2 / 83
第一章 娼館セレーネ編
01.リゼッタの悲劇
その日は朝から咳が止まらなかった。
乾いたような咳が何度も出て、肺は焼けるように痛んだ。常備薬を飲んだところで発作は落ち着くわけもなく、数分に一度死にそうな顔をして咳込む私を見て、ルーシャ家のメイドたちは気の毒そうに距離を取っていた。
したがって、婚約者であるシグノー・ド・ルーシャから夜の誘いが来るなんて思いもしなかった。こんな明らかな病人を抱くほど彼の頭のネジが緩んでいるなんて常識的に考え難かったし、そこまで無慈悲な人間だとは知らなかった。
「……すみません、今日は咳がひどくて…」
「大丈夫だ。すぐに終わらそう」
「シグノー様…どうかお許しください」
拒絶の言葉が聞こえないようにシグノーはその手を私の胸元に差し込んで来て、思わず逃げるように身を捻った。
「………リゼッタ、何の取り柄もないお前を婚約者として皇室に招き入れたのは偏に第一王子である僕の兄が皇太子妃と不仲であるからだ」
「………、」
「父上は後継者が生まれないことを恐れている。僕は早く期待に応えたい」
「シグノー様のお力になりたいのは山々ですが、本日は本当に体調が優れないのです…申し訳ありません」
これまで、シグノーの要望には必ず応えてきた。
それが子爵家から婚約者に選ばれた自分の務めであると分かっていたし、拒否権などないと思っていたのだ。
しかし、どうしても今日はこれ以上の無理をすることはできない。ヒューヒューと喉を鳴らしながら荒い呼吸を繰り返す自分は、誰がどう見ても病人だ。こんな状態の私をシグノーは出来るかどうかも分からない後継ぎのために抱くというのか。
「そこまで無情な女だとは思わなかったな」
シグノー・ド・ルーシャは長い顎を撫で付けながら私のことを見下ろした。その冷たい目を見て私は身を小さくする。
「リゼッタ、君のように僕を尊重することができない女性は婚約者として相応しくない。出て行ってくれ」
「……そんな!」
体調を理由に夜の誘いを断っただけ。それも今回に限っての話だ。どうして彼はそこまで怒っているのか。私を気遣うことなど望んでいないから、ただ今日だけ放っておいてくれたら良いのに。
縋るようにシグノーの腕を取ると、汚いものに触れられたように彼は私の手を叩いた。
「もともと君は身体が弱過ぎた。母上にも言われたよ、出来損ないを摑まされたとね。今晩中に荷物をまとめてほしい」
「急過ぎます、体調が戻れば…明日になれば私も…!」
「病人を抱いても何も興奮しない。いっそ娼婦にでも弟子入りして男をその気にさせる方法でも学んで来たらどうだ?」
「………っ」
何も言い返せなかった。
物心ついた時からずっと薬漬けの毎日だった。外で遊べる時間は僅かで、少しでも日に焼けると翌日は高熱が出て寝込むような惨状。
こんな私でも、必要としてくれるならばと喜んで承諾した縁談だったのに。
「………承知いたしました」
頭を下げる私を見て満足したのか、シグノーは部屋を出て行った。
カルナボーン王国の第二王子であるシグノーから縁談の申し出があった時、育ての親であるアストロープ子爵は妻のケイトと手を取り合って喜んでくれた。決して裕福ではない没落貴族の家で養女として育てられた私が、様々な習い事をできたのは将来上流階級の殿方に見初められて結婚まで漕ぎ着くため。すべてが白紙に戻った今、彼らはどう思うだろう。
持って来た大きなトランクケースはすべての私物を入れてもまだ隙間があった。シグノーから貰ったのは最初に来た日に贈られた小さな銀の皿だけ。迷った末に、置いて行くのも嫌味のようだと思ってトランクに詰める。
思えば、不仲とはいえど第一王子は皇太子妃によく贈り物をしていた。薔薇の花束を抱えて「飾る場所に困るわ」と言う彼女を見る度に、胸を刺すような痛みを感じていたのは事実。本当のところ、羨ましいと思わなかった日はない。
こうして、私の愛のない婚約生活は幕を閉じた。
あなたにおすすめの小説
異世界に逃げたシングルマザー経理は、定時退勤だけは譲れない
木風
恋愛
DV夫から一歳の娘を抱えて逃げた鈴木優子は、光に飲まれて異世界の王宮へ転移してしまう。
生きるために差し出した武器は簿記と経理経験――崩壊寸前の王宮会計を『複式簿記』で立て直すことに。
ただし譲れない条件はひとつ、「午後五時の定時退勤」。娘の迎えが最優先だからだ。
その姿勢に、なぜか若き国王ヴィクトルが毎日経理室へ通い始めて――仕事と子育ての先に、家族の形が芽吹いていく。
すみっこ婚約破棄同盟〜王子様による婚約破棄のすみっこで〜
まりー
恋愛
ある夜会で王子とその側近達の婚約破棄が行われた。腕に恋人をぶら下げて。所謂、王道断罪劇である。
