えてください」
ロカルドは息を呑んで、私の手を取りました。
「幸せにすると誓うよ。俺と結婚してほしい」
私は腕を伸ばして、冷え切った肩に触れてみます。
ロカルドの手が私の背中に回りました。
こうして触れていないと本当に夢ではないかと思ってしまうのです。この黄金色の髪も、本当は優しい目も、大きな手も、何もかもすべて。目を閉じたら消えてしまうのではないのかと恐ろしくなります。確かめるように指で触っていると、ロカルドの両手が私の頬を包みました。
「時間が掛かってごめん。ミュンヘンを立て直すまでは待とうかと思ったんだが、」
「そうしたら私はおばあちゃんになってしまいます…」
「いや、銀行から融資を受けること出来そうなんだ。来月には会社として立ち上げるつもりだ」
まだ小さいけど、と少しだけ自信がなさそうに下を向くロカルドの目を覗き込みます。
「大丈夫ですよ……貴方なら、大丈夫」
「不思議だな。君がそう言ってくれると本当になんでも出来るような気がしてくる」
私たちはひとしきり笑って、唇を重ねました。
口付けに応えながら、私はどうしてこのキスが気持ち良いのか分かった気がしました。それはたぶん、自分で思っている以上に私が彼のことを好きだからでしょう。
誰かのことを愛して、その人も私を愛してくれる。
こんなに幸せなことだったなんて知りませんでした。
ロカルドはいつだって、私に新しい気持ちを教えます。
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