でもこのお話の主役は麗しのヒロインでも、キラキラ王子でも、学園一の秀才や騎士団期待のホープでもない。これは王道のすみっこで行われた、弱小貴族と商人の子息たちの婚約破棄のお話である。
_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _
「もう俺ら、恋なんてしない!」と言う小学生の息子の話を参考に書きました。登場人物の男子たちの頭は小学生レベルだと思って読んでください。
死ぬまでに叶えたい十の願い
木風
恋愛
「あなたを妻として、愛することはない。おそらく、生涯抱くこともないだろう」
三年間の白い結婚——捨て置かれた王太子妃エリアーナに、側妃が『死の呪い』をかけ余命一年を宣告する。
離縁を願うも拒否され、代わりに「死ぬまでに十の願いを叶えて」と契約する——
二人きりの外出、星空、海…ささやかな願いが王太子の心をほどいていく。
地味で役に立たないと言われて捨てられましたが、王弟殿下のお相手としては最適だったようです
阿里
恋愛
「君は地味で、将来の役に立たない」
そう言われ、幼なじみの婚約者にあっさり捨てられた侯爵令嬢の私。
社交界でも忘れ去られ、同情だけを向けられる日々の中、私は王宮の文官補佐として働き始める。
そこで出会ったのは、権力争いを嫌う変わり者の王弟殿下。
過去も噂も問わず、ただ仕事だけを見て評価してくれる彼の隣で、私は静かに居場所を見つけていく。
そして暴かれる不正。転落していく元婚約者。
「君が隣にいない宮廷は退屈だ」
これは、選ばれなかった私が、必要とされる私になる物語。
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)
ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように
柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」
笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。
夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。
幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。
王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。
『魔力ゼロの欠陥品』と蔑まれた伯爵令嬢、卒業パーティーで婚約破棄された瞬間に古代魔法が覚醒する ~虐げられ続けた三年間、倍返しでは足りない~
スカッと文庫
恋愛
「貴様のような無能、我が国の王妃には相応しくない。婚約を破棄し、学園から追放する!」
王立魔道学園の卒業パーティー。きらびやかなシャンデリアの下、王太子エドワードの声が冷酷に響いた。彼の隣には、愛くるしい表情で私を嵌めた男爵令嬢、ミナが勝ち誇ったように寄り添っている。
伯爵令嬢のリリアーヌは、入学以来三年間、「魔力ゼロの欠陥品」として学園中の嘲笑を浴び続けてきた。
婚約者であるエドワードからは一度も顧みられず、同級生からはゴミのように扱われ、ミナの自作自演による「いじめ」の濡れ衣まで着せられ……。
それでも、父との「力を隠せ」という約束を守るため、泥を啜るような屈辱に耐え抜いてきた。
――だが、国からも学園からも捨てられた今、もうその約束を守る必要はない。
「さようなら、皆様。……私が消えた後、この国がどうなろうと知ったことではありませんわ」
リリアーヌが身につけていた「魔力封印の首飾り」を自ら引き千切った瞬間、会場は漆黒の魔力に包まれた。
彼女は無能などではない。失われた「古代魔法」をその身に宿す、真の魔道の主だったのだ。
絶望する王太子たちを余目に、隣国の伝説の魔術師アルベルトに拾われたリリアーヌ。
彼女の、残酷で、甘美な復讐劇が今、幕を開ける――。
【完結】婚約破棄される前に察して距離を置いていたら、幼なじみの第三王子が本気になっていました〜義妹と元婚約者? もう過去の人です〜
井上 佳
恋愛
婚約者に裏切られた侯爵令嬢は、
嘆くことも、復讐に走ることもなかった。
彼女が選んだのは、沈黙と誇り。
だがその姿は、
密かに彼女を想い続けていた第三王子の心を動かす。
「私は、国よりも君を選ぶ」
婚約破棄、王位継承、外交圧力――
すべてを越えて選び取る、正統な幸福。
これは、
強く、静かな恋の物語。
2026/02/23 完結